【朝鮮の歴史⑦】加耶(加羅・伽耶)の歴史

通史

この記事では、加耶(加羅・伽耶)の歴史をわかりやすく解説していきます。

※この記事では、初出の用語に適宜ルビを振っています。そのうち、特に朝鮮の歴史に関連性が深い用語には朝鮮語のルビを振り、()で日本語のふりがなを併記しています。

加耶(加羅・伽耶)とは?

加耶カヤ加羅カラ伽耶カヤ)とは、3世紀頃~562年までの間、朝鮮半島の南部に存在した小国群の総称(あるいは地域名)を意味します。

あくまで、加耶(加羅・伽耶)は小国群の総称(あるいは地域名)であり、国家の名称ではないことにご注意ください。

加耶(加羅・伽耶)が形成される以前、朝鮮半島には馬韓マハン(ばかん)・弁韓ピョナン(べんかん)・辰韓チナン(しんかん)という勢力がありました。

馬韓・弁韓・辰韓とは、国家名ではなく、いずれも小さな国が集まってできた小国群の総称です。

そのうち、馬韓では百済ペクチェ(ひゃくさい/くだら)が、辰韓では新羅シルラ(しんら/しらぎ)が頭角を表し、やがて百済は馬韓地域、新羅は辰韓地域を併合し、それぞれ一つの国家を作り上げました。

一方、弁韓では小国の分立状態が続き、ついに一つの国家となることはありませんでした。

この弁韓の地域に成立したのが、ほかでもない、加耶加羅伽耶)です。

加耶(加羅・伽耶)は、馬韓・弁韓・辰韓と同じように、小さな国が集まってできた小国群でした。

ここまでの話をまとめると、馬韓では百済が、辰韓では新羅が、弁韓では加耶(加羅・伽耶)が成立したということになります。

加耶(加羅・伽耶)は、おおむね百済、新羅と同時期に併存し、時には大きな存在感を表すこともありました。

しかし、百済・新羅のように一つの国家を作ることは叶わず、最後まで小国が分立したまま、歴史の舞台から降りることとなるのです。

百済の歴史新羅の歴史については、以下の記事で詳しく解説しております。

加耶(加羅・伽耶)と弁韓の違い

上記では、「弁韓地域に加耶(加羅・伽耶)が成立した」というご説明をしました。

ここで生じる疑問が、加耶(加羅・伽耶)と弁韓の違いです。

もともとの弁韓も小国群、そこに成立した加耶(加羅・伽耶)も小国群。両者は一体何が違うのでしょうか。

結論としましては、加耶(加羅・伽耶)弁韓は何が違うのかよく分かっていません。

というのも、加耶(加羅・伽耶)と弁韓について記録する歴史書が極めて少なく、両者の違いをはっきりと示す根拠が存在しないからです。

研究者の間では、弁韓が加耶(加羅・伽耶)の前身だとする意見もありますが、それを否定する意見もあって、意見が分かれています。

結局のところ、加耶(加羅・伽耶)と弁韓のはっきりとした違いは分からないので、この問題には立ち入らないことにしましょう。

おおむね弁韓の地域に加耶が存在したという認識で十分です。

「加耶」「加羅」「伽耶」の違い

加耶(加羅・伽耶)の歴史を見ていく前に、もうひとつ、表記の問題について触れておく必要があります。

この記事では、ここまで「加耶」「加羅」「伽耶」という三つの表記を併記していましたが、これらに何か違いはあるのでしょうか。

実は、「加耶」「加羅」「伽耶」は全て同じ意味なのです。

なぜ、このように表記が複数あるかというと、もともとの歴史書でさまざまな表記が存在するためです。

そのため、どれも同じ意味なので、どれを使っても「正しい」ということになります。

三つの表記が同じ意味であることが確認できたので、この記事では、これ以降、「加耶」の表記を使うことにします(三つ併記すると見づらくなるので)。

「加耶」「加羅」「伽耶」と「任那」の違い

ところで、三つの表記のほかに、「任那イムナ(にんな/みまな)」という表記を見たことがある方もいるかもしれません。

しかし、この「任那」は、「加耶」「加羅」「伽耶」とは意味が違うとされます。

というのも、「任那」は、加耶諸国の中の「金官キムグァン(きんかん)」のことを指す言葉だと考えられているのです。

一井
一井

加耶諸国とは、加耶地域の中に点在した小国のことです。金官国はそのうちの一国です。

金官国については下記で詳しくご説明しますが、ここでは、「任那」が「加耶」「加羅」「伽耶」とは意味が違うことについて確認をさせていただきました。

「任那」=「金官国」とする見解にも異説はありますが、近年ではこの見解が通説になりつつあります。

加耶の建国神話

いよいよ加耶の歴史を辿っていくことにしましょう。

加耶はたくさんの小国からなる小国群であったわけですが、その中でも、特に有力な国が二つありました。

それが、金官国大加耶テガヤ(だいかや)です。

金官国は「金官加耶」とも言いますが、この記事では「金官国」と表記することにします。

加耶は最後まで一つの国家となることはなかったのですが、その中でも金官国と大加耶は有力で、いくつかの加耶諸国とともに連合を形成し、その盟主たる地位に昇ったことがありました(あとで詳述いたします)。

一井
一井

加耶諸国の中でも、二国がいかに有力であったのかがうかがえますね。

ところで、加耶の歴史の始まりがはっきり確認できるのは、3世紀以降のことなのですが、それとは別に建国神話が残されています。

ただ、加耶諸国の中で建国神話が残されているのは、上述の金官国と大加耶だけです。

なぜ、金官国と大加耶にしか建国神話が残されていないのか。それは、両国が加耶諸国の中でも特に有力で、際立った存在だったからにほかならないでしょう。

ここまでで、金官国、そして大加耶が加耶諸国の中で有力な国であり、両国にだけ建国神話が残されている、ということが確認できました。

このように長々と前置きをしたのは、これから加耶の歴史を辿っていくうえで、まずはこの建国神話の世界から見ていきたいからです。

もちろん、建国神話は「神話」なので歴史的な事実ではないことにご注意ください。

一井
一井

建国神話ではない金官国、大加耶の歴史はあとで詳しくご説明します。

金官国の建国神話

では、金官国の建国神話を見ていきましょう。

この世界が始まってから、この地には国がなく、九人の首長が人々を統率していました。

そんな中、紀元前42年のある日、突然、亀旨峰クジボン(きじほう ※地名)で天から人の呼び声のようなものが聞こえてきました。

九人の首長や人々が不思議に思って集まってくると、その天からの声は次のように言いました。

「ここに人はいるか」と。

九人の首長たちは、「私たちがいます」と答えました。

その声はまた「ここはどこか」と質問してきました。

そこで、九人の首長たちが、「亀旨峰です」と答えました。

そうすると、その声は「神が私に、この地に国を作って国王になるよう命じた。だから、お前たちは山のいただきを掘って、『亀よ亀よ、首を出せ、出さなければ焼いて食べてしまうぞ』と歌いながら踊れ。これは大王を迎えるための踊りなのだ」と言いました。

九人の首長たちは、その声の言葉通り、歌って踊りました。

しばらくすると、天から紫色の縄が降りてきて地に着きました。

その縄の下を見ると、金色の合子ごうし(蓋付きの小さい容器)があり、これを開けてみたら、金色の卵が六つ現れたのです。

これを見た人々は驚き喜んで卵に拝礼をしました。

翌日、六つの卵は六人の子どもになり、十日ほどで、みるみる成長していきました。

いよいよ、六人のうちの一人がこの地の王として即位します。これが初代王の首露王スロワン(しゅろおう)であり、金官国(金官加耶)の始まりでした。

そして、残りの五人は、それぞれ別の加耶諸国の国王となりました。

以上が金官国の建国神話です。

一井
一井

天より降臨した卵から六人の子が生まれ、そのうちの一人が首露王となって、金官国を建国したというお話です。

ちなみに、この神話は『駕洛国記カラックッキ(からくこくき)』という金官国の歴史を記した史料に伝わっています。

大加耶の建国神話

次に、大加耶の建国神話を見てみましょう。

加耶山神である正見母主チョンギョンモジュ(しょうけんぼしゅ)が、天の神である夷毗訶イビガ(いひか)の想うところとなり、二人は結ばれることとなりました。

二人の間には兄弟が生まれ、その姓名をそれぞれ脳窒朱日ヌェジルチュイル(のうちつしゅにち)と脳窒青裔ヌェジルチョンエ(のうちつせいえい)といいました。

それから、脳窒朱日は大伽耶王に、脳窒青裔は金官国王になりました。

脳窒朱日は伊珍阿豉王イジナシワン(いちんあしおう)の別称であり、脳窒青裔は首露王の別称です。

以上が大加耶の建国神話です。

一井
一井

加耶山神と天神の間に生まれた兄弟二人が、それぞれ大加耶と金官国の王になったというお話です。

大加耶の建国神話で特徴的なのが、大加耶と金官国の始祖を兄弟としている点です。

最後の行には、「脳窒青裔は首露王の別称」とあることから、明らかに金官国の首露王を大加耶の始祖の兄弟に位置付けていることが分かります。

ここから、大加耶の金官国への対抗意識を読み取ることができます。

一井
一井

両国は加耶の二大有力国だったので、互いに対抗意識を持っていたのかもしれませんね。

以上の大加耶の神話は、新羅末期の文人・崔致遠チェチウォン(さいちえん)による『釈利貞伝ソンニジョンジョン』という史料に伝わっています。

加耶の成立

ここからは、神話の世界を離れて、歴史的事実としての加耶の歴史を見ていきましょう。

出鼻をくじくことになってしまいますが、残念ながら、加耶がいつ形成されたのかは詳しくは分かっていません。

それは、加耶の初期を記す歴史書が極めて少なく、知ることができないためです。

また、弁韓との違いも曖昧な中、何を基準に加耶の形成とするのか、という問題もあります。

ただ、そんな中でも、3世紀には金官国の前身が存在したことが確認できるため、確実に3世紀には加耶(あるいは弁韓とも言える)が存在したと考えられます。

この記事では、この金官国の前身から加耶の歴史を辿っていくことにします。

金官国の隆盛

金官国の登場

金官国の建国神話では、金官国は紀元前42年に建国されたことになっていました。

もちろん、これは神話であるため、事実として「金官国がその頃から存在した」と言うことはできません。

金官国が歴史舞台に登場するのは、3世紀のことです。

ただ、当初は金官国という名称ではなく、弁韓の中の「狗邪クヤ(くや)」として姿を現しました。

狗邪国は鉄の生産や海上交易によって繁栄し、やがては「金官国」として加耶諸国の中で急成長してきました。

一井
一井

帯方郡から邪馬台国に向かった使者は、この狗邪国から海を渡ったといいます。

加耶南部の百済、倭との連携

金官国の成長は著しく、4世紀に入ると、卓淳タクスン(たくじゅん)や安羅アルラ(あんら)などを含めたほかの加耶諸国の盟主たる地位にまで昇ります。

他方で、4世紀の前半には、加耶南部諸国ととの通交が始まりました。

さらに、4世紀の後半になると、高句麗と対抗していた百済が加耶南部諸国に対して国交を求めてきました。百済は高句麗との抗争を有利に立ち回るため、加耶に接近したのです。

金官国も、このとき百済が通交を求めた加耶諸国の一つでした。金官国は百済の提案に応じて国交を開いています。

こうした百済と加耶南部諸国との国交の開始は、百済と倭との関係も深めることにもなりました。

なぜなら、百済と加耶南部諸国が国交を開始することによって、もともと加耶南部諸国と通交のあった倭と百済の間に接点が生まれたからです。

一井
一井

百済は加耶南部を介して、始めて倭との通交を実現しました。

ここに、百済加耶南部という連携構造が完成したことになります。

高句麗との戦い

百済-加耶南部-倭による連携が成立して間もなく、加耶地域は高句麗による侵攻の憂き目に合うこととなります。

というのも、高句麗で新たに即位した広開土王クァンゲトワン(こうかいどおう)が、朝鮮半島南部への圧迫を強めてきたのです。

396年、広開土王は自ら軍を率いて百済に侵攻し、百済の都である漢山城ハンサンソン(かんざんじょう ※現在のソウル近郊)を落とす大勝利を収めます。

このとき、敗北した百済の阿莘王アシンワン(あしんおう)は、広開土王に忠誠を誓うことで何とか難を逃れました。

ところが、ほどなくして阿莘王は高句麗への誓いを破り、連携国・倭の軍を引き入れて、高句麗に対抗する姿勢を示します。

しかし、百済の努力もむなしく、広開土王率いる高句麗軍によって倭の軍は退けられ、百済はまたもや敗北を喫したのでした。

ところで、この戦いでは、加耶諸国も百済・倭に味方して高句麗と戦っていました。

一井
一井

百済-加耶南部-倭の連携が、ここからも見て取れますね。

具体的には、高句麗軍によって倭の軍が押されかけていたときに、金官国安羅国が倭を助けて戦っていたのです。

ですが、結局は高句麗軍によって倭の軍は退けられてしまったので、それに味方していた金官国や安羅国も大きなダメージを受けてしまいました。

実際、この戦い以降、これまで隆盛を極めてきた金官国は、その国力を徐々に衰退へと傾けていくのです。

ただし、金官国はその後も、532年までは存続していくことになります。

大加耶の時代

弱体化した金官国に代わり、新たに台頭してきたのが、大加耶です。

加耶地域においては、とりわけ金官国と大加耶が有力な国だったのですが、両国が同時並行的に有力だったわけではありませんでした。

最初に金官国が有力となり、それが弱体化すると、今度は大加耶が有力国として頭角を現したのです。

ここからは、その大加耶を中心に加耶の歴史を見ていくことにしましょう。

大加耶の登場

大加耶も金官国と同じく、その前身が認められます。

大加耶の前身は、弁韓の一国であった「半路パルロ(はんろ)」でした。

この半路国が成長して「大加耶」として現れるのは、5世紀中頃になってからのことです。

実は、「大加耶」という名称は「大きい加耶」という意味の美称であって、固有名詞ではありません。大加耶の固有名詞は「伴跛ハンバ(はんは)」といいます。ですので、流れとしては、半路国が伴跛に成長し、それが「大加耶」という美称で呼ばれた、ということになります。

442年、倭が加耶南部諸国との連携関係を背景に、大加耶に侵攻してきます。

一井
一井

倭は加耶南部とは連携関係にありましたが、加耶北部に位置する大加耶との間には関係がありませんでした。

倭の侵攻を受けた大加耶は、かねてより友好関係にあった百済に救援を求めました。

これを受けて、百済は友好国の大加耶を助けることに決め、倭の軍を退けました。

百済は倭とも連携関係にあったわけですが、百済は倭が大加耶まで侵攻してくることは認めなかったようです。

このように、百済が大加耶を助ける形となったことで、以降は百済の大加耶への影響力が強まっていくことになります。

大加耶のほうも、しばらくは百済への依存度を高めていくことになります。

大加耶連盟

百済への依存度を高めた大加耶でしたが、いつまでもその立場に甘んずることはありませんでした。

5世紀後半、高句麗が南下して百済に大打撃を与えると、大加耶はこの隙を好機と見て、百済依存を脱したのです。

それだけでなく、大加耶はかつて金官国がそうしたように、ほかの加耶諸国を合わせた連盟を結成し、自らはその盟主たる地位に昇りました。

こうして、大加耶は百済依存を脱し、加耶地域における有力国として台頭してきたのです。

さらに479年には、大加耶は中国南朝のせいへの朝貢を実現します。

これにより、大加耶の王であった嘉悉王カシルワン(かしつおう、※荷知王ハジワン(かちおう)とも言う)は斉の皇帝から冊封を受けました。

一井
一井

加耶諸国の中で朝貢を実現したのは、このときの大加耶だけです。これが加耶史上、最初で最後の朝貢だったのです。

この当時、中国大陸は南北に分裂していました(南北朝時代)。その北側は北朝、南側は南朝と呼ばれます。そのうち南朝では、東晋とうしんそうせいりょうちんと相次いで王朝が変わるのですが、このとき大加耶は南朝の一国・に朝貢をしたということです。

朝貢とは、中国王朝に対して周辺諸族や諸国が貢物を贈ることです。中国王朝も朝貢をしてくれた国に返礼品を贈ります。朝貢が行われることで、両者の良好な関係確認されます。
冊封とは、中国の皇帝が臣下となった国に爵位を与えることです。これにより、臣下国は中国王朝から自国の支配を認められます。言い換えれば、中国王朝から「自国の領土を支配していいよ」というお墨付き得られるということです。

加耶琴と于勒

大加耶が中国王朝に朝貢を実現した頃、他方で、大加耶の嘉悉王は十二弦の加耶琴カヤグム(かやこと)という楽器を作りました。

それから、嘉悉王は大加耶連盟の一員である斯二期サニギ(しにき)出身の于勒ウルク(うろく)という人物に、加耶琴を演奏するための曲を作るように命じました。

嘉悉王の命令を受けた于勒は、連盟に所属する諸国の伝統的な歌謡をもとに作曲をし、完成した曲を献上しました。

その後、于勒は加耶地域の混乱(後述)に応じて新羅へ亡命しますが、このとき于勒は亡命先の新羅に加耶琴とその楽曲を伝えることになります。

そして、新羅に伝わった加耶琴は、のちに日本にも伝わることになるのです。

一井
一井

奈良の正倉院には、新羅から伝わった加耶琴の実物が現存しています。

加耶地域の混乱

百済の侵攻

5世紀後半に高句麗の侵攻を受けて弱体化した百済でしたが、6世紀に入るとかつての力を取り戻し始めました。

勢いに乗った百済は、513年から加耶地域への侵攻を開始します。

百済がまず矛先を向けたのは、加耶地域の西部に位置する己汶キムン(きもん)でした。

まず西部から手を付けたことから分かるように、百済は加耶地域を西側から東側へと攻めていくことにしたのです。

己汶国は大加耶連盟の一員だったので、大加耶も協力して百済に抵抗しますが、ついに攻略を防ぐことはできませんでした。

百済の勢いは止まらず、同じく大加耶連盟の一員である帯沙テサ(たいさ)も攻略し、その後も東進を続けていきました。

このあたりから大加耶を中心とした連盟は、所属国が攻略されてしまうことによって、徐々に崩れていくことになります。

大加耶と新羅の婚姻同盟

百済の侵攻に危機感を覚えた大加耶は、新羅と同盟を結んで百済に対抗していく策に出ます。

521年、大加耶王の異脳王イヌェワン(いのうおう)は新羅の王女と結婚し、ここに婚姻同盟を成立させたのです。

ところが、この婚姻同盟はわずか数年であっけなく破綻することになります。

それは、新羅が王女の従者として大加耶に遣わしてきた人たちが、勝手に新羅の衣冠(衣服と冠)を着用したことがきっかけでした。

普通であれば、新羅王女は大加耶に嫁いだ身なので、その従者たちも大加耶の衣冠を着用しなければなりません。

しかし、新羅王女の従者たちは大加耶の衣冠ではなく、本国である新羅の衣冠を着用したのです。

大加耶はこれに怒って、その従者たちを追っ払って新羅に帰してしまいました。

この小さな事件が引き金となって、529年には、ついに大加耶と新羅の同盟は破綻することになりました。

以降、大加耶は百済寄りの姿勢に転じることになります。

金官国の滅亡

大加耶と新羅が婚姻同盟を結んだ頃、他方で、新羅は加耶南部への進出も開始していました。

一井
一井

つまり、新羅は大加耶と同盟を結ぶ傍ら、加耶地域への侵攻も図っていたのです。

524年から加耶南部への進出を開始した新羅でしたが、529年にはかつての有力国・金官国へ攻撃を仕掛けます。

今や、かつて隆盛を極めた金官国の姿はありませんでした。

532年、新羅の攻撃で大打撃を受けた金官国は、とうとう国王が新羅に降伏し、滅亡を迎えたのです。

百済と新羅の加耶争奪戦

こうした新羅の進出に危機を感じた加耶南部の一国・安羅国は、かねてより友好関係にあった倭に救援を求めます。

しかし、倭の援軍は新羅に対抗することができませんでした。

そこで、安羅国は、西から加耶への進出を強めていた百済に救援を求めることにします。

安羅国の要請を受けた百済は、531年に安羅国に救援軍を進駐させました。

一井
一井

百済は加耶地域の併合を目論んでいたので、安羅国の救援要請を好機と見たのです。

百済軍が安羅国に進駐したことで、百済と新羅が加耶南部で対峙する形となりました。

加耶地域は百済と新羅による争奪戦の地と化してしまったのです。

百済と新羅の加耶侵攻を示した地図
百済と新羅の加耶侵攻
画像:以下の画像をもとに筆者作成。User:Historiographer, User:KEIM, User:KEIMS – http://commons.wikimedia.org/wiki/File:History_of_Korea-476.PNGhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:476%E5%B9%B4%E7%9A%84%E6%9C%9D%E9%B2%9C%E4%B8%89%E5%9B%BD.pnghttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:History_of_Korea_476_jp.png, CC 表示-継承 3.0,https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34032112による

ところが、この加耶争奪戦は百済と新羅が対峙したところで膠着状態となります。

541年には、ひとまず百済と新羅の間で和議が成立し、一時的に加耶地域に平和が訪れました。

ここで百済と新羅の和議が成立したのは、北方の高句麗が南進していたためだと考えられています。

任那復興会議

ひとまず百済と新羅は和議を結びましたが、両国ともに加耶進出の思惑を捨てたわけではありませんでした。

百済の聖王ソンワン(せいおう)は541年544年のニ回にわたり、新羅に滅ぼされた金官国をはじめとする加耶諸国の復興を名目として、加耶諸国の首長を集めた会議を主催します。

この会議は任那復興会議と呼ばれ、名目としては新羅に滅ぼされた加耶諸国の復興でしたが、その裏には百済の加耶地域への進出の思惑が隠れていました。

ところが、この会議は何も決めることができずに閉会します。

また、百済の進出意図を察知したのか、ここで安羅国が新羅寄りの姿勢に転じることになりました。

一井
一井

安羅国は531年に百済に救援軍を求めた国でしたね。

大加耶の滅亡 ~加耶の終焉~

552年、新羅が百済の漢山城(現在のソウル近郊)を奪ったことで、約10年ほど続いた百済・新羅の和議が破綻します。

和議が破綻したことで、両国の加耶地域への進出も再開されることになりました。

554年には、百済と新羅の間で管山城クァンサンソン(かんざんじょう)の戦いが勃発します。

管山城の戦いを示した地図
管山城の戦い
画像:以下の画像をもとに筆者作成。User:Historiographer, User:KEIM, User:KEIMS – http://commons.wikimedia.org/wiki/File:History_of_Korea-476.PNGhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:476%E5%B9%B4%E7%9A%84%E6%9C%9D%E9%B2%9C%E4%B8%89%E5%9B%BD.pnghttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:History_of_Korea_476_jp.png, CC 表示-継承 3.0,https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34032112による

実は、この管山城の戦いでは、大加耶が百済に援軍を送っていました。

一井
一井

大加耶は529年に新羅との婚姻同盟が破綻して以来、百済に友好的な姿勢でした。

しかし、大加耶の支援も虚しく、この戦いは新羅の大勝利に終わります。そればかりか、百済の聖王が戦死するという結果になってしまいました。

管山城の戦いで百済が敗北を喫したことで、加耶地域においても新羅優位の形成が確定することになります。

そしていよいよ、新羅は残る加耶地域の併合へと乗り出しました。もちろん、その矛先は大加耶に向けられるのです。

562年、大加耶は新羅の侵攻を防ぎきれず、ついに降伏することになりました。大加耶の滅亡です。

大加耶の滅亡によって、大加耶を中心とする連盟も解体し、残っていた加耶諸国も、全て新羅に降りました。

こうして、最後まで加耶は一つの国家となることなく、歴史の舞台から降りることとなったのです。

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