武神 キムジュン(金俊)は実在の武臣 ~奴隷から武臣政権のトップに上り詰めた生涯~

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韓国ドラマ『武神』の主人公キム・ジュン。

ドラマでは、崔氏(時の武臣政権の最高権力者)家の奴隷として類まれな才能を発揮し、ついには武臣政権の最高権力者にまで上り詰めたキム・ジュンの生涯が描かれていました。

キム・ジュンは実在した人物です

この記事では、キム・ジュンの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて詳しく解説します。

後半では、ドラマ『武神』で描かれるキム・ジュンと史実との違いも解説しております。

目次

金俊(キム・ジュン)の詳細

金俊(キム・ジュン)の基本情報

姓名:金俊(キム・ジュン)※初名は金仁俊(キム・インジュン)
出生年:不明
死亡年:1268年
最終官職:門下侍中
号:海陽侯

家族構成

父:金允成(キム・ユンソン)
母:不明

弟:金承俊(キム・スンジュン)※金冲(キム・チュン)とも言う

配偶者(前妻):不明
息子:金柱(キム・ジュ)
息子:金碩材(キム・ソクジェ)
息子:金大材(キム・テジェ)

配偶者(後妻):不明
息子:金皚(キム・エ)
息子:金祺(キム・ギ)
息子:金靖(キム・ジョン)

金俊の生涯

生い立ち

金俊(キム・ジュン)の父親である金允成(キム・ユンソン)は、武臣政権5代目の執政者である崔忠献(チェ・チュンホン)のもとに身を寄せていた奴隷でした。

武臣政権崔忠献
高麗では、1170年~1270年までの約100年間、武臣が政治の実権を掌握していました(武臣政権)。1170年、それまでの文臣優位の社会に不満を募らせた武臣たちがクーデターを決行して政権を掌握。その後、しばらくは武臣同士の権力闘争が続きますが、第5代執政者の崔忠献によって政権が安定しました。崔忠献以降、武臣政権は四代に渡って崔氏の世襲が続きます。

父親が奴隷だったので、その息子金俊の身分も奴隷でした。

金俊の人生は奴隷として始まったのです。

ちなみに、金俊は初名を金仁俊(キム・インジュン)と言いました。

ですが、この記事では、「金俊」で統一することにします。

崔瑀(チェ・ウ)の護衛になる

金俊(キム・ジュン)は容姿がたくましく、性格は寛大で、目下の人に対しても謙虚な心を持っていたといいます。

若い頃は毎日、金俊は遊び好きな仲間たちと酒に浸る日々を送っていましたが、その姿を見たある僧侶が、「この人はのちに必ず国権を握るだろう」と言いました。

このときから、金俊には、凡人とは違うただならぬ雰囲気が漂っていたようです。

あるとき、崔瑀(チェ・ウ)の家臣である朴松庇(パク・ソンビ)と宋吉儒(ソン・ギリュ)が金俊のことを崔瑀に推薦しました。

崔瑀
武臣政権第6代目の執政者。崔氏政権としては2代目。崔忠献(チェ・チュンホン)の嫡男。

すると、崔瑀は金俊のことを信頼し、金俊に自らの護衛を任せるようになりました。

朴松庇(パク・ソンビ)宋吉儒(ソン・ギリュ)については、以下の記事で解説しております。

崔瑀の妾と私通する

崔瑀(チェ・ウ)に信頼された金俊(キム・ジュン)。

ところが、金俊は崔瑀が寵愛していた妾(めかけ)である安心(アンシム)と私通し、関係を持ってしまいます。

つまり、金俊は主君の女性を奪ったことになります。

この罪により、金俊は固城(コソン、現在の慶尚南道に位置する)に流刑に処されましたが、数年後には都に戻ってきました。

なぜ金俊が都に戻ってこれたのかは、よくわかりません。恐らく、崔瑀が呼び戻したのでしょう。

崔沆(チェ・ハン)の政権継承を支援する

1249年、崔瑀(チェ・ウ)が死去します。

崔瑀が亡くなると、上将軍(正3品の武官職)の周粛(チュ・スク)が夜別抄(高麗における軍隊組織の一つ)などの軍隊を指揮しながら、政権を王に返そうとしました。

周粛は崔氏政権を崩壊させ、王政復古を目論んだのです。

一方で、崔氏家の奴隷であった李公柱(イ・ゴンジュ)・崔良伯(チェ・ヤンベク)・金俊(キム・ジュン)など70人あまりが、崔瑀の息子である崔沆(チェ・ハン)を支持しました。

崔沆
武臣政権第7代目の執政者。崔氏政権としては3代目。崔瑀(チェ・ウ)の庶子。もともとは寺に送られ僧侶になっていたが、急遽、崔瑀に呼び戻されて崔氏政権の後継者となる。

こうして多勢が崔沆を支持したため、周粛も従わざるを得ず、結局は手のひらを裏返して崔沆の味方につきました。

このようにして、崔氏政権は3代目の崔沆に受け継がれました。金俊は崔沆の政権継承に大きな役割を果たしたことになります。

周粛(チュ・スク)李公柱(イ・ゴンジュ)崔良伯(チェ・ヤンベク)については、以下の記事で解説しております。

別将になる

崔沆(チェ・ハン)は、自分の家の奴隷である李公柱(イ・ゴンジュ)・崔良伯(チェ・ヤンベク)・金俊(キム・ジュン)に、別将(ピョルチャン)の官職を授けました。

崔沆は自らの政権継承において金俊らの功績が大きかったため、その褒賞として官職を与えたのだと思われます。

『高麗史』によれば、奴隷に官爵を与えることは、崔沆の時代から始まったとあります。

それ以前は、たとえ大きな功績があったとしても、奴隷に官爵が与えられることはなかったのです。

金俊らの功績がいかに大きかったのかをうかがえる記録です。

このあと、執政者となった崔沆は、大勢の臣下を殺したり、民から搾取したりするなど暴政を尽くすことになります。

ただし、崔沆政権時代における金俊の活動については記録がないため、ここでは割愛します。

崔沆(チェ・ハン)について詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

崔竩(チェ・ウィ)と対立する

1257年、崔沆(チェ・ハン)が病気で死去したため、その息子の崔竩(チェ・ウィ)が後を継ぎ、崔氏政権4代目の執政者となりました。

崔竩
武臣政権8代目の執政者。崔氏政権としては4代目で、崔氏政権最後の執政者。崔沆(チェ・ハン)の庶子。

しかし、崔竩は崔良伯(チェ・ヤンベク)・宣仁烈(ソン・インニョル)・柳能(ユ・ヌン)など一部の側近だけを厚く信頼し、好き勝手に政治を行ったため、人望を失いました。

『高麗史』には、崔竩は若いうえ愚かで、国に飢饉が起きても穀物を放出せず民を助けなかったため、人望を大きく失ったとあります。

しかも、崔竩は、先代の時代から功績が大きく今や権臣とも言える金俊(キム・ジュン)を軽視しました。

これに加え、崔竩は金俊と親しかった宋吉儒(ソン・ギリュ)を島に流刑としました。

こうした崔竩の態度に、金俊は大きな不満を持つようになります。

ちなみに、崔竩が崔良伯・宣仁烈・柳能を厚く信頼したのは、彼らが自分の政権継承を支援してくれたからです。

このことについては、以下の崔良伯の記事崔竩の記事で詳しく解説しております。

崔氏政権を打倒する

崔竩(チェ・ウィ)の好き勝手な振る舞いは、金俊(キム・ジュン)だけでなく、崔瑀(チェ・ウ)以来の崔氏家の家臣たちの不満を買いました。

そしてついに、彼らは崔竩を見限って崔氏政権の打倒に踏み切りました。

1258年、金俊・柳璥(ユ・ギョン)・李公柱(イ・ゴンジュ)朴松庇(パク・ソンビ)林衍(イム・ヨン)・金大材(キム・テジェ、金俊の息子)などが謀議し、クーデターを決行したのです。

金俊らは軍隊を集め、まず崔竩の側近であった崔良伯(チェ・ヤンベク)を斬り、そのまま崔竩の家に進軍して崔竩を殺害しました。

ここに、約60年続いた崔氏政権が崩壊することとなりました。

政権を王に返す

崔氏政権を倒した金俊らは、これまで崔氏が掌握していた政権を王に返還しました。

一見、王政復古が実現されたかのようですが、しかしながらその実態は王政復古とは程遠いものでした。

結局は金俊(キム・ジュン)を中心とする武臣が実権を保ち続けることになるのです。

このときの高麗王は第23代の高宗(コジョン)でした。

衛社功臣となる

崔氏政権を倒し、政権を王に返還したことで、金俊(キム・ジュン)らはその功績が称えられ、高宗から「衛社功臣」という功臣号を授かりました。

同時に論功行賞が行われ、柳璥(ユギョン)が第1等、金俊は第2等とされました。

また、金俊は将軍(正4品)の官職を授かり、まもなく大将軍(従3品)に昇進しました。

これまでの金俊の官職は正7品の別将でしたので、ここで大きく昇進したことになります。

高宗(コジョン)が薨去する

1259年6月、高宗(高麗第23代王)が薨去しました。

ところが、王位を継ぐ太子(のちの元宗)はモンゴルに入朝していたため、一時的に王位が空く事態となりました。

高麗は崔瑀(チェ・ウ)の時代から、モンゴルによる度重なる侵攻に悩まされていました。このとき、高麗の太子はモンゴルと講和するために入朝していました。

そこで、金俊(キム・ジュン)が太子の弟である安慶公(アンギョンゴン)を擁立し、王位を継がせようとしました。

しかし、これは実現されず、亡き高宗の遺詔によって、太子が帰るまでは太孫(太子の息子)の王諶(ワン・シム)に政治を委ねる事になりました。

このとき、金俊は軍服を着て、兵士や東宮の属僚を率いて王諶を君主として奉ったといいます。

あくまで政治の実権は金俊にあるのだと言わんばかりの演出です。

金俊の権力がいかに大きかったかがうかがえます。

武臣政権のトップに

1260年、モンゴルに入朝していた太子が帰国し、王位につきました。第24代王の元宗(ウォンジョン)です。

元宗は崔氏政権を倒した金俊ら「衛社功臣」の序列を改め、第1位だった柳璥(ユギョン)を第5等に降格し、第2等だった金俊(キム・ジュン)を第1等に昇格させました。

これにより、金俊の官職も枢密院副使(宰相職の一つ)に上げられました。

1263年には、さらに上の宰相職である参知政事に昇進し、翌年には教定別監にも任命されました。

教定別監(キョジョンビョルガム)
崔忠献の時代に設置された、武臣政権の最高権力機構である教定都監の長。

教定別監は、かつて武臣政権のトップであった崔忠献(チェ・チュンホン)や崔瑀(チェ・ウ)が就いていた役職です。

すなわち、ついに金俊は武臣政権のトップの座に上り詰めたのです。

そして、1265年には、門下侍中(首席宰相)に任命され、同時に海陽侯の号を授かりました。

門下侍中は高麗における官僚機構のトップとも言える官職です。

こうして、金俊は武臣政権のトップであるのと同時に、官僚機構の頂点に君臨することになりました。

モンゴルが金俊の入朝を命じる

1268年3月、モンゴルの皇帝が使者を派遣し、金俊(キム・ジュン)及びその息子たちの入朝を命じてきました。

金俊にはモンゴルに入朝する考えなど少しもありませんでした。

モンゴルは金俊が政権を掌握していることをよく思っていなかったため、ここで入朝すれば殺される可能性すらあったからです。

モンゴルの使者を殺す計画を立てる

そこで、金俊はこの使者を殺す計画を立て、元宗(第24代王)に許可を求めましたが、元宗は従いませんでした。

やむを得ず、金俊はそのまま計画を実行することにし、弟の金承俊(キム・スンジュン)を呼んで共に謀議しようとしました。

ところが、このときに金承俊が信頼していた厳守安(オム・スアン)という人物が、この計画に強く反対しました。

厳守安は金承俊に対して次のように言いました。

「昔は戦争中であっても国と国との間を使者が往来していたのに、今や何の理由もなしに天子の使者を殺せば、これから〔我が国は〕どうなってしまうのでしょうか。これは自らを保つ策ではありません」。

『高麗史』巻106、列伝第19、諸臣、厳守安

このような厳守安の諫言を受け、金承俊もその通りだと考えました。

どうやら金俊も納得したのか、この計画は中止されることになりました。

元宗(ウォンジョン)との対立

金俊(キム・ジュン)はモンゴル使者の殺害は中止したものの、その後もモンゴルからの入朝命令は拒否し続けました。

高麗王の元宗は、こうした金俊の態度に不満を抱くようになっていきます。

そもそも、金俊はモンゴルに対する抗戦派でしたが、元宗は講和派でした。

もともと二人は、モンゴルをめぐる考え方に違いがあったのです。

元宗は太子時代に一度モンゴルに入朝し(1259年)、王位についてから再びモンゴルに入朝しています(1264年)。金俊とは真逆で、モンゴルとの講和を主導した人物と言えます。

このときになって、より一層、金俊のモンゴルに対する強硬姿勢が目立ってきたため、元宗は不満を抱くようになってきたのです。

さらにその後、金俊が王宮に運ぶための食料を奪ったため、これを知った元宗はますます金俊を恨むようになりました。

林衍(イム・ヨン)との対立

林衍(イム・ヨン)は、金俊の推薦により武臣政権の一員となった武人です。

1258年には、金俊とともに崔氏政権を打倒するクーデターに参加し、功臣の一人となりました。

その後、林衍はどんどん昇進を重ねていき、権臣への道を歩んでいきました。

林衍は金俊のことを常に「父」と呼ぶほど尊敬していました。

しかし、そんな林衍が金俊に恨みを持つようになっていきます。

『高麗史』では、そのきっかけを次のように記録しています。

枢密副使の林衍は、かつて金俊の息子と土地問題で争った。金俊は言った。「私が生きていても〔林衍は〕このような様であるのだから、ましてや死んでからはなおさらだ。私はどうしてこんな人間を放っておけるだろうか?」 と。また、林衍の妻がかつて自分の手で直接奴隷を殺したため、金俊は、「この女は性格が暴悪だから、遠い地方に流刑にすべきだ」と言った。林衍はこの言葉を聞いて、さらに恨みを抱くようになった。

『高麗史』巻130、列伝43、叛逆、金俊

この記録を見る限り、林衍は金俊の息子との土地問題に加え、金俊が自分の妻を流刑にしようとしたことで、恨みを持つようになったようです。

林衍(イム・ヨン)については、以下の記事で詳しく解説しております。併せてご覧ください。

元宗と林衍の共謀

元宗と林衍は共に金俊との対立を深めたことで、お互いの利害が一致するようになりました。

元宗の寵愛を受けていた康允紹(カン・ユンソ)という者は、このような状況を知って、元宗と林衍の仲立ちをし、二人を接近させました。

康允紹の仲立ちにより、いよいよ元宗と林衍は謀議して、お互いにとって邪魔者極まりない金俊を排除しようということになりました。

金俊の最期

林衍(イム・ヨン)は大きな棒を作り、これを箱の中に隠して宮中に置いておき、元宗とともに事を挙げる日を約束しました。

ついに、金俊(キム・ジュン)を排除する謀議が実行されようとしていたのです。

1268年12月、元宗は王命を下して金俊を王宮に召し出しました。

金俊が急いで王宮に行くと、林衍や元宗側近の宦官たちが待ち伏せていました。

この状況では、もはやどうすることもできませんでした。

林衍らによって金俊は棒で殴られ、そのまま首をはねられてしまいました。

これが金俊の最期でした。

ドラマ『武神』と史実の違い

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

金俊は僧侶ではなかった

ドラマ『武神』では、金俊(キム・ジュン)は奴隷身分であることを隠しながら、幼い頃から僧侶として寺で育てられていました。

しかし、高麗の歴史書には、彼が僧侶であったことは記録されていません。

実際には、生まれたときから崔氏家の奴隷として育ったとみられます。

ウォラは実在しない

ドラマでは、金俊(キム・ジュン)の幼馴染で恋人のウォラという女性がいました。

彼女はドラマにおける架空の人物で、実在はしません。

ソンイの片思いは架空の物語

ドラマでは、崔瑀(チェ・ウ)の娘であるソンイが金俊(キム・ジュン)に片思いするという展開がありましたが、これは史実ではありません。

高麗の歴史書には、そもそも二人の接点を示す記事が存在していません。

史実では、金俊と崔瑀の娘との間には、何の関係性もなかったとみられます。

ただし、『高麗史』によれば、崔瑀の娘が奴隷と私通していたという事実が記されています。

金俊も奴隷出身だったので、ドラマではストーリーを面白くするために、崔瑀の娘が私通した奴隷に金俊を重ねたのでしょう。

崔瑀の娘(ソンイ)については、以下の記事で解説しております。併せてご覧ください。

金俊は撃毬(キョック)の英雄だった?

ドラマでは、金俊(キム・ジュン)は崔良伯(チェ・ヤンベク)と並ぶ、撃毬(キョック)の英雄でした。

しかし、実はこれはドラマのフィクションであって、史実ではありません。

実際に高麗時代に撃毬が行われていたことは事実ですが、高麗の歴史書によれば、金俊や崔良伯が撃毬の英雄であったという記録は残されていません。

また、ドラマでは、撃毬で優勝すると崔氏家の「奴軍」に入れるという制度がありましたが、これもドラマでの設定です。

ところで、金俊は撃毬で優勝し、奴軍の小軍将(ソグンジャン)になりましたが、この小軍将という位も実在するものではありません。

金俊と崔良伯(チェ・ヤンベク)は友だったのか

ドラマでは、金俊(キム・ジュン)と崔良伯(チェ・ヤンベク)が友として描かれていました。

しかし、史実では、二人が友であったのかはよくわかりません。歴史書に二人が友であったことを示す記録がないからです。

ただ、高麗の歴史書である『高麗史』によれば、崔良伯と金俊は姻戚関係にありました。

具体的には、崔良伯の娘が金俊の息子である金大材(キム・テジェ)に嫁いでおり、ここから二人が姻戚関係であることがわかります。

崔良伯と金俊はともに崔氏家の「家奴」であり、そのうえ姻戚関係にもなるぐらいですから、もしかすると友であったのかもしれません。

金俊は朴松庇(パク・ソンビ)などと義理兄弟になっていない

ドラマの後半では、金俊(キム・ジュン)・朴松庇(パク・ソンビ)宋吉儒(ソン・ギリュ)李公柱(イ・ゴンジュ)が義理兄弟になりました。

実はこれはドラマ上のフィクションで、歴史書にそのような記録は残されていません。

ですが、彼らは皆、崔瑀(チェ・ウ)時代からの家臣たちであったため、近しい存在であったことは間違いないでしょう。

参考文献

  • 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)3月26日
  • 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)4月1日
  • 『高麗史』巻24、世家第24、高宗46年(1259)6月30日
  • 『高麗史』巻25、世家第25、元宗元年(1260)4月9日
  • 『高麗史』巻25、世家第25、元宗元年(1260)6月1日
  • 『高麗史』巻25、世家第25、元宗元年(1260)6月12日
  • 『高麗史』巻25、世家第25、元宗3年(1262)12月25日
  • 『高麗史』巻25、世家第25、元宗4年(1263)12月20日
  • 『高麗史』巻26、世家第26、元宗5年(1264)8月4日
  • 『高麗史』巻26、世家第26、元宗6年(1265)1月25日
  • 『高麗史』巻26、世家第26、元宗9年(1268)12月21日
  • 『高麗史』巻75、志第29、選挙3、銓注
  • 『高麗史』巻106、列伝第19、諸臣、厳守安
  • 『高麗史』巻123、列伝第36、嬖幸、康允紹
  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔沆
  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔竩
  • 『高麗史』巻130、列伝第43、叛逆、金俊
  • 『高麗史』巻130、列伝第43、叛逆、林衍
  • 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗45年(1258)4月
  • 『高麗史節要』巻18、元宗順孝大王、元宗5年(1264)8月
  • 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗46年(1259)6月30日
  • 『高麗史節要』巻18、元宗順孝大王、元宗6年(1265)1月
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この記事を書いた人

・歴史学を専攻する大学院生。
・専門分野は朝鮮古代史と中国唐代史。
・韓流時代劇が大好き。
 
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