武神 チェウ(崔瑀)の生涯 【高麗・武臣政権】

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高麗

韓国ドラマ『武神』に登場するチェ・ウ。

ドラマでは、父のチェ・チュンホンを継いで政権の頂点に君臨し、主人公キム・ジュンなどの主君として、大きな存在感を放っていました。

チェ・ウは高麗後期、武臣政権の最高権力者となった人物の一人で、実在した人物です。

実際には、どのような人物だったのでしょうか。

この記事では、チェ・ウの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて詳しく解説します。

記事の最後では、ドラマ『武神』で描かれるチェ・ウと史実との違いも解説しております。

崔瑀(チェ・ウ)の詳細

崔瑀の基本情報

姓名:崔瑀(チェ・ウ)※のちに崔怡(チェ・イ)に改名
出生年:不明
死亡年:1249年
最終官職:参知政事・吏兵部尚書・判御史台事
諡号:晋陽公

家族構成

  • 父:崔忠献(チェ・チュンホン)
  • 母:宋氏(ソン氏)
  • 弟:崔珦(チェ・ヒャン)
  • 息子:萬宗(マンジョン)
  • 息子:萬全(マンジョン)※のちに崔沆(チェ・ハン)に改名
  • 配偶者(前妻):鄭氏(チョン氏)
    • 娘:崔氏(チェ氏)
  • 配偶者(後妻):大氏(テ氏)

崔瑀(チェ・ウ)の生涯

生い立ち

崔瑀(チェ・ウ)の生い立ちについては、残念ながら、あまりよくわかっていません。

というのも、歴史書に崔瑀の幼少期や青年期についての記録がほぼ残されていないからです。

ただ、『高麗史』を見ると、1200年代の初頭には、父の崔忠献(チェ・チュンホン)のもとで、軍隊の訓練や閲兵などを行なっていたことがうかがえます。

若き頃の崔瑀は、崔忠献のもとで軍人として活動していたものと思われます。

とはいえ、単なる軍人であったとは考えられません。

当時、崔忠献は武臣政権の最高権力者でしたので、その嫡男である崔瑀はそれなりの有力者であったはずです。

記録こそ残されていませんが、この頃から武臣として政治に関与していたのかもしれません。

このように、崔瑀の若い時代のことはよくわからないのですが、崔忠献のもとで活動する有力な軍人であったことは確かです。

病に伏した崔忠献に呼ばれる

1219年、崔忠献(チェ・チュンホン)が病に伏しました。

崔忠献は長男の崔瑀(チェ・ウ)を呼んで、「私の病は治りそうにない。兄弟間の争いが起きそうで心配だから、お前は二度とここに来てはならない」と言いました。

崔瑀には、弟の崔珦(チェ・ヒャン)がいましたが、どうやら、この崔珦には後継者への野心があったようです。

そこで、崔忠献は兄弟二人の後継者争いを憂慮したのです。

恐らく、崔忠献が崔瑀に「来てはならない」と言ったのは、崔瑀が見舞いに来るのを見計らって、弟の崔珦が崔瑀を襲撃する可能性があったからです。

それから、崔瑀はその言いつけを守って、崔忠献の見舞いに行くことはありませんでした。

崔珦(チェ・ヒャン)の陰謀を免れる

崔忠献(チェ・チュンホン)が病に伏すと、その側近の崔俊文(チェ・ジュンムン)・池允深(チ・ユンシム)・柳松節(ユ・ソンジョル)・金徳明(キム・ドンミョン)の四人が謀議して、次のように言いました。

「公(=崔忠献)が亡くなれば、我々は必ず崔瑀(チェ・ウ)の手で死ぬだろう。末子の崔珦(チェ・ヒャン)は気概が人一倍優れており、大事を託すに足る」。

彼ら四人は、将来、崔瑀の手で自分たちが殺されると思い、崔珦を後継者にしようと画策したのです。

崔珦のほうも後継者への野心があったようなので、この四人を味方に引き入れました。

ついに、崔珦は四人とともに謀って、崔瑀が崔忠献の見舞いに来るのを待ち伏せして、排除しようと企みました。

そこで、崔珦は崔瑀に使者を遣わして、「父(=崔忠献)は危篤で、あなたに会いたいとのことです」と伝えました。

しかし、崔瑀は、崔忠献に「来てはならない」と言われていたので、何度使者が来ようとも、見舞いには行きませんでした。

崔忠献を継いで最高権力者になる

その後、崔珦(チェ・ヒャン)側についた四人のうちの一人、金徳明(キム・ドンミョン)が崔珦を裏切り、陰謀のことを崔瑀(チェ・ウ)に告発しました。

崔瑀は巧みな言葉で金徳明を安心させたあと、彼を拘束しました。

しばらくすると、崔俊文(チェ・ジュンムン)と池允深(チ・ユンシム)がやって来て、「崔忠献様が危篤なので、早く行ってください」と催促してきました。

崔瑀はこれを、またとないチャンスと捉え、崔俊文と池允深をその場で捕らえ、流刑に処しました。

こうして、崔瑀は弟の崔珦の勢力を抑えることに成功したのです。

まもなく、崔忠献が死去すると、崔瑀は父を継いで武臣政権の最高権力者の座に就くこととなりました。

崔瑀は最高権力者の座に就くと、すぐに、父の崔忠献が敵対勢力から奪った公私の田地や奴隷を所有者に返還しました。

また、これまで身分が低いために出世の道が閉ざされていた者たちを登用することにしました。

こうしたことにより、崔瑀は多くの人望を獲得し、自らの権力基盤を確固たるものにしていきました。

崔珦の死

兄との後継者争いに敗れた崔珦(チェ・ヒャン)は、崔瑀(チェ・ウ)により、洪州(ホンジュ)に流刑に処されました。

洪州(ホンジュ)
現在の韓国・忠清南道・洪城郡にあたる。

ところが、崔珦は流刑地の洪州で、ならず者たちを集めて反乱を起こし、州の役人たちを殺してしまいます。

さらに、崔珦はかつて自分を擁立しようとした四人のうちの一人、柳松節(ユ・ソンジョル)をはじめ、自分の味方を何人も呼び寄せ、反乱軍を組織しました。

朝廷はこの反乱の知らせを聞いて、すぐさま討伐軍を送りました。

討伐軍が洪州に来ると、崔珦は数十人の味方とともに山に逃げ込みました。

どうやら、多勢に無勢だったようです。

やがて、崔珦に従っていた者たちは皆逃げ去ってしまい、崔珦は兵士に捕らえられて、牢獄に閉じ込められました。

そして、そのまま崔珦は獄中で死去しました。

政房(チョンバン)を設置する

1221年、崔瑀(チェ・ウ)は、参知政事・吏兵部尚書・判御史台事という三つの官職に任命され、これを兼任しました。

これら三つの官職は、いずれも官吏の人事に関わる権限を持っており、三つを兼職すれば百官の人事権を全て掌握することが可能でした。

つまり、ここで崔瑀は百官の人事権を掌握したことになります。こうなれば、誰も彼に逆らうことはできません。

こうして、全権力を手中に収めた崔瑀は、自宅に政房(チョンバン)を設置し、ここで政務を執り行いました。

崔瑀は政房で官吏の選抜を行なうと、その結果を王に上奏していたのですが、王はただ崔瑀の決定に従うだけだったといいます。

崔瑀の権力がいかに大きかったのかがうかがえますね。王も崔瑀の人事権に口出しはできなかったのです。

このときの高麗王は、第23代の高宗(コジョン)です。

崔山甫(チェ・サンボ)/周演之(チュ・ヨンジ)を信用する

崔山甫(チェ・サンボ)という陰陽道に精通した者がいました。

彼は金剛寺(クムガンサ)というお寺の住職でありながら、自分の甥とともに、人々から略奪を繰り返していました。

ある日、この行為が役人にバレてしまったので、崔山甫は逃亡して、姓名を変えて、周演之(チュ・ヨンジ)と名乗りました。

その後、周演之は開京(ケギョン)に行き、そこで得意の占い術を行なって、人々を大いに惑わしました。

開京(ケギョン)
高麗の都。現在の北朝鮮・黄海北道・開城市にあたる。

それから、周演之は武臣政権の最高権力者・崔瑀(チェ・ウ)のもとに取り入って、信任を得るに至ります。

周演之のことを信用した崔瑀は、彼にあらゆることを相談したといいます。

こうして、周演之の名声と勢力は日増しに高まっていきました。

人々は周演之のことを恐れるあまり、競って彼に賄賂を献上したので、ついに周演之は大富豪となったといいます。

周演之は自分が勢力を得たことをいいことに、好き勝手に振る舞いました。

あるときには、「声を聞いて顔色を観察すれば、あなたの貧富と寿命の長短を知ることができる」という出任せを言って美しい婦人たちを誘い出し、淫乱するという非道っぷりを晒しました。

しかし、人々は周演之の威勢を恐れていたため、あえて彼を非難することはできませんでした。

崔山甫/周演之を処刑する

権勢を誇った周演之(チュ・ヨンジ)でしたが、彼の命運も尽きることとなります。

ある日、周演之が崔瑀(チェ・ウ)に、「あなたは王になる相です。これは運命ですから避けられません」と言いました。

恐らく、周演之は崔瑀を持ち上げて、さらなる厚遇を得ようとしたのでしょう。

あるいは、あわよくば、崔瑀を王に推戴することで、自分の権力を高めようとしたのかもしれません。

しかし、これは裏目に出ました。これを聞いた崔瑀は自分が侮辱されたと感じ、周演之に不信感を抱くようになったのです。

しかも、このときある者が崔瑀に、「周演之は諸々の将軍と謀って、あなたを殺害しようとしています」と密告してきました。

崔瑀は周演之に不信感を持っていたため、この密告を信じました。

そして、結局、崔瑀は周演之を海に投げ捨て、その親族も皆殺しにしてしまいました。

人家を壊して撃毬場(キョックジャン)を造る

1229年、崔瑀(チェ・ウ)は都の中に巨大な撃毬場(キョックジャン)を造りました。

撃毬(キョック)
馬に乗りながら先端にすくいの付いた棒で球を打ち合い、相手チームのゴールに入れる競技。ポロ。

『高麗史』によれば、崔瑀は近隣の人家を数百軒壊し、その土地を奪って撃毬場を造ったと書かれています。

そうして完成した撃毬場は、東西数百歩に及ぶ広さだったといいます。

崔瑀はここで馬別抄(マビョルチョ)と呼ばれる騎兵たちに撃毬を行わせ、それを観賞して楽しんでいました。

ただし、崔瑀が騎兵たちに撃毬を行わせたのは、単なる遊戯のためではありませんでした。

当時、高麗にとって、北方のモンゴル帝国が大きな脅威となっていました。

撃毬には、そのモンゴル帝国との戦争に備えるための馬術訓練としての意味合いがあったのです。

また、崔瑀は撃毬場で、撃毬以外のさまざまな軍事訓練も実施していました。

撃毬場は単なる遊技場ではなく、モンゴルの侵攻に備えた訓練場であったと言ってよいでしょう。

妻の鄭氏が死去する

1231年、崔瑀(チェ・ウ)の妻の鄭氏が死去します。

鄭氏の葬儀には、王族・宰相から諸々の役人まで、多くの人たちが供え物を捧げて参列しました。

国王の高宗も、大量の綵(あやぎぬ)を送ったといいます。

葬儀はとても豪華に行われ、金銀や華麗な絹など派手な装飾がなされました。

鄭氏の葬儀を通しても、崔瑀の権力がいかに大きかったかが分かります。

モンゴル帝国の侵攻が始まる

1231年、北方のモンゴル帝国が使者の殺害を口実として、高麗に攻め込んできました。

モンゴルは高麗に派遣した使者が高麗側に殺害されたという理由で、その報復として攻めてきたのです。

ただし、本当に高麗がモンゴルの使者を殺したのかはよくわかりません。単なるモンゴル側の口実に過ぎなかった可能性もあります。

ともあれ、これがモンゴル帝国による第1回高麗侵攻の幕開けでした。

これ以降、モンゴルは何度も高麗に侵攻してきます。この高麗・モンゴル戦争(麗蒙戦争)は、あしかけ40年にも渡る長期戦となります。

江華島に遷都する

モンゴル軍の侵攻を受けた高麗でしたが、金慶孫(キム・ギョンソン)、崔椿命(チェ・チュンミョン)などの将軍の活躍により、何度もモンゴル軍を退けることに成功します。

ただ、高麗の朝廷は、これ以上モンゴルの侵攻に耐え続けることは難しいと判断し、モンゴルとの講和を成立させました。

しかしその一方では、崔瑀(チェ・ウ)が都を江華島(カンファド)に遷して、モンゴルに対する徹底抗戦の路線を確立しようとします。

というのも、江華島は強い水流によって高麗本土から隔てられており、モンゴル軍が侵攻できない環境にあったからです。

江華島はモンゴルに抵抗するうえで、二つとない要害の地だったのです。

崔瑀は遷都を実施するにあたり、朝廷の重臣たちを自邸に集め、その是非について意見を求めました。

ですが、重臣たちは崔瑀を恐れて何も答えることができませんでした。

このとき、軍人の金世冲(キム・セジュン)という者が会議に突入してきて、異を唱えました。

金世冲は、「太祖(高麗初代王)の時代から守り続けてきた都を捨ててはならない」と主張したのです。

しかし、崔瑀が都を守る対策を尋ねると、金世冲は答えることができませんでした。

結局、崔瑀の意のままに、江華島遷都が強行されることとなりました。1232年のことでした。

ちなみに、高麗王の高宗も遷都に消極的でしたが、崔瑀が強行したので、しぶしぶ従わざるを得ませんでした。

※モンゴル軍を退けた英雄の金慶孫(キム・ギョンソン)崔椿命(チェ・チュンミョン)については、以下の記事で解説しております。

大氏を継室(後妻)に迎える

江華島遷都の同年、崔瑀(チェ・ウ)は重臣の大集成(テ・ジプソン)の娘である大氏を継室(後妻)に迎えました。

『高麗史』には、大氏が未亡人で美貌の持ち主であったため、継室(後妻)として迎えたと書かれています。

ちなみに、大氏には亡き夫との間に息子がおり、呉承績(オ・スンジョク)といいました。

のちの崔沆(チェ・ハン)の執権時代、呉承績は母の大氏とともに悲劇の最期を迎えることになるのですが、このことについては、以下の崔沆の記事で解説しております。

また、大氏の父・大集成(テ・ジプソン)については、以下の記事で解説しております。

大蔵経を再刊する

崔瑀(チェ・ウ)はモンゴルとの徹底抗戦を続けていく中で、その精神的な主柱として大蔵経の再刊事業を始めました。

大蔵経(テジャンギョン/だいぞうきょう)
仏教経典が印刷された木版。11世紀末に作られたが、1232年にモンゴルの侵攻によって焼けてしまう。崔瑀が再刊事業を開始し、1251年に完成する。

崔瑀は大蔵経の再刊を通して、仏教の支えによってモンゴルの脅威から国を守っていこうとしたのです。

高麗大蔵経(海印寺)
写真:旅祐 / PIXTA(ピクスタ)

ちなみに、崔瑀が開始した再刊事業は、次の武臣政権の最高権力者・崔沆(チェ・ハン)に引き継がれ、1251年に完成を見ることになります。

このときに完成した大蔵経は再彫大蔵経と呼ばれ、現存しています。

現在は韓国の慶尚南道・陜川郡・伽倻面の海印寺(ヘインサ)に所蔵されています。

晋陽公の爵位を受ける

1234年、高麗王の高宗は、遷都の功績により崔瑀(チェ・ウ)に晋陽侯という爵位を与えました。

さらに、1242年には、その爵位を晋陽侯から晋陽公に昇格させます。

「公」とは、「王」の次に高い爵位です。

つまり、このとき崔瑀は国王に次ぐ地位を公認されたことになります。

ただし、晋陽公に昇格する以前から、崔瑀の権力は国王に次ぐどころか、実質的に国王よりも上でした。

このことは、崔瑀が国王の意向を無視して江華島遷都を強行していることが物語っています。

もはや、爵位や官職などは関係なく、当時の政治は崔氏政権の独壇場だったのです。

酒宴にふける

晩年の崔瑀(チェ・ウ)は、酒宴にふけるようになります。

1245年4月、崔瑀は燃灯会(仏教行事の一つ)を開催し、伎楽やさまざまな遊びを催して、夜通し楽しみました。

この燃灯会は活況を呈したようで、これを観覧しに集まってきた人たちで塀(へい)ができたかのようであったと記録されています。

また、同年5月には、崔瑀は王族や宰相たちに盛大な宴を催しました。宴会場をきらびやかに装飾したため、莫大な費用がかかったといいます。

モンゴルの侵攻を受けて国が苦しい状況にもかかわらず、崔瑀がこのような豪勢な宴を開いたので、臣下の中には否定的な感情を持つ者もいました。

そして、時は過ぎ、1249年11月に崔瑀は死去しました。

崔瑀の死後、武臣政権は崔瑀の庶子である崔沆(チェ・ハン)に引き継がれることになります。

崔沆(チェ・ハン)について詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

ドラマ『武神』と史実の違い(ネタバレ注意)

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

ソンイの最期について

ドラマ『武神』では、ソンイが父親の崔瑀(チェ・ウ)から毒薬を賜って亡くなるという何とも切ない最期を迎えました。

崔瑀が娘のソンイを死罪としたのは、ソンイが夫の金若先(キム・ヤクソン)を陥れ、死に至らせたからでした。

しかし、史実では、崔瑀は自分の娘を死罪にはしていません。

高麗の歴史書である『高麗史』によれば、崔瑀は夫を陥れた娘に対し、遠ざけて死ぬまで会わなかったとだけ書いてあります。

このあたりは、事実とフィクションが混ざっている部分だと言えるでしょう。

ちなみに、「ソンイ」という名前はドラマ側がつけたものです。

実は崔瑀の娘の名前は、記録として伝わっていないのです。

ソンイ金若先(キム・ヤクソン)については、以下の記事で詳しく解説しております。

崔瑀と金俊(キム・ジュン)の関係

ドラマでは、崔瑀(チェ・ウ)は金俊(キム・ジュン)を信頼し、側近として重用しました。

それだけでなく、金俊のことを我が子のように思っていました。

『高麗史』によれば、崔瑀は金俊を信頼して、自分の護衛にしたと書かれています。

果たして、「我が子」とまで思っていたのか、それはよくわかりません。

ただ、崔瑀が金俊のことを信頼していたのは事実です。

ところで、ドラマでは、崔瑀は自分の後継者選びを金俊に任せていました。

これに対し、金俊は、崔瑀の次男・萬全(マンジョン)を後継者として推薦しました。

しかし、歴史書には、金俊が崔瑀の後継者を選んだという記録はありません。

これは、崔瑀の金俊への「信頼」がいかに大きかったかを表現するために、ドラマ側が行なった脚色とみられます。

参考文献

  • 『高麗史』巻22、世家第22、高宗8年(1221)12月
  • 『高麗史』巻23、世家第23、高宗18年(1231)9月
  • 『高麗史』巻23、世家第23、高宗19年(1232)6月
  • 『高麗史』巻23、世家第23、高宗21年(1234)10月
  • 『高麗史』巻75、志第29、選挙3、銓注
  • 『高麗史』巻100、列伝第13、諸臣、鄭晏
  • 『高麗史』巻101、列伝第14、諸臣、金若先
  • 『高麗史』巻101、列伝第14、諸臣、盧仁綏
  • 『高麗史』巻103、列伝第16、諸臣、金慶孫
  • 『高麗史』巻103、列伝第16、諸臣、崔椿命
  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔忠献
  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔怡
  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔沆
  • 『高麗史』巻130、列伝第43、叛逆、洪福源
  • 『高麗史』巻130、列伝第43、叛逆、金俊
  • 『高麗史節要』巻14、高宗安孝大王、高宗3年(1216)12月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗17年(1230)7月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗19年(1232)2月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗30年(1243)11月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗32年(1245)4月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗32年(1245)5月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗33年(1246)1月
  • 『高麗史節要』巻16、高宗3、高宗36年(1249)11月
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