韓国ドラマ『武神』に登場するチェ・ハン。
初名を萬全(マンジョン)と言い、崔瑀(チェ・ウ)の後を継いで武臣政権の最高権力者となった実在の人物です。
ドラマでは、崔瑀の息子(庶子)でありながら、兄の萬宗(マンジョン)とともに蛮行を繰り返し、「放蕩息子」と呼ばれる有り様でした。
そんなチェ・ハンですが、史実ではどのような人物だったのでしょうか。
この記事では、チェ・ハンの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて詳しく解説します。
記事の最後では、ドラマ『武神』で描かれるチェ・ハンと史実との違いも解説しております。
崔沆(チェ・ハン)の詳細
崔沆の基本情報
姓名:崔沆(チェ・ハン) ※初名は萬全(マンジョン)
出生日:1209年
死亡日:1257年
最終官職:中書令
諡号:晋平公
家族構成
祖父:崔忠献(チェ・チュンホン)
父:崔瑀(チェ・ウ)
母:瑞蓮房(ソリョンバン)
兄:萬宗(マンジョン)
配偶者:不明
息子:崔竩(チェ・ウィ)
崔沆(チェ・ハン)の生涯
生い立ち
崔沆(チェ・ハン)の生い立ちについては、歴史書に記録が少なく、詳しいことはわかっていません。
父の崔瑀(チェ・ウ)は、先代の崔忠献(チェ・チュンホン)を継いで武臣政権の最高権力者となった人物でした。
武臣政権と崔忠献
高麗では、1170年~1270年までの約100年間、武臣が政治の実権を掌握していました(武臣政権)。1170年、それまでの文臣優位の社会に不満を募らせた武臣たちがクーデターを決行して政権を掌握。その後、しばらくは武臣同士の権力闘争が続きますが、第5代執政者の崔忠献によって政権が安定しました。崔忠献以降、武臣政権は四代に渡って崔氏の世襲が続きます。
崔瑀
武臣政権第6代目の執政者。崔氏政権としては2代目。崔忠献(チェ・チュンホン)の嫡男。
崔瑀には娘がいましたが、嫡子がいませんでした。
ですが、寵愛していた妓女(※遊女のこと)の瑞蓮房(ソリョンバン)との間に二人の息子をもうけました。
その二人の息子が、兄の萬宗(マンジョン)と弟の萬全(マンジョン)です。
弟の萬全こそが、本記事で解説する崔沆であり、のちに武臣政権の最高権力者となる人物なのです。
崔瑀が金若先(キム・ヤクソン)を後継者にする
1219年までに、崔瑀(チェ・ウ)の娘が、将軍の金若先(キム・ヤクソン)に嫁ぎます。
崔瑀の娘が金若先に嫁いだ背景には、恐らく崔瑀の意向があったと思われます。
というのも、崔瑀には嫡子がなく、自分の後継者となり得る人物がいなかったからです。
一応、妓女との間にもうけた萬宗(マンジョン)と萬全(マンジョン)はいましたが、彼らは庶子であるうえ素行が悪かったので、後継者の候補には入らなかったのでしょう。
一方で、金若先はその祖先が新羅王室に連なる名家の出身で、崔瑀の後継者として申し分ない人物でした。
そこで、崔瑀は金若先に娘を嫁がせることで、婿となった金若先を自分の後継者にしたのだと考えられます。
金若先(キム・ヤクソン)については、以下の記事で解説しております。併せてご覧ください。
寺に送られる
しかし、崔瑀(チェ・ウ)の庶子である萬宗・萬全にとってみれば、自分たちを差し置いて金若先が後継者となることは、面白いことではなかったはずです。
崔瑀はそのことをよくわかっていたようで、萬宗と萬全の反発を懸念し、事前にその対策として、二人を僧侶にして寺に送りました。
兄の萬宗は断俗寺(タンソクサ、慶尚南道・山清郡)に、弟の萬全は双峰寺(ソンボンサ、全羅南道・和順郡)に送られ、二人とも寺の住職に就きました。
寺で悪行を働く
寺の住職となった萬宗と萬全は、いずれも、ならず者の僧侶たちを集めて門徒とし、その門徒たちとともに酷い悪行を働きました。
具体的には、彼らは民に穀物を貸し出し、秋にそれが実ると、高額な利子をつけて強制的に徴収し、自分たちの財産としたのです。
そのせいで、民の手に残る穀物はなかったといいます。
また、彼らは権勢を頼りに好き勝手に振る舞い、他人の妻を強姦したり、現地の役人を軽蔑したりと、やりたい放題でした。
ところが、現地の役人たちに、彼らの横暴を止めることはできませんでした。
それもそのはず。
萬宗と萬全は時の最高権力者である崔瑀(チェ・ウ)の息子だったので、役人も軽々しく文句を言えなかったのです。
朴暄(パク・フォン)が萬宗と萬全を訴える
そのような中、萬宗と萬全の悪行を崔瑀(チェ・ウ)に訴えた者がいました。
刑部尚書(司法を担当する部署の長官)の朴暄(パク・フォン)という人物です。
朴暄は崔瑀に対して、萬宗と萬全を都に召喚し、その門徒の僧侶たちを捕らえて、彼らの横暴を止めるよう求めました。
崔瑀は朴暄の言葉を正しいと考え、萬宗と萬全のいる寺に使者を遣わし、まず彼らが搾取した穀物を民に返還させました。
そのうえで、萬宗と萬全を都に召喚し、悪行を働いた門徒の僧侶たちを全員捕らえさせました。
『高麗史』には、悪事を働いた僧侶たちが捕まると、多くの人々が喜んだと記録されています。
彼らの悪行がいかに酷いものだったのかがうかがえますね。
崔沆(チェ・ハン)に改名する
崔瑀(チェ・ウ)によって都に召喚された萬宗と萬全は、泣きながら次のように訴えました。
「公(=崔瑀)がご存命の時であっても、私たちをこのように迫害されるのに、〈公が〉お亡くなりになったあとでは、私たち兄弟は〈いつ〉死ぬかも分かりません」
『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔怡
この言葉を聞いた崔瑀は後悔の念を抱き、逆に萬宗と萬全の悪行を訴えた朴暄(パク・フォン)を、父子関係を離間させたとして黒山島(現在の全羅南道・新安郡・黒山島)に流刑に処しました。
このとき、崔瑀は次男の萬全(マンジョン)を還俗させ、崔沆(チェ・ハン)に改名しました。
崔瑀の後継者になる
萬全(マンジョン)が崔沆(チェ・ハン)に改名されたことは、彼が崔瑀(チェ・ウ)の後継者になったことを意味します。
実は、高麗の歴史書である『高麗史』には、このときに崔瑀が崔沆を「後継者にした」とはっきり記録されているわけではありません。
ただし、具体的な年代は不明ですが、崔瑀の後継者であった金若先(キム・ヤクソン)が死去していることを踏まえると、このときの改名は間違いなく、崔沆が後継者になったことを意味します。
すなわち、後継者となるはずだった金若先が死去したことで、急遽、崔沆が後釜に据えられたわけです。
また、崔瑀は文臣に命じて、崔沆に文や礼儀を教えさせました。崔瑀は崔沆に後継者としての教養を身につけさせたのです。
さらに、1248年には、崔瑀は崔沆に家兵500人を与えました。
ところで、なぜ長男の萬宗(マンジョン)ではなく、次男の萬全(=崔沆)が後継者にされたのかは、記録がなく定かではありません。
金若先が死去した経緯について知りたい方は、以下の記事をご覧ください。
崔瑀を継いで武臣政権の最高権力者になる
1249年、崔瑀(チェ・ウ)が病で死去しました。
崔瑀が亡くなると、上将軍(正三品の武官職)の周粛(チュ・スク)という者が、夜別抄(高麗における軍隊組織の一つ)などの軍隊を指揮しながら、政権を王に返そうとしました。
周粛
崔瑀(チェ・ウ)の腹心。崔瑀が死去すると、崔氏政権を崩壊させて王政復古することを目論むが失敗。その後は崔沆に仕える。性格は驕り高ぶっており、虚勢を張っていたという。
周粛は崔瑀から崔沆(チェ・ハン)への政権継承を阻止し、この機に政権を崔氏から王に返し、王政復古を実現しようとしたのです。
一方で、このとき崔氏家の奴隷であった李公柱(イ・ゴンジュ)・崔良伯(チェ・ヤンベク)・金俊(キム・ジュン)など70人あまりが崔沆の味方となって、崔沆の政権継承を支援しました。
こうして多勢が崔沆を支持したため、周粛も従わざるを得ず、結局は手のひらを裏返して崔沆の味方につきました。
一騒動あったものの、このようにして、崔氏武臣政権は崔瑀から崔沆へと受け継がれました。
崔沆は崔氏政権としては第3代目、武臣政権としては第7代目の執政者となったのです。
このとき、崔沆は自分の政権継承を支援してくれた奴隷の李公柱・崔良伯・金俊に褒賞として官職を与えました。
李公柱・崔良伯・金俊については、以下の記事で詳しく解説しております。
喪服を二日で脱ぎ捨てる
崔沆(チェ・ハン)が執政者になると同時に、亡くなった崔瑀(チェ・ウ)の葬儀が行われました。
ところが、崔沆はたった二日で喪服を脱ぎ捨てたうえ、自邸の門を閉ざして葬儀にも出席しませんでした。
そればかりか、崔沆は父親である崔瑀の妾(そばめ)に淫らなことをしたといいます。
崔瑀が死去した途端にこの有り様。早くも暗雲が立ち込めていました。
実際、これから崔沆は、その権勢を頼りに、暴政を尽くすこととなるのです。
金慶孫(キム・ギョンソン)を流刑にする
最高権力者となった崔沆は、まず自分の気に入らない者たちを排除しようとしました。
1249年、崔沆は将軍の金慶孫(キム・ギョンソン)が人望を得ていることを嫌って、白翎島(ペンニョンド、黄海の島)に流刑としました。
そのほかにも、文臣の閔曦(ミン・ヒ)や将軍の金安(キム・アン)など、大勢の者を流刑に処しました。
自分にとって気に入らない者は徹底的に排除しようとしたのです。
金慶孫は崔瑀(チェ・ウ)の時代に数々の戦闘で戦果を挙げた英雄です。詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。
呉承績(オ・スンジョク)と継母の大氏を排除する
崔沆(チェ・ハン)は自分の継母である大氏(崔瑀の後妻)にも恨みを持っていました。
なぜなら、大氏が金若先(キム・ヤクソン)の息子である金敉(キム・ミ)を過剰に擁護し、自分のことを支持してくれなかったからです。
そこで、恨み募った崔沆は、大氏の財産を没収したうえ、大氏の息子であった呉承績(オ・スンジョク)を海に投げ捨てさせました。
大氏と呉承績
大氏は夫を戦で亡くしたのち、崔瑀(チェ・ウ)に嫁いだ。呉承績は大氏が前夫との間にもうけた息子。
ところが、海がちょうど干潮だったこともあって、呉承績は自力で海を抜け出し、生き延びました。
やっとの思いで生き延びた呉承績は母親の大氏に手紙を送りますが、これが運の尽きでした。
手紙を送ったことが崔沆にバレてしまったのです。
崔沆は、死んだはずの呉承績が生きていたことを知って大激怒。再び呉承績を捕らえ、川に投げ捨てて殺害しました。
それだけにとどまらず、崔沆は継母の大氏も海島に流刑にし、しばらくしてから毒殺してしまいました。
このとき、大氏の一族や奴隷で流刑になったり、死んだりした者は70人に上ったといいます。
上述の金若先の息子・金敉(キム・ミ)については、以下の記事で解説しております。
金慶孫を排除する
呉承績と大氏を排除した崔沆(チェ・ハン)。今度はその矛先を、再び金慶孫(キム・ギョンソン)に向けました。
既に崔沆は、1249年に金慶孫を流刑に処していました。しかし、流刑にするだけでは飽き足らなかったようです。
1251年、崔沆は将軍の宋吉儒(ソン・ギリュ)を、金慶孫の流刑地である白翎島に派遣し、金慶孫を海に投げ込ませて殺害したのです。
高麗の歴史書『高麗史』によれば、崔沆が金慶孫を殺害した理由は、死んだ呉承績(オ・スンジョク)の姻戚であったからだといいます。
『高麗史』の記述に従うのであれば、金慶孫は呉承績に連座して死刑になったことになります。
しかし、実際には金慶孫が呉承績の姻戚だったかどうかは怪しく、これは口実に過ぎなかったと思われます。
恐らく、崔沆は口実を作って金慶孫に罪を被せ、彼を冤罪で殺害したのだと考えられます。
金慶孫の流刑地に派遣された宋吉儒(ソン・ギリュ)については、以下の記事で解説しております。
周粛(チュ・スク)を排除する
周粛(チュ・スク)は崔瑀(チェ・ウ)の腹心で、崔瑀の死後は崔沆(チェ・ハン)に仕えた人物です。
1249年に崔瑀が死去した際、周粛は崔沆への政権継承を阻止して王政復古を目論んだものの失敗しており、結局は崔沆に仕えていました。
初めのうちは、崔沆は周粛が自分の味方になってくれたことを喜び、厚遇していました。
しかし、崔沆と周粛の関係は次第に悪くなっていきました。
結局、崔沆は周粛が気に入らなくなったようで、島流しにしたうえで水に沈めて殺してしまいました。
もともと周粛は王政復古を目論んでいたぐらいなので、初めから到底、崔沆と分かり合えるような人物ではなかったのでしょう。
ともあれ、崔沆はまた一人臣下を排除したことになります。
朴暄(パク・フォン)を排除する
崔沆(チェ・ハン)による臣下の排除はまだ終わりません。
かつて、崔沆が寺で悪行を働いていた頃、朴暄(パク・フォン)という者がその悪行を崔瑀(チェ・ウ)に訴えたことがありました。※詳しくは、本記事内の「朴暄(パク・フォン)が萬宗と萬全を訴える」を参照
それ以降、崔沆は朴暄のことを心底恨んでいました。
今や最高権力者となった崔沆は、かつての恨みを晴らそうと、朴暄を海に投げ捨てて殺害してしまいました。
鄭晏(チョン・アン)を排除する
鄭晏(チョン・アン)は崔瑀(チェ・ウ)の姻戚で、崔沆(チェ・ハン)からすれば叔父のような立ち位置の人物でした。
ですが、崔沆は鄭晏のことを妬んでおり、表面には出さないものの、普段から嫌っていました。
鄭晏は聡明で知恵が深く、学に秀でた優秀な文臣で、その門下には弟子がいました。
ある日、鄭晏が門生とともに世相について議論しながら、「人の命は極めて重要なものなのに、崔令公(=崔沆)は人を殺すことがどうしてこのように酷いのか」と言いました。
鄭晏は、崔沆が大勢の人々を殺す現状を批判したのです。
ところが、よりによって、この鄭晏の言葉が崔沆の耳に伝わってしまいます。
もとから崔沆は鄭晏のことを嫌っていたため、ここに至って怒りを爆発させました。
崔沆は鄭晏に二心があるとして、彼を流刑にしたのち、すぐに人を送って水に投げ込んで殺してしまいました。
以上のように、崔沆(チェ・ハン)は自分の気に入らない者を排除し尽くしたのです。
モンゴルの出陸要請を拒否する
崔瑀(チェ・ウ)の時代以来、高麗は北方のモンゴル帝国による侵略に苦しめられてきました。
かつて、1232年、時の最高権力者だった崔瑀は、高麗の都を開京(ケギョン、現在の北朝鮮・開城市)から江華島(カンファド)に遷しました。
これはモンゴル軍の侵略から都を守るための苦肉の策でした。
というのも、江華島は強い水流によって高麗本土から隔てられており、モンゴル軍が侵攻できない環境にあったからです。
崔瑀を中心とする高麗政府は、この江華島を拠点に、これまでモンゴルの侵略に対して徹底的に抵抗してきたのです。
崔瑀を受け継いだ崔沆(チェ・ハン)も、この政策を維持して、モンゴルの侵略に抵抗してきました。
そのような中、1252年にモンゴルが高麗に使者を遣わし、高麗王に対して、江華島から高麗本土に出てきて使者を迎えるよう命じてきました。
このときの高麗王は、第23代の高宗(コジョン)です。
これ以前から、モンゴルは高麗政府に対して、江華島から「出陸」し、都を開京に戻すように求めていました。
モンゴルはその手始めとして、このとき高麗王に江華島から出てモンゴルの使者を迎えるように命じたのです。
もちろん、崔沆が黙っているはずがありません。
崔沆はモンゴルの要請を断固拒否し、高宗に江華島から出ないよう進言しました。
高麗の官僚たちも崔沆の意見に逆らうわけにはいかず、その意見に同調しました。
これにより、高宗はモンゴルの使者を出迎えないことになりました。
モンゴルは高麗政府が命令に従わなかったことを怒って、高麗に侵攻してきました。これにより、高麗本土では、甚大な被害がでました。
再びモンゴルの出陸要請を拒否する
1253年、モンゴルに滞在していた高麗王族の永寧公王綧(ヨンニョンゴンワンジュン)が、崔沆(チェ・ハン)に手紙を送ってきました。
その手紙の内容は、高麗王(高宗)か太子が江華島から出てきて、高麗本土でモンゴルの使者を迎えるように促したものでした。
永寧公王綧は祖国である高麗のことを案じて、このような手紙を送ってきたのです。
また、1252年にモンゴルへ赴き現地で拘留されていた高麗使者の李峴(イ・ヒョン)も、崔沆に手紙を送ってきて、モンゴルの要請に従うことが国を維持する上策だと主張しました。
これを受けて、高麗の官僚たちの間では、モンゴルの要請に従おうという意見が大勢になりました。
しかし、やはり崔沆は断固拒否の姿勢を貫きました。
こうなっては、誰も崔沆に逆らえるはずがありません。
結局、官僚たちも崔沆に同調したので、ついに王がモンゴルの使者を迎える話はなかったことになりました。
このあとも、高麗はモンゴルへの抵抗を続けていくことになります。
崔沆の最期
1257年、崔沆(チェ・ハン)は病気で死去しました。
崔沆は死去する前、家臣の宣仁烈(ソン・インニョル)と柳能(ユ・ヌン)を呼び寄せ、自分の息子である崔竩(チェ・ウィ)のことを託しました。
崔沆は崔竩に武臣政権を継がせるつもりでした。そこで、信頼できる家臣に崔竩のことを託したのです。
崔沆の死去後、宣仁烈・柳能、それから崔良伯(チェ・ヤンベク)の後援により、武臣政権は無事に崔竩へ引き継がれました。
しかし、この崔竩政権はたった1年で崩壊することになります。これにより、60年続いた崔氏政権に終止符が打たれることになるのです。
このあたりのことについては、以下の崔良伯(チェ・ヤンベク)の記事で詳しく解説しております。
ドラマ『武神』と史実の違い
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
崔沆と金俊(キム・ジュン)の関係
ドラマ『武神』では、崔沆(チェ・ハン)が金俊(キム・ジュン)のことを兄と仰ぎ、一切のことを彼に任せていました。
それは、崔沆が権力を握るにあたって、金俊の活躍が大きかったからでした。それゆえに、崔沆は金俊に恩があり、頭が上がらなかったのです。
実際、崔沆が武臣政権を継ぐにあたって、金俊の活躍が大きかったことは史実です。
ですが、ドラマのように、崔沆が金俊のことを兄と仰いだり、政治の全てを彼に任せたりしたかどうかは、そういった記録がないので定かではありません。
このあたりはドラマのフィクションと言えそうです。
ところで、ドラマでは、崔瑀(チェ・ウ)が金俊に後継者決めを一任し、萬宗と萬全のどちらが後継者として相応しいのかを決めさせました。
しかし、歴史書には、金俊が崔瑀の後継者決めに関与したという記録はありません。これもフィクションだと考えられます。
崔沆は毒殺されたのか?
ドラマ『武神』では、崔沆(チェ・ハン)は金俊(キム・ジュン)によって毒殺されました。
しかし、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』には、崔沆が金俊に毒殺されたという記録はありません。ただ「病死」したことが記されるのみです。
他方で、崔沆が暴政を極めていたのは事実であるため、彼に不満を持つ者が大勢いたことは想像に難くありません。
もしかすると、そうした者たちが金俊のもとに集結し、毒殺を促した可能性はあるかもしれません。
いずれにしても、歴史書には「病死」したことが記されるだけなので、それを毒殺と断定することはできなさそうです。
参考文献
- 『高麗史』巻23、世家第23、高宗35年(1248)3月
- 『高麗史』巻23、世家第23、高宗36年(1249)1月21日
- 『高麗史』巻23、世家第23、高宗36年(1249)11月5日
- 『高麗史』巻23、世家第23、高宗37年(1250)12月15日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗38年(1251)1月12日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗39年(1252)2月22日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗40年(1253)2月
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗40年(1253)10月26日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗41年(1254)7月18日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗41年(1254)12月26日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗42年(1255)2月17日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗42年(1255)2月26日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗42年(1255)12月27日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗43年(1256)3月27日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗43年(1256)6月23日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗43年(1256)8月7日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗44年(1257)閏4月2日
- 『高麗史』巻100、列伝第13、諸臣、鄭晏
- 『高麗史』巻103、列伝第16、諸臣、金慶孫
- 『高麗史』巻105、列伝第18、諸臣、柳璥
- 『高麗史』巻122、列伝第35、酷吏、宋吉儒
- 『高麗史』巻125、列伝第38、姦臣、朴暄
- 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔怡
- 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔沆
- 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔竩
- 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗27年(1240)、12月
- 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗36年(1249)11月
- 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗44年(1257)6月
- 「崔沆墓誌銘」









