【朝鮮の歴史①】朝鮮半島の先史時代

通史

この記事では、朝鮮半島の先史時代について、わかりやすく解説していきます。

先史時代というのは、文字による史料のない時代のことを言います。

文字による史料がないので、先史時代のことは残された遺跡や遺物などの調査によって明らかになっています。

日本史で例えるならば、旧石器時代や縄文時代みたいなイメージです。

朝鮮半島の先史時代は大きく分けて、旧石器時代新石器時代青銅器時代初期鉄器時代の4つの時代があります。

見慣れない用語が並んでいるかもしれませんが、これからひとつひとつ解説していきますのでご安心ください。

早速、旧石器時代から見ていきましょう。

旧石器時代

まず、旧石器時代というのは、人々が打製石器を使っていた時代のことを言います。打製石器は、石を砕いて作った道具で、獲物を殺したり、木を切ったりするのに使われていました。

旧石器時代の人々は狩猟や漁労、採集などをして生活をしており、まだ農耕は始まっていませんでした。

朝鮮半島の旧石器時代は、前期・中期・後期に分かれます。それぞれの時代について、いろいろな遺跡を挙げながらご説明していきます。

なお、時代ごとに遺跡の所在地を示した地図を載せているので、よろしければこちらもご参考ください。

前期旧石器時代(10万年以上前)

前期旧石器時代は、10万年よりも以前の時代のことを指します。

前期旧石器時代の最も古い遺跡とされるのが、平壌ピョンヤン市・祥原サウォン郡にあるコムンモル遺跡です。

コムンモル遺跡がいつのものなのかは、はっきりとした答えが出ていませんが、一説には約40~50万年前の遺跡とされています。現時点では、朝鮮半島において最初の人類の痕跡です。

コムンモル遺跡は大きな丘陵の形をしており、その斜面には幅30メートル、奥行き2.5メートルの洞窟が存在します。この洞窟の中からは、石器や動物の化石などが発見されています。

洞窟から石器が発見されるということは、人々が洞窟の中で生活をしていたことを表しています。動物の化石が一緒に発見されるのは、人々が狩猟によって捕まえた獲物を洞窟内に持ち込んでいたためと思われます。

実際のところ、旧石器時代の遺跡は、前期旧石器時代~後期旧石器時代までを通して洞窟が多く見られます。前期であれば、コモンムル遺跡のほかに、勝利山スンニサン遺跡平安南道ピョンアンナムド徳川トクチョン)や大峴洞テヒョンドン遺跡(平壌市・力浦ヨクポ区域)が洞窟遺跡として挙げられます。

勝利山遺跡では、今から約10万年前のものとみられる人骨が発見されています。この人骨は旧人段階のものと考えられ、「徳川トクチョン」と呼ばれています。

大峴洞遺跡でも、少女の頭蓋骨が発見されています。こちらも旧人段階のものと考えられ、「力浦ヨクポ」と呼ばれています。ちなみに、徳川人、力浦人という名前は遺跡のあった地名から取られています。

このように、前期旧石器時代だけを見ても多くの洞窟遺跡が存在することがわかります。それは、洞窟が雨風をしのげる恰好の場所だったからです。

一方で、洞窟ではない遺跡もあります。

京畿道キョンギド漣川ヨンチョンにある全谷里チョンゴンニ遺跡がそのひとつです。全谷里遺跡は、台地の上にある遺跡です。台地とは、周りの平地に比べて盛り上がった場所にある平地のことを言います。算数の「台形」を思い出していただくとわかりやすいです。台形の上底部分に遺跡があるというイメージです。

全谷里遺跡の年代は確定していませんが、約20万年前にまで遡るという調査結果があり、これが正しければ前期旧石器時代に該当します。

中期旧石器時代(?~3万5000年前)

中期旧石器時代は、?~3万5000年前までの時代のことを指します。中期旧石器時代は、研究者の間で意見が分かれており、明確な開始時期が定まっていません。

それゆえに、前期旧石器時代との境界も曖昧で、どの遺跡がこの時代に該当するのかは、はっきりとしたことが言えません。

例えば、前期旧石器時代のところで紹介した全谷里遺跡は、4万5000年前までしか遡らないという意見も出されています。先ほど述べたように、全谷里遺跡が20万年前の遺跡であれば、確実に前期旧石器時代のものと言えます。しかし、4万5000年前だとすると、前期旧石器時代として断定することはほぼ不可能になるでしょう。

このように、中期旧石器時代は前期旧石器時代との境界が曖昧で、この時代に該当する遺跡もはっきりとしたことが言えないんですね。

後期旧石器時代(3万5000年前~1万年前)

後期旧石器時代は、3万5000年前~1万年前までの時代のことを指します。

後期旧石器時代の大きな特徴は、剥片尖頭器はくへんせんとうきが出現したことです。剥片尖頭器とは、槍先のような形をした石器のことを言います。この剥片尖頭器の出現をもって、後期旧石器時代の始まりとされています。

剥片尖頭器のイラスト
剥片尖頭器(イメージ)

後期旧石器時代の代表的な遺跡のひとつとして、忠清南道チュンチョンナムド公州コンジュ石壮里ソクチャンニ遺跡が挙げられます。
石壮里遺跡は約2~3万年前の遺跡です。遺跡の中からは、尖頭器や石器のほか、人々が火を使用した跡や柱の跡など、住居跡が発見されており、人が生活をしていたことをうかがわせます。

石壮里遺跡は朝鮮半島の南側に位置しますが、こうした住居跡は北の方でも確認されています。それが咸鏡北道ハムギョンプクト先鋒ソンボン屈浦里クルポリ遺跡です。
屈浦里遺跡で重要なのが、朝鮮半島で初めて石器が発見された場所であるということです。1962年の発掘調査によって発見され、これによって初めて朝鮮半島で旧石器時代の存在が確認されたのです。

そのほか、平壌市・勝湖スンホ区域の晩達里マンダルリ遺跡では、新人とみられる人骨が発見されています。ここで発見された新人は、「晩達マンダル」と呼ばれています。前期旧石器時代のところで挙げた「徳川人」「力浦人」は旧人でしたので、時代が進んでいることがわかりますね。

新石器時代(約1万年前~紀元前1000年)

ここからは、朝鮮半島の新石器時代を見ていきます。

「新石器時代」というのは、これまでの打製石器に加え、新たに磨製石器土器を用い、農耕が始まった時代のことを言います。磨製石器とは、砥石といしや砂などを使用し、磨いて形を整えた石器のことです。

ところでなぜ、このような新たな石器や土器が誕生し、新石器時代が幕を開けることになったのでしょうか。

それは地球の環境が変わったからです。それまでの地球は氷河期にありました。
ところが約1万年前、その氷河期が終わって地球が温暖化します。

人々はこうした地球環境の変化に適応して農耕という営みを始め、それに伴って磨製石器や土器といった道具を作り出しました。磨製石器は食料の採集や稲刈りなど、土器は食料の保管などに必要な道具だったからです。

このような地球規模の変化と人々の環境への適応が新石器時代の幕を開けたのですね。

さて、ここからは朝鮮半島の話になります。

先ほど、新石器時代は「農耕が始まった時代」とご説明しましたが、実は朝鮮半島では、新石器時代に入ってすぐに農耕が始まったわけではありませんでした。しばらくは狩猟、採集を続けており、徐々に農耕が浸透していきました。

ですが、この農耕が具体的にいつ始まったのかは、よくわかっていません。実際、朝鮮半島の旧石器時代→新石器時代の過渡期は不明なところが多いのです。

とはいえ、この時期の手がかりを示す遺跡も発見されています。
済州チェジュ島の高山里コサルリ遺跡では、6300年以上前のものとみられる土器が見つかっています。この土器は、装飾が施されていない無文むもん土器という種類のものでした。この土器には、食物の繊維が付着していたことが判明しています。

江原道カンウォンド襄陽ヤンヤン鰲山里オサルリ遺跡でも、約6000年前の土器が見つかっています。この土器は、縁の部分を指でつまみ上げて隆起させた装飾が施されている、隆起文りゅうきもん土器という種類のものでした。朝鮮半島において隆起文土器は最古の土器のひとつです。

このように、新石器時代の初期の手がかりを示す遺跡も見つかっているのです。ただ、いずれの遺跡も約6000年前のものであり、それよりも前の新石器時代の状況はまだ分かっていないのが現状です。

朝鮮半島の新石器時代で比較的明らかになっているのは、紀元前5000年以降です。

紀元前5000年以降、朝鮮半島では櫛目文くしめもん土器という土器が登場します。櫛目文土器というのは、櫛の歯でつけられたような文様が施された土器のことです。

櫛目文土器の写真
櫛目文土器
写真:topic-asd / PIXTA(ピクスタ)

櫛目文土器は朝鮮半島の全域に分布するのですが、地域ごとに少し形が異なります。具体的には、朝鮮半島の南西部では底が鋭くとがっている一方で、東北部では平底です。また、両地域の境界付近では両種の土器が見つかっています。

この櫛目文土器は、朝鮮半島の新石器時代を代表する遺物で、この土器が広く使われた紀元前5000年~紀元前1000年までの間は、櫛目文土器時代とも呼ばれています。

櫛目文土器時代(紀元前5000年~紀元前1000年)

では、櫛目文土器時代の人々はどのように暮らしていたのでしょうか。

実は、人々の生業は、狩猟、採集、漁労がメインで、旧石器時代の頃とあまり変わっていませんでした。ですが、この時期には農耕も少しずつ始まっています。

黄海北道ファンヘプクト鳳山ボンサン智塔里チタムニ遺跡では、見つかった土器の中に炭化したアワ(粟)もしくはヒエ(稗)とみられるものが付着していました。また、石で作られたすきかまなどの農耕具も発見されており、農耕の始まりを示しています。
この遺跡は紀元前5000年~4000年頃のものとされるので、この頃には既に農耕が始まっていたと考えられます。

人々の住居は、旧石器時代と同じく洞窟も使われる一方で、新たに竪穴住居(竪穴式住居)が作られるようになります。

竪穴住居とは、地面を1メートルほど掘り、真ん中に炉や竈を作り、さらに周りを囲って屋根を付けた住居のことです。

竪穴住居の写真
竪穴住居(江華島)
写真: photo_jeongh/Shutterstock

竪穴住居が作られるということは、人々が定住生活を始めていたことを意味します。農耕の開始により食料が確保しやすくなり、土器の登場により食料を保管することができるようになったので、これまでのように、移動してその日の食料を調達する必要がなくなったのですね。

このように、朝鮮半島における新石器時代の人々は、狩猟、採集など旧石器時代の暮らしを継承しつつも、農耕を始めたり、竪穴住居に住み始めたりするなど、徐々に新しい暮らしを取り入れていったのです。

青銅器時代(紀元前1000年~紀元前100年)

ここからは、新石器時代以降の時代になります。

紀元前1000年~紀元前100年頃までの間を、青銅器時代と呼びます。

なぜ、「青銅器時代」なのかと言うと、紀元前1000年頃から朝鮮半島で青銅器が使われるようになったからです。

ただし、青銅器時代とは言うものの、青銅器を使っていたのは一部の階層の人だけで、一般的にはこれまで同様に石器が使われていました。

また同時に、この時代は「無文土器時代」とも呼ばれます。紀元前1000年頃から、これまでの櫛目文土器に代わって、文様の施されない無文土器が出現したからです。

なお、この記事では煩雑さを避けるため、「青銅器時代」という呼称で統一することにします。

青銅器時代は紀元前300年頃を境に前期後期に分かれます。

前期を代表する青銅器が、琵琶びわ形銅剣(遼寧りょうねい式銅剣)です。琵琶形銅剣は、楽器の琵琶のように剣の両側が丸みを帯びた形をしています。

琵琶形銅剣は遼寧地方から朝鮮半島に伝わったので、遼寧式銅剣とも呼ばれています。紀元前8世紀頃には朝鮮半島に伝わり、紀元前4世紀頃には朝鮮半島の各地に広まりました。

青銅器は剣以外にもいろいろありました。

例えば、平安北道ピョンアンプクト新岩里シナムニ遺跡では、刀子(小型ナイフ)や銅泡どうほう(ボタン形の装飾品)などの青銅器が発見されています。

後期には、前期の琵琶形銅剣とは別に、細形ほそがた銅剣が出現します。琵琶形銅剣は剣の両側が丸みを帯びていましたが、細型銅剣はその丸みがなく、直線になっています。いかにもスタンダードな剣の形をしています。

ここで注意したいのが、琵琶形銅剣が細形銅剣に取って代わったわけではないということです。とういのも、琵琶形銅剣を受容する集団と細形銅剣を受容する集団は別だったからです。つまり、2つの剣は併存していたことになります。

このように、さまざまな青銅器が登場した青銅器時代ですが、ほかにも画期的な変化がありました。

それは、中国から伝わった稲作開始されたことです。

蔚山ウルサン無去洞玉峴ムゴドンオッキョン遺跡では、水田の跡とともに、そこで活動していた人の足跡まで見つかっています。また、竪穴住居の跡も見つかっており、人々が定住生活をしながら稲作をしていたことがうかがえます。
この遺跡の年代は、紀元前7~6世紀頃とされるため、既に前期青銅器時代には稲作が始まっていたと考えられます。

また、紀元前5~4世紀頃の松菊里ソングンニ遺跡(忠清南道・扶餘プヨでも、住居跡から少量の炭化米(炭化した米)や稲を収穫するための石包丁が見つかっています。

このような例から、青銅器時代には確実に稲作が開始されていたと言えます

そして、稲作が開始されることによって、新たに集団をまとめる首長が登場しました。

なぜ、稲作が始まると首長が登場するのでしょうか?

それは、稲作の開始が人々の間に貧富の差を生じさせたからです。

当時の人々は基本的に集団で暮らしていたのですが、その中には稲作が上手くいって貯蓄が潤った人がいる一方で、失敗して食べる物がなくなってしまった人もいました。

その結果、集落の中で人々の間に貧富の差ができ始め、その集団の中で富のある者ほど力を持つようになりました。このような有力者の中から首長が現れたのです。

首長の登場を示す例として、支石墓しせきぼが挙げられます。支石墓とは、亡くなった人を埋葬したあと、地上に石を立て、その上に巨大な石を置くお墓のことです。

巨石を使った支石墓は、その造営に多くの労働力が必要であったため、埋葬者は首長などの有力者であったと考えられています

ちなみに、支石墓には北方式南方式があります。北方式は地上に棺を置き、その上に板石を立ててテーブルのようにしています。一方、南方式は棺を地下に埋葬し、地上に小さな石を並べてその上に巨石を載せています。

江華島には、北方式を代表する支石墓があります。

江華島支石墓の写真
江華島支石墓
写真:photoAC

さて、稲作の開始によって生じた貧富の差は、徐々に集落間の争いに発展していきました。食料を求めて集落同士が争い始めたのです。

こうした争いの中で弱い集落は強い集落に吸収され、それが繰り返されていくことで、大規模集落が形成されていきました。

このような弱肉強食の争いが繰り広げられる中、新たに環濠かんごう集落という集落が登場します。環濠集落とは、敵の侵入を防ぐために集落の周りに濠(堀)をめぐらした集落のことです。

検丹里コムタルリ遺跡(蔚山)の環濠集落では、幅2メートルの濠が長径119メートル、短径70メートルの楕円形状にめぐらされ、集落をすっぽりと囲っています。この環濠の中には、37軒の竪穴住居も確認されています。

以上のように、青銅器時代というのは、青銅器の使用にとどまらず、稲作を始めとした大きな変化があった時代だったのですね。

紀元前100年頃、以前より中国から持ち込まれていた鉄器が普及したことにより、青銅器は衰退していきました。ここで青銅器時代は終わりを迎えます。

初期鉄器時代(紀元前100年以降)

紀元前100年以降、鉄器が普及するようになった時代を初期鉄器時代と呼びます。

実は、朝鮮半島への鉄器の流入は、紀元前3世紀から始まっていました。鉄器は中国大陸から持ち込まれたのですが、この頃の中国大陸は複数の国が勢力争いをする戦国時代(紀元前5世紀~紀元前221年)にありました。

戦国時代ということもあって、中国大陸では早くから鉄製の武器や農具が広く普及していました。これが紀元前3世紀頃から朝鮮半島に流入し始めたのです。
この時期の遺跡である龍淵里ヨンヨルリ遺跡(慈江道チャガンドでは、矛、斧、鋤、包丁など、多様な武器や農具が発見されています。

また、戦国時代の中国大陸にはたくさんの国がありましたが、その中でも、という国が朝鮮半島との関わりを持っていたことが分かっています。

先ほど挙げた龍淵里遺跡では、鉄器だけでなく、燕の明刀銭も一緒に見つかっています。明刀銭というのは、燕国内で使われていた銭(お金)のことです。それが朝鮮半島内から見つかるということは、両国の間に関わりがあったことを示しています。

こうして、燕との関わりなどにより鉄器が普及した朝鮮半島では、鉄器による食料生産量の増大や武器の進化により、集落間の争いがより激しくなっていきます。こうした中で、いよいよ朝鮮半島は古代国家の形成を歩んでいくことになるのです。

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