【朝鮮の歴史④】高句麗の歴史

通史

この記事では、高句麗の歴史を建国から滅亡まで、わかりやすく解説していきます。

かなり長い記事になっていますので、目次をご活用いただければ幸いです。

※この記事では、初出の用語に適宜ルビを振っています。そのうち、特に朝鮮の歴史に関連性が深い用語には朝鮮語のルビを振り、()で日本語のふりがなを併記しています。

高句麗とは?

高句麗コグリョ(こうくり)とは、紀元前1世紀頃~紀元後668年まで、朝鮮半島北部から中国東北地方にかけて存在した国家のことを言います

同時代に朝鮮半島に存在した百済ペクチェ(ひゃくさい/くだら)、新羅シルラ(しんら/しらぎ)と並んで、朝鮮三国時代を形成した一国として知られています。

百済の歴史新羅の歴史については、以下の記事で詳しく解説しております。

高句麗の建国

高句麗には、歴史的な事実とは別に建国神話が伝えられているので、まずはこちらから見ていくことにしましょう。

建国神話

建国神話の舞台は扶余ふよという国から始まります。

一井
一井

扶余は、紀元前4世紀頃~紀元後494年まで、今の中国東北地方に存在した国です。

扶余の王様である金蛙王クムワワン(きんあおう)は、白頭山柳花ユファ(りゅうか)という女性に出会います。

柳花は河の神の娘なのですが、天界から追放されてしまって地上に来ていたのです。

これを不思議に思った金蛙王は柳花を連れ帰り、部屋に幽閉します。

閉じ込められていた柳花は、部屋に射し込んできた日の光に当たると、なんと妊娠をして大きな卵を生んだのです。

扶余王はこの卵を犬や豚に与えますが、食べません。

今度は野原に捨てると、牛馬はこれを避け、鳥たちは集まってこれを羽で温めました。

さらに、王は卵を割ろうとしますが、割れませんでした。結局、王は卵を柳花に返します。

やがて、殻を破って男児が出てきました。成長すると、この子は弓がとても上手だったので、「弓の上手な者」を意味する「朱蒙チュモン(しゅもう)」という名前を付けました。

扶余の人々は朱蒙を取り除こうとしますが、王がこれを許さず、朱蒙を馬の世話役に任命しました。

朱蒙は馬の世話をする中で馬の良し悪しを知ったので、駿馬(足の速い馬)を自分のものとし、狩猟では、この馬に乗って矢を放ち、多くの獲物を仕留めました。

これを見た扶余の人々は、またしても朱豪を排除しようとします。

そこで、母の柳花は朱豪を国外へ逃げさせます。

朱蒙は従者とともに扶余を後にし、途中で追手に追いつかれそうになりながらも、河の神の加護を受けて逃げ切ります。

やがて卒本チョルボン(そつほん)という場所にたどり着き、ここで高句麗を建国しました。

以上が高句麗の建国神話です。

この神話が最も早くまとまった形で登場するのは、6世紀の『魏書ぎしょ』という中国の歴史書です。

その後、形を変えながら、『三国サムグク史記サギ(さんごくしき)』や『三国サムグン遺事ニュサ(さんごくいじ)』といった朝鮮半島の歴史書にも受け継がれていきました。

高句麗の登場

ここからは神話の世界を離れて、歴史的事実としての高句麗建国を見ていきます。

高句麗の歴史は紀元前1世紀頃から始まります。

朝鮮半島よりも北側の地域、中国東北地方にいたはく高句麗族)という民族が高句麗を建国しました。

一井
一井

建国当初の首都は卒本でした。これは神話と同じですね。

ただ建国とはいうものの、まだ一つの国家として完成したわけではなく、5つの政治集団による連合政権に過ぎませんでした。

一方で高句麗が登場した時期、中国大陸のかん(前漢)衛氏朝鮮ウィシチョソン(えいしちょうせん)を滅亡させ、朝鮮半島の郡県支配を始めていました。

漢による朝鮮半島の郡県支配については、こちらの記事で詳しく解説をしています。

当時の高句麗の領土は朝鮮半島内にはなかったのですが、漢は高句麗の領土にも玄菟郡げんとぐんを置いて支配してしまいます。

一井
一井

勝手に支配されることになった高句麗としては、見過ごせない事態ですね。

高句麗はこの支配から抜け出すために力を蓄えました。

紀元前75年、ついに高句麗は玄菟郡を領内から追い出すことに成功します。

このように、建国当初の高句麗は玄菟郡との戦いを通して勃興してきました。

国内城時代の高句麗

卒本から国内城への遷都

玄菟郡を追い出した後も、高句麗は着々と勢力を拡大し続けていきました。

ところが3世紀の初め、国内で内部分裂が発生します。

高句麗王であった伯個ペッコ(はくこ)が死去すると、その長子の抜奇パルギ(ばつき)と次子の伊夷模イイモ(いいぼ)が王位争いを始めたのです。

結果は、人々の支持を得た伊夷模の勝利。山上サンサンワン(さんじょうおう)として高句麗王に即位します。

対して敗北した抜奇は、遼東地方で勢力を広げていた公孫こうそんの元へ降伏しました。

公孫氏とは、2世紀末~3世紀前半にかけて、遼東半島を支配拠点として活動していた勢力です。当初、遼東半島は後漢(中国大陸の国家)の支配下にありましたが、後漢が衰えてくると公孫氏がこの地で自立し、半独立勢力として約半世紀にわたって支配し続けました。朝鮮半島に帯方郡を設置したことでも有名です。

その後、公孫氏の後ろ盾を得た抜奇は、高句麗の首都である卒本を攻め、しまいには占拠してしまいます。

抜奇に破れた山上王(伊夷模)は卒本を抜け出し、東遷して国内クンネソン(こくないじょう)を新たな都とします。こうして、高句麗の国内城時代が幕を開けることとなります。

国内城陥落

新たな都で再出発を果たそうとした矢先、再び高句麗に試練が訪れます。

高句麗が国内城に遷都した頃、中国大陸ではしょくが並び立つ三国時代の真っ最中でした。

そのうち北方の強国であった魏が山東半島にいた公孫氏を倒し、高句麗と国境を接するようになります。

が、国境を接した両国の関係は悪い方向へと発展してしまいました。

244年、魏が武将の毌丘倹かんきゅうけんを派遣して、高句麗を攻め始めたのです。

その結果、国内城は魏の攻撃によって蹂躙され、時の王であった東川王トンチョンワン(とうせんおう)は都を捨てて逃げました。

ただ、東川王は何とか逃げ切ることができ、その後再び国内城に戻って高句麗の再興を果たします。

一井
一井

東川王は逃げるだけで終わらず、高句麗の再興を果たした王様なんですね。

国家体制の進展と対外進出

東川王から4代後の美川王ミチョンワン(びせんおう)の治世になると、国家体制に大きな進展が見られます。

建国以来、高句麗では5つの政治集団が大きな権力を持っていたのですが、美川王はこれら集団の力を抑え、王権の伸長に努めたのです。

具体的には、13等官からなる官位制を導入することによって、王を頂点とするピラミット形の身分体系を整備し、国内の一元的な統治を図りました。

こうした美川王の政策が功を奏し、一つの大きな国家としての高句麗が形作られていくことになります。

一井
一井

美川王以降、これまでの連合政権的な色合いが消えていきます。

内政面を整えた美川王は、対外政策にも積極的に乗り出しました。

313年には、朝鮮半島にあった楽浪らくろう帯方たいほうを滅ぼし、半島南部への進出を始めています。

また、美川王は西方へも進出したのですが、この頃遼東半島に進出してきた前燕ぜんえんという国が強力だったので、大きな成果を上げることは叶いませんでした。

前燕とは、中国の五胡十六国時代の1国です。五胡十六国時代は中国における時代区分で、304年~439年までの135年間、中国の華北で5つの北方民族(五胡)による国々が乱立した時代のことを言います。その五胡とは匈奴きょうど鮮卑せんぴけつていきょうの諸族であり、前燕は鮮卑族の慕容氏によって建国されました。

再び高句麗の危機

美川王の時代、内外ともに飛躍的に進展が見られた高句麗。しかし、次の故国コクグォンワン(ここくげんおう)の治世になると、再び大きな危機が訪れます。

342年、前燕の王を称した慕容皝ぼようこうが5万の軍を率いて高句麗に侵攻してきたのです。

前燕軍は王都の国内城にまで侵入し、高句麗の前王である美川王の墓を暴いて遺骨を奪い、王母と王妃を捕らえ、さらには宮殿を焼いて略奪を行いました。

こうして高句麗は再び危機に陥ったのですが、翌年、故国原王が前燕の臣下と称して朝貢したことで、この危機を何とか乗り切りました。このときに、美川王の遺骨も無事に戻ってきました。

一井
一井

355年には前燕に人質を送るのと引き換えに、王母と王妃も取り戻しています。

ところが、高句麗の危機はこれだけでは終わりませんでした。

今度は南部の百済が北進をし、高句麗の領土を奪ったのです。

これを奪還するため、369年に故国原王は自ら軍を率いて戦場に赴きますが、敗れてしまいます。

さらに371年には、百済王が自ら平壌城ピョンヤンソンを攻撃してきました。

故国原王は平壌城を防衛するために再び出陣。しかし、この戦いのさなか、故国原王は流れ矢に当たって戦死してしまいました。

一井
一井

高句麗は、西の前燕と南の百済との両方に圧迫される形になってしまいます。

高句麗の建て直し

故国原王が戦死して即位した小獣ソスリムワン(しょうじゅんりんおう)と、その次の故国コクギャンワン(ここくじょうおう)は、前代の対外的な敗北による危機を乗り切るため、内政面を建て直し、国力の増強を図りました。

一井
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具体的な政策には、仏教の受容や教育機関の設立、律令の制定などがありました。

高句麗の躍進 ~広開土王の時代~

小獣林王、故国壌王の治世で危機を抜け出した高句麗は、クァン開土ゲトワン(こうかいどおう)の即位によって躍進を遂げることとなります。

広開土王はその名前からも分かるように、高句麗の領土を大きく拡大した王様です。

もちろん、領土拡大のためには周辺国との戦争は避けられません。広開土王は自ら出陣して周辺国との戦争に勝利していったのです。

では、その広開土王の快進撃を少し追ってみましょう。

395年、契丹の一族である稗麗はいれいに遠征して勝利し、この一族を高句麗に服属させます。

翌年の396年、今度は百済に遠征し、都の漢山城ハンサンソン(かんざんじょう)を襲って大勝利を収めます。この戦いで高句麗は百済から58の城を獲得し、さらには百済の王である阿莘王アシンワン(あしんおう)に忠誠を誓わせたといいます。

また、西方の後燕こうえんとも遼東半島をめぐって熾烈な争いが繰り広げられますが、最終的には高句麗が遼東半島を手にしました。

一井
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後燕は前燕の皇子が建てた国です。

そのほか、高句麗は北の扶余、南東の新羅を圧迫し、海の先にあるまでをも牽制しました。

このように、広開土王は四方の国々を圧倒して領土を拡大していったのです。

ちなみに、こうした広開土王の事績は、王都国内城付近(現在の中国吉林省・集安市)に建てられた広開土王碑に記されており、石碑は現在にまで遺されています。

平壌城時代の高句麗①

長寿王の即位と平壌城への遷都

広開土王を継いで即位したのが長寿王チャンスワン(ちょうじゅおう)です。

長寿王はその名の通り、とても長寿の王だったようで、王としての在位期間は79年間、年齢としては98歳まで生きたといいます。

この長寿王の治世も、広開土王と並んで高句麗の最盛期を築いた時代です。

対外的には、広開土王の姿勢を受け継いで、周辺国への圧迫を強めていきます。

その手始めに、長寿王は国内城から平壌城への遷都を行いました。

なぜ都を遷したかというと、南方の百済新羅への進出を拡大するためです。

一井
一井

国内城は南方進出するには遠すぎました。そこで、長寿王は南の平壌城に遷都したのです。

また、南方進出に先駆けて、北方の安定化を図ります。

具体的には、中国王朝の北魏ほくぎそうに朝貢し、双方と安定的な関係を築きました。

この当時、中国大陸は南北に分裂していました(南北朝時代)。その北側は北朝、南側は南朝と呼ばれます。北朝、南朝ともにいくつもの国が興亡を繰り返すのですが、とりわけ、北魏は北朝の1国目、宋は南朝の1国目です。

このように北方の安定化を図ったのは、南方進出の際に北方から攻め込まれるのを防ぐためです。

一井
一井

高句麗としては、南方で戦っている間に北方から攻め込まれることが一番の懸念でした。

最大版図の実現

準備を終えた長寿王は、本格的な南方進出に乗り出します。

まず、新羅を高句麗の従属下に入れました。以降、高句麗は新羅領内に自国の軍を進駐させたり、新羅の内政に関与したりするようになります。

こうした圧迫に対して、新羅は次第に高句麗から離れ、百済とのつながりを深めていきました。ただ、高句麗の新羅に対する影響力は5世紀を通して維持されます。

一方、百済に対しては繰り返し侵攻を続け、475年には長寿王が自ら軍を率いて、百済の都である漢山城を攻めます。

結果、高句麗は漢山城を陥落させ、百済王の蓋鹵ケロワン(がいろおう)を討ち取ることに成功しました。

そしてこのとき、高句麗は最大版図を実現して、最盛期を迎えることとなります。

高句麗の最大版図を示した地図
高句麗の最大版図(5世紀後半)
画像:以下の画像をもとに筆者作成。User:Historiographer, User:KEIM, User:KEIMS – http://commons.wikimedia.org/wiki/File:History_of_Korea-476.PNGhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:476%E5%B9%B4%E7%9A%84%E6%9C%9D%E9%B2%9C%E4%B8%89%E5%9B%BD.pnghttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:History_of_Korea_476_jp.png, CC 表示-継承 3.0,https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34032112による

高句麗の弱体化

広開土王、長寿王の時代に勢力を飛躍的に拡大した高句麗でしたが、その後の勢いは低調気味になっていきます。

その原因は国内における王権争いと、周辺国の伸長です。

国内では531年安臧アンジャンワン(あんぞうおう)が殺され、弟の安原アヌォンワン(あんげんおう)が即位しますが、王が病気になると再び王位継承争いが勃発します。この争いは2年にもわたり、その間に安原王は病死してしまいました。

一方、国外では南方の百済と新羅が伸長してきました。

特に新羅の成長が著しく、北進して高句麗の領土を北へ北へと押し上げていきます。

今や高句麗に従属していた頃の新羅の面影はありませんでした。

551年には、百済と新羅の連合軍によって漢山城までもが奪還されてしまいます。

一井
一井

漢山城は長寿王が百済から奪った城でしたね。それがこのときに奪還されました。

さらに翌年には、新羅が百済を追い払って漢山城を占拠しています。

平壌城時代の高句麗②

新たな平壌城(長安城)への移動

低調気味な高句麗を立て直そうと、 安原王を継いだ陽原王ヤンウォンワン(ようげんおう)は、再起を図って王都を移動します(586年)。

ただ移動とはいっても、数キロ西南に移動しただけで平壌であることに変わりはありません。

王都の移動後には、中国的な条坊制を敷いた本格的な都城の建設が行われました。こうして完成した都城が長安城です。

一井
一井

隋・唐の都である長安城と同じ名前です。少し紛らわしいですね💧

隋の登場

高句麗が都城を移動した頃、中国大陸ではずいが成立し、間もなく中国統一を果たします。

文帝ぶんてい楊堅ようけんによって581年に建国されました。建国当初は南にちんという国が残っていましたが、589年に隋が陳を倒して中国統一を果たしました。

これまで中国大陸は長らく分裂状態が続いていたのですが、ここに統一国家が登場したのです。

では、隋の登場に対して、高句麗の反応はどうだったでしょうか。

高句麗はというと、隋が成立するやいなや使節を派遣して朝貢しています。

これまで高句麗は中国王朝に朝貢することで北方の安定化を図ってきたので、隋に対しても同じように立ち回ったのです。

一井
一井

中国王朝へ朝貢して北方を安定させるのは、高句麗の常套的な策略でした。

しかし、589年に隋が大陸統一を果たすと、もはや朝貢で北方を安定化させる高句麗の策略は通用しなくなっていきます。

というのも、これまで高句麗が朝貢で北方を安定化できたのは、中国大陸が分裂状態にあったからでした。

具体的には、これまでの中国王朝は大陸が分裂状態にあって高句麗に手を出す余裕はなかったので、高句麗側が朝貢をして友好的に振る舞っておけば、中国王朝側から高句麗へ攻め込まれる心配がなかったのです。

一井
一井

つまり、これまで高句麗は中国大陸の分裂を利用してきたわけです。

ところが、今や隋によって大陸は統一されたので、朝貢をしたからといって攻め込まれないとは言い切れない状況になったのです。

高句麗vs隋

朝貢だけでは自国の安全は保証されないと判断した高句麗は、すぐさま北方の防備を固めることで対策をしました。

しかし、この行動はかえって隋を刺激してしまいました。

隋の文帝はこれを軍事的な挑発と捉えたのです。

結局、これが一つの引き金となって、文帝は598年に水陸30万の軍をもって高句麗遠征を命じます。

ここに、高句麗vs隋の戦いの火ぶたが切られました(第1次遠征)。

ただ、この戦いは隋軍内で疫病が流行したことや、高句麗王がすぐに謝罪の使者を送ったことで、何とか食い止めることができました。

しかし、安心したのも束の間・・・。

高句麗が北方の民族である突厥とっけつと外交関係を結ぼうとすると、またもや隋を怒らせることとなります。

ついに、隋の2代目皇帝・煬帝ようだいは、612年に水陸100万を超える軍を自ら率いて高句麗を攻めに来ました第2次遠征)。

大ピンチの高句麗でしたが、国境付近の遼東城ヨドンソン(りょうとうじょう ※場所は上の地図参照)における攻城戦では隋軍の激しい攻撃をよく守りました。

また、隋軍には平壌へ進軍してきた別働隊もいたのですが、これも高句麗の将軍・乙支文徳ウルチムンドク(いつしぶんとく)の巧みな戦術によって壊滅させることに成功します。

こうして、高句麗は隋の100万もの大軍を返り討ちにしたのです。

隋の煬帝はその後も、613年614年に高句麗遠征を行いますが(第3次第4次遠征)、ここでも高句麗が防衛に成功し、隋軍は撤退を余儀なくされました。

一井
一井

高句麗は隋による4度の遠征を全て阻止したことになります。

しかも、度重なる高句麗遠征によって疲弊した隋では、国内で反乱が発生する始末。やがて、中国大陸は群雄割拠の状態となり、隋は滅亡します。

「群雄割拠」とは、多くの群雄(英雄)が拠点を構え、しのぎを削って戦い合う状態のことです。日本で言えば、戦国時代のようなイメージです。

最終的には、618年に群雄の一人であった李淵りえんとうを建国し、621年には他の群雄を倒して大陸統一を遂げることとなりました。

高句麗と唐の関係

隋とは最悪な関係で終わった高句麗ですが、新たに成立した唐との関係はどうだったでしょうか。

高句麗は唐が成立すると、朝貢を行って唐と安定的な関係を築こうとしました。対する唐もそれに応じて、高句麗を受け入れています。

実は、建国当初の唐は周辺国に対して融和的な姿勢をとっていたので、高句麗もまた唐と良好な関係を築くことができたのです。

一井
一井

一方で、朝鮮半島内では百済・新羅との抗争が激しさを増しています。

しかし、こうした唐との良好関係も長くは続きませんでした。

それは、唐の第2代皇帝・太宗たいそうが国内を安定させたことで、対外的に強気に出るようになってきたからです。その手始めに、630年には北方の東突厥を服属させています。

突厥を倒して勢いに乗った唐は、高句麗に対しても積極策に出ました。

具体的には、唐は高句麗が隋に勝利したときに建てた記念碑を壊すように命じ、さらにはその記念碑に埋められた隋兵の遺骨を返すように求めてきたのです。

こうした唐の姿勢変化を警戒した高句麗は、唐との国境の間に、1000里に及ぶ長城(千里長城)を築いて防備を固めています。

その後も唐の勢いは止まるところを知らず、635年には吐谷渾とよくこん(唐の西方にあった国家)、640年には高昌国こうしょうこく(唐の北方にあった国家)を滅ぼしています。

淵蓋蘇文のクーデター

唐の脅威が増す中、高句麗の重臣たちの間では、唐への帰順を主張する穏健派と、徹底抗戦を主張する抗戦派で分裂が生じていました。

この分裂の中で、高句麗では史上最大とも言えるクーデターが発生することとなります。

642年、抗戦派の一人である淵蓋蘇文ヨンゲソムン(えんがいそぶん)が武力に訴え、時の王であった栄留王ヨンニュワン(えいりゅうおう)と穏健派の重臣180人余りを惨殺したのです。

こうして政変に成功した淵蓋蘇文は、王弟の子を即位させ(宝蔵王ポジャンワン(ほうぞうおう))、自らはマン離支ニジ(ばくりし)という高位を帯びて、高句麗内での権力を完全に掌握します。

一井
一井

新たに即位した宝蔵王に権力はなく、お飾り状態でした。

以降、高句麗は新たな指導者・淵蓋蘇文のもとで団結し、唐に対して徹底抗戦の姿勢を明確化させていくこととなるのです。

熾烈化する三国抗争

国内で淵蓋蘇文が権力を握った頃、他方では百済、新羅との三国抗争が本格化していきます。

この頃の半島内の勢力図としては、依然として高句麗が最も強大でしたが、百済が義慈王ウィジャワン(ぎじおう 百済第31代王)のもとでまとまり、また新羅に侵攻して勢力を拡大しつつありました。

一方の新羅は三国の中で最も弱小でした。

新羅は6世紀後半に大きく成長し、このときは高句麗を凌ぐほどの勢力を振るっていました。しかし、それ以降は高句麗や百済に押されて、苦しい状況が続いていました。

642年、百済の侵攻に耐えかねた新羅が、高句麗に使者を派遣して救援を求めてきました。

一井
一井

新羅から高句麗に来た使者は金春秋キムチュンチュ(きんしゅんじゅう)という人物で、のちの武烈王ムヨルワン(ぶれつおう 新羅第29代王)です。

しかし、淵蓋蘇文はこれを拒否して、逆に百済と同盟を結ぶことで、新羅への敵対姿勢を明確にしました。

とうとう追い込まれた新羅は、最終手段として唐に救援を求めました。

唐は対外的に積極策を敷いていたこともあって、新羅の救援を承諾して高句麗への出兵を決めます。

こうして、いよいよ大国・唐の圧力が朝鮮半島へじわじわと近づいて来ることとなるのです。

高句麗vs唐

645年太宗が自ら水陸10万の軍を率いて高句麗遠征を開始しました。

対する高句麗は国境地帯の城で籠城戦を展開しますが、遼東城をはじめ次々に城が落とされてしまいます。

しかし、さすがは隋を阻んだ高句麗です。

唐の大軍に追い込まれながらも、安市城アンシソン(あんしじょう ※場所は上の地図参照)の戦いで頑固に守って、ついには唐軍を返り討ちにしたのです。

その後も唐は647年648年と高句麗遠征を重ねますが、いずれも高句麗の勝利に終わりました。

一井
一井

3度高句麗に負けた唐の太宗は、「二度と高句麗を攻めるな」という遺言を残したといいます。

百済の滅亡

唐の攻撃を阻んだ高句麗は、百済と連携して新羅に対する圧迫を強めていきます。

もはや新羅は唐に頼るほかありませんでした。

唐では太宗を継いだ高宗こうそう(第3代皇帝)が新羅の救援を受けて高句麗に再び遠征軍を送りますが、これも高句麗がよく守ったので、ほとんど成果を挙げることはできませんでした。

ピンチに陥った新羅は、今度は百済の討伐を唐に要請しました。

660年、唐の高宗は新羅の要請に応え、百済に向けて水陸13万の軍を派遣します。

新羅もこれに呼応し、武烈王(新羅第29代王)が将軍の金庾信キムユシン(きんゆしん)らとともに5万の軍を率いて出陣しました。

一井
一井

百済は唐と新羅の挟み撃ちになってしまいました。

結果、唐・新羅連合軍によって百済の都は陥落。百済の義慈王は唐軍に捕らえられ、長安(唐の都)に連れて行かれました。

百済は滅亡しました。

そして、同盟国の百済を失ったことで、高句麗の立場も危うくなっていきます。

亡国への歩み

660年に百済を滅ぼした唐は、その勢いで高句麗にも侵攻を始めます。

661年、唐は水陸35万の軍を高句麗に向けて派遣します。その背後には新羅がおり、食料供給などで唐軍を支援しています。

大軍で攻めた唐でしたが、幾度のピンチを乗り越えてきた高句麗が意地を見せました。

高句麗は都の平壌城を半年にわたって包囲されながらも守り抜き、さらには反撃して唐軍を退けたのです。

今回も高句麗の勝利に終わったのでした。

ところが、666年に最高指導者の淵蓋蘇文が死去すると状況は一転し、いよいよ高句麗は亡国への道を歩むこととなります。

高句麗の滅亡

淵蓋蘇文の死後、その子らの間で激しい権力争いが始まったのです。

当初、淵蓋蘇文の跡を継いで最高指導者となったのは長男の男生ナムセン(だんせい)でした。しかし、弟の男建ナムゴン(だんけん)・男産ナムサン(だんさん)はこれをよく思わず、男生を排斥しようとします。

弟たちに追われた男生は旧都である国内城に逃げ込みました。

ここで、もはや高句麗に居場所はないと悟った男生が国内城ごと唐へ降伏します。

唐がこの好機を見逃すはずがありませんでした。667年、降伏してきた男生に先導をさせて、再び高句麗遠征を行ったのです。

一井
一井

兄弟争いに負けた男生が、今度は唐の将軍となって高句麗を攻めに来ました。

一方の高句麗は、新たに最高指導者となった男建のもとで王都の平壌城で防衛戦を展開します。

しかし、淵蓋蘇文亡き高句麗にかつての強さはありませんでした。おまけに高句麗を知り尽くした男生が攻めてくるありさま。高句麗は徐々に追い詰められていきました。

668年、ついに平壌城が陥落。宝蔵王やその臣下は唐に降伏し、高句麗は滅亡しました。

高句麗の滅亡後、その遺臣のコムジャム(けんぼうしん)が宝蔵王の庶子とされる安勝アンスン(あんしょう)を王に迎えて復興運動を展開しましたが、これも間もなく内紛によって解体されました。

こうして高句麗の歴史は幕を閉じることとなったのです。

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