韓国ドラマ『武神』に登場するイ・ジャンヨン。
ドラマでは、若い頃はチェ・ヒャンの策士として、のちには国王の側近として、その聡明で冷静な性格を発揮していました。
ドラマを見ていて好きになった方も多いのではないでしょうか。
イ・ジャンヨンは実在した人物です。
この記事では、イ・ジャンヨンの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて解説していきます。
記事の最後では、ドラマ『武神』で描かれるイ・ジャンヨンと史実との違いも解説しております。
李蔵用(イ・ジャンヨン)の詳細
李蔵用の基本情報
姓名:李蔵用(イ・ジャンヨン)※初名は李仁祺(イ・インギ)
出生年:1201年
死亡年:1272年
最終官職:門下侍中
諡号:文真
家族構成
父:李儆(イ・ギョン)
母:不明
李蔵用(イ・ジャンヨン)の生涯
生い立ち
李蔵用(イ・ジャンヨン)の生い立ちについては、詳しい記録が残っていません。
父の李儆(イ・ギョン)は清廉で欲が少なく、経史に精通しており、宰相職の一つである枢密院使まで昇進したといいます。
その息子の李蔵用も聡明で学に秀でていたようで、高宗(高麗23代王)の時代に科挙に合格し、朝廷の官職を得ました。
その後、李蔵用はどんどん昇進を重ね、1256年には枢密院副使(宰相職の一つ)となりました。
歴史書に李蔵用の記録がよく見られるようになるのは、彼が枢密院副使となった1256年以降です。
ここからは、その活動を見ていくことにしましょう。
モンゴルが元宗(ウォンジョン)の入朝を求める
1264年、モンゴル(北方の大国。チンギス・ハンが建国)が高麗の国王である元宗(第24代王)に入朝を求めてきました。
モンゴルと高麗
1231年より、モンゴルは高麗を服属させるため、度々侵攻してきました。これに対し、高麗の武臣政権はモンゴルとの徹底抗戦を掲げて抵抗を続けてきました。しかし、やがて高麗は疲弊し、戦う余力もなくなっていきました。そのような現実を見た元宗(高麗24代王)は、モンゴルとの講和を推進します。
実は元宗は太子時代に、一度モンゴルに入朝したことがありました(1259年)。
このとき、再度モンゴルが元宗の入朝を求めたのは、改めて高麗王となった元宗の入朝を受け入れることで、主従関係を明確に示したかったからだと思われます。
また、モンゴルには高麗の王室と良い関係を築くことで、当時高麗で権力を振るっていた武臣政権を孤立させようという思惑もありました。
というのも、高麗では長らく武臣政権がモンゴルに抵抗を続けてきたからです。モンゴルにとって武臣政権は邪魔で仕方なかったのです。
元宗の入朝をめぐって金俊(キム・ジュン)に意見する
モンゴルが元宗の入朝を求めると、時の武臣政権の執政者であった金俊(キム・ジュン)は、万が一にも変事があってからでは遅いといって入朝に反対しました。
これに対し、李蔵用(イ・ジャンヨン)が進言して、「私は恐らく何事も起こらないと信じています。もし変事が起これば、私は妻や子どもを殺されることも覚悟しています」と言いました。
李蔵用は妻子の命をかけてでも、モンゴルの入朝要請に従うべきだと主張したのです。
李蔵用がここまでしたのは、元宗がモンゴルに入朝しなければ、モンゴルと高麗の関係が悪化すると考えていたためです。
金俊などの武臣たちとは違って、李蔵用はモンゴルとの講和を望んでいた一人でした。国王の元宗も講和派でした。
李蔵用の覚悟を決めた進言によって議論は決着し、元宗はモンゴルに入朝することになりました。
李蔵用もまた、元宗に随行してモンゴルに入朝しました。
※金俊(キム・ジュン)については、以下の記事で詳しく解説しております。
巧みな弁舌でモンゴルの宰相を論破する
1264年、モンゴルの入朝要請に応じ、元宗は李蔵用(イ・ジャンヨン)とともにモンゴルに入朝しました。
このとき、モンゴル朝廷に仕えていた高麗王族の永寧公・王綧(ヨンニョンゴン・ワンジュン)は、モンゴルの丞相(宰相)に対して次のように述べました。
「高麗には38領の軍隊があり、各領は1,000人ずつであるため、合計で38,000人です。もし、私を〔高麗へ〕送ってくださるなら、全員を率いてきて〔モンゴル〕朝廷のために活用いたします」
『高麗史』巻102、列伝第15、諸臣、李蔵用
これを聞いた丞相は、ちょうど入朝していた李蔵用を呼んで、これが事実かどうかを尋ねました。
もし事実であれば、永寧公王綧の言う通りに、モンゴルは高麗の軍隊を徴兵して活用するつもりだったのでしょう。
丞相の質問に対し、李蔵用は次のように回答しました。
「我が太祖(=高麗の建国者王建)の時代の制度は概ねこのようなものでしたが、最近の戦争と凶年で人口が減少し、たとえ1,000人と言っても、実際はそうではありません。(中略)どうか王綧とともに高麗へ行き、調査してください。王綧の言葉が正しければ私の首を刎ね、私の言が正しければ王綧の首を刎ねてください」
『高麗史』巻102、列伝第15、諸臣、李蔵用
このように、李蔵用は王綧が言ったことを否定し、実際のところ高麗にはそんなに軍隊はいないのだと主張しました。
もちろん、これはモンゴルの徴兵を逃れるための言い訳です。
ですが、李蔵用が首をかけようという強気な発言をしたため、これを聞いた王綧はあえて何も言うことができなかったといいます。
重ねてモンゴルの丞相は、高麗の戸数と人口がどれほどなのかを問いました。
李蔵用が「知りません」と答えると、丞相は「あなたは一国の宰相なのに、なぜ知らないのか?」と責めました。
これに対し、李蔵用は窓の格子を指さして、「丞相は、これらが全部で何個あるとお考えですか?」と言いました。
丞相が「知らない」と答えると、李蔵用は「小国(=高麗)の戸口数は役人が管轄しているため、たとえ宰相であっても全てを知ることができましょうか」と述べて、巧みに丞相の問いをかわしました。
これを聞いた丞相は何も答えることができなかったといいます。
モンゴルで李蔵用に会った人々は、その弁舌や言葉使いに感心し、彼のことを「海東賢人」と称賛したほどでした。
巧みな弁舌でモンゴルの要請を逃れる
モンゴルから帰国したのち、李蔵用(イ・ジャンヨン)は昇進を重ねて、1268年には門下侍中に任命されました。
門下侍中は現在の首相ポジションと言えます。李蔵用は官僚のトップに就任したのです。
他方でこの頃、モンゴルが宋(中国王朝)と日本を討伐するといって、高麗に何度も使者を派遣し、兵を送るよう命令してきました。
モンゴル使者が訪れると、李蔵用は巧みな弁舌で対抗し、うまい具合にモンゴルの要請を逃れました。
次いでモンゴルは、李蔵用に対して、直接入朝して高麗の軍の数を報告するよう命令しました。
再びモンゴルに入朝した李蔵用は、ここでも「戦争と疫病によって兵士がいなくなった」などと言ってごまかし、うまく言い逃れることに成功します。
李蔵用がいかに弁舌に優れた人物であったかがうかがえます。
林衍(イム・ヨン)による元宗の廃位に協力する
1268年12月、武臣の林衍(イム・ヨン)が金俊(キム・ジュン)を倒し、新たな武臣政権のリーダーとなります。
このとき、国王の元宗(高麗24代王)は権臣金俊がいなくなったのを好機と見て、これまで長らく武臣に掌握されていた権力を、王権のもとに取り戻そうとします。
しかし、新たな武臣政権のリーダーとなった林衍がこれを傍観しているはずがありません。
林衍は元宗の側近勢力を殺害したのち、宰相たちを集めて元宗を廃位することについて議論させました。
林衍が宰相たちに事の是非を問うと、宰相たちはあえて答えることができませんでした。宰相たちは反対の意を持っていましたが、言い出せなかったのです。
林衍が何度も問いただすと、李蔵用(イ・ジャンヨン)がもはや林衍を阻止する手段はないと判断し、王の譲位を提案しました。
李蔵用の提案に対し、兪千遇(ユ・チョヌ)という人物が反対しましたが、結局、林衍は王の廃位を実行します。
1269年6月、林衍は鎧を身にまとって軍隊を率いながら、安慶公・王淐(アンギョンゴンワンチャン)を擁立して王位につかせ、元宗を廃位しました。
安慶公王淐
高宗(高麗23代王の)子。元宗の弟。
このように、李蔵用は決して乗り気ではありませんでしたが、林衍による元宗の廃位に仕方なく協力したのです。
元宗の廃位に成功した林衍は、李蔵用に礼を述べたといいます。
※林衍(イム・ヨン)については、以下の記事で詳しく解説しております。併せてご覧ください。
モンゴル皇帝に元宗廃位の事実を述べる
林衍(イム・ヨン)によって元宗が廃位されたとき、ちょうど世子(王の跡継ぎ。のちの忠烈王)がモンゴルに入朝していました。
その世子はモンゴルから帰る途中、元宗が廃位されたという情報を得ます。
このことを知った世子は、慟哭しながらモンゴルに引き返しました。
世子がモンゴルに引き返したのは、ただちに高麗に帰れば林衍に身を害される危険性があったことと、元宗を復位させるためにモンゴルの力を借りようとしたからです。
林衍は世子がモンゴルに引き返したことを恐れ、李蔵用(イ・ジャンヨン)をモンゴルに派遣し、世子を説得して高麗に戻らせようとしました。
林衍にとって李蔵用は元宗廃位の協力者であったため、信頼して派遣したのだと思われます。
なおかつ、弁舌に長けた人物でもあったため、世子の説得を任せたのでしょう。
ところが、李蔵用は世子を説得するどころか、モンゴル皇帝に林衍が元宗を廃位させた事実を全て話してしまいました。
なぜ、李蔵用が事実を話したのかは具体的な記録がないため、よくわかりません。
恐らく、李蔵用は元宗の廃位に協力したことを後悔していたのだと思われます。
そもそも、李蔵用は林衍を阻止することはできないと悟って、仕方なく元宗の廃位に協力した立場でした。
本心では、元宗を廃位することに肯定的ではなかったはずです。
そのときの選択を後悔した李蔵用は、ここで全てを話し、罪を償おうとしたのかもしれません。
元宗が復位する
元宗廃位の事実を知ったモンゴル皇帝は、林衍(イム・ヨン)が勝手に元宗を廃位したことに憤怒し、高麗に使者を送って林衍を問責しました。
元宗はモンゴル皇帝から承認を受けた王だったので、その王を勝手に廃位することは、モンゴルに対する背反行為でした。モンゴル皇帝が怒った理由はそこにあります。
林衍は度重なるモンゴルの問責を受け、やむを得ず、元宗を復位させました。
モンゴルに責任を問われて免職する
1270年1月、復位した元宗が一連の廃位事件について説明するため、モンゴルに入朝しました。
このとき、李蔵用(イ・ジャンヨン)は高麗に帰る途中でしたが、偶然にも道中でモンゴルに向かっていた元宗に出会います。
そこで、李蔵用は再びモンゴルに行き、元宗とともにモンゴル皇帝に謁見して事実を話すことにしました。
ここで、改めて李蔵用は、林衍(イム・ヨン)が元宗を廃位させた事実をモンゴル皇帝に報告しました。
翌年(1271年)、モンゴル皇帝は、李蔵用を林衍と共謀して元宗を廃位した罪で免職しました。
これを受けて李蔵用は、「当時死ぬことができなかったのだから、これがどうして罪ではないと言えようか」と言って、潔く罪を受け入れました。
やはり、李蔵用は林衍を阻止できずに元宗の廃位に協力してしまったことを、深く悔いていたようです。
そして1272年、李蔵用は天寿を全うして世を去りました。
ドラマ『武神』と史実の違い
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
チェ・ヒャンの家臣ではなかった
ドラマ『武神』では、最初、李蔵用(イ・ジャンヨン)はチェ・ヒャン(チェ・ウの弟)の家臣として登場しました。
若くして聡明だった李蔵用は、チェ・ヒャンのもとで策士として活躍していました。
しかし、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』には、李蔵用がチェ・ヒャンの家臣であったという記録はありません。
これはドラマのフィクションです。
歴史書には若い頃の李蔵用についての記録が残っていないため、ドラマはそこを埋め合わせて、チェ・ヒャンの家臣であったという設定にしたのだと思われます。
参考文献
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗43年(1256)12月25日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)12月27日
- 『高麗史』巻25、世家第25、元宗3年(1262)12月25日
- 『高麗史』巻25、世家第25、元宗4年(1263)12月15日
- 『高麗史』巻25、世家第25、元宗4年(1263)12月20日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗6年(1265)10月5日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗8年(1267)10月29日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗9年(1268)1月17日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗9年(1268)3月21日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗9年(1268)6月25日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)6月18日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)8月1日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗11年(1270)1月9日
- 『高麗史』巻27、世家第27、元宗12年(1271)1月6日
- 『高麗史』巻27、世家第27、元宗13年(1272)1月28日
- 『高麗史』巻73、志第27、選挙1、科目1、科挙場
- 『高麗史』巻102、列伝第15、諸臣、李蔵用
- 『高麗史』巻130、列伝第43、叛逆、林衍
- 『高麗史節要』巻18、元宗順孝大王、元宗5年(1264)5月
- 『高麗史節要』巻18、元宗順孝大王、元宗9年(1268)3月
- 『高麗史節要』巻18、元宗順孝大王、元宗9年(1268)4月
- 『高麗史節要』巻18、元宗順孝大王、元宗10年(1269)8月
- 『高麗史節要』巻19、元宗2、元宗13年(1272)1月


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