武神 キムヤクソンの息子・キムミは実在した人

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アイキャッチ画像 高麗

韓国ドラマ『武神』に登場するキム・ミ。

キム・ミはキムヤクソンの息子で、実在した人物です。

この記事では、キム・ミの生涯について、高麗の歴史書『高麗史』及び『高麗史節要』に基づいて解説します。

後半では、ドラマ『武神』で描かれるキム・ミと史実の違いも解説しております。

金敉(キム・ミ)の詳細

金敉(キム・ミ)の基本情報

姓名:金敉(キム・ミ)
出生年:不明
死亡年:不明
最終官職:司空

家族構成

父:金若先(キム・ヤクソン)
母:崔氏

妹:金氏

配偶者:襄陽公(高麗22代王神宗の息子)の娘

金敉(キム・ミ)の生涯

生い立ち

金敉(キム・ミ)の生い立ちについては、残念ながら歴史書に記録がなく、よくわかっていません。

父の金若先(キム・ヤクソン)は、高麗朝で代々重職を歴任してきた家門の出身でした。

母の崔氏(ドラマでは「ソンイ」)は、崔氏政権2代目の執政者である崔瑀(チェ・ウ)の娘でした。

父の金若先(キム・ヤクソン)、母の崔氏については、以下の記事で解説しております。併せてご覧ください。

讒訴で流刑にされる

ある日、崔瑀(チェ・ウ)のもとにある者がやって来て、金敉(キム・ミ)のことを陥れようと、讒訴(嘘の訴え)しました。

崔瑀はこの者の訴えを信じてしまったのか、金敉を呼びつけて叱責し、ひいては頭を剃らせて僧侶にさせ、河東(ハドン、現在の慶尚南道・河東郡)に流刑にしました。

さらに、崔瑀は金敉と親しくしていた金正暉(キム・ジョンヒ)・孫仲秀(ソン・ジュンス)・安琦(アン・ギ)など35名を捕まえ、彼らを川に投げ込んで殺してしまいました。

崔瑀に呼び戻される

しばらくして、金敉は崔瑀(チェ・ウ)に流刑地から呼び戻されて還俗し、司空(サゴン)という官職に任命されました。

司空は王族のみが就ける官職でした。

金敉が司空に任命されたのは、彼が襄陽公(高麗22代王神宗の息子)の娘と結婚していたためでした。

しかし、司空というのは、実際には実権がなく名ばかりの官職でした。

崔瑀が金敉を司空に任命したのは、実は崔沆(チェ・ハン)との対立を避けさせるためでした。

崔沆は崔瑀の息子で、のちに崔瑀を継いで崔氏政権3代目の執政者となります。

というのも、金敉は崔瑀の孫にあたるため、ともすれば崔瑀の後継者になり得る地位にあったからです。

これは、崔沆にとってみれば面白いことではありません。崔沆としては、自分が後継者だと自認しているからです。

しかも、金敉が流刑地から帰ってきたとき、将軍の劉鼎(ユ・ジョン)を筆頭に金敉を後継者に立てるよう要請した連名状が、崔瑀のもとに送られてきました。

崔沆よりも金敉を後継者に望んでいた者が多くいたことがわかります。

このままでは、崔沆が金敉に恨みを持つ可能性がありました。

そこで、崔瑀は金敉を名ばかりの官職である司空に任命することで、金敉を後継ぎにするつもりはないという意思を、崔沆に示したのだと思われます。

こうして、崔瑀は崔沆と金敉の対立を避けさせようとしたのです。

ところが、崔瑀のこうした配慮にもかかわらず、どうやら二人の関係はギクシャクしていたようです。

崔沆(チェ・ハン)については、以下の記事で詳しく解説しています。併せてご覧ください。

金敉の策謀

あるとき、金敉(キム・ミ)は崔沆(チェ・ハン)が自分を殺そうとしているという話を耳にしました。

このような話が流布しているあたり、金敉と崔沆の関係はギクシャクしていたのでしょう。

そこで、金敉(キム・ミ)は自分が殺される前に手を打たなければならないと思い、叔父の金慶孫(キム・ギョンソン)に手紙を送り、先に謀(はかりごと)をしようと話を持ちかけました。

この手紙に書かれた「謀」が、具体的にどのような内容だったのかは記録がありませんが、恐らく崔沆を始末しようという内容だったと思われます。

しかし、叔父の金慶孫は、この謀(はかりごと)によって自分に災いが及ぶことを恐れ、この手紙のことを崔瑀(チェ・ウ)に報告しました。

これを知った崔瑀は、金敉を高瀾島(コランド)という島に流刑としました。

さらに、このときになって崔瑀は、過去に金敉を後継者とするよう連名状を送った者たちにも罪を問い、彼らを川に投げ込んで死刑にしたり、あるいは流刑にしたりしました。

これ以降の金敉については歴史書に記録がないため、知ることができません。流刑地で一生を終えたのかもしれません。

ドラマ『武神』と史実の違い

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

金敉の策謀は崔瑀政権時代に行われた

ドラマ『武神』では、金敉(キム・ミ)が策謀し、崔沆(チェ・ハン)を倒すために金慶孫に挙兵を促す手紙を送るシーンが描かれています。

ドラマでは、その手紙を受け取った金慶孫が崔沆にその内容を全てを打ち明け、金敉を許すよう懇願していました。

しかし、史実では、金敉が金慶孫に手紙を送った時期は、崔沆政権の時代ではなく崔瑀(チェ・ウ)政権時代のことでした。

具体的には、崔瑀政権時代のときに金敉は崔沆に殺されることを恐れ、先に対策を講じようとして金慶孫に手紙を送ったというのが事実です。

金敉は崔沆が崔瑀を継いで政権を握る前に、どうにかして崔沆を排除しようと目論んでいたのだと思われます。そうしなければ、自分が殺される可能性があったからです。

そのため、金慶孫(キム・ギョンソン)が手紙の内容を打ち明けたのも、崔沆に対してではなく、崔瑀に対してでした。

この手紙の内容を知った崔瑀(チェ・ウ)は、金敉を流刑にしますが、特に金慶孫に罰を加えることはしませんでした。

ドラマでは、この手紙が発端となって金慶孫は死刑にされてしまいましたが、史実ではそうではなかったのですね。

実は金慶孫の死の原因はほかにありました。このことについては、以下の金慶孫の記事で解説しております。併せてご覧ください。

参考文献

  • 『高麗史』巻 101、列伝第 14、諸臣、金若先
  • 『高麗史』巻 101、列伝第 14、諸臣、金敉
  • 『高麗史』巻 129、列伝第 42、叛逆、崔沆
  • 『高麗史節要』巻 16、高宗 3、高宗 34 年(1247)6 月
  • 『高麗史節要』巻 16、高宗 3、高宗 36 年(1249)2 月
  • 『高麗史節要』巻 16、高宗 3、高宗 37 年(1250)3 月
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