武神 テジプソン(大集成)は実在した武臣

※本ページはプロモーションが含まれています
※本ページはプロモーションが含まれています
高麗

ドラマ『武神』に登場するテ・ジプソン。

ドラマでは、チェ・ウ(崔瑀)の家臣の一人で、のちにはチェ・ウの義父となった人物でした。性格はやや傲慢な印象がありましたね。

テ・ジプソンは実在した人物です。

この記事では、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づき、テ・ジプソンという人物について解説していきます。

大集成(テ・ジプソン)の詳細

大集成(テ・ジプソン)の基本情報

姓名:大集成(テ・ジプソン)
出生年:不明
死亡年:1236年
最終官職:守司空

家族構成

娘:大氏(テ氏)
孫:呉承績(オ・スンジョク)

大集成(テ・ジプソン)の生涯

崔忠献(チェ・チュンホン)に官職を剥奪される

大集成(テ・ジプソン)の出生年は不明で、その生い立ちや若い時代のことは、歴史書に記録が残されていません。

大集成についての記録が歴史書に初めて見えるのは、1218年のことです。

1218年、時の最高権力者・崔忠献(チェ・チュンホン)により、郎将(※従6品の中級武官職)の大集成は仮将軍(※不詳。武官職)に任命されました。

しかし、仮将軍になったはいいものの、大集成は自分が指揮できる配下の兵士を持っていませんでした。

そこで、大集成は僧侶や奴隷を脅迫し、無理やり配下の兵士としました。中々の横暴っぷりです。

そのせいで、国は騒然となり、人々は恐れて家の戸を閉め切ったといいます。

この噂を耳にした崔忠献は、怒って大集成の官職を剥奪しました。

ともあれ、これらの記録から、大集成が崔忠献の家臣として活動していたことがうかがえます。

崔瑀の重臣となる

1219年、崔忠献(チェ・チュンホン)が死去し、その息子の崔瑀(チェ・ウ)が武臣政権の最高権力者の座に就きました。

大集成(テ・ジプソン)は崔瑀に仕え、1228年までに大将軍(※従3品の高級武官職)に任命されました。

崔忠献の時代、大集成の官職は郎将(※従6品の中級武官職)だったので、かなりの大昇進をしたことになります。

大集成は崔瑀の重臣たる立場だったと言えるでしょう。

朴奉時(パク・ポンシ)を讒訴して流刑にさせる

1228年、ある僧侶が江陰県(現在の北朝鮮・黄海北道・金川郡)で寺院を建てるために、木を伐採していました。

これを知った江陰県の地方官朴奉時(パク・ポンシ)は、木の伐採を禁止しました。

困った僧侶は、大集成(テ・ジプソン)を頼って、再び伐採できるようにしてほしいと、お願いをしました。

大集成はこのことを崔瑀(チェ・ウ)に伝え、朴奉時に対して伐採を許可せよという命令文を送りました。

しかし、朴奉時は命令に従いませんでした。

大集成は怒って、朴奉時のことを崔瑀に讒訴(でたらめを言って他人を陥れる)したので、朴奉時は遠くに流刑となりました。

当時の人々で、この事件に憤り、嘆かない者はいなかったといいます。

モンゴル軍との戦闘で大敗を喫する

1231年、北方のモンゴル帝国が高麗に侵攻を始めます。

このとき、大集成(テ・ジプソン)は出陣して、安北城(現在の北朝鮮・平安南道・安州市)に入って指揮を取りました。

モンゴル軍が安北城まで進軍してくると、城に駐屯していた高麗の兵士たちは籠城戦を望みました。

しかし、指揮官の大集成が城外に打って出ることを強く主張し、強制的に城外に陣を敷いて、兵士たちを出撃させました。

その結果、モンゴル軍の激しい攻勢により、高麗軍は大敗。死傷者が半数にも上りました。

兵士たちが城下で戦っている間、指揮官の大集成は、ただ城の上から見守っているだけだったといいいます。

この頃の高麗とモンゴルの戦いについては、以下の金慶孫(キム・ギョンソン)崔椿命(チェ・チュンミョン)の記事で解説しています。

崔椿命(チェ・チュンミョン)に恨みを抱く

安北城での敗北などにより、もはやモンゴル軍を阻止できないと悟った高麗の朝廷は、モンゴル軍の元帥サリクタイ(撒礼塔)と講和を結びます。

しかし、朝廷が講和を決めたにもかかわらず、慈州では将軍の崔椿命(チェ・チュンミョン)がモンゴル軍に抵抗を続けていました。

慈州(チャジュ)
現在の北朝鮮・平安南道・順川付近

そこで、サリクタイ(撒礼塔)は、高麗王族の淮安公・王侹(ワン・ジョン)に直接慈州に赴かせ、降伏を勧めさせました。

このとき、王侹は慈州に到着すると、大集成(テ・ジプソン)を城下に派遣して、降伏を促させました。

大集成はサリクタイ(撒礼塔)配下のモンゴル官人とともに城下に行き、崔椿命に降伏を促しました。

しかし、崔椿命は降伏要請に従うことなく、最後まで戦う意志を示しました。

さらに、これに怒ったモンゴルの官人が無理やり城に入ろうとしたので、崔椿命は左右の兵士に命じて矢を射ました。

これにより、大集成とモンゴルの官人はみな逃げ退きました。

降伏要請を拒否されて面目を潰された大集成は、これ以後、崔椿命に深い恨みを抱くようになりました。

崔椿命の処刑を求める

崔椿命に恨みを抱いた大集成(テ・ジプソン)は、崔瑀(チェ・ウ)に進言して、朝廷の命令に背いて降伏しなかった崔椿命の罪は大きいとして、彼を処刑するよう求めました。

崔瑀は大集成の言う通りだと思い、使者を派遣して、崔椿命を斬らせようとしました。

ただ結果としては、その使者が、崔椿命が慈州を守り抜いた忠臣であることを知って処刑を中止したので、崔椿命が処刑されることはありませんでした。

崔瑀(チェ・ウ)の義父となる

1232年、崔瑀(チェ・ウ)が大集成(テ・ジプソン)の娘を迎え入れ、継室(後妻)としました。

崔瑀の前妻と後妻
崔瑀には前妻の鄭氏(チョン氏)がいましたが、1231年に死去しました。『高麗史』によれば、その翌年、崔瑀は大集成の娘が未亡人であり、美貌であったことから、継室(後妻)として迎えたとされます。

これにより、大集成は崔瑀の義父になったことになります。

これをいいことに、大集成はモンゴル軍に大敗して都に帰ってきたにもかかわらず、傲慢な様子を見せたと歴史書には書かれています。

この頃の大集成の官職は正3品の高級武官職・上将軍で、なおかつ崔瑀の義父でもあったので、相当な権力を保有していたことになります。

ちなみに、崔瑀の後妻となった大集成の娘(大氏)には、亡き夫との間の息子がおり、呉承績(オ・スンジョク)といいました。

のちの崔沆(チェ・ハン)の執権時代、呉承績は母の大氏とともに悲劇の最期を迎えることになるのですが、このことについては、以下の崔沆の記事で解説しております。

江華島遷都に反対した者の処刑を願う

1232年、崔瑀(チェ・ウ)は、都を開京(ケギョン、現在の北朝鮮・開城市)から江華島(カンファド)に遷そうとしました。

これはモンゴル軍の侵略から都を守るための苦肉の策でした。

江華島は強い水流によって高麗本土から隔てられており、モンゴル軍が侵攻できない環境にあったからです。

崔瑀は遷都のことについて議論するため、朝廷の重臣たちを自邸に集めて意見を求めましたが、重臣たちは崔瑀を恐れて答えることができませんでした。

そんな中、夜別抄(高麗の軍隊組織の一つ)を指揮する金世冲(キム・セジュン)という者が会議に突入してきて、異を唱えました。

金世冲は、「太祖(高麗初代王)の時代から守り続けてきた都を捨ててはならない」と主張したのです。

しかし、崔瑀が都を守る対策を尋ねると、金世冲は答えることができませんでした。

このとき、大集成(テ・ジプソン)は崔怡に、「金世冲は対策もないまま、大義を阻もうとしました。どうか彼を処刑して、世の人々に示してください」と進言しました。

これにより、金世冲は処刑されてしまいました。

大集成の最期

大集成(テ・ジプソン)は江華島に遷都してから、守司空(名誉職)という非常に高い位の官職を得ました。

ですが、それ以降の大集成の活動については記録がなく、よくわかりません。

大集成は崔忠献(チェ・チュンホン)時代からの家臣でしたから、この頃にはかなり高齢だった可能性も考えられます。

そして、1236年5月、江華島遷都から4年後に、大集成は死去しました。

ドラマ『武神』と史実の違い

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

死去年代の違い

ドラマ『武神』では、崔沆(チェ・ハン)の執権時代にも、大集成(テ・ジプソン)は健在でした。

ですが、史実では、大集成は1236年に死去しているので、1249年に始まる崔沆の執権時代に健在だったとは考えられません。

呉承績(オ・スンジョク)を崔瑀の後継者にしようと目論んだ?

ドラマでは、大集成(テ・ジプソン)は周肅(チュ・スク)と共謀して、孫の呉承績(オ・スンジョク)を崔瑀の後継者にしようとしました。

実は、高麗の歴史書『高麗史』『高麗史節要』には、そのような事実は記されていません。

ですが、大集成の娘が崔瑀に嫁いだことは事実なので、実際に孫を崔瑀の後継者にしようという野心があったとしても不思議ではありません。

しかも、歴史書を見ると、大集成はかなり傲慢な性格だったようなので、そのような野心があった可能性は十分にありそうです。

そのため、全くのフィクションと断定することもできなさそうです。

参考文献

  • 『高麗史』巻22、世家第22、高宗15年(1228)1月8日
  • 『高麗史』巻23、世家第23、高宗18年(1231)10月21日
  • 『高麗史』巻23、世家第23、高宗19年(1232)5月23日
  • 『高麗史』巻23、世家第23、高宗23年(1236)5月17日
  • 『高麗史』巻103、列伝第16、諸臣、崔椿命
  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔忠献
  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔怡
  • 『高麗史節要』巻15、高宗2、高宗5年(1218)5月
  • 『高麗史節要』巻15、高宗2、高宗15年(1228)8月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗18年(1231)10月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗19年(1232)2月
タイトルとURLをコピーしました