韓国ドラマ『武神』に登場するイム・ヨン。
ドラマでは、金俊(キム・ジュン)のことを父と仰ぐ姿が印象的でしたね。
イム・ヨンは実在した人物です。
ドラマでは語られていませんが、イム・ヨンはキム・ジュンの後に武臣政権の執政者となった武臣です。
この記事では、イム・ヨンの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』に基づいて解説していきます。
記事の最後では、ドラマ『武神』で描かれるイム・ヨンと史実との違いも解説しております。
林衍(イム・ヨン)の詳細
林衍の基本情報
姓名:林衍(イム・ヨン)※初名は林承柱(イム・スンジュ)
出生年:不明
死亡年:1270年
最終官職:枢密院副使、教定別監
諡号:荘烈
家族構成
父:不明
母:不明
息子:林惟茂(イム・ユム)、林惟幹(イム・ユガン)
林衍(イム・ヨン)の生涯
生い立ち
林衍(イム・ヨン)は鎮州(現在の忠清北道鎮川郡)で生まれました。
出生年は不明。
父親の名は伝わっていませんが、鎮州の州吏(役人)の娘と結婚し、林衍が産まれました。
林衍は蜂のような目と山犬のような声を持ち、力がとても強く、逆立ちをしたまま腕で歩くことができたといいます。
はじめ、林衍は大将軍宋彦祥(ソン・オンサン)のもとで働く雑用となりますが、のちに故郷である鎮州に帰ってきました。
鎮州にモンゴル軍が攻めてくると、林衍は故郷の住民たちと一緒に戦い、敵を追い出したといいます。
金俊(キム・ジュン)を父と仰ぐ
ある日、林孝侯(イム・ヒョフ)という者が林衍(イム・ヨン)の妻と私通してしまいます。
そのことを知った林衍は、反対に林孝侯の妻を誘い出して私通しました。つまりは、やり返しということですね。
林孝侯がこのことを役人に訴えると、役人は林衍を処罰しようとしました。
このとき、金俊(キム・ジュン)が現れ、林衍の人間性を立派に思った彼は、力を尽くして林衍が罪を免れるようにしました。
金俊のおかげで、林衍は罪を免れることができ、さらに金俊の推薦で官職まで得ることになりました。
それから、林衍は金俊のことを常に「父」と呼んで仰ぐようになりました。
これ以降、林衍は金俊のもとで活動していくことになります。
金俊(キム・ジュン)については、以下の記事で詳しく解説しております。併せてご覧ください。
崔竩(チェ・ウィ)との対立
林衍(イム・ヨン)が生きた時代、高麗国内は武臣たちが国の権力を掌握する武臣政権の時代にありました。
武臣政権
高麗では、1170年~1270年までの約100年間、武臣が政治の実権を掌握していました(武臣政権)。1170年、それまでの文臣優位の社会に不満を募らせた武臣たちがクーデターを決行して政権を掌握。その後、しばらくは武臣同士の権力闘争が続きますが、第5代執政者の崔忠献(チェ・チュンホン)によって政権が安定しました。崔忠献以降、崔瑀(チェ・ウ)→崔沆(チェ・ハン)→崔竩(チェ・ウィ)の四代に渡って崔氏の世襲が続きます。
林衍が金俊のもとで頭角を表し始めるのは、崔氏政権最後の執政者崔竩(チェ・ウィ)の時代です。
崔竩は崔良伯(チェ・ヤンベク)・宣仁烈(ソン・インニョル)・柳能(ユ・ヌン)など一部の寵愛する側近だけを侍らせ、民を顧みない好き勝手な政治を行っていました。
『高麗史』には、崔竩は若いうえ愚かで、国に飢饉が起きても穀物を放出せず民を助けなかったため、人望を大きく失ったとあります。
こうした好き勝手な振る舞いに対し、武臣政権の家臣たちから朝廷の文臣たちまで、多くの人々が不満を抱きました。
林衍もその一人だったと思われます。
特に、崔竩は政権内の有力者であった金俊を軽視したため、金俊から大きな不満を買うことになりました。
金俊とともに崔氏政権を打倒する
ついに、崔竩(チェ・ウィ)政権に対する家臣たちの不満が爆発します。
1258年、金俊(キム・ジュン)・柳璥(ユ・ギョン)・李公柱(イ・ゴンジュ)・朴松庇(パク・ソンビ)・林衍(イム・ヨン)・金大材(キム・テジェ、金俊の息子)などが謀議し、クーデターを決行したのです。
金俊のもとで林衍はこのクーデターに参加しました。
金俊らは軍隊を集め、まず崔竩の側近であった崔良伯(チェ・ヤンベク)を斬り、そのまま崔竩の家に進軍して崔竩を殺害しました。
ここに、約60年続いた崔氏政権が崩壊することとなりました。
ドラマでも登場した崔良伯(チェ・ヤンベク)については、以下の記事で解説しております。併せてご覧ください。
衛社功臣となる
崔氏政権を倒した金俊(キム・ジュン)らは、これまで崔氏が掌握していた政権を王に返還しました。
一見、王政復古が実現されたかのようですが、結局は金俊を中心とする武臣が実権を保ち続けることになります。
このとき、林衍(イム・ヨン)は金俊らとともに、崔氏政権を打倒し、政権を王に返還した功績が称えられて、高宗(高麗23代王)から「衛社功臣」という功臣号を授かりました。
金俊の時代
崔氏政権が崩壊した今、高麗の最高権力者は実質的に金俊(キム・ジュン)でした。
1259年に高宗(高麗23代王)が薨去したのち、翌年に即位した元宗(高麗24代王)も金俊の功績を称賛し、金俊を枢密院副使(宰相職の一つ)に任命しました。
その後も金俊はどんどん昇進を重ね、1263年には教定別監に任命され、武臣政権のトップの座に上り詰めました。
教定別監(キョジョンビョルガム)
崔忠献の時代に設置された、武臣政権の最高権力機構である教定都監の長。
世はまさに金俊の天下となりましたが、林衍(イム・ヨン)もまた、金俊のもとで昇進を重ねていき、枢密院副使(宰相職の一つ)となりました。
金俊と元宗(ウォンジョン)の対立
1268年3月、モンゴルの皇帝が使者を派遣し、金俊(キム・ジュン)及びその息子たちの入朝を命じてきました。
モンゴルの侵攻と高麗
1231年よりモンゴルは度々高麗に侵攻してきました。これに対し、武臣政権はモンゴルとの徹底抗戦を掲げて抵抗を続けてきました。しかし、やがて国内は疲弊し、戦う余力もなくなっていきました。そのような現実を見た元宗(高麗24代王)は、モンゴルとの講和を推進します。
ところが、金俊はモンゴルの命令を無視して、この使者を殺そうとしました。
金俊はモンゴルとの徹底抗戦を主張する抗戦派だったからです。
一方で、元宗(高麗24代王)はこのような金俊の行動に不満を抱くようになります。
というのも、元宗はモンゴルとの講和を望んでいたからです。
元宗は太子時代に一度モンゴルに入朝し(1259年)、王位についてから再びモンゴルに入朝しています(1264年)。金俊とは真逆で、モンゴルとの講和を主導した人物と言えます。
モンゴルとの徹底抗戦を主張する金俊。モンゴルとの講和を望む元宗。二人の間の溝は広まるばかりでした。
金俊と林衍の対立
金俊(キム・ジュン)と対立を深めたのは元宗だけではありませんでした。
金俊を父と仰いだ林衍(イム・ヨン)。その彼が金俊に恨みを抱くようになっていくのです。
『高麗史』には、林衍が金俊に恨みを持つようになったきっかけについて、次のように記録されています。
枢密副使の林衍は、かつて金俊の息子と土地問題で争った。金俊は言った。「私が生きていても〔林衍は〕このような様であるのだから、ましてや死んでからはなおさらだ。私はどうしてこんな人間を放っておけるだろうか?」 と。また、林衍の妻がかつて自分の手で直接奴隷を殺したため、金俊は、「この女は性格が暴悪だから、遠い地方に流刑にすべきだ」と言った。林衍はこの言葉を聞いて、さらに恨みを抱くようになった。
『高麗史』巻130、列伝43、叛逆、金俊
この記録によれば、林衍は金俊の息子と土地問題で争ったことに加え、金俊が自分の妻を流刑にしようとしたことで、恨みを持つようになったようです。
元宗と林衍の共謀
元宗と林衍は共に金俊との対立を深めたことで、お互いの利害が一致するようになりました。
元宗の寵愛を受けていた康允紹(カン・ユンソ)という者は、このような状況を知って、元宗と林衍の仲立ちをし、二人を接近させました。
康允紹の仲立ちにより、いよいよ元宗と林衍は謀議して、お互いにとって邪魔者極まりない金俊を排除しようということになりました。
金俊を打倒する
林衍(イム・ヨン)は大きな棒を作り、これを箱の中に隠して宮中に置いておき、元宗とともに事を挙げる日を約束しました。
金俊(キム・ジュン)を排除する謀議が実行されようとしていたのです。
1268年12月、元宗は王命を下して金俊を王宮に呼びました。
王宮では、林衍や元宗側近の宦官である金鏡(キム・ギョン)・崔𤨒(チェ・ウン)などが金俊の到着を待ち伏せていました。
金俊が王宮に着くと、たちまち林衍らは金俊を棒で殴り、そのまま首をはねてしまいました。
ここに、武臣政権の最高権力者であった金俊は、林衍によって打倒されることとなりました。
実は金俊に手を下したのは、林衍自身ではありませんでした。実際に金俊を棒で殴り、首をはねたのは、林衍の部下とみられる金尚という人物でした。
その後、林衍は夜別抄(高麗における軍隊組織の一つ)を派遣し、金俊の息子たちとその一味を逮捕し、全員処刑しました。
元宗の側近を殺す
元宗(高麗24代王)は権臣金俊がいなくなった今こそ好機と見て、これまで長らく武臣に掌握されていた権力を、王権のもとに取り戻そうとします。
その一方で、金俊を倒した武臣の林衍(イム・ヨン)が権力を掌握しつつありました。
そうなると、今や元宗にとって林衍の存在は、目の上のたんこぶです。
元宗は宦官の金鏡(キム・ギョン)などと共謀して、林衍を排除しようとします。
ところが、先手を打ったのは林衍でした。
林衍は金鏡など元宗の側近勢力を殺害。そのほかの反対勢力も排除し、自らのもとに完全に権力を掌握したのです。
武臣政権の新たなリーダーの登場でした。
以後、林衍は金俊の方針を引き継ぎ、モンゴルに対して徹底抗戦の構えを続けていくことになります。
元宗が望んだモンゴルとの講和は遠のくことになりました。
元宗を廃位し、安慶公王淐を擁立する
林衍(イム・ヨン)は権力を掌握したものの、元宗の存在が気がかりでした。
林衍にとって、モンゴルとの講和を望む元宗は邪魔であるうえ、いつ自分の命を狙ってきてもおかしくなかったからです。
そこで、林衍は元宗を廃位しようと企みます。朝廷の文臣たちの多くがこれに反対しましたが、林衍はその反対を押し切ります。
ただし、このとき侍中(宰相職)の李蔵用(イ・ジャンヨン)は林衍に協力して、元宗の廃位を黙認しました。
1269年6月、林衍は鎧を身にまとって軍隊を率いながら、安慶公・王淐(アンギョンゴン・ワンチャン)を擁立し、王位につかせました。
安慶公・王淐
高宗(高麗23代王の)子。元宗の弟。
それから、元宗を廃位して宮殿から追放しました。
このとき、元宗は雨に打たれながら歩いて宮殿を出ていったといいます。
その後、新王となった王淐は、林衍を教定別監に任命しました。
教定別監は歴代の武臣政権の執政者が帯びてきた役職です。
これは、林衍が武臣政権の執政者となったことを意味しました。
林衍に協力した李蔵用(イ・ジャンヨン)については、以下の記事で詳しく解説しております。併せてご覧ください。
元宗の復位と追い詰められる林衍
林衍(イム・ヨン)によって元宗が廃位されたとき、世子(王の跡継ぎ。のちの忠烈王)がモンゴルに入朝していました。
その世子はモンゴルから帰る途中、元宗が廃位されたという情報を得ます。
このことを知った世子は、慟哭しながらモンゴルに引き返したといいます。
世子がモンゴルに引き返したのは、ただちに高麗に帰れば林衍に身を害される危険性があったことと、元宗を復位させるためにモンゴルの力を借りようとしたからです。
世子がモンゴルに引き返したことで、モンゴル皇帝も元宗廃位の事実を知ることになりました。
モンゴル皇帝は林衍が勝手に元宗を廃位したことに憤怒し、高麗に使者を送って説明を求めました。
元宗はモンゴル皇帝から承認を受けた王だったので、その王を勝手に廃位することは、モンゴルに対する背反行為でした。モンゴル皇帝が怒った理由はそこにあります。
林衍は王が病気で譲位したのだと言ってごまかしますが、モンゴルにそのような嘘は通じませんでした。
モンゴルは度々使者を送って林衍を問責したうえ、直接モンゴルに入朝して事実を説明するよう命じました。
林衍は度重なるモンゴルの問責や入朝命令を受けて怯えるようになり、やむを得ず、元宗の復位を受け入れました。
林衍の最期
1270年1月、復位した元宗がモンゴルに入朝します。
このとき、かつて林衍(イム・ヨン)の元宗廃位に協力した李蔵用(イ・ジャンヨン)も、元宗とともにモンゴルに入朝していました。
林衍は元宗が廃位の事実をモンゴルに話してしまうことを恐れ、息子の林惟幹(イム・ユガン)を随行させました。
モンゴル皇帝は入朝した元宗一行に対し、林衍が元宗を勝手に廃位させたことが事実かどうかを尋ねました。
もちろん、林惟幹は適当にごまかして報告しました。
しかし、そのあと李蔵用が事実を述べたため、モンゴル皇帝は嘘を言った林惟幹を監禁してしまいました。
それから、モンゴル皇帝は高麗にいる林衍に対して文書を送り、すぐに入朝して事実を明らかに説明するよう命じました。
林衍はこの命令も拒否し、モンゴルとの抗戦も辞さない覚悟で国内の各地に軍隊を配置して備えました。
しかし、モンゴルの問責や入朝命令によって心労が溜まった林衍は、ほどなくして背中に腫れ物ができ、そのまま死んでしまいました。
林衍の死後、息子の林惟茂(イム・ユム)が武臣政権を引き継ぎました。
ところが、その林惟茂は間もなく元宗の勢力によって殺されます。
そして、この林惟茂の死をもって、約100年続いた武臣政権は終焉を迎えることになるのです。
ドラマ『武神』と史実の違い
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
林衍は対モンゴル抗戦派だった
ドラマ『武神』では、対モンゴル抗戦派の金俊(キム・ジュン)に対し、林衍は李蔵用(イ・ジャンヨン)など文臣を中心とする講和派に属していました。
ドラマでは、結局、金俊と林衍はこうしたモンゴルをめぐる考えの違いによって仲違いしました。
しかし、史実では、林衍も金俊と同じくモンゴルとの徹底抗戦を主張する抗戦派でした。
金俊の死後、林衍は武臣政権の執政者となりますが、彼は金俊の方針を引き継ぎ、モンゴルに対して徹底抗戦の構えを続けていくことになるのです。
そのため、ドラマで林衍が対モンゴル講和派に属していたのはフィクションということになります。
ドラマでは、金俊との対立をわかりやすく描くために、林衍を講和派に位置付けたのでしょう。
参考文献
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)4月1日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)6月17日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)6月18日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)6月21日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)7月2日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)7月23日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)9月7日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)11月11日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)11月14日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗10年(1269)11月21日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗11年(1270)1月11日
- 『高麗史』巻102、列伝第15、諸臣、李蔵用
- 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔竩
- 『高麗史』巻130、列伝第43、叛逆、金俊



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