この記事では、百済の歴史を建国から滅亡まで、わかりやすく解説していきます。
※この記事では、初出の用語に適宜ルビを振っています。そのうち、特に朝鮮の歴史に関連性が深い用語には朝鮮語のルビを振り、()で日本語のふりがなを併記しています。
百済とは?
百済(ひゃくさい/くだら)とは、4世紀中頃~660年までの間、朝鮮半島西部から南西部にかけて存在した国家のことを言います。
同時代に朝鮮半島東部に存在した新羅(しんら/しらぎ)及び北部に存在した高句麗(こうくり)と並び、朝鮮三国時代を形成した一国として知られています。
新羅の歴史と高句麗の歴史については、以下の記事で詳しく解説しております。
百済の建国
百済には、歴史的な事実とは別に建国神話が伝えられているので、まずはこちらから見ていきましょう。
建国神話
百済の建国神話は、高句麗の建国神話に続く形で始まります。
なので、まずは高句麗の建国神話を簡単にご紹介してから、百済の建国神話に入りたいと思います。
高句麗の建国神話についてもっと詳しく知りたい方は、【朝鮮半島の歴史④】高句麗の歴史をご覧ください。
さて、高句麗の建国神話の舞台は扶余という国から始まります。

扶余は、紀元前4世紀頃~紀元後494年まで、今の中国東北地方に存在した国です。
扶余の王様である金蛙王(きんあおう)が、白頭山で河の神の娘である柳花(りゅうか)という女性に出会いました。
これを不思議に思った金蛙王は柳花を宮殿へ連れて帰ります。そうしたら、なんと柳花は大きな卵を生んだのです。
やがて、卵の殻を破って男児が出てきました。この子は成長すると弓がとても上手になったので、金蛙王は「弓の上手な者」を意味する「朱蒙(しゅもう)」という名前を付けました。
王は最初、朱蒙を馬の世話役に任命したのですが、その常人離れした弓の腕前から、朱蒙は次第に目立つ存在となっていきます。
しかし出る杭は打たれるもの。扶余の中で、朱蒙を排除しようとする人たちが現れます。
危険を感じた母の柳花は、朱豪を国外へ逃げさせます。
朱蒙は従者とともに扶余を後にし、途中で追手に追いつかれそうになりながらも、河の神の加護を受けて逃げ切ります。
やがて卒本(そつほん)という場所にたどり着くと、朱蒙はここで高句麗を建国しました。
以上が高句麗の建国神話です。

卵から生まれた朱蒙が扶余で頭角を現し、ついに卒本で高句麗を建国したというお話です。
では、これに続く百済の建国神話を見てみましょう。
朱蒙は高句麗を建国したのち、卒本で召西奴(しょうせいど)という女性を妃に迎え、やがて二人の間に沸流(ふつりゅう ※兄)と温祚(おんそ ※弟)の二児が誕生します。
ただ実は、朱蒙にはもう一人 子がいました。その子は朱豪が扶余にいたときに授かった子で、朱豪が扶余を脱出したあとも扶余に残っていたのでした。
ところが、高句麗王となった朱豪はこの扶余の子を呼び戻して、さらには太子の座に就けます。
これを知った沸流と温祚は、高句麗に自分たちの居場所はないと悟り、臣下や百姓たちを連れて高句麗を後にし、南下して漢山(現在のソウル周辺)ほうへ向かいました。
漢山に着くと、二人も別の道を歩むことに決めます。兄の沸流は弥鄒忽(びすうこつ 現在の仁川)へ、弟の温祚は河南の慰礼城(場所は諸説あり)へ行くことにしました。
その後、弟の温祚は慰礼城を都として国を建て、十済(じゅっさい)と号しました。
しばらくすると、別の道を歩んだ兄の沸流も温祚のもとに合流してきます。
沸流の合流によって勢力が拡大したことで、温祚はここで国号を百済と改めました。また、百済の出自が高句麗と同じ扶余であることを示すため、自らを扶余氏と名乗り始めます。
以上が百済の建国神話です。

朱蒙の子である温祚が高句麗を離れ、慰礼城で百済を建国したというお話です。
百済の建国神話はほかにもいくつかあって、それらの内容は上で紹介したものとは少し異なっているのですが、どれも出自を扶余とする点では一致しています。
ところで、なぜ百済は扶余に出自を求めたのでしょうか。
これについては、はっきりしたことはわかっていないのですが、後世に百済が高句麗と対立した際に、自国の正当性を強調するためだったと考えられています。
すなわち、扶余を出自とする高句麗に対して、百済は「我々こそ扶余の子孫である」と言って対抗したわけです。
こうした高句麗への対抗意識が建国神話にも反映されたと考えられています。
百済の登場
ここからは神話の世界を離れて、歴史的事実としての百済の建国を見ていきます。
百済が誕生したのは、4世紀中頃のことでした。
この頃の朝鮮半島は、南部に馬韓(ばかん)、弁韓(べんかん)、辰韓(しんかん)という勢力があり、北部には高句麗がありました。
とりわけ、百済が登場したのは、南部の三勢力の一つである馬韓の地です。
馬韓は約50の小国からなる連合体だったのですが、その中の伯済国という小国が百済の前身でした。

馬韓だけでなく、辰韓や弁韓も小国の連合体でした。
といっても、もともと伯済国は馬韓の中の一国に過ぎず、その中でも特に有力な国であったわけでもありませんでした。
ところが、4世紀初期から急成長し、4世紀の中頃までには漢山城(現在のソウル近郊)に都を置いて国家の基礎を固めました。
こうして成長した伯済国が、国名を「百済」と改め、新たなスタートを切ったのです。
漢山城時代の百済
百済の勃興 ~近肖古王の時代~

画像:以下の画像をもとに筆者作成。By Historiographer at English Wikipedia – Transferred from en.wikipedia to Commons., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6606985
漢山城を都にスタートを切った百済ですが、間もなくして躍進を遂げることとなります。
それが、4世紀中頃~後半にかけての近肖古王(きんしょうこおう 第13代王)の時代です。
346年に即位した近肖古王は、まず南方の加耶に接近して味方を増やそうとします。
加耶とは、6世紀中頃まで朝鮮半島の中南部において、小国(加耶諸国)が分立していた地域を示す名です。あくまで地域の名称であって、国名ではありません。なお、加耶の歴史については、以下の記事で詳しく解説しております。
加耶にはたくさんの小国が分立していましたが、とりわけ近肖古王は安羅
国(あんらこく ※場所は上の地図参照)、金官国(きんかんこく ※場所は上の地図参照)などの有力な国と国交を結びました。また、これらの国を介して、海の向こう側にあった倭との国交にも成功します。
こうして南方の諸国を味方につけた近肖古王は、北方から圧力をかけてきていた高句麗との一戦に挑みます。
371年、近肖古王は太子の近仇首(きんきゅうしゅ ※のちの第14代王)とともに高句麗の平壌城へ出陣。対する高句麗側も王が自ら出陣してきました。
結果は百済の大勝利。しかも、このとき高句麗王は百済軍によって討ち取られてしまいました。
高句麗を退け、一気に国力を高めた近肖古王は、翌年には中国王朝の東晋に朝貢し、東晋から冊封を受けます。
朝貢とは、中国王朝に対して周辺諸族や諸国が貢物を贈ることです。中国王朝も朝貢をしてくれた国に返礼品を贈ります。朝貢が行われることで、両者の良好な関係が確認されます。
冊封とは、中国の皇帝が臣下となった国に爵位を与えることです。これにより、臣下国は中国王朝から自国の支配を認められます。言い換えれば、中国王朝から「自国の領土を支配していいよ」というお墨付き得られるということです。
南方の加耶諸国や倭との同盟、さらには東晋の冊封を受けた百済は、この後も高句麗との強い対抗姿勢を維持していくこととなります。
高句麗に降伏
近肖古王の時代に勃興を果たした百済でしたが、4世紀末には一転して、高句麗の圧迫に苦しむようになります。
392年、新たに即位した広開土王(こうかいどおう)のもとで高句麗が本格的に南進をしてきました。以降、高句麗が連年にわたって攻め続けたので、百済は北方の城を多く失ってしまいます。
これだけでは終わりません。
396年には、広開土王率いる高句麗軍が百済の都・漢山城まで攻めてきたのです。
結果、この戦いで百済は大敗。時の王であった阿莘王(あしんおう 第17代王)は高句麗に降伏しました。
この後、阿莘王は再起を図って、太子の腆支(てんし)を同盟国の倭に派遣していますが、これも高句麗が倭を退けたことで失敗に終わりました。
結局、阿莘王は悲願の再起を果たせぬまま、405年に亡くなりました。
百済の危機
高句麗の躍進は、広開土王を継いだ長寿王(ちょうじゅおう)の時代も続きました。
427年、高句麗の長寿王は南方への進出を強めるため、高句麗の南部に位置する平壌城へ遷都をしてきました。

遷都する前の高句麗の都は、かなり北方の国内城(こくないじょう)でした。
高句麗の南進を危惧した百済は、敵対関係にあった新羅と和平を結び、倭との連携も強化します。また中国王朝の宋・斉・梁にも朝貢をして冊封を受けました。
この当時、中国大陸は南北に分裂していました(南北朝時代)。その北側は北朝、南側は南朝と呼ばれます。そのうち南朝では、東晋→宋→斉→梁→陳と相次いで王朝が変わるのですが、百済はこれらの王朝から冊封を受けたということです。
ここに、中国王朝の後ろ盾を得た百済、新羅・倭 VS 高句麗の構図が出来上がります。
ところが、この構図をもってしても高句麗の勢いを食い止めることはできませんでした。
475年には、ついに高句麗の長寿王が自ら軍を率いて、百済の都・漢山城にまで侵攻してきます。
いよいよ攻撃に耐えきれず漢山城は陥落。
このとき百済王であった蓋鹵王(がいろおう 第21代王)は城から逃走しますが、しまいには高句麗軍に捕まって殺害されてしまいました。
こうして王都を失った百済は、ここで一時的な滅亡を迎えたと言えます。
熊津城時代の百済
熊津城への遷都

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蓋鹵王の死、また王都の陥落によって一時的な滅亡を迎えた百済ですが、蓋鹵王の子である文周(ぶんしゅう)が生き延び、復興を図ることになります。
漢山城を失った文周は、南方の熊津城(ゆうしんじょう 現在の忠清南道・公州)へと逃れて、ここで王位に就きました(文周王 第22代王)。ここから百済は熊津城を都に構え、再スタートを切ることとなるのです。
しかし、百済の再スタートは順調なものとは言えませんでした。
478年には、臣下の解仇(かいきゅう)が文周王を殺害し、幼い三斤王(さんきんおう 第23代王)を擁立。百済の実権を掌握してしまったのです。ただ、この解仇も間もなく反乱を起こし、鎮圧されています。
再興の兆し
三斤王を継いだ東城王(とうじょうおう 第24代王)の代になって、ようやく再興の兆しが見えてきました。
東城王は国内の混乱状況を打破するため、あえて対外的に積極策を敷くことで、王権の強化を図りました。

東城王は、対外的に王の存在をアピールすることで、国内にも力強さを見せようとしたのです。
東城王が対外的にどのような積極策を敷いたかというと、まずは中国王朝の斉に朝貢し、斉の皇帝から爵位を授かりました。こうして中国王朝公認の爵位を帯びることで、王権を示そうとしたわけです。
また、北方の宿敵・高句麗に対抗するため、493年には新羅と婚姻同盟を結び、軍事的にも新羅と緊密に連携して高句麗と戦いました。
このように、東城王は対外的な積極策を打ち出し、内外に王権の強さを示しました。
しかし、こうした東城王の王権強化策は、従来影響力を持っていた臣下たちの間に不満を生じさせたようです。
501年、東城王は臣下の苩加(はくか)によって暗殺されてしまったのです。
百済の再興
東城王を継いだ武寧王(ぶねいおう 第25代王)の時代、ようやく百済は漢山城時代以来の勢いを取り戻すこととなります。
501年に即位した武寧王は、まず東城王を殺した苩加の討伐に乗り出します。
苩加は反乱を起こしますが、最終的には武寧王によって鎮圧されました。このとき、苩加は降伏していますが、武寧王はこれをを受け入れずに斬首したといいます。
こうして国内の不安要素を解消したことで、いよいよ王権は確固たるものとなり、国内政治は安定を取り戻したのです。
武寧王は内政を固めると、東城王時代の方針を受け継いで、対外的な積極策を展開します。
特に、南方の加耶地域への進出を強めて領土を拡大していきました。
他方、東方の新羅との間では、東城王時代の婚姻同盟により関係が続いていましたが、この頃の力関係としては百済のほうが上だったようです。521年、武寧王が中国王朝の梁に使者を派遣する際、百済に「付随する者」として新羅の使者を引き連れたというエピソードが残っています。
泗沘城時代の百済
泗沘城への遷都
523年、武寧王を継いで聖王(せいおう 第26代王)が即位します。

聖王は日本に仏教をもたらした王様でもあります。
聖王の時代も、依然として北方の高句麗は強力でしたが、この頃は特に、東方の新羅の成長が著しく、その対応にも迫られることとなります。
まず、538年には熊津城から泗沘城(しひじょう 現在の忠清南道・扶余)への遷都を実施しました。
この泗沘城は背後に防衛のための山城が構えられ、その周りには強固な羅城が巡らされるなど、高句麗や新羅への対抗を意識して計画的に造営されたものでした。
新たな都城を建設した聖王は、次いで国家体制を刷新し、軍事的に強い国家を作ろうとします。もちろん、これも高句麗や新羅への対抗からでした。

具体的には、新たな官位の制定や統治機構の整備などがありました。
漢山城奪還
泗沘城への遷都、国家体制の刷新によって力を蓄えた百済は、満を持して対外進出に乗り出します。
まず聖王が狙ったのは加耶地域でした。
武寧王以来、既に百済は加耶地域へ進出していたのですが、この頃は新羅も積極的に進出を始めていたので、いち早く加耶全域を手中に収めたかったのです。

もはや、加耶地域は百済と新羅による争奪戦の地と成り果てました。
しかし、加耶諸国の中には新羅を支持する国もあり、また新羅自体が加耶地域への進出を強めたこともあって、百済は次第に加耶地域における影響力を失っていくこととなりました。
このように、加耶地域でにらみ合いを続けていた百済と新羅ですが、一方では共闘して高句麗に対抗していました。
551年、百済と新羅は連合軍を組んで、高句麗に侵攻します。この戦いで連合軍は、高句麗の漢山城を奪還することに成功します。

漢山城は百済の旧都でしたね。蓋鹵王の時代に高句麗に奪われていました。
ここに、百済は悲願の漢山城奪還を果たしたのです。
再び漢山城を奪われる
やっとの思いで漢山城を取り戻した百済。しかし、百済が領有できたのはほんの一時でした。
翌年には、かつて共闘した新羅によって漢山城を奪われてしまったのです。
聖王は怒って自ら軍を率いて新羅討伐に乗り出しましたが、554年の菅山城の戦い(かんざんじょう)で逆に迎撃され、戦死してしまいました。
こうして、百済は再び漢山城を失い、加耶地域での争奪戦も新羅に敗れ、さらには聖王自身が戦死してしまうという悲運に見舞われたのです。

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隋の登場と百済
聖王の死後、跡を継いだのが威徳王(いとくおう 第27代王)です。
威徳王の時代も、相変わらず高句麗や新羅との小競り合いが続いていますが、先代の聖王のときほど大きな摩擦は生じませんでした。
他方、この頃の大事件と言えば、中国大陸で新たに隋が成立し、中国統一を果たしたことです(589年)。

これまで、中国大陸は長らく分裂状態にありました。隋が久々に統一を果たしたのです。
隋の中国統一は、朝鮮半島の諸国にとって大きな衝撃を与えました。
これまで中国大陸は内部で分裂していたため、それほど朝鮮半島に構っている余裕はありませんでした。しかし、ここに統一国家・隋が登場したことで、その脅威が朝鮮半島に迫ってくる可能性が出てきたのです。
実際、高句麗、百済の両国は隋が成立するやいなや、すぐさま使節を送って朝貢をしていますし、また後発で新羅も朝貢しています。隋を敵に回すわけにはいかなかったのですね。
ただ、それでも北方の高句麗では隋との戦争に発展してしまっています。ちなみに、高句麗と隋の戦いは複数回に及びましたが、全て高句麗の勝利で終わっています。

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武王による国力回復と唐の成立
さて、視点を百済に戻すと、600年には武王(ぶおう 第30代王)が即位し、低迷状態にあった百済の国力に回復の気運が生まれてきます。
武王は聖王の末年より低調気味だった百済を立て直そうと、王権の強化を図りました。それを示すかのように、武王は王都に宮南池という壮大な人工池を造っています。
また、王都の背後にある扶蘇山付近に王興寺を、益山(現在の益山市)に弥勒寺という寺を創建し、文化面から百済の国力を示しました。
618年、中国大陸では隋が滅亡し、新たに唐が成立します。次いで621年には、唐が大陸内の反抗勢力を駆逐して、中国大陸の統一を成し遂げました。
これに応じて、朝鮮半島の三国は相次いで唐に朝貢し、624年に三国ともに冊封を受けています。

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義慈王の即位と三国抗争の熾烈化
641年、武王を継いで義慈王(ぎじおう 第31代王)が即位しました。百済最後の王です。
義慈王は玉座につくと、まず有力な王族や大臣たちを根こそぎ排除し、自らの王権を強化させました。

義慈王は独裁体制を敷いて国をまとめ、強い百済を作ろうとしたのです。
義慈王の強力な王権によって百済はまとまり、国力を大きく増強させます。
642年には、義慈王が自ら軍を率いて新羅へ侵攻。この戦いで、百済は新羅の要害である大耶城(だいやじょう)をはじめ、40余りの城を陥落させることに成功します。
これによって新羅は大ピンチに。耐えかねた新羅は、金春秋(きんしゅんじゅう)という人物を高句麗に派遣して援助を求めます。

金春秋はのちの武烈王(ぶれつおう 新羅第29代王)です。
ところが、高句麗は新羅の援助を拒否。逆に百済と同盟を結んで、新羅との対抗姿勢を明確にしました。
ここに、宿敵同士であった百済と高句麗の同盟が実現することとなったのです。
一方、為す術がなくなった新羅は中国大陸の唐に援助を求めました。
これに対して唐は、朝鮮半島への影響力拡大を目論んでいたこともあって、新羅の要求を受け入れます。新羅と唐の連合が結成されたのです。
こうして、百済・高句麗vs新羅・唐の構図が完成し、朝鮮半島における抗争は熾烈を極めていくこととなるのです。
高句麗と唐の戦い
百済・高句麗vs新羅・唐の構図が完成したのち、まず高句麗と唐の間で大規模な戦いが繰り広げられました。
645年、唐の太宗が自ら水陸10万の軍を率いて高句麗遠征を開始したのです。

太宗は唐の第2代皇帝です。
この戦いは、最初は唐が優勢だったのですが、高句麗が頑固な籠城戦を展開したことによって、最終的には高句麗の勝利に終わりました。
また、唐は647年、648年と高句麗遠征を重ねますが、いずれも高句麗の勝利に終わります。
結局、高句麗戦に敗北した唐は撤退を余儀なくされました。唐が退いたので、またもや新羅は百済と高句麗の脅威に脅かされることとなります。
迫りくる唐の脅威
百済は高句麗とともに、連年にわたって新羅を攻め続けます。655年には、新羅の北部にあった33城を奪うことに成功しました。
追い詰められた新羅は再び唐へ救援を求めます。しかし、唐は新羅の要請に応えて連年高句麗を攻めるものの、いずれも成果を上げることはできませんでした。
こののちも、百済は新羅への侵攻を緩めることなく、いくつか城を陥落させています。
いよいよ存亡の危機に直面した新羅。今度は唐に百済の討伐を要請して挽回を図ります。
こうして、百済に向けて大国・唐の脅威が迫ってくることとなるのです。
百済の滅亡
660年、唐は水陸13万の軍を百済に向けて派遣します。新羅もこれに呼応し、武烈王(新羅第29代王)が将軍の金庾信(きんゆしん)らとともに5万の軍を率いて出陣しました。
西方からは海を越えて唐軍が、東方からは陸路で新羅軍が迫り、百済は完全に挟み撃ちの格好となってしまいました。

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それでも、百済は将軍・階伯(かいはく)率いる決死隊の活躍などによって奮闘しました。

階伯はたった5000の軍で、新羅の5万の軍を4回も阻んだといいます。
しかし、圧倒的な兵力差を前にして、ついに百済の防壁は崩れることとなりました。
唐・新羅連合軍によって王都・泗沘城は陥落。義慈王やその臣下たちは唐に連行されてしまいました。
百済滅亡後、その故地では将軍の福信(ふくしん)や王族の豊璋(ほうしょう)などが復興運動を展開しましたが、これも復興軍内の内部分裂によって潰えることとなります。

豊璋は義慈王の子です。百済滅亡時は倭にいたのですが、復興のため百済に舞い戻ってきました。
663年、豊璋は倭の軍を引き入れて、新羅・唐の連合軍と戦いましたが、この戦いで惨敗を喫しました。いわゆる白村江の戦いです。
こうして、百済の歴史は幕を閉じることとなったのです。