この記事では、新羅の歴史を建国から滅亡まで、わかりやすく解説していきます。
※この記事では、初出の用語に適宜ルビを振っています。そのうち、特に朝鮮の歴史に関連性が深い用語には朝鮮語のルビを振り、()で日本語のふりがなを併記しています。
新羅とは?
新羅(しんら/しらぎ)とは、4世紀後半~935年までの間、朝鮮半島に存在した国家のことを言います。
同時代に存在した百済(ひゃくさい/くだら)、高句麗(こうくり)と並んで、朝鮮三国時代を形成した一国として知られます。
朝鮮三国時代とは、新羅、百済、高句麗が互いに凌ぎを削った時代のことです。とりわけ、最終的にこの争いに勝利し、朝鮮三国時代に終止符を打ったのが、ほかでもない新羅でした。
新羅は、660年に百済を、668年に高句麗を倒し、676年には朝鮮半島に介入していた唐を退けて、半島の統一を成し遂げたのです。

ちなみに半島統一後の新羅は、「統一新羅」と呼ばれています。
百済の歴史と高句麗の歴史については、以下の記事で詳しく解説しております。
新羅の建国
新羅には、歴史的な事実とは別に建国神話が伝えられているので、まずはこちらから見ていきましょう。
建国神話
建国神話によれば、建国初期の新羅では、三つの姓の間で王位が交代で継がれたとされています。その三つの姓とは、朴(ぼく)・昔(せき)・金(きん)であり、とりわけ新羅が建国されたときに最初に王様となったのは朴氏でした。
では、ここからは神話の世界において新羅がどのように建国されたか、また朴氏に始まる三姓の王位交代について見ていきます。
新羅始まりの地は慶州盆地(現在の慶尚北道・慶州の盆地)。紀元前1世紀のことでした。
慶州盆地には、今はなき古朝鮮(朝鮮半島最古の国家。紀元前108年に滅亡)の遺民が六つの村に分かれて住んでいました。
ある日、六つの村の一つである高墟村(こうきょむら)の村長が、林の中で卵を見つけました。
この卵を割ってみると、なんと中から男の子が出てきたのです。
そこで、村長はこの子を連れ帰って養うことにしました。同時に、生まれてきた卵が瓢のような形をしてたので、この子に瓢を意味する「朴」という姓と、「赫居世(かくきょせい)」という名前を与えました。
赫居世が13歳になると、六つの村の人々は、赫居世の生まれ方がとても不思議だったことから、彼を王に推戴します。
こうして新羅が誕生し、初代王・朴赫居世が即位しました。ときは紀元前57年でした。
その後、王位は朴氏の中で世襲され、赫居世の子である南解(なんかい)が2代目王として、南解の子である儒理(じゅり)が3代目王として即位しました。
しかし、朴氏の世襲はここで一旦途絶え、4代目王には昔氏の脱解(だっかい)が即位します。
脱解もまた不思議な生まれ方をした人物でした。脱解は外国で卵から生まれたのち、そこで箱に閉じ込められて海に流され、新羅付近に漂着し、そこで成長をしたのです。
成長した脱解はとても賢かったようで、これを知った第2代の南解王は、脱解を自分の娘と結婚させて国政を委ねました。
その後、第3代の儒理王が脱解に自分の後を託したので、朴氏ではありませんでしたが、昔氏の脱解が4代目王として即位したのです。
これ以降、新羅では12代目まで、朴氏と昔氏が交代で王位につくこととなります。
ところが、その次の13代目には、朴氏でも昔氏でもない人物が王位につきます。
それが金氏の味鄒王(みすうおう)です。
この味鄒王の子孫は、脱解王(第4代王)の時代に誕生した閼智(あつち)という人物だったのですが、彼も例に漏れず、不思議な生まれ方をした人物でした。
閼智は金色の箱に入れられて天界から降臨し、この箱を脱解王が開けたときに誕生したのです。
そして、その閼智の子孫である味鄒が、ここへきて第13代王として即位したわけです。
以上が新羅の建国神話です。

いずれも神秘的な生まれ方をした朴氏、昔氏、金氏の三姓が新羅を治めていったというお話です。
もちろん、「建国神話」とあるように、以上の内容は全て神話であって、実話ではありません。
神話で重要な位置を占めている「姓」についても、実際に新羅で姓が用いられるのは、6世紀以降であることが研究で明らかになっています。
新羅の登場
ここからは神話の世界を離れて、歴史的事実としての新羅の建国を見ていきます。
神話では、紀元前57年に新羅が建国されたことになっていましたが、実際に新羅が登場したのは、4世紀後半頃だったと考えられています。
その理由は、「新羅」という名称が初めて中国の歴史書に登場するのが、377年のことだったからです。
それ以前も朝鮮の歴史書である『三国史記』(さんごくしき)には、「新羅」の名称が何度も登場していますが、ここで中国の歴史書に初めて登場したことで、新羅の存在を示す決定打となったわけです。
補足をさせていただくと、朝鮮の歴史書・『三国史記』に見える新羅初期の記述は疑わしい部分が多く、史実とすることができません。ですので、中国の歴史書に初めて登場する377年、すなわち4世紀後半頃が新羅の登場時期と推定されているのです。
では、4世紀後半頃、新羅がどのように登場したのかを見ていきましょう。
新羅が登場する前、朝鮮半島の南部には、馬韓(ばかん)、弁韓(べんかん)、辰韓(しんかん)という三つの勢力がありました。
新羅は、これら南部三勢力の一つである辰韓の地で登場してきます。
辰韓というのは1つの国家ではなく、12の小国からなる連合体の総称です。
辰韓だけでなく、馬韓、弁韓も小国の連合体でした。新羅とほぼ時を同じくして、馬韓の地から百済が登場してきます。また、弁韓の地には加耶という地域があり、ここにたくさんの小国が存在しました。
とりわけ、その中の斯盧国(しろ)という小国が新羅の前身であり、これが成長して4世紀後半には新羅と名称を変えたのです。
新羅の王都は金城(きんじょう ※古くは徐羅伐(じょらばつ)とも言う)と言い、斯盧国の都をそのまま引き継いだものでした。ちなみに、新羅の王都は建国から滅亡まで一度も変わることがありません。

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高句麗の従属国としての新羅
斯盧国から成長した新羅のスタートは、決して好調なものとは言えませんでした。
377年、新羅は中国王朝に使者を派遣して初めて朝貢をしました。しかし、このときの朝貢は高句麗の使者に付随する形で行われたとされています。
朝貢とは、中国王朝に対して周辺諸族や諸国が貢物を持って挨拶しに行くことです。中国王朝も朝貢をしてくれた国に返礼品を贈ります。朝貢が行われることで、両者の良好な関係が確認されます。
つまり、高句麗の従属者として、中国王朝に挨拶に行ったということです。

高句麗と新羅の力関係が如実に表れていますね。
このように、初期の新羅は、高句麗の従属者たる立ち位置でスタートを切ることとなったのです。
一方で、382年には、新羅の奈勿王(なこつおう 第17代王)が新羅単独で朝貢を実現しており、成長も見られます。
392年、高句麗で広開土王(こうかいどおう)が即位すると、新羅の従属度は一段と高まることとなります。
それもそのはず。広開土王期の高句麗は最盛期真っ只中にあって、新羅に限らず、西方の百済をはじめ多くの国を圧倒するほどだったのです。
ですが、新羅も思考停止で高句麗に従属していたわけではありません。
この頃、新羅は百済や倭(日本)の攻撃に苦しんでおり、それを何とかするために高句麗に従属していた、という面もあったからです。
すなわち、新羅は自国を守るために高句麗に従属するという巧みな外交戦略を敷いていたのです。
実際、新羅は高句麗の助けを得たことで、この難局を乗り越えることができています。

広開土王は自ら軍を率いて、百済軍と倭軍を撃退しました。このとき、百済王は高句麗に屈服したといいます。

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新羅の台頭
従属からの脱却
建国以来、長らく高句麗に従属していた新羅。5世紀後半を迎えた頃、いよいよこの立場からの脱却を図ります。
まず、450年には新羅の将軍が国境を越えて高句麗に侵入し、高句麗の将軍を殺害するという事件を起こします。
このときは怒った高句麗が軍を率いてきたので、新羅はすぐに謝罪をして事なきを得ていますが、高句麗に対する姿勢に明確な変化がうかがえます。
さらに455年、高句麗が百済に侵攻すると、新羅は百済に救援軍を派遣して高句麗との対立姿勢をあらわにします。
一方の高句麗も、こうした新羅の姿勢変化を見逃しはしませんでした。
481年には、高句麗が濊族(わいぞく ※朝鮮半島北東部で活動していた民族)と連合して新羅へ侵攻を開始。
対する新羅は百済・加耶(かや)の援軍を得て反撃に出ました。
加耶とは、6世紀中頃まで朝鮮半島の中南部において、小国(加耶諸国)が分立していた地域を示す名です。あくまで地域の名称であって、国名ではありません。なお、加耶の歴史については、以下の記事で詳しく解説しております。
戦いの結果は、百済と加耶の援軍を得た新羅側の勝利。敗北した高句麗軍は撤退していきました。
高句麗との直接対決をしのいだ新羅は、ここからさらなる繁栄を迎えることとなるのです。

ちなみに、493年に新羅は百済と婚姻同盟を結んでいます。新羅は高句麗の従属から脱却し、百済との連携を深めていったのです。
台頭へ向けて
514年に即位した法興王(ほうこうおう 第23代王)の時代、新羅は内政面を大幅に刷新し、国力を一気に増強させます。
法興王が行った内政の刷新はいろいろありましたが、特に重要なのが、17等官からなる官位制を導入したことです。
これまでの新羅は、「六部」と呼ばれる六つの有力な部族が強大な権力で国政に関与しており、王ですらも彼らには抗えない一面がありました。
そこで、法興王はこの六部の人たちに官位制を適用し、それぞれに官位を与えることで、王を頂点としたピラミッド型組織の中に彼らを取り込もうとしたのです。
つまり、法興王は王権を強化して、王のもとでひとつにまとまった強い国家を作ろうとしたわけです。その一歩が官位制の導入でした。
また、官位制の枠外に上大等(じょうだいとう)という宰相職も設けられました。上大等の役目は王の補佐・国政の運営であり、一王代に一人、有力者の中から任命されました。

上大等は17等官には含まれませんが、臣下の中では最も高位の官職と言えます。
そのほか、法興王は軍事力の強化、新羅独自の年号制定など、強い国家を作るために奔走し続けました。
新羅の成長は体内的なものに留まりませんでした。
521年には、百済の使者とともに中国南朝の梁に朝貢をしています。新羅の中国王朝への朝貢は、382年に奈勿王が実現して以来、実に140年ぶりのことでした。
この当時、中国大陸は南北に分裂していました(南北朝時代)。その北側は北朝、南側は南朝と呼ばれます。そのうち南朝では、東晋→宋→斉→梁→陳と相次いで王朝が変わるのですが、このとき新羅は南朝の一国・梁に朝貢をしたということです。
翌年の522年には、加耶地域への侵攻も開始。手始めに、加耶諸国の中で有力だった大加耶(だいかや)と婚姻同盟を結び、532年には同じく有力だった金官国(きんかん)の降伏を導くことに成功します。
このように、新羅は法興王代に体内的にも対外的にも大きく成長を遂げ、台頭へ向けての基盤を整えたのでした。
新羅の飛躍 ~真興王の対外進出~
法興王代における内政の刷新、また対外進出によって国力を一気に増強させた新羅。まだまだその成長は止まりませでした。
540年に即位した真興王(しんこうおう 第24代王)の時代、さらに新羅は対外的な進出を加速させ、新羅史上類を見ない飛躍的な領土拡大を実現することとなるのです。
まずは551年、新羅は高句麗との国境を越えて、10の郡を奪いました。
勢いに乗った新羅は同年、百済と連合軍を組んで、高句麗の領土であった漢山城(漢江流域)を攻撃。
見事、連合軍は漢山城を奪取することに成功します。

漢山城はもともと百済の王都でしたが、475年に高句麗の手に落ちていました。このとき、百済は悲願の奪還を遂げたのです。
共通の敵・高句麗に対抗して共闘し、ついには漢山城まで奪った新羅・百済連合。ところが、儚くもこの連合はここに崩れ落ちることとなります。
翌年の552年、新羅が百済とともに得た漢山城を百済から再度奪って、自国の領土に組み込んだのです。
もちろん、煮え湯を飲まされる形となった百済は激怒します。百済の聖王(せいおう 百済の第26代王)が、自ら軍を率いて新羅に侵攻してきました。
これに対して新羅は、聖王率いる百済軍を554年の管山城(かんざんじょう)の戦いで返り討ちにし、さらには聖王も戦死させました。
百済との同盟はここに散りましたが、もはや新羅は百済や高句麗に頼ることもない、自立した姿を見せていました。
562年には、新羅は加耶地域の有力国であった大加耶を攻め滅ぼし、加耶地域のほぼ全域を併合することにも成功します。
加耶地域はかねてより百済との争奪戦の地だったのですが、ここでも新羅が勝ちを制したのです。
そして、加耶が滅亡したことで、朝鮮半島では百済・新羅・高句麗の三国が並び立つ、いわゆる三国時代が本格的に始まることとなりました。

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三国抗争の時代
隋の登場
朝鮮半島で本格的な三国時代が幕を開けた頃、他方で、中国大陸では大きな事件が起こっていました。
589年、新たに成立した隋が中国統一を果たしたのです。
隋は文帝(楊堅)によって581年に建国されました。建国当初は南に陳という国が残っていましたが、589年に隋が陳を倒して中国統一を果たしました。
これまで中国大陸は長らく分裂状態が続いていたのですが、ここに統一国家が登場したのです。
この隋による中国統一は、朝鮮半島の諸国にとって大きな衝撃を与えました。
というのも、これまで中国大陸は内部で分裂していたため、それほど朝鮮半島に構っている余裕はありませんでした。しかし、ここに統一国家・隋が登場したことで、その脅威が朝鮮半島に迫ってくる可能性が出てきたのです。
実際、隋が成立するやいなや、高句麗と百済の二国はすぐさま使節を送って朝貢し、自国の安全を確保しようとしています。
新羅はというと、百済・高句麗には少し出遅れましたが、594年に隋へ朝貢をしています。

朝鮮三国にとっては、自国を守るためにも隋を刺激しないことが重要だったのです。
ところが、北方の高句麗では隋との関係が悪化し、結局戦争にまで発展してしまいます。この高句麗と隋の戦争は4度に及びましたが、いずれも高句麗が隋軍を防いで勝利しています。

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唐の登場
久しく中国統一を果たした隋でしたが、大運河(人工的に作る川)の建設や度重なる高句麗との戦争で疲弊し、40年足らずで滅亡してしまいます。
その隋に代わって、再び中国統一を果たしたのが唐です。
唐は618年に李淵という人物によって建国され、621年には中国内の反抗勢力を駆逐して、中国統一を果たしました。
唐が中国統一を果たすと、朝鮮三国は相次いで朝貢。624年には、三国ともに唐から冊封を受けています。
冊封とは、中国の皇帝が臣下となった国に爵位を与えることです。これにより、臣下国は中国王朝から自国の支配を認められます。言い換えれば、中国王朝から「自国の領土を支配していいよ」というお墨付き得られるということです。
唐は建国初期こそ、周辺国に対して融和的な姿勢を取っていたのですが、次第に対外的に積極策を敷くようになります。それは朝鮮半島も例外ではなく、676年に新羅が半島統一を成し遂げるまで、唐の脅威にさらされることとなります。

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百済・高句麗における集権化
唐の脅威が近づく中、百済と高句麗では国家体制に大きな変化が生じます。
具体的には、一人の人物が権力を掌握し、その膨大な権力によってひとつにまとまった強い国家を作ろうとする動きが起こりました。
まずその動きが見られたのは百済でした。
641年、百済王に即位した義慈王(ぎじおう 百済の第31代王)は、国内の王族や有力者を根こそぎ排除し、自らのもとに権力を集中させます。
次いで642年には、高句麗で臣下の淵蓋蘇文(えんがいそぶん)がクーデターを起こし、王や反対派の大臣らを殺害して、国政を掌握しました。
こうして百済・高句麗両国は、一人のリーダーによってまとめられた強い国家を建設していったのです。
新羅の孤立
ところで、百済・高句麗の強国化によって、その被害をもろに受けることとなったのは、ほかでもない新羅でした。
642年、義慈王のもとで力を付けた百済が、早速新羅へ侵攻を始めたのです。
義慈王が自ら率いる百済軍の勢いは凄まじく、新羅は要害の大耶城(だいやじょう 現在の陜川)をはじめ、40もの城を落とされてしまいました。
とはいえ、新羅も手をこまねいていたわけではありません。
時の王であった善徳女王(ぜんとくじょおう 第27代王)は、王族の金春秋(きんしゅんじゅう)を高句麗に派遣して救援を求め、この難局を乗り切ろうとしました。
善徳女王は新羅史上初の女王です。ちなみに、新羅の歴代王には女王が三名いました。第27代の善徳女王、第28代の真徳女王(しんとくじょおう)、第51代の真聖女王(しんせいじょおう)です。
また、金春秋はのちの武烈王(ぶれつおう 第29代王)です。
しかし、高句麗の淵蓋蘇文は、新羅の救援要請を突っぱね、逆に百済と結んで対抗の姿勢をとってきました。
新羅は朝鮮半島において完全に孤立する形となってしまったのです。
さてどうしたものか。
追い詰められた新羅が頼ったのは、中国大陸の唐でした。
これに対して唐は、朝鮮半島への影響力拡大を目論んでいたこともあって、新羅の要求を受け入れます。新羅と唐の連合が結成されたのです。
これによって、百済・高句麗vs新羅・唐の構図が完成したことになり、朝鮮半島における抗争は熾烈を極めていくこととなるのです。
645年には、早速、新羅の要求を受けた唐が高句麗に侵攻を開始しています。ところが、この戦いでは高句麗側が勝利。647年、648年にも戦いますが、いずれも高句麗の勝利に終わります。
新羅の内乱
唐と友好関係を結んで危機脱却を図った新羅ですが、その友好国・唐が発したある一言によって国内で内乱が起こることとなります。
唐は新羅から救援要請を受けた際に、次のような一言を発したのです。
「貴国(新羅)は女性が王となっているために、隣国から軽んじられるのです。そこで、わが国(唐)が王室の者を派遣して、貴国(新羅)の王としましょう」
これを受けた新羅は女王を廃位しようとする勢力と、擁立しようとする勢力で分裂が生じてしまいます。
647年には、ついに女王廃位派で上大等(宰相)の毗曇(ひどん)が、「女王では国をよく治めることができない」と言って反乱を起こします。
これに対して、女王擁立派の金春秋(のちの武烈王)や金庾信(きんゆしん 将軍)らが乱の鎮圧にあたりますが、最初は苦戦を強いられ、また善徳女王はこの乱の最中に亡くなってしまいます。
ただ、最終的には乱の鎮圧に成功します。金春秋・金庾信らが、新王として真徳女王(第28代王)を擁立することによって、一連の乱は終結しました。
金春秋の外交
無事に内乱が収まった新羅。これからは、金春秋と金庾信のコンビが中心となって、国政が担われていくことになります。
特に、金春秋らが注力したのは唐との外交でした。
まず、金春秋は唐との親交を深めようと、自ら唐に渡って、「唐の官服を新羅で使わせてください」と言いました。唐もこれを許しています。
それだけでなく、法興王以来使われていた新羅独自の年号を唐のものに改めたり、そのほか唐の制度を導入したりするなど、唐寄りの姿勢を明確にしました。

金春秋は倭(日本)へも自ら行き、倭の動向を確かめています。
なぜ、金春秋はここまで唐に寄ったかというと、ずばり朝鮮半島内での戦いを有利にするためです。そもそも、既に新羅は朝鮮半島内では孤立していたので、唐に頼らざるを得なかったのです。
武烈王(金春秋)即位
さて、外交政策によって半島内での劣勢を克服しようとした金春秋ですが、654年には真徳女王を継いで王位につきます。第29代王・武烈王の即位です。

金春秋は第25代王・真智王の孫とされ、王族でした。
武烈王の即位初期は、連年にわたって百済や高句麗の侵攻に悩まされました。
655年には、百済と高句麗の連合軍によって新羅北部の33城が奪われてしまいます。
追い詰められた新羅は、再び唐に救援を求めます。
しかし、新羅の要請に応じた唐も高句麗を攻めるものの、高句麗の堅牢な守りに阻まれ、さほど成果を上げることはできませんでした。
この間にも、百済が攻撃の手を緩めなかったので、いよいよ新羅は大きな危機に直面することに。
対応を迫られた武烈王は、また唐に助けを求め、今度は百済の討伐によって挽回を図ろうとします。
百済の滅亡
660年、唐は水陸13万の軍を百済に向けて派遣します。
新羅もこれに呼応して、武烈王が自ら、将軍の金庾信らとともに5万の軍を率いて出陣しました。
総勢約18万に及ぶ軍勢が百済に向けて動き出したのです。
唐軍は西方から海を越えて、新羅軍は東方から陸路で攻めることで、百済を挟み撃ちにする作戦でした。

画像:以下の画像をもとに筆者作成。英語版ウィキペディアのHistoriographerさん – en.wikipedia からコモンズに yug によって移動されました。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5230019による
この大軍勢を前に百済も必死な抵抗を見せましたが、最終的には新羅・唐連合軍によって王都が陥落。ここに、百済は滅亡を迎えることとなりました。
百済滅亡後、その故地では復興運動が盛んに行われましたが、復興軍内の仲間割れで次第に下火になっていきました。
663年には、百済復興軍が倭の軍を引き入れて抵抗を見せるものの、新羅・唐連合軍はこれを迎え撃って退けました。いわゆる白村江の戦いですが、この敗北によって、百済復興の兆しは途絶えたのです。
高句麗の滅亡
百済を滅ぼした新羅・唐連合軍の次なるターゲットは、もちろん高句麗でした。
661年、唐は水陸35万の軍を高句麗に向けて派遣します。
時を同じくして、新羅では武烈王が亡くなり、その子である文武王(ぶんぶおう 第30代王)が王位を継承。
唐の高句麗遠征に対し、文武王は将軍・金庾信を派遣し、食料を送るなどして唐軍の支援に回りました。
しかし、唐軍は高句麗の王都である平壌城(ぴょんやんじょう)を包囲したものの、半年かかっても陥落させることができず・・・。
しまいには、高句麗の逆襲を受けることとなり、撤退を余儀なくされたのでした。
ところが、ほどなくして吉報が舞い込んできました。
666年、高句麗の最高権力者であった淵蓋蘇文が亡くなり、その子らが権力争いを始めたのです。これで高句麗国内はゴタゴタになります。

淵蓋蘇文は642年にクーデターを起こして、高句麗内の権力を掌握した人でしたね。
新羅と唐はこの好機を見逃しませんでした。
唐は、高句麗内の権力争いに敗れた淵男生(えんだんせい 淵蓋蘇文の長男)の降伏を受け入れ、彼に先導させて高句麗へ侵攻を開始。
一方の新羅も南方から攻撃を仕掛け、唐軍とともに高句麗を挟み撃ちにしました。
淵蓋蘇文亡き高句麗に、かつての強さはありませんでした。
668年、高句麗の王都・平壌城は新羅・唐連合軍によって陥落。ここに、高句麗は滅亡を迎えることとなったのです。
こうして、朝鮮三国時代に終止符が打たれました。
唐の朝鮮半島進出
百済と高句麗を滅ぼし、晴れて新羅が半島統一、と言いたいところですが、次なる試練が待っていました。
これまでともに戦ってきた唐が、百済と高句麗の故地を支配しようとしてきたのです。
唐は百済と高句麗の故地に都護府(占領地を統治する役所)を置いて軍を進駐させ、あくまで自分が支配をするのだという姿勢を示しました。
それだけでなく、唐は新羅を「鶏林大都督府」という名前にしてしまいます。
これが何を意味するのかといいますと、唐は新羅を国としてではなく、「鶏林州」という唐の州の一部として見なしたのです。

唐はこの期に応じて、朝鮮半島を全て支配下に置こうとしたのです。
もちろん、これに対して新羅が黙っているはずがありません。
以降、新羅は大国・唐との戦いも辞さない姿勢で、対抗の動きを見せていくこととなります。
新羅の統一
670年、いよいよ新羅が唐への反抗を開始しました。
まず、新羅は唐の統治下と化していた百済故地に侵攻し、82の城を奪うことに成功します。
翌年には旧百済の王都に新羅の州を設置し、自国の領土であることを強調しました。
一方同じ頃、北方の高句麗故地では、高句麗を復興しようとする勢力が唐軍に敗れるという事件が発生。その敗れた残党勢力たちは新羅へ亡命してきました。
新羅は彼らを受け入れて、金馬渚(きんばしょ ※場所は下の地図参照)に住まわせ、そこに高句麗亡命政権の樹立を許します。さらには、新羅の王族であった安勝(あんしょう)をその亡命政権の王に任命しました。
新羅が高句麗の残党勢力を受け入れて、亡命政権まで打ち立てたのは、唐との抗争を有利にするためでした。高句麗残党勢力を味方に付けたというわけです。
当然、新羅のこうした行動に対して、唐は怒りを爆発させます。
674年、唐は新羅が百済の地を奪ったこと、高句麗の残党を勝手に保護したことを理由に、文武王の爵位を剥奪し、新羅討伐軍を派遣します。
これに対して、新羅は唐との正面衝突を避けるべく、謝罪の使者を送ってここを何とかやり過ごしました。
とはいえ、新羅は高句麗亡命政権を解体することもなく、各地では唐との局地戦も継続していました。
しかも、しばらく続いた局地戦では、新羅が勝利を重ねます。
そして676年、伎伐浦(きばつほ 現在の錦江河口)の戦いで新羅が唐の水軍を破ったことが決定打となり、この戦いに終止符が打たれました。
唐は軍を引き上げ、百済と高句麗の故地に置いていた都護府も朝鮮半島の外へ移転し、とうとう朝鮮半島の支配を諦めたのです。

唐が朝鮮半島支配を放棄した理由は、西方の吐蕃(チベット高原)という国との間で戦争が起こったためとされます。
ここに、新羅はようやく唐の干渉から脱却し、晴れて朝鮮半島の統一を果たすこととなりました。
ただ、注意が必要なのは、百済の故地は全て新羅の領土になったものの、高句麗の故地は一部しか領有できなかったことです。実は、高句麗故地の北方部分は大部分が唐の領土となり、新羅が領有したのは南方の一部に過ぎませんでした。

画像:以下の画像をもとに筆者作成。Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=126836904
さて、半島統一を果たした新羅ですが、事後処理が一つ残っていました。
それは、金馬渚に立てた高句麗亡命政権の解消です。唐との戦いが終わったので、あえて残しておく必要がなくなったわけですね。
683年、高句麗亡命政権は新羅によって解消されたのでした。
統一新羅時代
唐が退いたあと、新羅によって半島が統一された時代を「統一新羅」と呼びます。
ここからは、統一新羅時代の歴史に入っていきことにしましょう。
新羅の制度改革① ~新たな官位制度~
半島統一を果たした新羅には、やるべき仕事が山積みでした。
その中でも特に重要な仕事が、制度の改革です。
先に述べたように、新羅は百済の故地と、高句麗の故地一部を領有することになりました。
一方で、領土を獲得するということは、その地にもともと住んでいた旧百済人・高句麗人も新羅の民となったということです。
そこで、旧百済人・高句麗人をうまく取り込む制度改革が求められたのです。
その具体的な改革として、旧百済人・高句麗人も取り込んだ新たな官位制度を制定が挙げられます。
新羅の官位制度は、法興王(第23代王)の時代に17等官からなる官位制が導入されたのですが、これは京位(きょうい)といって、王都でのみ適用されたものでした。
一方で、地方では外位(がいい)という、また別の官位制度が存在し、外位は京位よりも低いものでした。例えば、外位の1等官は京位では7等官に相当しました。

外位よりも京位のほうが偉かったということです。
しかし、旧百済人・高句麗人を取り込むにあたっては、京位と外位で格差を付ける従来の制度ではよろしくありません。
なぜなら、百済と高句麗の故地というのは地方であるため、自ずとそこに住む旧百済人・高句麗人も地方人として外位が適用されてしまうからです。
外位より京位のほうが偉いわけですから、強制的に外位が適用されてしまうのは、旧百済人・高句麗人としては面白くありませんよね。
そこで、新羅は外位を廃止して京位に1本化することとし、その中に旧百済人・高句麗人も取り入れるという新たな官位制度を制定しました。
これによって、旧百済人・高句麗人を新羅の身分体系に組み込むことに成功し、統一国家としての基盤を整えたのでした。
そのほか、真徳女王(第28代王)時代に成立した執事部(しつじぶ)という組織の権限が強化され、執事部が政治運営のトップとして機能するようになりました。
その執事部の長官は中侍といい、王に次ぐ実質的な最高権力者となります。
執事部が政治運営のトップとなり、中侍が実質的な最高権力者となってからも、上大等制は維持されました。上大等は、法興王(第23代王)の時代に成立した宰相職です。
新羅の制度改革② ~九州五京~
官位制度の制定と並んで重要なのが、新たな地方制度である九州五京の設置です。
九州五京についてはこれからご説明していきますが、そもそもなぜ、地方制度を新しくする必要があったのでしょうか?
それは、旧百済・高句麗領を併合したことで、それらの地にも新羅の地方制度を適用する必要性が出てきたからです。
そこで、新羅は旧百済・高句麗領も含めた全領土を9つの州に分けるという制度を実施しました。
これが九州五京の「九州」を意味します。
9つの州の内訳としては、もともとの新羅領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州を置きました。

「州」というのは行政単位の名称で、州の下には「郡」が、郡の下には「城」がありました。
では、「五京」は何かというと、新たに新羅領内に設置した「5つの京」を意味します。京とは、都のことです。
ただ、都とはいっても、王都は金城(慶州)にあるので、ここで設置したのは「小京」というものでした。小京=小規模な都と思っていただければ問題ありません。
五京を設置した理由は、新羅の王都・金城(慶州)が東南に寄りすぎていたため、旧百済・高句麗領を統治するうえで不便だったからです。
そこで、五京を領内に分散させて設置し、これらに旧百済・高句麗領の統治を任せるという統治システムを作り出しました。

つまり、「京」という名の5つの地方拠点を設置したということです。
こうして、新羅は官位制度に続いて、旧百済・高句麗領を、「九州五京」という地方制度に組み込むことで、統一国家としての体制を整えたのです。

画像:筆者作成
唐との微妙な関係
二つの大きな制度改革が成された頃、新羅の王様は文武王を継いだ神文王(しんぶんおう 第31代王)でした。
神文王は即位すると、反乱を企てたとして王妃の父をはじめとした王族を誅殺。王族を排除し、自らの王権を強化させたのです。
王権を安定させた神文王は、内政面を整えることに注力しました。先に挙げた二つの改革は、まさにその代表的なものですね。
武烈王・文武王期の争乱を経て、神文王期にようやく王権も内政も安定し、統一新羅の基盤が固められたのです。
ところが、まだ問題は残っていました。それは、ほかでもない唐との関係です。
唐と新羅の関係は、両国の戦争以降、悪いとは言わないまでも微妙な関係が続いていました。
692年には、唐が武烈王(新羅 第29代王)の諡号である「太宗」を、唐の李世民(唐の第2代皇帝)のものと同じであって失礼だ、として改称を求めてきました。

諡号とは死後に贈る おくり名です。
一方の新羅は、この唐の要求を拒むという対応を取っています。
両国のやり取りを見てみると、明らかな対立はないものの、微妙な空気が漂っていたことが分かりますね。
このように唐との間は微妙な関係だったので、新羅は別のある国と友好関係を結ぼうとしました。
そのある国というのは、ずばり日本です。
新羅は日本と友好関係を結ぶことで後方の安全を確保し、唐との衝突に備えようとしたのです。
日本からすれば、新羅は白村江の戦い以来の仇敵だったわけですが、日本も唐の脅威に備える必要があったので、新羅と手を取り合うことにしたのです。

日本は白村江の戦いに敗北してから、唐の脅威にとても敏感になっていました。
実際、高句麗滅亡後の約30年間は、新羅と日本の間で多くの使節が行き交い、両国の友好関係が築かれた時期でした。
唐との関係改善
新羅は日本と結ぶことで唐との衝突に備えたわけですが、これは完全に新羅の杞憂に終わりました。
唐との衝突は起きなかったのです。
それどころか、8世紀(701年~800年)に入る頃には、唐との関係は良好に転じていました。
なぜ唐と新羅の関係が良くなったのかというと、大きな理由としては渤海(ぼっかい)の建国が挙げられます。
渤海とは、698年に旧高句麗領の北方に建てられた国です(場所は下の地図参照)。建国者は高句麗遺民とされる大祚栄(だいそえい)という人物でした。
渤海の歴史については、以下の記事で詳しく解説しております。
この新たに建国された渤海ですが、間もなく新羅と唐への敵対姿勢を示してきたのです。
これにより、新羅と唐は渤海という共通の敵を得ることになりました。
まさに昨日の敵は今日の友。
それまで微妙な空気感にあった新羅と唐の関係は、共通の敵・渤海を得たことで、再び良好に転じたのです。
732年、渤海が唐の山東半島を攻撃すると、新羅は唐を支援して渤海に進軍しました。
この戦いでは、新羅軍は大雪のために全く功績をあげることができませんでしたが、唐は新羅の出兵を労い、今まで認めていなかった新羅の大同江(だいどうこう)以南の領有を認めました。

大同江とは川の名前です。このとき唐は、この川の南を新羅の領土であると認めたのです。
以降、新羅と唐の良好関係は、唐の滅亡までずっと続いていくこととなります。

画像:以下の画像をもとに筆者作成。Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=126836890
日本との関係悪化
ところが、今度は友好関係を結んでいた日本と疎遠になっていきます。
それもそのはず。
今や唐との関係は良好になったのです。もはや、新羅にとって日本と友好関係を維持しておく必要はありませんでした。

新羅は日本に対し下手に出ることで友好関係を保っていたので、なおさらです。
また同じ頃に、新羅・唐と対立関係にあった渤海が日本に接近してきたことも理由の一つです。
日本も渤海を友好的に受け入れたので、渤海を敵とする新羅との関係は薄れていくこととなったのです。
こうなってしまっては、新羅と日本の溝は深まるばかり。
721年には、新羅が王都の南に日本の攻撃を防ぐ目的で城を築くという事態まで発生します。
ここまでくると、両国の関係改善は望めませんでした。
これ以降、新羅と日本の関係は悪化の一途をたどり、779年を最後に公的な国交も途絶えることとなったのです。

公的な国交は途絶えたものの、その後、新羅と日本の間では民間商人による貿易活動が活発化していきました。
新羅の最盛期
神文王(第31代王)以降、新羅は「統一新羅」としての基盤を整え、その後も唐との関係を改善するなど、国力をどんどん高めていきました。
そして、それが頂点に達したのが第35代・景徳王(けいとくおう)の時代(742年~765年)でした。
景徳王の時代、新羅の諸制度が唐をモデルとしたものに改められ、これにより支配力の強化が成されました。
さらに、仏国寺(ぶっこくじ)という統一新羅を代表する仏教寺院が建立され、仏教文化も花開くこととなりました。
この景徳王代に新羅は最盛期を迎えたと言えるでしょう。
しかし、最盛期を迎えたということは、裏を返せば悲しいかな、ここからは衰退への道を歩んでいくこととなるのです。
衰退の兆し
765年、景徳王の子である恵恭王(けいきょうおう 第36代王)が8歳という年少で即位。
幼い恵恭王は自分で政治をすることができないので、最初は王母が代わりに政治を行うことになりました。
ところで、この恵恭王の時代以降、王権に挑戦しようとする貴族層の反乱が続発するようになります。
その最初の反乱が768年、大恭(だいきょう)という貴族によって起こされました。
大恭は軍を集めて、王の住む王宮をなんと33日間にわたって包囲し続けたのです。
この大恭の反乱は王の軍によって鎮圧されますが、これを発端に王都・地方にかかわらず、各地で反乱が続発するようになります。
反乱が起きては鎮圧され、起きては鎮圧され。これが繰り返される始末でした。
そして780年には、あろうことか恵恭王が反乱軍に殺害されるという悲劇が起こってしまいました。
このとき恵恭王を殺害したのは、奈勿王(第17代王)の子孫である金良相(きんりょうそう)という人物だったとされます。
金良相は恵恭王を殺害すると、自分が王位につきました。
第37代王・宣徳王の即位です。ここに、王位簒奪が起こったのです。
しかし、これは序章に過ぎませんでした。
これ以降、このように王位が武力によって簒奪されるという事態が頻発することとなるのです。
地方反乱の勃発
王都で王権争いが熾烈を極める中、地方における反乱も無視できない状況になっていました。
822年、熊津州(ゆうしんしゅう 現在の公州)の都督である金憲昌が反乱を起こし、新羅から自立して「長安」という国を建てたのです。

「都督」は軍隊を統率するリーダーのことです。
実は、金憲昌は王族でした。彼が今回反乱を起こしたのは、父親が王位争奪戦に敗北したからでした。つまり、父親の敵を取ろうとして反乱を起こしたのです。
この金憲昌の反乱はかなり大規模なものとなったものの、最終的には新羅の官軍によって鎮圧されました。
しかし、これだけでは収まりません。
825年、今度は金憲昌の子である梵文(ぼんぶん)が反乱を起こしたのです。親子二代にわたって、親の敵討ちをしようと決起したのですね。
ただ、彼ら親子にとっては皮肉なことですが、この梵文の反乱も鎮圧されて終わりを迎えました。
張保皐の活躍
さて、ここで視点を地方から王都へと戻しましょう。
宣徳王から二代の王を経て、800年に哀荘王(第40代王)が即位しました。
ところが、809年に王の叔父が反乱を起こし、哀荘王を殺害して王位を簒奪。第41代王・憲徳王として即位します。
またもや王位簒奪が起きたわけです。
826年、憲徳王が亡くなると、次王には弟の興徳王(こうとくおう 第42代王)が即位しました。
ところで、この興徳王代に活躍した人物として、張保皐(ちょうほこう)がいます。
張保皐は王族でなければ、貴族でもなく、それどころか、生まれは低い身分だったと考えられています。
ですが、張保皐は若くして唐に渡り、節度使の配下となって多くの軍功を上げたことで、やがては唐の将軍職を得るまでに成長します。
節度使とは、唐の各地に置かれた軍鎮の司令官のことです。「軍鎮」は、ごく簡単に言えば軍隊の集団のことです。唐の中期以降は、節度使の権力が大幅に強化されたことで、軍隊の統括だけでなく、節度使が管轄地域の行政も担うようになります。
こうして唐で頭角を現した張保皐は新羅へ帰国すると、興徳王に謁見しました。
このとき、張保皐は興徳王に、「新羅近海の海賊を取り締まりたい」と願い出ました。

実はこの当時、新羅近海に現れる海賊が問題となっていました。張保皐はこの問題を解決したいと考えたのです。
張保皐の能力を買った興徳王は、張保皐に軍隊を授け、清海鎮(せいかいちん 朝鮮半島南部の島の一つ。現在の莞島)を拠点として、海賊の取り締まりをするよう命じました。
その結果、張保皐の海賊取り締まりが成功し、新羅近海の海賊は消滅しました。

画像:以下の画像をもとに筆者作成。Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=126836890
張保皐の活躍はまだまだ続きます。
海賊を一掃した張保皐は、今度は清海鎮を拠点として交易活動を始めます。
そして、ここでも彼の手腕が発揮されました。
張保皐はこの交易活動を通して、唐-新羅-日本を結ぶ巨大な交易圏を生み出し、膨大な利益を得ることに成功したのです。

日本の歴史書にも、張保皐の部下が日本へ交易に来たことが記されています。
こうした海賊の取り締まりや交易の成功を背景に、張保皐は新羅朝廷にも一目置かれる存在となりました。
張保皐の死
836年、興徳王が亡くなると、王族の間で王位争奪戦が勃発しました。
結果、この争奪戦に勝利した金悌隆(きんていりゅう)という人物が王位につきます。第43代王・僖康王(きこうおう)の即位です。
このとき、争奪戦に敗北した金祐徴(きんゆうちょう)という人物がいましたが、彼は張保皐の拠点である清海鎮に逃げ込みました。

金祐徴はあとで再び登場します。
838年、今度は僖康王の擁立に協力した金明(きんめい)という人物が、僖康王を殺害して王位を簒奪しました。第44代王・閔哀王(びんあいおう)の即位です。
王都で王位簒奪が繰り返される中、清海鎮の張保皐はある決意をしていました。
張保皐は、以前王位争奪戦に敗れて清海鎮に逃れていた金祐徴に協力し、彼が王位につけるよう助けることにしたのです。
もちろん、金祐徴に協力するということは、閔哀王からの王位簒奪に協力することを意味します。

良いか悪いかはさて置き、張保皐は王権争いに関与したことになります。
さて、張保皐という強力な後ろ盾を得た金祐徴は、その軍勢を借りて王都へ進軍を開始しました。
閔哀王は抵抗を示したものの、張保皐の軍事力を前になすすべなし。結局、殺害されてしまいました。
839年、閔哀王を倒した金祐徴が王位につきます。第45代王・神武王(しんぶおう)の即位です。
神武王は自分が即位するにあたって大きな功績のあった張保皐に、「感義軍使(かんぎぐんし)」という職を授け、たくさんの褒美を与えました。
また、神武王を継いだ文聖王(ぶんせいおう 第46代王)も張保皐の功績を称賛し、「鎮海将軍(ちんかいしょうぐん)」を授けて礼遇しました。
しかし、こうした張保皐の功績があまりにも目立ちすぎたからでしょうか。その功績を妬んだ朝廷の権力者たちが、こぞって張保皐を排除しようと動き出したのです。
そして悲しくも、張保皐は新羅朝廷とのいざこざの中で、朝廷が送った刺客によって暗殺されてしまいました。841年のことでした。
荒廃する地方
張保皐の死からも分かるように、王都では王権争いだけでなく、権力者による権力争いが繰り広げられていました。
王都がこのような状況である一方、地方のほうも悲惨な状況になっていました。
地方の何が悲惨かというと、災害の多発によって農村が荒廃し、飢饉に見舞われ、さらには疫病も広がるなど、人々が生きていくことすらままならない状況になっていたのです。
本来ならば、こうした地方の惨状を朝廷が何とかしなければなりませんが、今や朝廷は権力争いに明け暮れる始末。
結局、飢えた地方農民たちが各地で立ち上がって反乱を起こす事態となってしまいました。

この頃の新羅は、もはや王都も地方もめちゃくちゃな状況でした。
真聖女王(第51代王)の時代には、地方の反乱が激しさを増したので、女王が責任を取って攘位するということも起きています。
しかし、その後も朝廷は有効な打開策を打ち出すことができず、地方反乱は熾烈を極めていくばかりでした。
後三国時代へ
最初はまばらで起こっていた地方反乱ですが、次第に弱い者が強い者に吸収されていき、それが繰り返されることで、いくつかの勢力が割拠する状況が生まれました。
それら地方勢力のトップは自らを「将軍」や「城主」などと名乗って、新羅から自立の姿勢を示しました。
こうした状況は、新羅から見れば国を盗もうとする「盗賊」の蜂起にほかならないのですが、もはや新羅朝廷にそれを止める力は残っていなかったのです。
さて、こうした地方勢力の中でも、ひときわ強大な勢力を持っていたのが、甄萱(けんけん)と弓裔(きゅうえい)の二人でした。
甄萱はもともと農民でしたが、軍人となって功績を上げ、頭角を現してきました。
892年、甄萱は武珍州(ぶちんしゅう)を占拠して自立。以降、ここを拠点に旧百済領を中心に勢力を伸ばしていきました。
そして、900年には完山州を都に定めて、後百済(こうひゃくさい/ごくだら)を建国しました。甄萱は後百済の初代王となります。
一方、弓裔は新羅の王族で、最初は北原(ほくげん)で自立していた梁吉(りょうきつ)の部下となって、そこで功績を上げていきました。
ですが、次第に自らの勢力を拡大した弓裔は、梁吉を倒して自立を遂げます。その後は松岳を拠点に構え、旧高句麗領を中心に勢力を伸ばしていきました。
そして、901年には、弓裔は王を自称し、松岳(しょうがく)を都に後高句麗(こうこうくり/ごこうくり)を建国しました。
904年、弓裔は松岳から鉄円(てつえん)に遷都し、国号を摩震(ましん)と改めます。続けて911年には、国号を泰封(たいほう)と改めました。
これにより、甄萱の後百済、弓裔の後高句麗(摩震・泰封、のちに王建が建国する高麗も含む)、それに新羅の三国が並び立つ時代が幕を開けました。
この時代のことを後三国時代と呼びます。

画像:韓国教員大学歴史教育科『韓国歴史地図』平凡社、2006年、p.67をもとに筆者作成
高麗の建国
後三国時代が幕を開けると、後百済と後高句麗が朝鮮半島の統一を懸けて激しくぶつかり合いました。これ以降、両国は一進一退の戦いを続けていくこととなります。
一方の新羅は、今となっては東南のわずかな領土を維持するのみ。戦う力もほとんど残っておらず、自国を守っていくのに精一杯な状態でした。
そんな中、918年に泰封(もと後高句麗)で革命が起きます。
重臣たちの支持を得た王建(おうけん)という武将が、弓裔を倒して王位についたのです。
王建は松岳(後高句麗だったときの都)を拠点とする名家の出身で、これまで弓裔のもとで武将として多くの武功を上げてきました。
しかし、次第に弓裔が暴君と化していったので、重臣たちは公明正大であった王建を支持し、弓裔を倒して王位につくよう勧めたのです。

弓裔は自らを弥勒仏と称し、臣下や民など多くの人々を処刑したといいます。
これを受けて、王建も意志を固めました。
そして918年、王建らの革命は成功。王位についた王建は、都を松岳に構え、国号を高麗(こうらい)とする新たな国を建てました。いわゆる高麗の建国です。
ところで、高麗の建国を受けた新羅の反応はどうだったでしょうか。
高麗が建国されると、新羅は高麗との間で国交を開き、友好関係を結びました。

新羅はどうにか自国の領土を守ろうと、高麗を頼ったのです。
これ以降、新羅は高麗の軍事的な支援を受け、存続を図っていくこととなります。
しかし逆に言えば、今や新羅は自国の領土を守る力も残っていなかったということ。高麗との友好関係は単なる延命処置に過ぎませんでした。
新羅の滅亡
高麗の後ろ盾を得て安堵したのもつかの間、新羅に悲劇が起きました。
927年、後百済の王・甄萱が軍を率いて新羅の王都に侵入し、時の新羅王であった景哀王(けいあいおう 第55代王)を殺害したのです。

景哀王は王都で宴会をしていて、後百済軍が侵入しても気付かなかったといいます。
そのうえ、甄萱は新羅の王族・金傅(きんふ)を新たな新羅王として即位させました。新羅第56代王・敬順王の即位です。
新羅は後百済によって無理やり、王を交代させられてしまったのです。
その後も、高麗と後百済の間で熾烈な争いが続く一方、新羅はなすすべなく自国の守りに徹するという状況が続きました。
ところが、935年に後百済で王位継承争いが発生すると、状況が一転します。
後百済の王位継承争いは、甄萱の息子たちの間で行われ、最終的には長男の神剣(しんけん)が勝利して王位につきました。
しかし、このとき問題が起きました。
王位継承争いの中で、甄萱が最も愛していた末子が神剣によって殺されたことで、怒りを爆発させた甄萱が後百済を抜け出し高麗に降伏したのです。
こうした内輪もめをきっかけに後百済は勢力を失っていき、反対に高麗が勢いづくこととなりました。
他方、この状況を見た新羅の敬順王は、高麗に降伏して国を捧げることを決意します。

この時点で既に高麗の覇権は確実だったので、敬順王はいち早く降伏して誠意を見せることで、高麗との無用な争いを避けたのです。
そして同年の935年、新羅は高麗に降伏をしました。
翌年には、勢力を失った後百済も高麗に滅ぼされ、高麗が朝鮮半島の統一を果たすこととなりました。
ここに、新羅の歴史は幕を閉じることとなったのです。