この記事では、漢によって朝鮮半島が郡県支配されていた時代について、わかりやすく解説していきます。
漢による朝鮮半島の郡県支配とは?
まずは、前提の知識として、「漢によって朝鮮半島が郡県支配されていた」というのが、どういう状況なのかをご説明します。
「もう知っている」という方は、衛氏朝鮮の滅亡と漢四郡の設置までお進みください。
郡県支配とは?
そもそも、「郡県支配」とは何なのでしょう。
これについては、「郡県制」について知っていただくことで、イメージしやすくなると思います。
郡県制とは、中国の古代王朝である秦と前漢で施行された地方制度のことです。全国を郡と県に分けて、そこに皇帝が任命した役人を派遣することによって、地方を間接統治する制度です。
皇帝が派遣した役人は、皇帝の命令通りに動きます。なので、皇帝が直接現地に行かずとも、思うままに地方を統治することができるということですね。
ということは、「郡県支配」というのは、郡県制を適用して地方を支配するという意味になります。
漢が朝鮮半島を支配していた
これで、「漢によって朝鮮半島が郡県支配されていた」という状況がイメージいただけるかと思います。
つまり、漢が朝鮮半島に郡と県を置いて支配したのです。
朝鮮半島は漢の領土じゃないのに、なぜ郡県制が適用されるの?と思われた方もいるかもしれません。
詳しくは後でご説明しますが、実は、あるときから朝鮮半島は漢の支配下に置かれたので、郡県を置いて支配することができたのです。
それでは、本編に入っていきます。
衛氏朝鮮の滅亡と漢四郡設置
一体、どのような経緯で、朝鮮半島は漢に郡県支配されることになったのでしょうか。まずは少し遡ってみましょう。
衛氏朝鮮の滅亡
漢に郡県支配される前、朝鮮半島の北部には衛氏朝鮮(えいしちょうせん)という国がありました。
衛氏朝鮮というのは、朝鮮半島で最も古い国家のことです。紀元前195年に衛満(えいまん)という人物によって建国され、朝鮮半島北部で強大な勢力を有していました。
衛氏朝鮮が建国された頃、既に中国大陸には漢(前漢)がありました。衛氏朝鮮は建国後すぐに漢の臣下となっています。
ところが、衛氏朝鮮がしきりに漢を怒らせるような行動をとったので、両国の関係は悪化していきます。
紀元前109年、ついに漢の怒りが爆発し、衛氏朝鮮へ向けて進軍します。
衛氏朝鮮は漢の攻撃をよく守りましたが、翌年の夏には降伏をすることになりました。こうして、衛氏朝鮮は滅亡します。
衛氏朝鮮の詳しい歴史については、こちらの記事で解説をしています。
漢四郡(楽浪郡・臨屯郡・真番郡・玄菟郡)の設置
衛氏朝鮮を滅ぼした漢は、今後自分たちが朝鮮半島を統治していくために、4つの郡を設置して郡県支配を展開します。
その4つの郡が楽浪郡、臨屯郡、真番郡、玄菟郡であり、これらはまとめて漢四郡と呼ばれています。
そのうち楽浪郡、臨屯郡、真番郡は紀元前108年、玄菟郡は紀元前107年に設置されます。
楽浪郡は衛氏朝鮮があった場所を中心に置かれました。
臨屯郡と真番郡は、もともと衛氏朝鮮が服属させていた臨屯国、真番国があった場所を中心に置かれました。臨屯郡は楽浪郡の東にあり、真番郡は正確な位置がよく分かっていないのですが、朝鮮半島の南部にあったと考えられています。
玄菟郡は、衛氏朝鮮があった場所よりも北方の地域に置かれました。この地域はそもそも衛氏朝鮮の領土でも何でもなかったのですが、先の3郡を設置したのをいい機会に、もう1郡設置してしまったのです。
「ついでにもう1郡置いちゃおう」という感じです
ただ、玄菟郡を置いた地域には、高句麗(こうくり)や沃沮といった在地勢力がいたので、当然こうした勢力の反感を買うことになります。
漢四郡の動向
ここからは、漢によって設置された漢四郡の動向を見ていきます。
漢四郡の郡県支配
まずは、漢がどのように朝鮮半島を郡県支配していったのかをご説明します。
漢四郡にはそれぞれ漢から役人が派遣され、彼らが長官として郡を監督していきます。ちなみに、郡の長官のことを太守と呼びます。
ただ実は、漢による朝鮮半島の郡県支配というのは、かなり緩やかなものでした。
というのも、漢は郡内全域を厳格に支配したわけではなかったのです。漢が支配したのは郡内の主要な地点と道路だけで、そのほかの土地は在地の諸民族の自治に任せていました。
漢の朝鮮半島支配は、かなり緩やかだったんですね
なぜ全域を支配しなかったかというと、お金がかかりすぎてしまうからです。郡内全域を支配するとなると、人件費や軍事費などで莫大な費用がかかってしまうのです。
また、そもそも漢は遠方の朝鮮半島に莫大な費用をかけるほどの熱量もありませんでした。
臨屯郡・真番郡の解体
郡県支配が始まってから26年後の紀元前82年、早くも臨屯郡と真番郡が解体に追い込まれます。
その原因は、支配下にあった在地民族の反抗に対処しきれなくなったからです。
もともと漢の支配は緩やかなものだったので、在地民族を抑える力を持ち合わせていなかったのです。特に、臨屯郡・真番郡は、漢の本土から最も遠かったため、あっけなく崩れてしまいました。
ただ、臨屯郡と真番郡は解体したものの、その領域の一部は楽浪郡や玄菟郡に吸収され、郡県支配が継続されました。
玄菟郡の移動
紀元前75年、今度は玄菟郡が移動に追い込まれます。
これも原因は在地勢力の反抗です。
玄菟郡が置かれた地域には、高句麗という勢力がいたのですが、これが玄菟郡の設置から30年で急成長し、反抗を強めたのです。
この玄菟郡は、楽浪郡・臨屯郡・真番郡を置く「ついで」に置かれたものだったので、在地勢力の高句麗が怒るのも無理はありません。
高句麗としては勝手に郡を置かれたわけですから、堪ったもんじゃないですよね
結局、玄菟郡は高句麗に追い出され、郡ごと西北へ移動することになりました。このとき、玄菟郡の一部は高句麗の領土となりましたが、一部は楽浪郡に吸収され、郡県支配が継続されました。
楽浪郡の拡大
臨屯郡、真番郡が解体、玄菟郡は移動し、最終的に朝鮮半島に残ったのは楽浪郡だけになりました。
ところで、地図を見てみると、楽浪郡の領域が広くなっていますね。これは臨屯郡、真番郡、玄菟郡の一部が楽浪郡に吸収されたことで、領域が拡大したためです。
これ以降、楽浪郡は約400年間存続していくことになります。
当初、楽浪郡の支配は比較的安定していましたが、紀元後間もなく、楽浪郡の太守(長官)が在地民に殺されるという事件が起きています。
この事件は紀元後30年になって鎮圧されていますが、楽浪郡の支配力低下が垣間見えます。
一方この頃、中国大陸では前漢が滅亡し、新たに後漢が成立しています。実は、先の事件を鎮圧したのも後漢でした。
後漢は前漢から楽浪郡の支配権を引き継いだのですが、前漢以上に朝鮮半島の支配に関心がありませんでした。
公孫氏による支配と帯方郡設置
時代が下り、後漢の末期になると、中国大陸では群雄割拠の状態になります。
「群雄割拠」とは、多くの群雄(英雄)が拠点を構え、しのぎを削って戦い合う状態のことです。日本で言えば、戦国時代のようなイメージです。
この後漢末の群雄の一人に、公孫度という人物がいました。
公孫度は遼東地方で勢力を拡大していたのですが、やがて近くにあった楽浪郡や玄菟郡をも支配するようになりました。
今度は公孫氏が楽浪郡と玄菟郡を支配していきます
公孫度の子である公孫康の代になると、楽浪郡に改変が起こります。
紀元後204年、公孫康が楽浪郡を2分割し、その南側に帯方郡を置いたのです。
なぜわざわざ新しい郡を置いたかというと、楽浪郡全域を支配するのが難しくなったからです。
そこで、郡を2つに分けて1郡あたりの管轄範囲を狭めることで、目配りをききやすくしたわけです。
後漢時代の楽浪郡は支配力の低下が目立ちましたが、以上のような公孫氏の政策によって一時回復しました。
楽浪郡・帯方郡の解体
帯方郡の設置から間もなく、中国大陸では後漢が滅亡し、魏・呉・蜀が並び立つ三国時代が始まります。紀元後220年のことでした。
公孫氏は一応、魏の臣下となったのですが、呉とも国交を結んだり、王を自称したりしたので、魏に攻撃されます。
紀元後238年、結局、公孫氏は魏によって滅ぼされてしまいました。
公孫氏が滅亡したことで、楽浪郡と帯方郡は魏の支配下に入ります。
しかし、魏は間もなくして滅び、紀元後265年には晋が建国されます。ところが、この晋(西晋)も建国後すぐに内乱が起こったため、朝鮮半島への支配力を失いました。
晋は自国がめちゃくちゃになったので、朝鮮半島を支配するどころではなかったのです
このように中国大陸が混乱する中、そのすきを狙って、北方の高句麗や南方の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)が楽浪郡と帯方郡を激しく攻めました。
両郡に朝鮮半島を支配する力はなかったので、結果は目に見えていました。
紀元後313年、楽浪郡・帯方郡はともに滅亡しました。
こうして、約400年に及ぶ郡県支配が終わりを迎えたのです。
そして、いよいよここから在地民族による国家建設が始まっていくことになります。