武神 キムギョンソンは実在の英雄

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アイキャッチ画像 高麗

韓国ドラマ『武神』に登場するキム・ギョンソン。

ドラマでは、度重なるモンゴル軍の侵攻を防いだり、国内の反乱を鎮圧したりするなど、高麗を守る英雄として描かれていました。

特に亀州城での戦いぶりは圧巻でしたね。

キム・ギョンソンは実在した人物です。 

この記事では、キム・ギョンソンの生涯について、史実に基づいて解説していきます。

後半では、ドラマ『武神』で描かれるキム・ギョンソンと史実の違いも解説しております。

キム・ギョンソンの兄であるキム・ヤクソンについては、以下の記事で解説しております。併せてご覧ください。

金慶孫(キム・ギョンソン)の詳細

金慶孫(キム・ギョンソン)の基本情報

姓名:金慶孫(キム・ギョンソン)
出生年:不明
死亡年:1251年(高宗38年)
最終官職:枢密院副使

家族構成

父:金台瑞(キム・テソ)
祖父:金鳳毛(キム・ボンモ)

兄:金若先(キム・ヤクソン)、金起孫(キム・ギソン)

配偶者:不詳
息子:金琿(キム・ホン)

金慶孫(キム・ギョンソン)の生涯

ここでは、高麗の歴史書である『高麗史』と『高麗史節要』に基づき、金慶孫(キム・ギョンソン)の生涯をたどります。

生い立ち

金慶孫(キム・ギョンソン)の父である金台瑞(キム・テソ)は高麗朝で重職を歴任した人物で、その祖先は新羅王室の出身でした。

金慶孫の母親については記録がないため、よくわかりません。

『高麗史』によれば、金慶孫は生まれると、その容貌が美しく、頭上にそびえ立つ骨が竜の爪のようであったとあります。

また、性格は温和で、知略と勇気が超越しており、怒ると髭と髪の毛が逆立ったといいます。

金慶孫の生い立ちについては、これぐらいしか記録がなく、あまり詳しいことはわかっていません。

静州分道将軍となる

1231年、金慶孫(キム・ギョンソン)は静州分道将軍となります。

静州は現在の平安北道・義州一帯に当たります。「静州分道将軍」は静州地域を守備する将軍です。

当時、モンゴル軍が鴨緑江(アムノッカン)を越えて、高麗の鉄州(現在の平安北道・鉄山郡)に侵入してきました。

これが第1回高麗・モンゴル戦争(麗蒙戦争)の始まりでした。これ以降、高麗とモンゴルは約40年間の戦争に突入することとなります。

モンゴル軍は鉄州で殺戮を極めると、次いで静州まで侵攻してきました。モンゴル軍を前に、静州は窮地に追い込まれます。

静州でモンゴル軍を退ける

静州分道将軍の金慶孫は、静州城の門を開け、わずか12人の決死隊を率いてモンゴル軍に立ち向かいました。

一井
一井

いかに静州が追い詰められていたかがうかがえますね。城内に戦える兵士はほとんど残っていなかったのでしょう。

金慶孫は決死隊とともに奮戦し、ついにはモンゴル軍を退けることに成功します。

しかし、再びモンゴルの大軍が攻めてくると、静州に住む人たちは、もはや城を守ることができないと思い、逃げ隠れてしまいました。

金慶孫が静州城に戻ると、既に人々が逃げてしまったあとだったので、城はもぬけの殻になっていました。

そこで、金慶孫はやむを得ず静州城を手放し、12人の決死隊とともに、次なる戦場である亀州(現在の平安北道・亀城市)へ向かいました。

亀州城に入る

静州城を離れた金慶孫(キム・ギョンソン)らは、山を登りながら夜行し、7日間かけて亀州城に到着しました。

亀州城には、金慶孫のほか、周辺諸城の将軍や別抄(ピョルチョ、高麗における軍事組織・軍隊)も集まってきました。

亀州城の指揮者であった朴犀(パク・ソ)は、金慶孫に城の南側を守らせました。

亀州城の戦い① 12人の決死隊とともにモンゴル軍に立ち向かう

いよいよモンゴルの大軍が城の南門に迫ってきました。

金慶孫は12人の決死隊と諸城の別抄を率いて城の外に出て、兵士たちに向かって次のように言いました。

「お前たちは命を顧みずに戦い、死んでも退いてはならない」。

ところが、別抄の兵士たちは地にひれ伏したまま応じなかったため、金慶孫は彼らを城に戻し、結局、自らと12人の決死隊だけでモンゴル軍に立ち向かいました。

戦闘の最中、金慶孫に敵の矢が命中し、腕から血が流れました。しかし、金慶孫はそれでもなお太鼓を叩き続け、戦うことを止めませんでした。

そしてついに、4、5回戦った末、モンゴル軍を退けることに成功しました。またもや、金慶孫はたった12人の決死隊とともにモンゴル軍を退けたのです。

金慶孫が城に戻ってくると、朴犀は涙を流しながら彼を出迎え、これ以後、守城のことは全て金慶孫に委任しました。

亀州城の戦い② モンゴル軍を退ける

その後、モンゴル軍が再来し、亀州城を何重にも包囲し、昼夜を問わず攻撃をしてきました。

このとき、金慶孫が椅子に座って戦を指揮していたところ、敵の砲弾が金慶孫の頭上を通り過ぎ、後ろにいた兵士に命中しました。

砲弾に当たった兵士は、体と頭が粉々になってしまいました。

これを見た左右の部下たちは口を揃えて、金慶孫に座る場所を移動するよう請いました。

しかし、金慶孫は、「それはできない。私が動けば兵士たちの心が揺らぐ」と言って、顔色を変えずに同じ場所に座り続けました。

大きな戦闘が続くこと20日あまり・・・。

金慶孫が状況に応じて設備を整え、臨機応変に戦うのを見て、モンゴル軍は彼を鬼神のように思い、ついに包囲を解いて退却していきました。

こうして、亀州城の戦いは金慶孫の大活躍によって、高麗の勝利に終わりました。

ちょうど同じ頃、慈州(チャジュ)でも、将軍の崔椿命(チェ・チュンミョン)がモンゴル軍に固く抵抗を続けていました。

崔椿命(チェ・チュンミョン)の活躍については、以下の記事で解説しております。併せてご覧ください。

李延年兄弟の反乱軍と対峙する

1237年、金慶孫(キム・ギョンソン)は全羅道指揮使となり、羅州城(現在の全羅南道・羅州市)に入城しました。

高麗時代の全羅道は、ほぼ現在の全羅北道、全羅南道を併せた地域に相当します。

当時、草賊の李延年(イ・ヨンニョン)兄弟が百済復興を掲げて、潭陽(タミャン、現在の全羅南道・潭陽郡)で反乱を起こし、仲間を集めながら南下して、羅州へ迫ってきていました。

李延年ら反乱軍の勢いが盛んな一方で、金慶孫が守る羅州城には戦える兵士がほとんどいませんでした。多勢に無勢だったのです。

李延年らが羅州城を包囲すると、金慶孫は城門に登り、「敵は多いといっても、皆がわらじを履いた村民に過ぎない」と言って、城内で戦える兵士を募りました。

すると、30人あまりの兵士が集まりました。

李延年兄弟の反乱を鎮圧する

いよいよ、金慶孫が出陣しようとすると、左右の者たちは、敵の数が多く味方の数が少ないことから、周辺の州・郡から援軍が来るのを待ってから出陣するように促しました。

しかし、金慶孫は意見した者たちを叱責し、それに応じることはありませんでした。

その後も再び左右の者たちが出陣を止めようとしましたが、結局、金慶孫は門を開けて出陣しました。

金慶孫が城門を開けて出てくると、反乱軍の首領である李延年(イ・ヨンニョン)は仲間たちに向かって言いました。

「金慶孫指揮使は亀州で功を立てた大将で、人望がとても厚い。私は彼を生け捕りにし、我々の都統(=指揮者の一人)にしようと思っているから、弓で射てはならない」。

一井
一井

つまり、李延年は金慶孫を生け捕りにし、味方に引き込もうとしたのですね。

李延年ら反乱軍は弓を使わずに剣や槍で戦い、金慶孫を生け捕りにしようとしました。

ところが、弓を使わなかったことが、かえって李延年らにとっては裏目に出ました。

金慶孫とその兵士たちが死ぬ気で応戦したことで、李延年は討ち取られてしまったのです。

首領なき反乱軍はもはや統率が取れなくなり、総崩れとなりました。

こうして、金慶孫と羅州の兵士たちの活躍により、李延年兄弟の反乱は鎮圧されたのです。

冤罪で殺される

数々の戦いで戦果を上げた英雄金慶孫(キム・ギョンソン)ですが、その最期は実に悲運なものでした。

1249年、崔沆(チェ・ハン、ときの武臣政権の最高権力者)は金慶孫が人望を得ていることを嫌って、彼を白翎島(ペンニョンド、黄海に浮かぶ島)に流刑としました。

その2年後(1251年)、崔沆は私的な恨みから、自らの継母であった大氏と大氏の息子である呉承績(オ・スンジョク)を殺します。

このとき、崔沆は、「金慶孫は呉承績の姻戚である」という理由を挙げて、金慶孫も死刑としました。

金慶孫が呉承績の姻戚だったのかどうかは定かではありません。

恐らく、これは口実に過ぎず、崔沆によって金慶孫は冤罪で殺された可能性が高いです。

崔沆は将軍の宋吉儒(ソン・ギリュ)を白翎島に派遣し、金慶孫を海に投げ込ませて殺害しました。

これが英雄金慶孫の最期でした。

金慶孫の死を受けて、高麗の人々は皆、心を痛めて惜しんだといいます。

崔沆(チェ・ハン)宋吉儒(ソン・ギリュ)については、以下の記事で詳しく解説しています。

ドラマ『武神』と史実の違い

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

金敉(キム・ミ)の策謀は崔瑀(チェ・ウ)政権の時代に行われた

ドラマ『武神』では、金慶孫(キム・ギョンソン)の甥である金敉(キム・ミ)が策謀し、崔沆(チェ・ハン)を倒すために金慶孫に挙兵を促す手紙を送るシーンが描かれています。

ドラマでは、手紙を受け取った金慶孫が崔沆にその内容を全てを打ち明け、金敉を許すよう懇願していました。

しかし、史実では、金敉が策謀して金慶孫に手紙を送ったのは、そもそも、崔沆政権時代の出来事ではなく、崔瑀(チェ・ウ)政権時代の出来事でした。

具体的には、崔瑀政権時代のときから、金敉は崔沆に殺されることを恐れており、先に対策を講じようとして金慶孫に手紙を送ったというのが事実です。

金敉は崔沆が崔瑀を継いで政権を握る前に、どうにかして崔沆を排除しようと目論んでいたのだと思われます。そうしなければ、自分が殺される可能性があったからです。

そのため、金慶孫が手紙の内容を打ち明けたのも、崔沆に対してではなく、崔瑀に対してでした。

手紙の内容を知った崔瑀は金敉を流刑にしますが、特に金慶孫に罰を加えることはしませんでした。

ところで、ドラマでは、この手紙が発端となり、崔沆により金慶孫が死刑にされました。

しかし、繰り返しですが、金慶孫がこの手紙の内容を打ち明けたのは、崔沆に対してではなく、崔瑀に対してであったため、崔沆によって金慶孫が死刑にされたのは、この手紙が発端となったわけではありません。

崔沆が金慶孫を死刑とした理由は、あくまで「呉承績(オ・スンジョク)の姻戚である」ということでした(ただし、これも口実に過ぎず、実際には金慶孫は冤罪で死刑にされたと思われます)。

参考文献

  • 『高麗史』巻99、列伝第12、諸臣、崔璘
  • 『高麗史』巻101、列伝第14、諸臣、金台瑞
  • 『高麗史』巻101、列伝第14、諸臣、金敉
  • 『高麗史』巻103、列伝第16、諸臣、朴犀
  • 『高麗史』巻103、列伝第16、諸臣、金慶孫
  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔沆
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗18年(1231)9月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗24年(1237)
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗36年(1249)閏2月
  • 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗38年(1251)3月
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