武神 チュスク(周肅)は実在した武臣

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高麗

ドラマ『武神』に登場するチュ・スク。

ドラマでは、チェ・ウ(崔瑀)の家臣の一人で、常に権力の趨勢をうかがう日和見主義者として描かれていました。

チュ・スクは実在の人物です

実際はどのような人だったのでしょうか。

この記事では、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づき、チュ・スクという人物について解説していきます。

周肅(チュ・スク)の詳細

周肅(チュ・スク)の基本情報

姓名:周肅(チュ・スク) ※初名は周永賚(チュ・ヨンルェ)
出生年:不明
死亡年:1250年
最終官職:枢密院副使

家族構成

不詳

周肅(チュ・スク)の生涯

崔瑀(チェ・ウ)の腹心となる

実は、周肅(チュ・スク)についての記録はさほど残されておらず、生い立ちや若い頃のことは全くわかりません。

高麗の歴史書によれば、周肅は、崔氏武臣政権の最高権力者・崔瑀(チェ・ウ)と姻族関係にあったと伝わっています。

その性格は虚飾を好み、傲慢であったといいます。

崔瑀は周肅と姻族関係にあったことから、彼を腹心として重用しました。

例えば、崔瑀は讒訴(他人を陥れるための虚の訴え)があると、必ず周肅に任せて処理をさせていました。

しかし、周肅は崔瑀の顔色をうかがって、その讒訴が事実かどうかを確かめずに、被告人を全て殺してしまいました。

また、崔瑀は周肅に武官の選抜を任せましたが、周肅は賄賂が多いか少ないかという基準で順位を決めたので、人々は皆悔しがったといいます。

こうした記録を見ると、周肅は崔瑀のもとで権力を有し、ほしいままに振る舞っていた様子がうかがえます。

崔瑀の死後、王政復古を企む

1249年、崔瑀(チェ・ウ)が病で死去しました。

このとき、周肅(チュ・スク)は上将軍(正3品の高級武官職)として、夜別抄(高麗における軍隊組織の一つ)などの軍隊を率いる立場にありました。

周肅は崔瑀の死去に乗じて、自らの指揮下にある夜別抄などの軍隊を利用して、政権を王に返そうと考えました。

本来、崔瑀から崔沆(チェ・ハン)へと政権が継承されるところを、周肅はその政権を崔氏から王に返し、王政復古を実現しようとしたのです。

崔沆
崔瑀(チェ・ウ)の庶子。当初、寺に送られて僧侶になっていたが、急遽、崔瑀に呼び戻され、その後継者となる。その後、崔瑀を継いで、武臣政権の最高権力者となる。

ですが、周肅は躊躇して、中々実行に移せずにいました。

そうこうしているうちに、崔氏家の奴隷であった李公柱(イ・ゴンジュ)崔良伯チェ・ヤンベク)金俊(キム・ジュン)など70人あまりが、崔沆の支持にまわりました。

こうなってしまうと、もはや周肅に実行の余地はありませんでした。

結局、周肅の企みは机上の空論となって、彼もまた崔沆の味方につくこととなるのです。

ドラマ『武神』でも活躍した、李公柱(イ・ゴンジュ)・崔良伯(チェ・ヤンベク)金俊(キム・ジュン)については、以下の記事で解説しております。

崔沆(チェ・ハン)に気に入られる

周肅が味方についたことで、崔瑀(チェ・ウ)から崔沆(チェ・ハン)への政権継承が無事に終わりました。

崔沆が武臣政権の最高権力者の座に君臨することとなったのです。

このとき、崔沆は味方についてくれた周肅(チュ・スク)のことを厚遇し、あらゆることを彼に相談するほどだったといいます。

崔沆については、以下の記事で詳しく解説しております。併せてご覧ください。

崔沆により処刑される

崔沆(チェ・ハン)に気に入られた周肅(チュ・スク)でしたが、ある事をきっかけに、お互いの関係は悪くなっていきます。

あるとき、崔沆が見子山という山の邸宅へ行ったとき、このことを事前に周肅に知らせませんでした。

これを知った周肅は、崔沆に不信感を抱きました。周肅は、なぜ自分に知らせなかったのか、そう思ったことでしょう。

これをきっかけに、二人はお互いに疑い、嫌うようになっていきました。

結局、崔沆は周肅が邪魔になったようで、流刑に処したうえで、流刑地に送る途中で海に沈めて殺してしまいました。

これが周肅の最期でした。

もともと、周粛は王政復古を企んでいたぐらいなので、初めから到底、崔沆と分かり合えるような人物ではなかったのでしょう。

参考文献

  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔沆
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗37年(1250)3月
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