【朝鮮の歴史⑧】渤海の歴史

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この記事では、渤海の歴史を建国から滅亡まで、わかりやすく解説していきます。

渤海とは?

渤海ぼっかいとは、698年~926年までの間、中国東北地方から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方にかけて存在した国家のことを言います。

なお、渤海史をめぐっては、渤海という国を高句麗の後継国と見て朝鮮史の範囲に含めるのか、あるいはそうではなく中国史の一部として位置付けるのかなど、その歴史的帰属をめぐって論争が続いています。

ただし、この記事ではそのような問題には立ち入らず、端的に渤海史の流れをご紹介するに留まることとします。

渤海の建国

新羅の朝鮮半島統一

7世紀(601~700年)の中頃、朝鮮半島では覇権をめぐって、百済ペクチェ(ひゃくさい/くだら)、高句麗コグリョ(こうくり)、新羅シルラ(しんら/しらぎ)による三つ巴の戦いが熾烈を極めていました。

最終的にこの三国の戦いを制したのは、半島東南部に位置した新羅でした。

新羅は中国の唐と連合して、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼしました。さらに676年には朝鮮半島への影響力拡大を目論んでいた唐を退け、半島統一を成し遂げたのです。

百済高句麗新羅の歴史については、以下の記事で詳しく解説しております。

高句麗遺民の強制移住

ところで、新羅の半島統一によって、もともと百済や高句麗の地にいた人々はどうなったのでしょうか。

彼らは百済遺民高句麗遺民と呼ばれ、新羅に吸収されたり、日本へ逃れたり、唐に移住させられたりしました。

この一環で、唐によって多くの高句麗遺民が営州えいしゅうという場所に強制移住させられていました。

唐にとって営州は、東方の諸民族を牽制する重要な拠点でした。ここには高句麗遺民のほか、唐に投降したり、強制移住させられた契丹きったん靺鞨まっかつなども住んでいました。

渤海建国

696年、営州において、契丹人の首領である李尽忠りじんちゅうが反乱を起こします。

営州の契丹人が反乱を起こした理由の一つが、契丹人が飢饉で苦しんでいたにもかかわらず、唐がそれを救済しなかったことです。

この契丹人の反乱は高句麗遺民に刺激を与えることになりました。契丹人の反乱に乗じて高句麗遺民は営州を離反し、自立を目指して故国である高句麗の地に向かったのです。

このとき、高句麗遺民を率いたのは、靺鞨人の乞四比羽きつしひう乞乞仲象きつきつちゅうしょう、そして仲象の子とされる大祚栄だいそえい(高句麗人の別種とされる)で、最終的には大祚栄のもとに高句麗遺民は結集しました。

一井
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仲象と大祚栄が本当に親子関係だったのかは諸説があります。

唐は高句麗遺民の自立を阻止すべく、李楷固りかいこなどの将軍を派遣して彼らを討伐させますが、大祚栄率いる高句麗遺民の抵抗によって大敗を喫しました。

唐軍の攻勢を退けた大祚栄は高句麗遺民を率いて東へ移動し、高句麗の故地である東牟山とうぼうさんに拠点を構えました。

そして698年、大祚栄はこの地で自立し、自らを「震国しんこく王(振国王)」と称しました。これがいわゆる渤海の建国ですが、建国当時の国号は「震国」であり、「渤海」ではありませんでした。

一井
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大祚栄が自ら「震国王」を自称したかについては諸説があります。一説によれば、大祚榮の父である乞乞仲象が「震国公」であったことに由来するといいます。

大祚栄は自立後も唐の武力に対抗していくため、契丹や新羅に使者を派遣して国際的な支援を求めながら、政権基盤を固めていきました。

もちろん、唐は大祚栄の自立を認めていませんでした。しかし、相次ぐ契丹人などの反乱によって遼東地方における影響力を失うと、唐は大祚栄による東北アジアの統治を認めざるを得なくなりました。

713年、ついに唐は大祚栄を渤海郡王に冊封し、その統治を認めることになりました。

冊封とは、中国の皇帝が臣下となった国に爵位を与えることです。これにより、臣下国は中国王朝から自国の支配を認められます。言い換えれば、中国王朝から「自国の領土を支配していいよ」というお墨付き得られるということです。

これにより、大祚栄は国号を渤海と改め、初代渤海王となりました。これ以後、渤海は唐との通行関係を続けていくことになります。

大武芸の領土拡大

719年、大祚栄を継いで第2代王となった大武芸だいぶげいは、唐が渤海への警戒を緩めたのを機に領土拡大に打って出ました。

まず、南方の新羅への領土拡大を目指し、南進を開始しました。

これは新羅にとって、北の国境の危機を意味しました。721年、危機感を覚えた新羅は、渤海との国境に長城を築いて対抗の姿勢を示しました。

黒水靺鞨をめぐる戦い

次に、大武芸は渤海周辺に割拠していた靺鞨族の諸部族を次々に編入していきます。

一井
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渤海の領域やその周辺には高句麗族のほか、さまざまな靺鞨諸族が割拠していました。その中でも渤海の北に存在した黒水靺鞨はもっとも強大で、渤海の警戒の的でした。

ところが、722年には黒水靺鞨の大族長が渤海領内を無断で通過し、唐へ朝貢するという事態が生じます。

さらに、726年にはその朝貢を受け入れた唐が、黒水靺鞨の地に黒水府(軍政・民政を司る官庁)を置き、地方官を派遣して間接的支配下に組み入れるという行動に出ました。

朝貢とは、中国王朝に対して周辺諸族や諸国が貢物を持って挨拶しに行くことです。中国王朝も朝貢をしてくれた国に返礼品を贈ります。朝貢が行われることで、両者の良好な関係が確認されます。

靺鞨族を支配下に置こうとしていた大武芸にとって、このように唐と黒水靺鞨が結び付きを強めるという事態は、決して傍観できるものではありませんでした。

そこで大武芸は、弟の門芸もんげいを派遣して黒水靺鞨を討とうとします。

しかし、門芸は黒水靺鞨を討つことで唐の軍事介入を招く恐れがあるとして、征討に反対しました。

これを聞いた大武芸は激怒。門芸の反対意見を退けたうえに、なんと門芸の殺害を企てます。

身の危険を感じた門芸は唐に亡命。これが730年のことでした。

大武芸は唐に対して門芸の返還を求め続けましたが、ついには実力行使に出ました。

732年、大武芸は将軍の張文休に海賊を率いさせ、唐の登州とうしゅうを攻撃したのです。

一井
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大武芸が唐との関係断絶も辞さない固い意思を持っていたことがうかがえます。それほど門芸への怨みが大きかったようです。

喧嘩を売られた形となった唐も黙ってはいません。

唐は翌733年、亡命していた門芸に渤海を討つよう命じ、同時に友好国の新羅に渤海を南から攻撃させました。

しかし、新羅軍は大雪と険しい地形に阻まれ、多数の死者を出して撤退を余儀なくされました。この戦いにより、渤海と新羅の関係は最悪となります。

このように黒水靺鞨をめぐる問題をきっかけに、渤海は唐や新羅とも対立を深めることとなったので、周りを敵に囲まれる危機的状況となってしまいました。まさに四面楚歌の状態です。

そこで、こうした事態を打開するために渤海は日本との外交を推進し、友好関係を築きました。この渤海と日本の友好関係は、渤海が滅亡するまで続くことになります。

また、732年の登州攻撃以降も渤海と唐の対立は続いていましたが、736年(あるいは735年末)に大武芸は唐に使者を派遣して謝罪し、唐との関係改善を図ることにしました。

これ以来、渤海と唐の関係は良好に転じることとなります。

さらに、大武芸は建国以来の都であった旧国(東牟山)から、より防衛力の高い顕州けんしゅう(中京)へ遷都を行ないました(下図参照。ただし、顕州の位置については諸説があります)。

このようにして、渤海は建国以来最大の危機的状況を打開したのです。

大欽茂の治世

737年、大武芸が亡くなり、その次子である大欽茂だいきんもが第3代王に即位します。

大欽茂はとても長命で、その治世は737年~793年までの57年に及びました。

大欽茂も前代の武芸と同様に領土の拡大に精力的で、周辺の靺鞨諸族を服属させていきました。ただし、欽茂の治世においても黒水靺鞨を服属させることは叶わなかったようです。

一方で、南方の新羅との間では先の戦争以来、緊張関係が続いていました。

735年には、唐から大同江テドンガン(だいどうこう)以南の領有を認められた新羅が、さらに北方への進出を図ろうとしました。

一井
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大同江とは川の名前です。唐は先の渤海との戦争において、新羅が唐を支援したことに対する報奨として、大同江以南の領有を認めたのです。

このような新羅の北進が、国境を接する渤海を刺激したことは想像に難くありません。

新羅との緊張感が高まる中で、渤海は新羅の背後に位置する日本との関係をより深めるようになります。

上京龍泉府への遷都

755~756年、大欽茂は顕州から上京じょうけいへ遷都しました。

上京の王都である上京城は、唐の長安城をモデルに建設された本格的な都城でした。

これ以降、渤海の都は貞元年間(785年~805年 ※唐の元号)に一時的に東京とうけいに遷るものの、この時期を除けば、926年の滅亡までこの上京が都として存続することになります。

一井
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渤海の都の変遷は、旧国(東牟山)顕州(中京)上京東京上京ということになります。

安史の乱と渤海

755年、唐で安史の乱が発生しました。

安史の乱とは、755年に節度使(唐における軍職で、辺境の傭兵集団を統率する)の安禄山あんろくざん史思明ししめいがともに起こした唐朝に対する軍事的反乱のことを言います。

安史の乱が発生すると、唐は渤海に使者を派遣して複数回援軍を要請してきました。

しかし、渤海は唐からの使者が安禄山側と内通しているのではないかという疑いを持ち、援軍を派遣することはありませんでした。

このとき、渤海はかねてより友好関係にあった日本にも安史の乱について伝えましたが、日本も渤海と同様に唐を軍事支援することはありませんでした。

762年、唐は大欽茂に「渤海国王」の号を与えます。唐は渤海王に高い位の号を与えることで、安史の乱への対応をめぐって渤海の支援を期待したとみられます。

一井
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「渤海国王」の号は、かつて大祚栄に与えられた「渤海郡王」よりも位の高いものです。

ところが、それでも渤海が唐を支援することはありませんでした。

763年、結局、唐はウイグルの支援を得ることによって、ようやく安史の乱を鎮圧することができました。

ウイグルとは、744年~840年にかけてモンゴル高原を支配したトルコ系騎馬遊牧民による国家です。

一井
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ちなみに、唐はこの安史の乱をきっかけに地方への統制力を失っていき、緩やかに衰退していくこととなります。

このように唐で起きた安史の乱に対して、渤海は終始静観の態度を取っていたことになります。

大欽茂の死と王位の混乱

793年、大欽茂が亡くなり、57年に及ぶ長い治世に幕が下ろされました。

大欽茂が亡くなると、その後の渤海の王位はしばらく、短期間の間に王がころころ変わってしまう混乱期に突入することになります。

一井
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王位混乱の原因の一つとして、大欽茂の嫡子である宏臨こうりんが早死したことが挙げられます。

793年に大欽茂が亡くなったのち、まず王位を継承したのは元義げんぎ(第4代王)でした。

元義は大欽茂の嫡子ではありません。ですが、欽茂の嫡子である宏臨が早死してしまったため、王位を継承することになったのです。

ところが、元義は性格が猜虐さいぎゃく(=疑い深く残虐)であったため、国人によって殺害されてしまいます。

794年、元義を殺害した国人たちは、宏臨(欽茂の嫡子)の子で欽茂の孫にあたる華璵かよを第5代王として擁立しました。

しかし、この華璵も即位半年あまりで病死してしまいます。

そこで、国人たちは華璵の弟とみられる嵩璘すうりんを第6代王として擁立しました。

このように、大欽茂の死後約2年の間、三人の王が相次いで即位する事態となったのです。

とはいえ、嵩璘の王位は前代の二人に比べて安定し、その治世は約14年に及びました。

ところが、嵩璘の嫡子で第7代王となった元瑜げんゆは在位3年にして病死。元瑜の弟で第8代王となった言義げんぎも5年でその治世を終えます。

さらに、言義の弟で第9代王となった明忠めいちゅうも在位わずか1年で病死してしまいました。

この明忠の死により、大祚栄を祖とする直系の王系は途絶えることとなりました。

大仁秀の治世

王系の交代

818年大仁秀だいじんしゅうが第10代王として即位しました。

この大仁秀は、渤海の初代王・大祚栄の弟である大野勃だいやぼつの子孫でした。

ここで王系が大祚栄の直系ではなく、傍系に移ったことになります。大仁秀の即位をもって、王系の交代が起こったのです。

これ以後、渤海の王位は大仁秀の子孫が継承していくことになります。

「海東の盛国」渤海

この大仁秀の治世前後が渤海の最盛期とも言える時代でした。時期としては、9世紀前半801~850年あたり)にあたります。

大仁秀は周辺の靺鞨諸族を討ち、みるみるうちに領土を拡大していったのです。その勢いは凄まじく、かつてより苦悩の種であった黒水靺鞨を圧倒するものでした。

このときの領土拡大により、渤海は最大版図を実現することとなりました。

また、領土拡大にともなって、新たに獲得した地を含めて地方の支配体制を整えました。

一井
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ただ、このときも黒水靺鞨を直接支配するところまで実現したかどうかは、よく分かっていません。

唐との関係も良好で、大仁秀は王子を唐に派遣して臣従の姿勢を示しています。そして、唐はこの頃の渤海の盛況を称えて、「海東の盛国」と表現しました。

一方で、南方の新羅との関係は依然として微妙で、826年には渤海の領土拡大を警戒したのか、新羅が大同江に沿って長城を築くという対応を取っています。

渤海の衰亡

9世紀前半801~850年あたり)に「海東の盛国」と形容されるほどの盛況ぶりを見せた渤海ですが、9世紀後半851年~900年あたり)以降は、徐々に衰亡への道を歩んでいくこととなります。

というのも、9世紀後半より東ユーラシア(中国大陸、モンゴル、朝鮮、日本、ロシア地域を含む広い地域)は激動の時代に突入し、渤海もその荒波の中に巻き込まれていくこととなるのです。

東ユーラシアの激動

まず、モンゴルではそれまで強勢を誇っていたウイグルが840年に内部分裂によって滅亡します。

また、中国大陸の唐は安史の乱以降、地方への統制力を失い、緩やかに衰退が進んでいましたが、875年黄巣こうそうの乱が起こるといよいよ滅亡は目前となりました。

黄巣の乱とは、875年に塩の密売人黄巣らの挙兵をきっかけに起こった大農民反乱です。もともとは、唐朝が塩の密売の取り締まりを強化したことに対して黄巣らが反発して挙兵したものでしたが、次第に没落農民などが黄巣のもとに結集し、大農民反乱へと成長していきました。884年に鎮圧されますが、その後の唐朝滅亡を運命付けた事件として評価されています。

そして907年には、唐は国内の有力人物であった朱全忠しゅぜんちゅうによって滅ぼされてしまいました。

他方で、9世紀後半よりウイグルなきモンゴル地域では、新たに契丹諸族が急成長を遂げ、その部族長の一人である耶律阿保機やりつあぼきなる人物が頭角を表してきました。

契丹の勢いは凄まじく、918年には耶律阿保機が「天皇帝」を称し、さらに建国を宣言しました。その国号を「りょう」と言いますが、実際に遼が国号となるのはもう少しあとのことです。

さらに、朝鮮半島では新羅が衰退したことで、新たに後百済フベクチェ(こうひゃくさい/ごくだら)、後高句麗フゴクリョ(こうこうくり/ごこうくり ※のちの高麗)、そして新羅の三国が並び立つ、後三国時代が幕を開けました。

このように9世紀後半より東ユーラシアは激動の時代に突入しましたが、渤海滅亡の直接的な原因となったのは、とりわけ契丹による激しい攻勢でした。

渤海の滅亡

唐が滅亡し、契丹が勢力を増していた頃、渤海は第15代王の大諲譔だいいんせんの治世にありました。

918年、契丹の急成長を受けて、大諲譔は契丹に朝貢をします。

一井
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915年には朝鮮半島の高麗や新羅も契丹に朝貢をしています。

ところが、もはや契丹にとって渤海は征討の的となっていました。

契丹の脅威に対して渤海はどうしていたかというと、支配者層たちが外交政策をめぐって内部分裂するありさま。

925年には、渤海の将軍や高官が高麗に亡命するという事態になります。

この状態では契丹の軍事力に対抗できるはずもありませんでした。

925年、耶律阿保機は自分の息子二人とともに軍を率いて渤海に進軍を開始。

926年には、契丹軍により渤海の都・上京が陥落。渤海王の大諲譔は臣下とともに降伏をしました。

ここに、渤海の歴史は幕を閉じることとなったのです。

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