この記事では、古朝鮮の歴史について、わかりやすく解説していきます。
古朝鮮とは
古朝鮮(こちょうせん)とは、歴史書に見える朝鮮半島最古の国家のことです。
ただ少しややこしいのですが、一般的には、「古朝鮮」という名称は1つの国家名を意味するものではありません。
実際は、檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮という3つの国家を総称して、「古朝鮮」と呼んでいるのです。
また注意点として、上の3つの国家のうち、檀君朝鮮と箕子朝鮮は神話であり、実在しないものとされています。詳しくはのちほどご説明します。
さて、これから上の3つの国家を順に見ていくのですが、その前に、「古朝鮮」という名称の由来をご紹介します。
まず、「朝鮮」という言葉自体は、紀元前4世紀頃には中国で使われていました。
具体的には、当時のことが書かれた中国の歴史書である『史記』や『戦国策』に、紀元前4~3世紀頃に「朝鮮」という勢力が、現在の朝鮮半島西北地方~中国遼寧省辺りにかけて存在したことが記されています。
この朝鮮という勢力は、かなりの強さだったようで、中国戦国時代(紀元前5世紀頃~紀元前221年)の一国である燕という国と戦いを繰り広げるほどでした。
そのうえで、「古朝鮮」という名称ですが、これは後世に名付けられたものです。14世紀末に、「朝鮮(王朝)」という国家が成立するにあたって、これと区別するために名付けられました。なので、最初から「古朝鮮」という名称が存在したわけではないのですね。
檀君朝鮮
檀君朝鮮(だんくんちょうせん)は神話であり、実在した国ではありません。ですが、檀君朝鮮の神話は、古くから現在まで受け継がれてきたもので、朝鮮半島においては重要な位置を占めています。
ここでは、あくまで「神話として」、檀君朝鮮の歴史をご説明してきます。
まずは、檀君朝鮮の神話を見てみましょう。
天帝の子である桓雄(かんゆう)は人間の世界を治めたいと願い、太白山脈の神檀樹の下に降り立ちました。桓雄はここで人々を教化します。
そのとき、ある熊と虎が「人間になりたい」と願い出てきました。
桓雄はその願いを聞いて、熊と虎に一握りのヨモギと20個のニンニクを与え、洞窟に100日間こもって日光を見ないようにと告げました。
虎はこの修行の辛さに耐えきれず、途中で諦めてしまいます。一方、熊は修行を続け、ついに37日目に人間の姿(女体)になることができました。
人間になった熊は結婚する相手がいなかったので、神檀樹のもとで祈っていました。すると、桓雄が人間の姿になって2人は結婚をしました。こうして2人の間から生まれたのが檀君です。
そして、成長した檀君は平壌(現在の平壌)を都として「朝鮮」と称する国を開きました。檀君はこの国を1500年の間治めましたが、中国大陸で周(中国の古代王朝)の武王(周の建国者)が箕子(きし)という人物を朝鮮王に封ずると、檀君は箕子に国を譲り渡しました。
その後、檀君は山中に隠遁して山の神となり、1908歳まで生きたとされます。
以上が檀君朝鮮の神話です。内容からも神話であることが十分にお分かりいただけたかと思います。
ところで、檀君朝鮮の神話はいつどのような理由で生まれたのでしょうか。
実は、檀君朝鮮の神話がいつ頃形成されたのかは、いろいろな説があり、はっきりとは分かっていません。
ただ、現時点でこの神話についての最も古い記録が、13世紀後半に書かれた『三国遺事』と『帝王韻記』という書物であることは分かっています。
これら『三国遺事』と『帝王韻記』には、もとになった記録があるとされており、そのもとになった記録は10世紀頃に成立したものと考えられています。
10世紀というのは、朝鮮半島に高麗(こうらい 918年~1392年)という国があった時代です。この頃の高麗は、契丹という外敵の侵入に苦しんでおり、こうした外敵に対抗する際に心の拠り所として檀君朝鮮の神話が生まれたのではないかと考えられています。
また、『三国遺事』と『帝王韻記』が書かれた13世紀においても、高麗はモンゴルの侵攻を受けているため、これも神話の展開に作用した可能性があります。
このように、檀君朝鮮の神話は朝鮮半島の人々にとって心の拠り所として生まれたものと考えられています。
そして、この神話は長きに渡って現在にまで受け継がれています。
例えば、建国者の檀君は、現在でも朝鮮民族の始祖として位置付けられており、韓国では10月3日は檀君が建国をした日として祝日とされています。
さらに、1988年に開催されたソウルオリンピックでは2頭の虎が、2018年の平昌オリンピックでは白虎と熊がそれぞれ公式マスコットキャラクターになりました。韓国では、檀君朝鮮の神話に登場する虎と熊が神聖視されているからです。
以上のように、檀君朝鮮は歴史的には実在しない国家ですが、朝鮮半島においてその神話は現在でも重要な位置を占めているのです。
箕子朝鮮
箕子朝鮮(きしちょうせん)は檀君朝鮮と同じく神話であり、実在した国ではありません。
こちらも、あくまで「神話として」歴史を見ていきます。
箕子朝鮮の建国
箕子朝鮮の始まりは、先ほどの檀君朝鮮の中でも少し出てきています。もう一度、その部分を挙げます。
そののち、成長した檀君は平壌(現在の平壌)を都として「朝鮮」と称する国を開きました。檀君はこの国を1500年の間治めましたが、中国大陸で周(中国の古代王朝)の武王(周の建国者)が箕子という人物を朝鮮王に封ずると、檀君は箕子に国を譲り渡しました。
赤線の部分が箕子朝鮮の始まりを示しています。檀君朝鮮の神話によれば、周の武王という人物が箕子を朝鮮王に封じたことになっていますね。
では、そもそも周の武王とは誰なのか、またどのような経緯で箕子が朝鮮王となったのかを見ていきましょう。
まず、周の武王とは、中国大陸で周という国を建国した人物です。武王が周を建国する前、中国大陸には殷という国がありました。しかし、殷の最後の王である紂王は暴虐でめちゃくちゃな政治をしたため、武王が紂王を倒して殷を滅ぼし、新たに周を建国したのです。
続いて箕子についてです。実は、箕子はもともと殷の王族で、紂王の叔父に当たる人物でした。しかし、箕子は政治をめちゃくちゃにする紂王を諌めたところ、怒りを買ってしまい、奴隷の身分に落とされてしまいました。
その後、武王によって殷が滅ぼされると、箕子は殷の遺民とともに中国大陸を脱出し、朝鮮半島北西部へと逃れました。
周を建国した武王は、箕子を自分の臣下にするようなことはしませんでした。箕子は相当の賢人だったようで、武王は箕子を崇めて教えを乞うたとまでいいます。
そして最終的に、武王は箕子を朝鮮王に封ずるに至ったというわけですね。こうして箕子朝鮮が建国されます。時代は紀元前12世紀頃でした。
箕子は朝鮮の民に礼儀や農業などの技術を教え、「犯禁八条」という規則をもって人々を教化したとされます。
ところで、先ほどの武王が箕子を朝鮮王に封じたというエピソードは、『史記』という書物には記録されているのですが、『漢書』という書物では、箕子が朝鮮半島に行ったことだけで、このエピソードについては書かれていません。
ただ、『史記』や『漢書』は箕子朝鮮の建国(紀元前12世紀頃)から1000年以上あとに書かれた書物なので、どちらにしても箕子朝鮮の建国が神話の域を出ないことになります。
箕子朝鮮の滅亡
箕子朝鮮の建国は紀元前12世紀頃とされますが、その後の動向はほとんど分かっていません。
比較的動向が明らかなのは滅亡の時期です。
箕子朝鮮の建国から約1000年時代が下ります。
紀元前221年、中国大陸で秦という国が統一を果たします。秦の建国者である始皇帝は、外敵の侵入を防ぐため万里の長城を築きました。
この頃の箕子朝鮮王は否という人物で、中国統一を果たした秦を恐れて服属をしていましたが、それは表向きのものでした。
この否を継いだのが子の準です。準は箕子朝鮮の最後の王になります。
一方この頃、中国大陸では再び戦乱が発生しており、やがて秦が滅亡します。そして、新たに漢(前漢)という国が中国大陸を統一しました。
漢を建国したのは劉邦という人物なのですが、彼は次第に自分の諸侯の力を恐れるようになり、諸侯らの粛清を始めます。
劉邦の粛清に対し、燕王の地位にあった盧綰が反乱を起こします。燕王というのは、皇帝から燕という地域の王に封じられた人が帯びる地位の名前です。ちなみに、このような地位の人たちを漢代では諸侯と呼びます。諸侯には王族や貴族が任命されます。
さて、劉邦に反旗を翻した盧綰ですが、結局反乱は失敗に終わり、北方に逃れていきました。
ここからが重要です。先ほどの盧綰の配下には、衛満(えいまん)という人物がいました。衛満は、盧綰が反乱に失敗すると、自分の部下を連れて朝鮮へ亡命し、箕子朝鮮王である準に仕えました。
準は衛満を大いに信頼し、西の辺境の防備を任せます。
ですが、衛満は勢力を蓄えると準王に反旗を翻し、ついに準王を追放して自分が王位に就きました。こうして、箕子朝鮮は滅亡しました。
箕子朝鮮を滅ぼした衛満は、平壌城を都として衛氏朝鮮(えいしちょうせん)を建国しました。(衛氏朝鮮の建国後については衛氏朝鮮を参照ください)
ここで重要なのが、衛満が朝鮮半島に逃れて衛氏朝鮮を建国したのは事実ですが、衛満が箕子朝鮮を滅ぼしたというエピソードは神話であるということです。
というのも、衛満が箕子朝鮮を滅亡させたというエピソードは、『魏略』という歴史書に登場するのですが、この『魏略』は3世紀に書かれたもので、衛満が衛氏朝鮮を建国した年(紀元前195年)から数百年も経っており、信ぴょう性は極めて低いと考えられるからです。
つまり、箕子朝鮮は始めから終わりまで神話ということになります。
ただ、紀元前4~3世紀頃に「朝鮮」という勢力が、現在の朝鮮半島西北地方~中国遼寧省辺りにかけて存在していたことは確かです。
箕子朝鮮という国は神話ですが、「朝鮮」という勢力があったのは事実ということになりますね。
衛氏朝鮮
衛氏朝鮮(えいしちょうせん)は古朝鮮の中で唯一、実在が認められている国です。

画像:筆者作成
衛氏朝鮮の建国
衛氏朝鮮の建国については、上記の箕子朝鮮の滅亡の部分でご説明しています。
ここでも簡単にまとめると、
紀元前195年、中国大陸の漢(前漢)で災難にあった衛満が朝鮮半島に逃れてきて、ここに衛氏朝鮮という国を開きました。
繰り返しになりますが、衛満が朝鮮半島に逃れて国を開いたのは事実ですが、衛満が箕子朝鮮を滅ぼしたエピソードは神話です。
漢との対立
衛氏朝鮮の建国後、衛満は漢に臣下の礼をとって外臣(漢の臣下)となります。
国内では在地勢力を取り込んで勢力を拡大し、さらには周辺国にも進出を始めます。
衛氏朝鮮の東側には臨屯国、南側には新番国がありましたが、どちらも衛氏朝鮮の侵略によって服属させられています。
ところが、このような衛氏朝鮮の侵略行動は、漢との関係に亀裂を生じさせることになります。
なぜなら、衛氏朝鮮は漢の外臣になったにもかかわらず、ほかの外臣国を侵略したり、他国が漢へ入朝するのを妨げたりしたからです。入朝とは、外臣国が貢物を持って漢に挨拶へ行くことです。
衛氏朝鮮の滅亡
時代が下り、衛満の孫である右渠(うきょ)の治世になると、中国からたくさんの亡命者がやって来たことによって、衛氏朝鮮はますます勢力を拡大します。
反対に、漢への入朝は怠るようになり、漢との関係はますます悪くなっていきます。衛氏朝鮮は漢に臣下の礼をとって外臣となっていたので、定期的に入朝して挨拶をする義務があったのです。
そうした中、辰国(朝鮮半島南部の国)が漢に入朝しようとしているところを右渠が妨害したため、ついに漢を怒らせることになります。
紀元前109年、漢の武帝(前漢の7代目皇帝)は、衛氏朝鮮の都である平壌城に向けて軍隊を派遣します。こうして、漢と衛氏朝鮮の戦いの火ぶたが切られました。
漢は陸と海の両方から攻めますが、右渠はそれらの攻撃をよく守ったため、戦いは翌年にまで持ち越されます。
漢軍に平壌城を包囲されてからも、必死に抵抗して数ヶ月にわたって守り続けました。
しかし、衛氏朝鮮内で和平派と戦争継続派の分裂が生じると、漢に降伏する将軍も出てきました。
最終的には、この内部分裂がきっかけで右渠が味方に殺されるという悲惨な結末を迎え、衛氏朝鮮は漢に降伏をしました。
紀元前108年の夏、衛氏朝鮮は滅亡しました。こうして古朝鮮は終わりを迎えたのです。