【新羅】骨品制についてわかりやすく解説!

新羅

この記事では、新羅の骨品制についてわかりやすく解説していきます。

なお、新羅の歴史について知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

※この記事では、初出の用語に適宜ルビを振っています。そのうち、特に朝鮮の歴史に関連性が深い用語には韓国語のルビを振り、()で日本語のふりがなを併記しています。

骨品制とは?

骨品制コルプムジェ(こっぴんせい)は、朝鮮半島の古代国家である新羅の独特な身分制度です。

新羅において、この骨品制はとても重要な位置を占めており、国家や社会に強い影響を及ぼしていました。

例えば、どの身分階層に属するかによって、その人が就ける官職や身に付ける衣服、住むことのできる家屋が規定されるなど、さまざまな規制が社会生活に及んでいたのです。

このことから、新羅は「骨品体制社会」や「骨品制社会」と呼ばれることがあります。

しかし実のところ、この骨品制については史料の不足もあって、その実態はあまりよく分かっていません。

そのため、研究者の間では議論が続いており、統一的な見解、いわゆる通説と呼ばれるものはほぼありません。つまるところ、「諸説あり」の状態なのです。

よって、この記事では一つの説に加担するのではなく、諸説がある場合にはそれらの説を逐一紹介し、骨品制をめぐる議論の現状をわかりやすくお伝えすることを目的とします。

骨品制の概要

骨品制の対象者

骨品制は新羅において施行された身分制度ですが、新羅人全員を対象としたものではありませんでした。

基本的に骨品制の対象となったのは新羅の王京人(王都に居住する人)に限られていました。

ここで問題となるのが、王京人の誰が骨品制の対象となったのかです。

これについては、とりわけ王京人の中でも、王族や貴族などの支配集団が骨品制の対象となっていたと考えられます。詳しくは、後述の「骨品制の構造」でご説明しています。

一井
一井

一説に、王京人の中にも骨品制に編入されない人々が存在したとされます。王京人だからといって全員が骨品制の対象となったわけではないようです。

骨品制における身分規定

骨品制の対象となった人々は、どのような基準で身分が規定されていたのでしょうか。

骨品制において個人個人の身分を規定する基準は、原則として「血縁」にありました。これはつまり、父母をはじめとする先祖の血縁(=身分)によって自らの身分が決まるということです。

一井
一井

父母の身分が子に引き継がれるということになります。父母が高い身分なら子も高い身分を引き継ぐことになります。

このような「血縁」によって身分が決まるシステムだったゆえに、新羅では極端な近親婚(同族婚)が許容されていました。

というのも、血縁(=身分)が同じ同族と婚姻することで、生まれてくる子もその血縁(=身分)を引き継ぐことができるからです。
そうすることで、その氏族は血縁(=身分)を代々にわたって維持することができました。

このように、骨品制で規定された身分は同族婚によって子孫へ引き継がれることで、「再生産」されるという特徴を持っていました。

ただし、これは原則であって例外もありました。例えば、百済や高句麗の遺臣(=滅びた国の臣下)が新羅に降伏した際、彼らが新羅の骨品制に編入されて身分を与えられた例があります。
百済や高句麗の遺臣は新羅人の血縁を受け継いでいるわけではないので、この場合は血縁とは関係なしに骨品制に編入されたことになります。なお、新羅が百済や高句麗の遺臣を骨品制に編入して身分を与えたのは、政治的懐柔策とみられます。

では、次に骨品制の具体的な構造について見ていきましょう。

骨品制の構造

骨品制はカースト的な身分制度で、その構造は8階層からなっていたと考えられます。

その階層は高いほうから順番に以下のようになっていました。

  • 聖骨ソンゴル(せいこつ)
  • 真骨チンゴル(しんこつ)
  • 六頭品ユクトゥプム(ろくとうひん)
  • 五頭品オドゥプム(ごとうひん)
  • 四頭品サドゥプム(よんとうひん)
  • 三頭品サムドゥプム(さんとうひん)
  • 二頭品イドゥプム(にとうひん)
  • 一頭品イルドゥプム(いっとうひん)

これらの階層のうち、聖骨と真骨を「骨階層」、六頭品以下を「頭品階層」と言うことがあります。

以下では、これらの各階層間にどのような違いがあったのかを見ていくことにします。

聖骨・真骨(=骨階層)

聖骨真骨はともに王族が属した階層です。新羅の王位につけるのは、王族である聖骨と真骨(骨階層)に限られていました。

聖骨と真骨の区別

聖骨と真骨の間には、どのような区別があったのでしょうか。

実は聖骨と真骨の間にどのような区別があったのかは、よく分かっていません。

朝鮮最古の歴史書である『三国史記』や『三国遺事』によれば、新羅では初代王の朴赫居世パクヒョッコセ(ぼくかくきょせい)から第28代王の真徳王チンドクワン(しんとくおう)までの28王を聖骨、第29代王の武烈王ムヨルワン(ぶれつおう)以降の王を真骨と定義しています。

しかし、これらの史料の情報だけでは、聖骨と真骨がどう区別されるのかまでは分かりません。

このように史料の情報から聖骨と真骨の区別をうかがい知ることができないため、両者の区別をめぐっては、研究者の間でさまざまな説が出されています。

ここでは、それら諸説を大きく二つに分けてご紹介します。

第一の説:「聖骨は真骨の上にあったことは確かだが、両者の区別は分からない。」

この説によれば、聖骨は真骨の上にある階層で、両者には何らかの区別があったということになります。

ただし、その区別が何なのかは分からないとします。この説は次に紹介する「聖骨非在説」に対して、「聖骨実在説」と呼ばれることがあります。聖骨の実在を認めている説だからです。

第二の説:「聖骨と真骨には区別がなく、その間に階級上の相違はなかった。聖骨というのは、真骨に対する後世の追称に過ぎない。」

この説によれば、聖骨と真骨の間には何の区別もないということになります。

また、聖骨というのは、真骨に対して与えられた称号であるとしています。

つまり、初代王の朴赫居世から第28代王の真徳王までの王も実際には真骨であり、彼らが帯びた聖骨というのは後世に与えられた称号だと言うのです。

聖骨が後世に与えられた称号となると、聖骨という階層はもともと存在しなかったことになります。このことから、この説は「聖骨非実在説」と呼ばれることがあります。

結局のところ、聖骨と真骨の間にどのような区別があったのかは、よく分からないという結論になります。

真骨の特権

真骨については、六頭品以下の頭品階層の人よりも上位の官職に就けるという特権がありました。

『三国史記』によれば、新羅では17等官からなる官位制が整備されましたが、その上位5等官は真骨階層のみが就くことのできる官位でした。

下の表が『三国史記』に見える、新羅の17等官位です。

六頭品~一頭品(=頭品階層)

六頭品~一頭品の頭品階層は、大きく六頭品~四頭品、三頭品~一頭品に分けられます。

六頭品~四頭品

六頭品~四頭品王京の支配集団が属した階層とされます。

新羅では、国の成立期(4世紀後半)より、六部と呼ばれる王都の支配集団による共同統治が行われていたと考えられています。

六頭品~四頭品は、まさに王都の支配集団である六部人に与えられたものとされます。

ところが、いつ六部人が骨品制に編入されたのかはよく分かっていません。

そもそも、骨品制がいつ成立したかという基礎的な問題をめぐっても研究者によって見解が異なるため、この問題もはっきりとした答えが出せないのです(「骨品制はいつ成立したか」参照)。

ただし、一説によれば、7世紀後半に新羅が三国統一をした際、新たに新羅の官位制に編入された高句麗人、百済人と、伝統的な新羅の支配集団である六部人とを差別化するため、六部人に対して優位性を示すものとして与えられたのが頭品階層であったとされます。

一井
一井

新羅は三国統一を果たすと、百済、高句麗の遺臣を新羅の官位制に編入し、官職を与えています。

つまりこの説によれば、頭品階層は高句麗人、百済人に対する六部人の優位性を示す標識として、7世紀後半に導入されたということになります。

三頭品~一頭品

三頭品~一頭品平人百姓ひゃくせいが属した階層と考えられます。

一方で、一説には三頭品~一頭品という階層は存在せず、それとは別に骨品制に内包されない「平人」、「百姓」という階層がそれぞれ存在したという見解があります。

このように相容れない見解が並立しているのは、『三国史記』をはじめとする史料上に三頭品~一頭品についての情報がほとんど記されておらず、実態がよく分からないからです。

『三国史記』によれば、六頭品~四頭品については、階層によって就くことのできる官職や身に付けることのできる衣服、その衣服に使うことのできる素材、居住する家屋の構造などの規定が記されています。

しかし、三頭品~一頭品についての記載はないのです。その代わり、「平人」、「百姓」という項目が設けられ、それぞれ規定が記されています。

このことが三頭品~一頭品の非在説における根拠の一つとなっているのです。

ただし、本当に三頭品~一頭品は存在しなかったと断定するには、さらに議論が必要だと思われます。

また、三頭品~一頭品が存在しなかったとして、それが最初から存在しなかったのか、あるいは最初は存在したが途中で消滅したのかという問題もあります(実際に途中で消滅したという説もあります)。

まとめますと、三頭品~一頭品をめぐっては諸説があり、その実態はよく分からないというのが現状です。

骨品制はいつ成立したか

新羅において、骨品制がいつ成立したかについては諸説がありますが、大別すると二つの説に分けられます。

第一の説:「6世紀の段階で、8階層(聖骨・真骨・六頭品~一頭品)からなる骨品制が成立していた。

この説を提唱する研究者の間でも、聖骨を実在とするか、非実在とするか(前述の「聖骨と真骨の区別」参照)、頭品階層の成立を6世紀とみるか、7世紀とみるかなどで意見の対立があります。

第二の説:「9世紀に入ってようやく、聖骨を除いた7階層(真骨・六頭品~一頭品)からなる骨品制が成立した。

一井
一井

聖骨が除かれる理由は、7世紀の真徳王(第28代王)が最後の聖骨であるため、9世紀では存在し得ないからです。

この説では、6世紀には骨階層しかなかったものが、段階的に階層が増えていき、9世紀に至って7階層かなる骨品制が確立したと理解されます。

ところが、この第二の説は現在では成立しなくなっています。

というのも、近年新たに見つかった史料によって、8世紀の段階で「六頭品」身分の人物が存在したことが明らかとなったためです。

8世紀の段階で六頭品身分の人物が存在したということは、少なくとも8世紀には頭品階層が成立していたということになります。

まとめますと、骨品制がいつ成立したかについては諸説がありますが、以上の諸説を踏まえたうえで、おおよそ次のようなことは言えそうです。

それは、「骨階層については遅くとも6世紀頃には存在したとみられ、8世紀までに頭品階層が導入された」ということです。

以上、この記事では新羅の骨品制について、これをめぐる議論を踏まえながらご紹介しました。

しかし、骨品制をめぐる議論は多岐にわたっており、この記事では紹介しきれていない部分も多々あります。

さらに詳しく知りたい方は、下の参考文献をご参照ください。

参考文献

  • 木村誠「統一新羅の骨品制―新羅華厳経写経跋文の研究―」『古代朝鮮の国家と社会』吉川弘文館、2004年
  • 木村誠「六世紀新羅における骨品制の成立」『古代朝鮮の国家と社会』吉川弘文館、2004年
  • 末松保和「新羅三代考 ―新羅王朝史の時代区分―」『新羅の政治と社会 上』吉川弘文館、1995年
  • 武田幸男「新羅骨品制の再検討」『東洋文化研究所紀要』67巻、1975年
  • 橋本繁「(第三章)統一新羅と渤海 『統一新羅』」朝鮮史研究会(編)『朝鮮史研究入門』名古屋大学出版会、2011年
  • 李成市「(第三章)補説8 骨品制の成立時期と六部」李成市、宮嶋博史、糟谷憲一(編)『朝鮮史1 先史~朝鮮王朝(世界歴史大系)』山川出版社、2011年
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