韓国ドラマ『武神』に登場するチェ・チュンミョン。
ドラマでは、初め、チェ・ヒャンに仕える家臣の一人でしたが、チェ・ヒャンが失脚してからは、イ・ジャンヨンとともに国王高宗の側近となりました。
他方では、モンゴル軍の侵攻から慈州(チャジュ)を守った将軍でもあり、まさに亀州城の英雄キム・ギョンソンと並ぶ勇将でした。
チェ・チュンミョンは実在した人物です。
この記事では、チェ・チュンミョンという人物について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて解説していきます。
記事の最後では、ドラマ『武神』で描かれるチェ・チュンミョンと史実との違いも解説しております。
崔椿命(チェ・チュンミョン)の詳細
崔椿命(チェ・チュンミョン)の基本情報
姓名:崔椿命(チェ・チュンミョン)
出生日:不明
死亡日:1250年
最終官職:枢密院副使
家族構成
息子:崔恬(チェ・ヨム)
崔椿命(チェ・チュンミョン)の生涯
生い立ち
崔椿命(チェ・チュンミョン)の生い立ちについては、歴史書に記録が残っていないため、よくわかっていません。
『高麗史』には、その性格は寛大かつ温和で、節操のある人であったと記されています。
実は崔椿命についての記録は、これから見ていく慈州(チャジュ)での戦闘記録のほかには、ほとんど残されていません。
ですが、その少ない慈州での戦闘記録が、崔椿命の勇将っぷりをいきいきと語ってくれているのです。
早速、見ていくことにしましょう。
モンゴル帝国の高麗侵攻
1231年、北方のモンゴル帝国が使者殺害を口実として、高麗に侵攻を始めました。
モンゴルは高麗に派遣した使者が高麗側に殺害されたといって、報復として攻めてきたのです。
しかし、高麗が本当にモンゴルの使者を殺したのかはよくわかりません。単なるモンゴル側の口実に過ぎなかった可能性もあります。
ともあれ、これがモンゴル帝国による第1回高麗侵攻の幕開けでした。
これ以降、モンゴルは何度も高麗に侵攻してきます。この高麗・モンゴル戦争(麗蒙戦争)は、あしかけ40年にも渡る長期戦となります。
モンゴル軍の攻撃から慈州を守る
サリクタイ(撒礼塔)を元帥とするモンゴル軍は、高麗北辺に位置する城を順に攻め、高麗の都・開京(ケギョン、現在の北朝鮮・開城)を目指していました。
この当時、崔椿命(チェ・チュンミョン)は、慈州(チャジュ、現在の北朝鮮・平安南道・順川付近)を守る将軍でした。
モンゴル軍は慈州に到着すると、城を包囲して攻撃を仕掛けました。
モンゴル軍の激しい攻勢に対し、崔椿命は慈州の役人や民たちを率いて城を固く守り、決して降伏しませんでした。
同じ頃に、亀州(現在の平安北道・亀城市)でも、将軍の金慶孫(キム・ギョンソン)がモンゴル軍の攻撃に激しく抵抗していました。
金慶孫(キム・ギョンソン)の活躍については、以下の記事で解説しております。
高麗朝廷の降伏要請を拒否する
一方でこの頃、高麗朝廷は、モンゴル軍の侵攻に耐えきれないと判断し、モンゴルとの講和を進めていました。
ところが、朝廷が講和を決めたにもかかわらず、慈州では崔椿命(チェ・チュンミョン)が抵抗を続けていました。
モンゴル軍の元帥サリクタイ(撒礼塔)はこの状況に怒りをあらわし、高麗朝廷を叱責して、崔椿命を降伏させるように命じました。
高麗朝廷は使者を派遣し、崔椿命に降伏を勧めますが、崔椿命は城門を固く閉ざし、それに応じることはありませんでした。
最後まで降伏を拒む
サリクタイ(撒礼塔)は、依然として慈州が降伏しないことを知り、高麗王族の淮安公・王侹(ワン・ジョン)に直接慈州に赴かせ、降伏を勧めさせました。
王侹は慈州に到着すると、将軍の大集成(テ・ジプソン)とモンゴルの官人を城下に派遣しました。
大集成らは城下に到着すると、崔椿命(チェ・チュンミョン)に降伏を促しました。
しかし、崔椿命は、「朝廷の意向はまだこちらに届いていない。どうして信じて降伏できようか?」と言って応じませんでした。
これに対し大集成は、「淮安公が来て降伏を求めているのに、これを信じないのか?」と返しました。
崔椿命は、「城中の人々は淮安公という人物を知らない」と答え、ついに降伏要請を固く拒否して受け入れませんでした。
怒ったモンゴルの官人は、大集成を叱責したうえで、無理やり城に入城しようとしました。
すると、崔椿命が左右の兵士に命じて矢を射させたので、大集成とモンゴルの官人はみな逃げ退きました。
崔椿命は最後まで降伏を拒み、ついに慈州を守り抜いたのです。
他方、降伏要請を拒否されたばかりか、矢まで放たれた大集成は、崔椿命に深い恨みを抱きました。
この大集成(テ・ジプソン)については、以下の記事で解説しております。併せてご覧ください。
処刑を免れて一等功臣となる
崔椿命に恨みを抱いた大集成(テ・ジプソン)は、崔瑀(チェ・ウ)に対し、朝廷の命令に背いて降伏しなかった崔椿命の罪は大きいとして、彼を処刑するよう求めました。
崔瑀
武臣政権第6代目の執政者。崔氏政権としては2代目。崔忠献(チェ・チュンホン)の嫡男。
崔瑀は大集成の要請を承諾。使者を派遣して、崔椿命を斬らせようとしました。
ところが、処刑の場面に居合わせたモンゴルの官人が、死に臨んでも言葉遣いと顔色を全く変えない崔椿命の姿を見て、次のように言いました。
「この者は我々には逆らったが、貴国では忠臣であるから、私であれば殺さない。あなたがたは既に我々と和親を約束したのだから、城を完全に守った忠臣を殺すことが正しいだろうか?」
『高麗史』巻103、列伝第16、諸臣、崔椿命
モンゴルの官人はこのように言って、使者に崔椿命を許すように強く請いました。これにより、崔椿命は処刑を免れることができました。
後日の論功行賞では、最後まで慈州を守り抜いた功により、崔椿命は一等功臣となり、枢密院副使(宰相職の一つ)に任命されました。
そして、1250年、崔椿命は死去しました。
ドラマ『武神』と史実の違い
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
金慶孫(キム・ギョンソン)の友だった?
ドラマ『武神』では、崔椿命(チェ・チュンミョン)と金慶孫(キム・ギョンソン)が友として描かれていました。
ですが、高麗の歴史書である『高麗史』や『高麗史節要』には、彼らが友であったという記録は存在しません。
なので、ドラマでの設定とみられます。
崔椿命と金慶孫にはそれぞれモンゴルの侵攻から城を守り抜いた勇将という共通点がありました。
ドラマでは、その共通点から、二人を友という設定にしたのかもしれません。
チェ・ヒャンの家臣ではなかった
ドラマでは、最初、崔椿命(チェ・チュンミョン)はチェ・ヒャンに仕える家臣の一人でした。
しかし、高麗の歴史書には、そのような事実は残されていません。
これはドラマのフィクションということになります。
国王の側近でもなかった
ドラマの後半では、崔椿命(チェ・チュンミョン)は高宗(高麗23代王)の側近になっていました。
しかし、こうした事実も歴史書からは確認できません。ドラマのフィクションとみられます。
崔瑀(チェ・ウ)は崔椿命の処刑を否定しなかった
ドラマでは、大集成(テ・ジプソン)が崔椿命(チェ・チュンミョン)の処刑を望むと、崔瑀(チェ・ウ)は大集成を睨みつけ、拒否する反応を示していました。
一方で、高麗の歴史書である『高麗史』によれば、崔瑀は大集成の求めに応じ、崔椿命を処刑しようとしています。
些細な点ではありますが、ここもドラマの脚色が加えられているとみられます。
参考文献
- 『高麗史』巻103、列伝第16、諸臣、崔椿命
- 『高麗史』巻23、世家第23、高宗37年(1250)8月11日
- 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗19年(1232)4月
- 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗37年(1250)8月


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