高麗契丹戦争。
日本ではあまり馴染みのない戦争ですが、韓国ドラマ『千秋太后』や『高麗契丹戦争』で取り上げられ、ご存知の方もいるでしょう。
特に、ドラマ『高麗契丹戦争』はこの戦争を主題とした作品で、両国の戦争がリアルに描写されていました。
ドラマを通して、高麗契丹戦争の歴史に関心を抱いた方も多いのではないでしょうか。
この記事では、高麗契丹戦争の史実を、地図とともに徹底的に解説していきます。
この記事を読むと、30年に及ぶ高麗契丹戦争の流れを全て理解することができます。
ドラマを見て興味を持った方だけでなく、「歴史を勉強したい」という方にもおすすめな、充実した内容となっております。
ぜひご覧ください。
高麗契丹戦争とは?
高麗契丹戦争とは、993年~1019年までの約30年間に、高麗と契丹(遼)の間で勃発した戦争の総称です。
916年に建国された契丹は、それから急成長を遂げ、926年には渤海を滅ぼし、中国方面への経略にも力を注ぎました。
やがて、その矛先は朝鮮半島にも向くようになり、993年にはついに高麗へ侵攻。これが高麗契丹戦争の幕開けでした。
その後、契丹は何度も高麗へ侵攻し、最後の侵攻となる1018年まで、両国の戦争はあしかけ30年に及びました。
ただし、この30年間、両国はずっと戦っていたわけではありません。
戦闘が起こることもあれば、講和が成立し、衝突が全くない期間もあったからです。
高麗契丹戦争は、おおよそ三回に分けられます。
993年の第1次戦争、1010年の第2次戦争、1018年の第3次戦争です。

いずれも、契丹が高麗に侵攻するかたちで勃発しました。
この三回の戦争こそが、実際に両国が大規模な戦闘を繰り広げていた時期であり、「高麗契丹戦争」の中核です。
逆に、三回の戦争以外は、おおむね戦闘のない時期だったことになります。
つまり、より具体的に言えば、高麗契丹戦争とは、993年~1019年までの約30年間、三度にわたる契丹の高麗侵攻と、それに抗戦する高麗との間で起きた戦争ということになります。
この記事では、第1次戦争、第2次戦争、第3次戦争に分けて、それぞれの戦闘の実態を詳しく解説し、30年に及ぶ高麗契丹戦争史を追っていくこととします。
研究によっては、第2次戦争と第3次戦争の間に起こった戦闘を戦争回数に含め、第6次戦争まであったとする見解もあります。しかし、この間に起こった戦闘は比較的小規模であったため、この記事ではこれを「戦争回数に含めない」見解に従います。ただし、第2次戦争と第3次戦争の間に起こった小規模な戦闘も解説は行ないます(詳しくは、本記事の第2次~第3次戦争の間に起きた戦闘を参照)。
第1次戦争
戦争の背景
916年、中国北方のモンゴル高原で活動していた契丹族の耶律阿保機が、契丹諸部族を統合し、国号を「契丹」とする王朝を建国しました。
その後、契丹は急速に成長を遂げ、926年には渤海を滅ぼしました。
一方、契丹が建国された頃の朝鮮半島は、新羅・後百済・泰封(後高句麗)の三国が鼎立する後三国時代にありました。


画像:韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.67をもとに筆者作成
918年には、後三国の一国・泰封(後高句麗)の豪族であった王建が革命を起こし、国号を高麗とする新たな王朝を開きます。
それから、しばらく後三国時代が続きますが、935年に新羅が高麗に降伏し、936年には後百済が高麗に滅ぼされたことで、朝鮮半島は高麗によって統一されました。
さて、高麗は922年以来、契丹と外交関係を保ってきました。
しかし、942年に至って、高麗は契丹との関係を拒絶するようになります。
高麗は契丹との関係を断絶したあと、中国王朝の宋に朝貢しました。
高麗が中国王朝との関係を深める中、逆に契丹は中国王朝に対して圧力をかけながら、その一方で遼東地域を征伐し、この地域に居住していた女真族を掌握します。
次いで、定安国(渤海の遺民が建てた国)を征服し、旧渤海領への支配を強めていきました。


画像:安周燮(2003)、p.45をもとに筆者作成
遼東の女真族を掌握し、定安国を征服した契丹は、鴨緑江(高麗の西北の国境。現在の北朝鮮と中国の国境となる川)付近にまで進出してきます。
991年、契丹は鴨緑江沿岸に三つの城を築いて、いよいよ高麗に対して、直接的な圧力をかけ始めました。



契丹は高麗に対して、「宋と断交すること」「契丹へ臣属すること」を求め、圧力を加えてきました。
蕭遜寧の率いる契丹軍が高麗に侵攻


画像:安周燮(2003)、p.99、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
993年8月、契丹の皇帝聖宗は、東京留守の蕭遜寧に命じて、ついに高麗遠征を実施させました。
東京遼陽府を出発した蕭遜寧の率いる契丹軍は、鴨緑江を渡河し、保州を経由して高麗に侵入しました。
高麗の戦争準備
契丹が侵攻してくることを知った高麗は、急いで戦争の準備に取り掛かりました。
高麗王の成宗(高麗6代王)は開京(高麗の都)を出て西京へ行幸し、自ら戦争を指揮する意思を示しました。
993年10月、成宗は朴良柔を上軍使に、徐熙を中軍使に、崔亮を下軍使に任命し、それぞれ最前線に配置して軍を指揮させました。



このときに出征した高麗軍の規模は3~6万名であったと考えられます。
蓬山郡の戦闘


画像:安周燮(2003)、p.99をもとに筆者作成
993年10月、蕭遜寧の率いる契丹軍は、鴨緑江を渡ったあと、保州を経由して蓬山郡へ侵攻。ここで最初の戦闘が繰り広げられました。
高麗側は先鋒将の尹庶顔がこれを迎え撃ちました。
ところが、この戦闘で高麗軍は尽く撃破され、先鋒将の尹庶顔は敵に捕らえられてしまいます。緒戦は契丹軍の大勝でした。
この頃、西京に滞在していた成宗(高麗6代王)は、自ら前線で軍を指揮しようと、高麗軍の指揮所がある安北府へ向かっているところでした。
しかし、高麗軍の敗北により、成宗は安北府まで行くことができなくなり、西京に戻らざるを得なくなりました。
そこで、成宗は中軍使の徐熙を蓬山郡に派遣して、契丹軍の侵攻を阻ませました。
蓬山郡では、徐熙の高麗軍と蕭遜寧の契丹軍との間で戦闘があったと考えられますが、詳しい記録がなく、正確な戦闘の状況はよく分かっていません。
そして、これ以降、戦闘が膠着状態になったのか、高麗軍と契丹軍は蓬山郡で対峙し続けることになります。
蕭遜寧の降伏要求と「80万の軍勢」
徐熙の率いる高麗軍と蕭遜寧の率いる契丹軍は、なおも蓬山郡で対峙を続けていました。
このとき、蕭遜寧は徐熙に向かって、声を張り上げて言いました。
「大朝(=契丹)はすでに高句麗の旧地を占領したが、今、汝らが国境地帯を侵奪したため、私が来て討伐するのである」。
『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
高麗は太祖(初代王)の時代以来、西北方地域(西京以北)に居住していた女真族を追い出し、西北方への領土拡張を進めてきました。蕭遜寧はこれを批判し、国境地帯の侵奪であると主張したのです。


画像:安周燮(2003)、p.45をもとに筆者作成
しばらくして、蕭遜寧は、降伏を要求する以下の文書を徐熙に送りました。
「大朝は四方を統一した。もし、帰順しなければ、必ずや〔高麗を〕掃討する。速やかに来て降伏し、遅れることのないようにせよ」。
『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
この文書を受け取った徐熙は、契丹と講和できる余地があると判断し、その旨を朝廷に報告しました。
徐熙の報告を受け、成宗(高麗6代王)は李蒙戩を契丹陣営に派遣し、講和を要請させました。
しかし、蕭遜寧は次のように答えて、降伏以外は認めない姿勢を表しました。
「80万の軍勢が到着したので、もし、川(=鴨緑江)に出て来て降伏しなければ、皆、殲滅しよう。君主と臣下は速やかに我が軍の前へ来て降伏せよ」。
『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
李蒙戩が蕭遜寧に対して侵攻の理由を尋ねると、蕭遜寧はまた言いました。
「汝の国が民を救済しないため、天〔に代わって〕謹んで罰を下すのである。もし、講和を求めるのであれば、速やかに来て降伏すべきである」。
『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
蕭遜寧は「80万の軍勢が到着した」と言って高麗を脅迫し、あくまで降伏要求を貫いたのです。
ところで、蕭遜寧が主張した「80万の軍勢」は誇張であった可能性が高く、実際には6万名に満たなかったと考えられます。
というのも、契丹の兵制によれば、「都統(遠征指揮官に与えられる職)を任命しない遠征は、騎兵6万を越えない」と規定されているからです。
今回の高麗遠征において、蕭遜寧は都統には任命されていないので、6万を超える軍勢を指揮することはできなかったのです。
つまり、蕭遜寧は早期に戦争の決着をつけようと、兵数を誇張して高麗を脅し、降伏を促したのです。
降伏論と割地論
契丹陣営に行っていた李蒙戩が西京に戻り、蕭遜寧の降伏要求のことを朝廷に報告しました。
これを受けて、成宗(高麗6代王)は臣下を集めて対策を議論させました。
このとき、臣下の意見は二つに分かれました。
一つ目が降伏論、二つ目が割地論です。
降伏するか、あるいは降伏を避けて土地を失うか、いずれも消極的な主張でした。
高麗は緒戦で敗北したうえ、蕭遜寧が「80万の軍勢」を率いてきたと脅してきたので、臣下たちも相当に萎縮していたのでしょう。
苦渋の決断を迫られた成宗は、結局、西京以北の土地を契丹に与える割地論を選択しました。
徐熙による割地論批判
西京以北の割譲を決断した成宗(高麗6代王)は、西京の穀物倉を民に開放し、残った穀物は契丹の軍糧米とならないよう川に投げ捨てるように命じました。
これに対し、中軍使の徐熙が、「食料は民の命であり、それを捨てることは天の意思にそぐわないでしょう」と諫言したので、成宗はこれを中止しました。
再び徐熙は成宗に上奏し、今度は割地論に対する批判を述べました。
「契丹の東京から我が安北府までの数百里の土地は、全て生女真に占拠されていましたが、光宗がそれを奪い、嘉州・松城などの城を築きました。今、契丹が来たのは、その意図はただこの二つの城を取ろうとするに過ぎませんが、彼らが高句麗の旧地を取ろうと大げさに言うのは、実は我々を恐れているからです。今、彼らの軍勢が強盛であることだけを見て、急いで西京以北の土地を切り離して彼らに与えるのは計策とは言えません」。
『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
徐熙は、契丹が侵攻して来た理由は、「高麗が女真族から奪った一部の土地」を奪還することに過ぎないので、西京以北の土地を全て与える必要はないと反対したのです。
さらに続けて、徐熙は割地論の危険性を指摘します。
「三角山以北も高句麗の旧地であるにもかかわらず、彼らが際限のない欲望を振りかざして要求を止めなければ、〔我が国土を〕全て与えるのでしょうか?ましてや、土地を切り離して敵に与えることは、万世の恥辱であります。どうか、王様は都に戻られ、臣たちに一度彼らと戦わせてから、改めて議論しても遅くはありません」。
『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
徐熙は、一度領土を割譲すれば、さらなる割譲要求がされ、その要求がどんどんエスカレートしていくと考え、割地論の危険性を述べたのです。
そのうえで、徐熙は、契丹と一戦を繰り広げてから改めて割地論を議論しても遅くはないと主張しました。
また、徐熙のほか、重臣の李知白も、中国三国時代(いわゆる三国志の時代)に蜀が魏に領土を割譲して結局は敗北した故事を挙げて、割地論に反対しました。
徐熙と李知白の忠言を受けた成宗は割地論を諦め、契丹との講和を模索することにしました。
安戎鎮の戦闘


画像:安周燮(2003)、p.45、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
高麗朝廷が降伏論と割地論を議論していた頃、蕭遜寧は高麗から降伏についての返答が遅れていたため、軍勢を派遣して、安戎鎮を攻撃しました。
安戎鎮の戦闘では、高麗の将の大道秀、庾方らが契丹軍の攻勢から城をよく守り、ついには敵を撃退することに成功します。
契丹軍はこれ以上の進軍ができなくなり、再び使者を派遣して高麗朝廷に降伏を促しました。
徐熙と蕭遜寧の講和会談
さて、割地論を諦めて契丹との講和を模索した成宗(高麗6代王)は、張瑩を契丹陣営に派遣したところ、蕭遜寧はもっと位の高い大臣を遣わすように要求してきました。
そこで、成宗は改めて徐熙を契丹陣営に派遣し、蕭遜寧と会談をさせました。



この会談の争点は、高麗と契丹のいずれが高句麗の旧地に対する領有権を持つかという部分にありました。
会談が始まると、まず蕭遜寧が徐熙に言いました。
「汝の国は新羅の地から起こり、高句麗の地は我々の所有であったのに、汝らが侵犯してきたのである。しかも、〔汝の国は〕我々と国境を接しているにもかかわらず、海を越えて宋に仕えている。それゆえに、今日の出兵に至ったのだ。もし、土地を分割して献上し、朝聘を行なうのであれば、無事でいられるだろう」。
『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
蕭遜寧は、「高句麗の旧地が契丹の所有であること」「高麗が宋(中国王朝)に仕えている」ことが、今回の侵攻理由だと説明したのです。
蕭遜寧が高句麗の旧地を契丹の所有と主張した根拠は、①契丹の領土であった高句麗の旧地が、高麗の西北方への領土拡張により侵奪されたこと、②契丹が高句麗を継承した渤海を滅亡させたことにあったと考えられます。



ちなみに、ここで蕭遜寧が契丹の所有と主張した「高句麗の旧地」とは、清川江以北の地域(高麗が領土拡張を進めていた西北方地域 ※場所は下画像を参照)を指していると考えられます。


画像:安周燮(2003)、p.45をもとに筆者作成
このような蕭遜寧の論理に対し、徐熙は次のように論破しました。
「そうではない。我が国こそがまさに高句麗の旧地であるゆえ、〔国号を〕高麗と称して平壌に都を置いた。もし、国境問題を論じるならば、遼の東京も全て我が領土にあるのに、どうして〔我々が〕侵犯してきたと言えるのか?そのうえ、鴨緑江の内外もまた我が領土であるのに、今や女真がその地を盗み取って占拠し、頑悪で狡猾に嘘をつきながら道を塞いでいるため、〔遼へ行くことは〕海を渡るよりも難しい。朝貢が通じないのは女真のためである。もし、女真を追い出し、我々の旧領土を返還し、城と砦を築き、道路を通じさせてくれるのであれば、どうして朝貢を怠ろうか?将軍がもし私の言葉を天子に伝えてくれるのであれば、どうして〔天子が〕哀切に思って受け入れないことがあろうか?」。
『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
徐熙は、高麗が高句麗の国号と首都を継承したという論拠を挙げて、高麗が高句麗の継承国であると主張しました。
そのうえで、遼(契丹)の東京すら、かつては高句麗の領内に位置したのであるから、我々が契丹の領土を侵犯したとは言えないと反論しました。
つまり、徐熙は高麗の西北方への領土拡張は、自国の本来の領土(=高句麗の旧地)を回復しているに過ぎず、契丹の領土を侵犯したわけではないという論理を展開したのです。
それから、宋に仕えていることに対しては、高麗と契丹の間を女真族が塞いでいるため、契丹に朝貢できないだけだと説明しました。
徐熙はこのように蕭遜寧の論理を論破したうえで、高麗の西北方地域に居住している女真族を追い出し、この地域を返還してくれれば契丹に朝貢するという要求を突きつけました。
江東六州の設置と契丹への朝貢
ついに、蕭遜寧は徐熙の交渉条件を受容し、高麗侵攻を中止しました。
ここに、両国の講和が成立したのです。
講和の条件は徐熙の要求通り、高麗が契丹へ朝貢する代わりに、契丹は高句麗の旧地である朝鮮半島の西北方地域(鴨緑江以東地域)を高麗に与えるというものでした。
徐熙の尽力により、高麗は西京以北の土地を失わずに済んだばかりか、かえって鴨緑江以東の地域(場所は下画像を参照)を獲得することに成功したのです。
高麗は早速、西北地域の経営を進めました。
講和会談の翌年(994年)、徐熙が軍を率いて鴨緑江周辺の女真族を追い払い、長興鎮・帰化鎮・郭州・亀州に城を築きました。
その翌年(995年)、徐熙は安義鎮・興化鎮に城を築き、そのまた翌年(996)には通州・孟州に城を築きました。
そして、高麗はこれらの地域に江東六州(興化鎮・龍州・通州・鉄州・亀州・郭州)を設置し、行政区域として編入しました。
これにより、高麗は建国以来、初めて鴨緑江以東の地域を領土として確保することができました。


画像:安周燮(2003)、p.110をもとに筆者作成
一方で、高麗は講和の条件であった契丹への朝貢も行ない、契丹の年号を使用し始めました。
こうして、第1次戦争は幕を閉じることとなりました。
第2次戦争


画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
戦争の背景
第1次戦争で高麗と講和し、背後の安全性を確保することができた契丹は、宋(中国王朝)に対する本格的な遠征を開始しました。
999~1000年にかけて、契丹の皇帝聖宗は宋征伐を断行し、大きな成果を収めて回軍しました。
そして、1004年、契丹の聖宗は宋に対して本格的な攻撃を実施しました。
この戦いで契丹は宋を一方的に追い込みます。窮地に立たされた宋は、契丹に講和を要請せざるを得ませんでした。
これにより、契丹優位の盟約を結ぶかたちで、両国の講和が成立しました(澶淵の盟)。



澶淵の盟の締結により、宋は毎年、契丹に膨大な量の銀と絹を送ることになりました。
澶淵の盟により宋との関係を安定させた契丹は、その矛先を高麗に向けつつありました。
そうした中、1009年、契丹の蕭太后(聖宗の母)が死去しました。
この蕭太后は皇帝を超える絶対的な影響力を有していた人物でした。その太后が死去したことは、聖宗が名実ともに皇帝となったことを意味しました。
聖宗にとっては、今こそ自身の皇帝としてのステータスを対内外に誇示しようという時期でした。
一方、時を同じくして、高麗では西北面都巡検使の康兆が穆宗(高麗7代王)を廃位し、顕宗(高麗8代王)を擁立する政変が起こりました(1009年)。
通常、朝貢関係において、新しい王が即位する際には報告をして許しを得なければなりません。
第1次戦の講和以降、高麗は契丹に朝貢をしていたので、高麗は新王の即位を契丹に報告し、許しを得る義務がありました。
しかし、康兆は自身の政変を契丹に知らせず、隠したままにしていました。
そんな中、康兆の政変の情報は、女真族を通じて契丹の聖宗に伝わってしまいます。
これを受けて、契丹の聖宗は大逆を犯した康兆に対する懲罰を名分に、高麗遠征を準備させました。



聖宗としては、高麗遠征を行なうことで、皇帝としての自身のステータスを誇示しようという意図もありました。
契丹の戦争準備
1010年8月、契丹の皇帝聖宗は親征(皇帝自身が軍を率いて出陣する)の準備を始め、蕭排押を都統(遠征指揮官)に任命しました。
9月、聖宗は韓杞を使者として高麗に遣わし、顕宗(高麗8代王)を詰問します。
これを受けて、高麗の顕宗は親征の中断を要請しましたが、契丹の聖宗は受け入れませんでした。
11月、聖宗は再び蕭凝を高麗に遣わし、親征を通告しました。
いよいよ、聖宗は親征の準備を整えました。
その遠征軍の規模は、40万名に上ったといいます。
高麗の戦争準備
契丹の侵攻が目前に迫ってくると、高麗は戦争を避けるための外交的努力を講じました。
1010年9月、顕宗(高麗8代王)は金延保を契丹の都に遣わして機嫌を伺い、王佐暹らを契丹の東京に遣わして友好を図らせました。
10月、契丹の使者が聖宗(契丹皇帝)の親征を知らせてくると、顕宗は参知政事の李礼均と右僕射の王同穎を契丹に遣わし、和親を請いました。



参知政事と右僕射はいずれも宰相クラスの高官です。宰相を派遣したことからも、戦争を避けようとする外交的努力が垣間見られます。
一方、高麗は外交的努力を講じながらも、契丹の侵攻に備えた戦争準備も始めていました。
顕宗は康兆を行営都統使(総司令官)に任命し、李鉉雲と張延祐を都統副使に、崔士威を統軍使に任命し、契丹の侵攻に備えさせました。
高麗軍の総司令官である康兆は、30万の軍勢を率いて通州に駐屯しました。
興化鎮の戦闘


画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
戦争を避けようと努力した高麗でしたが、ついに契丹の遠征を中止させることはできませんでした。
1010年11月、契丹の皇帝聖宗は40万の軍勢を率いて親征を開始し、鴨緑江を渡って高麗の興化鎮に迫りました。
このとき、興化鎮を守っていた高麗側の指揮官のトップは、西北面都巡検使に任命された楊規でした。
1010年11月17日、契丹の聖宗は歩兵と騎兵40万を率いて、興化鎮を攻撃しました。
ここに、第2次戦争の火蓋が切られたのです。
契丹軍の攻撃に対し、興化鎮では都巡検使の楊規、興化鎮使の鄭成、興化鎮副使の李守和らが城門を固く閉ざし、激しい抵抗を見せました。
契丹軍は40万という優勢な戦力をもって数回にわたって攻撃したものの、城を陥落させることができないでいました。
そこで、城を攻撃しながら、契丹の聖宗は降伏を促す文書を興化鎮に送りました。
「今、逆臣康兆が君主を弑害し、幼子を立てたため、朕自ら精鋭軍を率いて、すでに国境に到達した。汝らが康兆を捕らえて朕のもとに送れば、ただちに軍を引こう。さもなければ、まさに開京に攻め入り、汝らの妻児を皆殺しにするであろう」。
『高麗史』巻94、列伝第7、楊規
しかし、興化鎮副使の李守和は降伏を拒否します。
その後も再三、契丹は懐柔する文書を送りましたが、李守和をはじめとする興化鎮の指揮官たちが降伏に応じることはありませんでした。
こうして、興化鎮を陥落させることに失敗した契丹の聖宗は、結局、これを諦めて南進することを決意します。
1010年11月23日、契丹の聖宗は無老代に20万の軍を残留させて背後の危険に備え、興化鎮を迂回して通州方面に南進を始めました。



高麗にとって興化鎮の勝利は大きな戦果でした。これにより、契丹は背後に敵を残すことになり、兵力を分散せざるを得なかったのです。


画像:安周燮(2003)、p.125、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
通州の戦闘
1010年11月23日に興化鎮を迂回した契丹軍は、北界西路を南進して通州に向かいました。


画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
通州では、高麗軍の総指揮官である康兆が30万の軍勢を率いて駐屯していました。
契丹軍が迫ると、康兆は通州城外へ出て、三つの川が合流する地点の三水砦に陣を張り、契丹軍を待ち構えました。
11月25日、いよいよ契丹軍が三水砦に進軍し、康兆の高麗軍と衝突します。
康兆は戦闘兵器である剣車を利用して契丹軍の攻勢を阻み、緒戦を大勝利に導きました。


画像:安周燮(2003)、p.127をもとに筆者作成
ところが、契丹軍を退けたことで慢心した康兆は、戦場で将棋を打つなど指揮を疎かにするようになります。
そうした中で、契丹の先鋒将軍の耶律盆奴が三水砦に奇襲をかけます。



康兆は完全に敵を軽視していたようで、敵が侵入したという報告を受けても、すぐには動かなかったといいます。
この奇襲により、総司令官の康兆は生け捕りにされる始末。
三水砦の高麗軍は大混乱に陥った末、3万余名が命を落とすこととなりました。
三水砦を突破した契丹軍は、次いで通州城に進軍しました。


画像:安周燮(2003)、p.127をもとに筆者作成
通州城に到着した契丹軍は、三水砦の戦闘で生け捕りにした盧戩と馬寿を遣わし、通州の高麗軍に降伏を勧めました。
これに対し、通州城を守っていた中郎将(正5品の武官職)の崔質と洪淑が盧戩と馬寿を逮捕し、諸将とともに城を固守しました。
結局、契丹軍は通州城を陥落させることができず、この城も迂回し、郭州へ向けて南進しました。



契丹軍は興化鎮に続き、通州も迂回することになったのです。
郭州の戦闘


画像:安周燮(2003)、p.131をもとに筆者作成
1010年12月6日、契丹軍は郭州城を攻撃しました。
契丹軍の攻撃を受けると、郭州を守る防禦使の趙成裕は夜中に逃亡する有様。
大将軍(従3品の武官職)の大懐徳、申寧漢などが最後まで抵抗を続けたものの、最後には戦死を遂げました。
こうして、郭州は契丹軍により陥落させられました。
それから、契丹軍は郭州城に6,000余名の軍を残留させ、南進を継続しました。
高麗はこの戦闘での敗北により、清川江以北の最終拠点が崩壊することとなりました。反対に、契丹は郭州の確保により、清川江以南への南進に先立って重要な足場を得ることになりました。
以後、契丹軍は清川江を越え、その先にある安北府及び粛州も攻略し、破竹の勢いで西京まで進軍していきました。


画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
契丹軍の西京進出と降伏要求
1010年12月8日に郭州を陥落させ、9日に安北府、10日に粛州を攻略した契丹軍は、西京へ向けて南進しました。
契丹軍は西京に到着すると、通州で捕虜とした盧戩などを派遣し、西京に降伏を勧誘。
これを受けて、西京副留守の元宗奭などは、契丹軍と一戦を交えることもなく、すぐに降伏を決定し、降伏する文書を作らせました。
他方、同じ日、高麗の東北方地域を防備していた中郎将(正5品の武官職)智蔡文の率いる増援軍が、西京に到着します。
しかし、智蔡文が到着した頃には、すでに元宗奭などが降伏を決定したあとでした。
智蔡文は元宗奭に、契丹の使節を抑留して城を守ることを勧めますが、元宗奭は聞き入れず、降伏の決定を覆しませんでした。
そこで、智蔡文は強行手段に出ます。陣営に帰るところだった契丹の使節を襲撃して殺害し、降伏を約束する文書を焼き捨てたのです。
ほどなくして、東北面都巡検使の卓思政が率いる援軍も到着し、西京の高麗軍は増強されました。
以後、智蔡文・卓思政が中心となって西京を掌握し、契丹軍に対する徹底抗戦の構えを取りました。
西京の戦闘


画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
1010年12月11日、契丹の皇帝聖宗は、西京から降伏要求に対する答えがなかったため、再び韓杞を西京に遣わして、降伏することを要求します。
これに対し、西京城を掌握して徹底抗戦の構えを取っていた智蔡文と卓思政は、降伏を拒否したうえで、韓杞らを襲撃して100余名を殺害しました。
次いで、智蔡文が城外へ出て、西京城を包囲していた契丹軍を襲撃し、その敵将を敗走させました。
12月12日には、卓思政が僧侶の法言とともに9,000の軍勢を率いて西京城を出て、契丹軍と戦って3,000余名を斬首します。



12月11日~12日にかけて、西京の高麗軍は城の外に打って出て、連戦連勝の戦果を収めたのです。
12月13日、智蔡文が再び城外で契丹軍を撃破し、敗走する契丹の兵士を追撃しました。
ところが、西京郊外の馬灘(※正確な場所は不明)で契丹軍の逆襲にあい、智蔡文の率いる高麗軍は大敗を喫します。
馬灘での敗北により、西京城は契丹軍によって完全に包囲されてしまいます。
形勢が苦しくなると、恐れをなした卓思政は将軍の大道秀を騙して、「城の西側と東側に出て、契丹軍を挟撃しよう」と持ちかけておきながら、自らは西門から配下を引き連れて逃亡する始末でした。



大道秀は東門から出て契丹軍を襲撃したものの、卓思政が現れなかったため、契丹軍に敗北してしまいました。
12月15日、趙元・姜民瞻などが、卓思政の逃走で大きく揺れていた西京の民心を収拾し、散り散りになった兵士たちをまとめ、城門を閉じて固く守りました。
これにより、一度は窮地に陥った西京でしたが、契丹軍の攻勢を阻むことに成功します。
12月17日、ついに契丹軍は西京城を陥落させることができなかったため、これを迂回し、開京(高麗の首都)へ向けて南進することを選択します。
楊規の郭州奪還


画像:安周燮(2003)、p.138をもとに筆者作成
西京で戦闘が繰り広げられていた頃、その背後で高麗軍の動きがありました。
1010年12月16日、興化鎮にいた楊規が700余名の兵士を率いて通州に至り、ここで1,000名の兵士を収拾しました。
その翌日、楊規は興化鎮から率いてきた兵士、それから通州で収拾した兵士を合わせて、総勢1,700余名を率いて、契丹に奪われた郭州を攻撃しました。
楊規は夜中に郭州を攻撃し、駐屯していた契丹兵をことごとく斬って、ついには郭州の奪還に成功します。



郭州には6,000余名の契丹軍が駐屯していましたが、楊規はわずか1,700余名の軍勢でこれを撃退したのです。
楊規の郭州奪還により、契丹の立場としては、陥落させることができなかった興化鎮・通州に加え、郭州までもが再び高麗に掌握されたことで、後方の脅威がより増すこととなりました。
契丹軍の開京入城と講和の成立


画像:安周燮(2003)、p.138、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
1010年12月28日、契丹軍が西京を迂回し、素早く開京へ迫ると、顕宗(高麗8代王)は避難を決定し、開京を出発して南へ向かいました。



このとき、顕宗に避難を勧めたのは、のちの第3次戦で大活躍する姜邯賛でした。
12月30日、顕宗が揚州(現在の韓国・京畿道・揚州)に到着すると、河拱辰という者が契丹に和親を請うことを建議しました。
その一方では、契丹軍が開京に入城。
1011年1月1日、契丹軍は開京で略奪を尽くしたうえ、宮殿を焼き払いました。
1月3日、顕宗は先の河拱辰の意見を受け入れ、彼を契丹の陣営に遣わし、「契丹軍が撤退すれば、高麗国王が親朝(※国王が自ら挨拶しに行くこと)する」という講和条件を提示しました。
これを受けて、契丹の皇帝聖宗は、高麗の講和要求を受け入れます。
そして、1月11日には、契丹軍は河拱辰を人質として捕らえ、足早に回軍し始めました。
契丹はなぜ講和を受け入れたか
契丹が高麗の講和要求を、こうも簡単に受け入れたのはなぜでしょうか?
それは、契丹としては、すでに遠征の目的を達成したからだと考えられます。
今回の契丹の高麗遠征は、「康兆を懲らしめる」という名分で始まりました。
すでに、契丹は通州の戦闘で康兆を生け捕りにして殺害したので、その目的は達成されています。
しかも、高麗の首都である開京を占領し、そのうえ高麗国王の親朝の約束まで得ることができたのです。
それに加えて、契丹軍の戦闘力が限界に達していたことも、講和を受け入れた理由として考えられます。
契丹軍はこれまで、興化鎮・通州・郭州・西京などで戦闘を繰り広げ、少なくない損失を被ってきました。
興化鎮・通州・西京に至っては陥落させることができず、郭州も結局、高麗軍によって奪還される結果となりました。
そのせいで、契丹軍は背後に多くの敵を残すことになったのです。
後方が脅威に晒されている状況で、これ以上の戦争を継続することは難しかったのだと思われます。
契丹軍の回軍路


画像:安周燮(2003)、p.140、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
1011年1月11日、開京から回軍を始めた契丹軍は、わずか数日で清川江を渡河し、亀州方面に北上しました。
このときに契丹軍が利用した回軍路は詳しい記録がなく、正確には分かっていません。
ですが、清川江以南の回軍路については、侵攻時と同様に、平州・西京などを経由して安北府に至る北界西路を利用したものと推測されています。
一方、清川江以北地域の回軍路は、亀州・安義鎮・興化鎮などを経由して保州に至る北界東路を利用したものと推測されています。
北界東路は北界西路に比べて、山脈が連なる険しい地形でした。
それにもかかわらず、なぜ契丹軍は清川江以北の回軍路に、この道路を選択したのでしょうか?
それは、清川江以北の北界西路は、高麗軍が掌握していた郭州・通州・興化鎮によって、退路が遮断されていたためでした。



契丹軍にとって、後方に敵を残したことは、退却時にも大きな痛手となったのです。
高麗軍の反撃
高麗軍は退却する契丹軍を相手に、執拗に襲撃を仕掛けました。その様子を地図とともに見てみましょう。


画像:安周燮(2003)、p.142をもとに筆者作成
1011年1月17日、契丹軍が亀州に至ると、亀州の別将(正7品の武官職)金叔興が中郎将(正5品の武官職)保良とともに契丹軍を攻撃し、1万余名を斬首しました。
1月18日、興化鎮の楊規が無老代で契丹軍を奇襲し、2,000余名を斬り、高麗軍の捕虜3,000余名を救出しました。
1月19日、楊規が梨樹で戦闘を繰り広げ、石嶺まで追撃し、契丹軍2,500余名を斬り、高麗軍の捕虜1,000余名を救出しました。
1月22日、再び楊規が余里站で戦い、契丹軍1,000余名を斬り、高麗軍の捕虜1,000余名を救出しました。



1月18日~22日に楊規が襲撃した契丹軍は、契丹が興化鎮を迂回した際に残留させた、20万の軍勢であったと思われます。
1月28日、楊規は艾田で契丹軍の先鋒を攻撃し、1,000余名を斬りました。
それからまもなく、亀州から北上してきた聖宗(契丹皇帝)の率いる契丹本軍が艾田に到着します。
これに対し、楊規は、亀州から契丹軍を追撃してきた金叔興と合流し、共に契丹本軍を迎え撃ちました。
楊規と金叔興は一日中、死力を尽くして戦い、ついには戦死を遂げました。
1月29日、興化鎮使の鄭成は、契丹軍が鴨緑江を渡っている最中に攻撃し、多くの契丹兵を水死させました。
このように、高麗軍は退却する契丹軍に対して繰り返し襲撃を行ない、甚大な被害を与えたのでした。
第2次戦争はこうして終わりを告げました。
第2次~第3次戦争の間に起きた戦闘
高麗契丹戦争の第3次戦争は、1018~1019年にかけて繰り広げられました。
第2次戦争の終結が1011年1月でしたので、それから約7年を経ての勃発ということになります。
ですが、実は第2次戦争の終結~第3次戦争の勃発までの約7年間にも、両国の間では何度か戦闘が行なわれていました。
研究によっては、この7年間に行なわれた戦闘を戦争回数に含め、「第3次戦争」「第4次戦争」「第5次戦争」などとする見解もあります。ただし、この間の戦闘は比較的小規模であったため、この記事では「戦争回数に含めない」見解に従い、この7年間に行なわれた戦闘を簡単に解説することとします。
先の第2次戦争は、高麗国王が契丹に親朝(※国王が自ら挨拶しに行くこと)を約束することで終結しました。
しかし、高麗国王は親朝を実行しませんでした。
それもそのはず。
高麗は第2次戦争において、退却する契丹軍を相手に致命的な打撃を与えて勝利したのですから、あえて降伏に等しい親朝をする理由がなかったのです。
江東六州の返還命令
高麗国王がいつまで経っても親朝を実行しなかったため、契丹は第2次戦争のときに人質として連れ帰った河拱辰を処刑しました。
その後も、契丹が高麗国王の親朝を重ねて要求すると、高麗は朝貢の使者を遣わしながらも、「国王が病気で親朝することができない」などと言って拒否し続けました。
そこで、契丹の皇帝聖宗は、高麗に対して江東六州の返還を命じました(1013年)。



江東六州は、第1次戦争で高麗が契丹から獲得した地域に設置した行政区域でしたね。
もちろん、高麗がこの命令に応じるはずがありませんでした。
1014年~1015年の戦闘
1014年9月、高麗が江東六州の返還を頑なに拒否し続けたため、契丹の皇帝聖宗は、蕭敵烈を都統(遠征指揮官)に任命し、高麗遠征を断行しました。
1014年10月~1015年1月にかけて、契丹軍は通州を攻撃したり、興化鎮を包囲したりしましたが、高麗軍によって退けられ、回軍していきました。
ところが、回軍したあとも、契丹は江東六州の返還要求を止めることはありませんでした。
高麗の対応も、より強硬的なものになっていきます。
契丹が江東六州の返還を要求する使者を遣わしてくると、高麗はその使者を抑留しました。
1015年~1016年の戦闘
1015年9月、高麗に遣わした使者が抑留されると、契丹の皇帝聖宗は、劉晟を都統(遠征指揮官)に任命して再び高麗遠征を実行しました。
9月、契丹軍は通州・安北府(安州)を攻撃しますが、高麗軍の攻勢を受けて、一旦、鴨緑江以北に撤収します。
11月、契丹軍は鴨緑江沿岸で軍を整備し、再び大々的に攻撃する準備をしました。
1016年1月、軍を整えた契丹軍は再び鴨緑江を渡って郭州まで至り、これを攻撃して高麗軍数万名を死傷させる戦果を上げたあと、回軍していきました。
1017年の戦闘
度重なる江東六州の返還要求、また領土への侵攻を受けて、高麗は契丹に対してますます強硬的な態度で対応するようになります。
1016年1月、契丹の使者10余名が鴨緑江にやって来ると、高麗はこれを門前払いしました。
それに加え、この年から高麗は、契丹の年号の代わりに宋(中国王朝)の年号を使用し始めます。



第1次戦争の講和以降、高麗は契丹の年号を使用してきました。これを止めるということは、「契丹には仕えない」という強い意思の表明でした。
1017年8月、このような高麗の動きを受けて、契丹の聖宗は、蕭合卓を都統(遠征指揮官)に任命し、高麗遠征を断行しました。
しかし、契丹軍はこの遠征で興化鎮を包囲攻撃したものの、9日間戦って勝つことができませんでした。
このあとの戦況は史料がないためよく分かっていませんが、興化鎮の攻撃に失敗した契丹軍は、そのまま回軍していったと考えられています。
第3次戦争


画像:安周燮(2003)、p.164、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
契丹の戦争準備
第2次戦争の終結以降、契丹は江東六州の返還を求めて何度も高麗に侵攻した挙げ句、その目的を達成できずにいました。
1018年、契丹の皇帝聖宗は、江東六州の奪還を企図し、いよいよ本格的な高麗遠征を準備させました。
1018年10月、聖宗は蕭排押を都統に任命し、10万名の軍勢を率いさせて、高麗遠征を決行します。
10月28日、契丹は手始めに、高麗の辺境を守る官吏たちに、「降伏をすれば厚い褒賞を与えるが、抵抗する者は後悔してからでは遅い」と言って脅しを加えました。
高麗の戦争準備
契丹の遠征準備を受けて、高麗は外交的な解決を試みつつ、一方では侵攻に備えて戦争準備をしました。
1018年10月、顕宗(高麗8代王)は契丹に使者を派遣して和平を提議する一方で、姜邯賛を西北面行営都統使(司令官)に任命し、契丹の侵攻に備えました。
契丹が和平提議を拒否し、侵攻が確実となると、高麗は万全の対策を講じます。
12月、顕宗は行営都統使の姜邯賛を上元帥(総司令官)に、大将軍(従3品の武官職)姜民瞻を副官に任命し、20万8,000名の防御軍を編成しました。
これに加え、高麗には州鎮軍と呼ばれる地方防備軍がおり、この州鎮軍も防御軍として編成されたため、その規模は総勢約30万名に達しました。
三橋川の戦闘


画像:安周燮(2003)、p.166をもとに筆者作成
1018年12月10日、蕭排押の率いる契丹軍は鴨緑江を渡って興化鎮に至ると、これを攻撃せずに迂回し、南進しようとしました。
これまでの戦争で立て続けに興化鎮の攻略に失敗した契丹軍は、今回は興化鎮を攻撃せずに迂回する作戦を立てたようです。
これに対し、契丹軍の作戦を察知した高麗軍の総司令官姜邯賛は、1万2,000名の軍勢を率いて、興化鎮を東から西に流れる三橋川付近の谷間で待ち伏せし、水攻め作戦を計画します。
姜邯賛は堤防を築いて三橋川の水を塞き止め、契丹軍が川を渡るのを待ちました。
契丹軍が興化鎮を迂回し、三橋川を渡り始めると、姜邯賛はせき止めていた堤防を開いて水を放出。契丹軍の戦列を一気に瓦解させました。
さらに、契丹軍の戦列が崩れた隙に乗じて、姜邯賛は待ち伏せさせていた兵士たちを突撃させ、契丹軍に大きな被害を与えました。
姜邯賛の活躍により、高麗軍は緒戦で勝利を収めることができました。
来口山・馬灘の戦闘と開京の守備
契丹軍は三橋川の戦闘で損害を被りながらも南進し、北界東路を利用してまっすぐに清川江を渡り、高麗の都である開京を目指しました。


画像:安周燮(2003)、p.164、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成



契丹軍が険峻な北界東路を選択したのは、北界西路に高麗の主力軍が駐屯していたためでした。
契丹軍の南進を受けて、高麗軍はその道中で奇襲攻撃を仕掛けました。
1018年12月下旬、高麗軍の副司令官姜民瞻が、北界東路を南進する契丹軍を追撃し、慈州の来口山で大きな打撃を与えます。
次いで、来口山から南下してきた契丹軍を、侍郎(正4品の文官職)趙元が馬灘で攻撃し、1万余名を打ち取る戦果を上げました。


画像:安周燮(2003)、p.162、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
すでに、多くの被害を受けていた契丹軍でしたが、構うところなく、ひたすら南進を続け、ただ開京のみを目指しました。
開京の危機を悟った姜邯賛は、兵馬判官の金宗鉉に1万名の兵士を率いて開京へ行き、守らせるようにしました。
金郊駅の戦闘と契丹軍退却


画像:安周燮(2003)、p.162、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
1019年1月3日、契丹軍は開京から100里(数百km)北側に位置する新恩県に到着しました。いよいよ、開京の近くまで迫ってきたのです。
高麗の顕宗(高麗8代王)は契丹軍の開京攻撃に備え、開京城外の民戸を城内に移住させ、清野作戦を実施して長期戦に備えました。
一方、契丹軍の都統(遠征指揮官)蕭排押は、開京攻撃に先立って、密かに偵察部隊である遠探欄子軍300余騎を開京近くに駐屯させました。
しかし、これを見抜いた高麗軍は、契丹軍が金郊駅一帯を通過するときに襲撃し、この300余騎を殲滅させました。
金郊駅の戦闘で敗北した契丹軍は開京攻略を諦め、退却するほかありませんでした。
金郊駅から退却を始めた契丹軍は、進軍路と同じ北界東路を利用し、北上していきました。
1019年1月23日、北上する契丹軍に対し、高麗軍総司令官の姜邯賛は漣州・渭州で奇襲を仕掛け、500余名を斬る戦果を収めました。


画像:安周燮(2003)、p.162、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
亀州の戦闘


画像:安周燮(2003)、p.169をもとに筆者作成
漣州・渭州で奇襲を受けながらも、契丹軍はようやく清川江を越えることができ、そして亀州を通過しようというところでした。
1019年2月2日、高麗軍総司令官の姜邯賛は、亀州東側の郊外に陣を構え、亀州を通過しようとする契丹軍を迎え撃ちました。
しかし、両軍の戦いは、なかなか決着がつきませんでした。
そのような中、開京を守りに行っていた兵馬判官の金宗鉉が兵士を率いて到着しました。



開京はすでに難を逃れたため、金宗鉉は背後から、退却する契丹軍を追ってきたのだと思われます。
このとき、突然に風雨が南から吹いてきて、高麗軍の形勢が有利になったので、この勢いに乗って契丹軍を激しく攻撃しました。
その結果、契丹軍は壊滅し、北へ敗走。
この戦闘により、契丹軍の死体は野原を覆い尽くし、高麗軍が獲得した捕虜や馬・駱、武器などは数え切れないほどであったといいます。
契丹軍で生きて帰った者は、10万名のうち、わずか数千名。
契丹の敗北がこれほど甚だしい戦争は、かつてなかったといいます。
これにて、あしかけ30年に及んだ高麗契丹戦争は終幕を迎えることとなりました。
参考文献
- 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
- 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
- 육정임(ユク・チョンイム)「고려·거란 ‘30년 전쟁’과 동아시아 국제질서(高麗・契丹「30年戦争」と東アジア国際秩序)」『東北亜歴史論叢』34号、2011年、pp.11~52
- 李成市、宮嶋博史、糟谷憲一 編『朝鮮史1(世界歴史大系)』山川出版社、2017年
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗元年(1010)9月
- 『高麗史』巻4、世家第5、顕宗元年(1010)10月8日
- 『高麗史』巻77、志第31、百官2、外職
- 『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
- 『高麗史』巻94、列伝第7、姜邯賛
- 『高麗史』巻94、列伝第7、楊規
- 『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
- 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗10年1月3日
- 『遼史』巻15、本紀第15、聖宗6、統和28年(1010)9月
- 『遼史』巻15、本紀第15、聖宗6、統和28年(1010)10月










