韓国ドラマ『武神』に登場するパク・ソンビ。
ドラマでは、崔瑀(チェ・ウ)の家臣の一人で、主に金若先(キム・ヤクソン)や金俊(キム・ジュン)を側で支えた人物でした。
崔瑀の家臣の中では、パク・ソンビは冷静沈着な性格で、落ち着いた印象のある人でしたね。
パク・ソンビは実在した人物です。
この記事では、パク・ソンビの生涯について、高麗の歴史書に基づいて解説していきます。
後半では、ドラマ『武神』で描かれるパク・ソンビと史実の違いも解説しております。
朴松庇(パク・ソンビ)の詳細
朴松庇(パク・ソンビ)の基本情報
姓名:朴松庇(パク・ソンビ)
出生年:不明
死亡年:1278年
最終官職:参知政事
家族構成
息子:朴成大(パク・ソンデ)
朴松庇(パク・ソンビ)の生涯
ここでは、高麗の歴史書である『高麗史』と『高麗史節要』に基づき、朴松庇(パク・ソンビ)の生涯をたどります。
生い立ち
朴松庇(パク・ソンビ)の生い立ちについては、残念ながら歴史書に記録がなく、わかっていません。
出生日、家族構成についても、ほとんど記録が残っていません。
崔瑀(チェ・ウ)の家臣となる
具体的な年代は不明ですが、朴松庇(パク・ソンビ)は崔瑀(チェ・ウ)の家臣となりました。
『高麗史』によれば、朴松庇などが崔瑀(チェ・ウ)に金俊(キム・ジュン)のことを推薦したという記録が残っています。
この記録から、朴松庇が崔瑀の家臣であったことがうかがえます。
しかし、このほかには具体的な記録がなく、朴松庇が崔瑀の家臣としてどのような活躍をしたのかは、よくわかっていません。
金俊(キム・ジュン)の側近となる
1249年、崔氏政権2代目の執政者であった崔瑀(チェ・ウ)が死去し、その息子の崔沆(チェ・ハン)が後を継ぎました。
この崔沆政権時代の朴松庇(パク・ソンビ)の活動についても、残念ながら記録がありません。
ただ、のちに朴松庇は金俊(キム・ジュン)らとともに崔竩(チェ・ウィ)の打倒に関わっていることから、この時代も金俊の側近として活動していたと思われます。
1257年、崔沆(チェ・ハン)が病気で死去し、その息子の崔竩が後を継ぎ、崔氏政権4代目の執政者となります。
ところが、この崔竩はまともな政治をしないうえ、自らの信頼する者だけを侍らせ、権臣であった金俊との対立を深めたことで、早くも崩壊に向かうこととなります。
※金俊(キム・ジュン)については、以下の記事で詳しく解説しております。
金俊らとともに崔竩(チェ・ウィ)を倒す
ついに、崔竩(チェ・ウィ)の政治に不満を高めた金俊をはじめとする家臣たちが決起しました。
1258年、金俊(キム・ジュン)・柳璥(ユ・ギョン)・李公柱(イ・ゴンジュ)・朴松庇(パク・ソンビ)・林衍(イム・ヨン)・金大材(キム・テジェ、金俊の息子)などが謀議し、崔竩政権を打倒すべく挙兵したのです。
この決起に、朴松庇も参加していました。
金俊は朴松庇を含む仲間や軍隊を集め、まず崔竩の側近であった崔良伯(チェ・ヤンベク)を倒します。
そして、そのまま崔竩の家に進軍して崔竩を殺害しました。
ここに、60年続いた崔氏政権が崩壊することとなりました。
こうして、朴松庇は金俊とともに崔氏政権を打倒した功臣の一人となりました。
ドラマでも登場した崔良伯(チェ・ヤンベク)については、以下の記事で解説しております。併せてご覧ください。
衛社功臣となる
朴松庇(パク・ソンビ)は、金俊(キム・ジュン)らとともに崔氏政権を打倒した功績が称えられて、高宗(高麗の第23代王)から「衛社功臣」という功臣号を授かりました。
また、『高麗史』によれば、このときの功臣の肖像画が功臣堂(功臣の肖像画が並べられている建物)に掲げられたといいます。
その中には、もちろん朴松庇の姿もありました。
これ以降、朴松庇は金俊のもとで活動し、何度も昇進を重ねて高官の地位に就きました。
ただし、これ以降の朴松庇についての記録は、官職の昇進記事がほとんどで、具体的な活動を知ることはできません。
そして、1278年に朴松庇は死去しました。
『高麗史節要』の朴松庇の死去記事には、次のように記されています。
参知政事の朴松庇が死去した。朴松庇は軍人出身で、金俊とともに崔竩を誅殺してから、しばしば昇進して高官の地位に就いた。性格は寛大で、他人と功績を争うことがなかった。
『高麗史節要』巻20、忠烈王4年(1278年)1月
朴松庇の生涯が端的にうかがえる記事です。
その寛大な性格、他人と功績を争うことがない様は、ドラマ『武神』でのパク・ソンビ像とも一致していますね。
ドラマ『武神』と史実の違い
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
キム・ヤクソンと関わりがあったかは不明
ドラマ『武神』では、朴松庇(パク・ソンビ)は、教定別監の金若先(キム・ヤクソン)を補佐していました。
しかし、高麗の歴史書である『高麗史』や『高麗史節要』には、朴松庇が金若先を補佐したという記録はありません。
それ以前に、朴松庇と金若先の関係性を示す記事も見当たりません。
そのため、朴松庇と金若先の関係性はよくわからないというのが事実で、ドラマでの二人の関係性は想像で描かれたものです。
朴松庇は金俊と対立したのか?
ドラマの後半では、武臣政権の執政者となった金俊(キム・ジュン)がモンゴルに対する徹底抗戦を訴え、強硬策を実施しました。
はじめ、朴松庇(パク・ソンビ)は金俊に協力的でしたが、次第に金俊の強硬策が目に余るものとなっていったので、李公柱(イ・ゴンジュ)とともに諫言をするようになりました。
それに対し、金俊は聞く耳を持たず、朴松庇と李公柱を閑職に追いやりました。
このように、ドラマの後半では、朴松庇と金俊の間に溝が生じることとなりました。
一方で、高麗の歴史書である『高麗史』や『高麗史節要』には、朴松庇が金俊と対立したことを示す記録はありません。
ですが、 『高麗史』及び『高麗史節要』によれば、1264年に朴松庇が免職されたという記事があります。
なぜ免職されたのかは記録されていませんが、もしかすると、これには金俊が関与していて、朴松庇と対立した金俊が彼を免職させたのかもしれません。
ただし、これは筆者の推測に過ぎないため、ドラマでの二人の対立はフィクションと見たほうがよさそうです。
朴松庇は金俊と義理兄弟になっていない
ドラマの後半では、金俊(キム・ジュン)・朴松庇(パク・ソンビ)・宋吉儒(ソン・ギリュ)・李公柱(イ・ゴンジュ)が義理兄弟になりました。
実はこれはドラマ上のフィクションで、歴史書にそのような記録は残されていません。
参考文献
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)3月26日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)3月29日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)4月1日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)7月28日
- 『高麗史』巻25、世家第25、元宗3年(1262)10月6日
- 『高麗史』巻25、世家第25、元宗3年(1262)12月25日
- 『高麗史』巻25、世家第25、元宗4年(1263)12月20日
- 『高麗史』巻26、世家第26、元宗5年(1263)8月11日
- 『高麗史』巻28、世家第28、忠烈王4年(1278)1月27日
- 『高麗史』巻123、列伝第36、嬖幸、白勝賢
- 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔竩
- 『高麗史』巻130、列伝第43、叛逆、金俊
- 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗45年(1258)1月
- 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗45年(1258)3月
- 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗45年(1258)3月
- 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗45年(1258)4月
- 『高麗史節要』巻18、元宗順孝大王、元宗4年(1263)12月
- 『高麗史節要』巻18、元宗順孝大王、元宗5年(1264)8月
- 『高麗史節要』巻20、忠烈王2、忠烈王4年(1278年)1月




