武神 ソンギリュ(宋吉儒)は実在した武人

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高麗

韓国ドラマ『武神』に登場するソン・ギリュ。

ドラマでは、崔瑀(チェ・ウ)の家臣団の一人で、手厳しい拷問を実施するなど、やや気性の荒い人物でした。

歴史上、ソン・ギリュは実在した人物です。

この記事では、ソン・ギリュの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて解説していきます。

記事の最後では、ドラマ『武神』で描かれるソン・ギリュと史実との違いも解説しております。

宋吉儒(ソン・ギリュ)の詳細

宋吉儒(ソン・ギリュ)の基本情報

姓名:宋吉儒(ソン・ギリュ)
出生年:不明
死亡年:不明
最終官職:尚書右丞

家族構成

不明

宋吉儒(ソン・ギリュ)の生涯

生い立ち

宋吉儒(ソン・ギリュ)の生い立ちについては、歴史書に記録が残っていないため、よくわかっていません。

『高麗史』によれば、当初は卑しい身分で、兵卒の出身だったようです。

性格は貪欲で残酷。言葉は達者で、権力者に媚びへつらっていたという記録が残っています。

身分の低い宋吉儒でしたが、崔氏(武臣政権の執政者)に仕えることによって、出世していくことになります。

崔瑀(チェ・ウ)に仕える

具体的な時期はわかりませんが、宋吉儒(ソン・ギリュ)は崔瑀(チェ・ウ)に仕えて、その家臣となりました。

崔瑀
武臣政権第6代目の執政者。崔氏政権としては2代目。崔忠献(チェ・チュンホン)の嫡男。

『高麗史』には、朴松庇(パク・ソンビ)と宋吉儒が金俊(キム・ジュン)のことを、崔瑀に推薦したという記録が残されています。

この記録から、宋吉儒が崔瑀に仕える家臣であったことがうかがえます。

しかも、金俊のことを崔瑀に推薦していることから、宋吉儒が崔瑀に意見できるほどの立場にあったこともわかります。

宋吉儒は崔瑀に信頼された家臣の一人だったのでしょう。

朴松庇(パク・ソンビ)金俊(キム・ジュン)については、以下の記事で解説しております。併せてご覧ください。

崔沆(チェ・ハン)に仕える

1249年、崔瑀(チェ・ウ)が死去し、武臣政権は崔瑀の庶子である崔沆(チェ・ハン)に引き継がれました。

崔沆
武臣政権第7代目の執政者。崔氏政権としては3代目。崔瑀(チェ・ウ)の庶子。もともとは寺に送られ僧侶になっていたが、急遽、崔瑀に呼び戻されて崔氏政権の後継者となる。

宋吉儒(ソン・ギリュ)は媚びへつらって崔沆に仕え、そのもとで主に罪人の鞠問(きくもん)を担当しました。

崔沆(チェ・ハン)については、以下の記事で詳しく解説しております。

宋吉儒の残酷な鞠問

宋吉儒の鞠問はとても残酷で、罪人を横木に吊るし、その下で炭を燃やしたうえで、二人の役人に交代で腰と背中を叩かせるというものでした。

宋吉儒の鞠問を受けた罪人は、その残酷さに耐えきれず、虚偽の自白をするほどでした。

崔竩(チェ・ウィ)に仕える

1257年、崔沆(チェ・ハン)が病気で死去し、武臣政権は崔沆の庶子である崔竩(チェ・ウィ)に引き継がれました。

崔竩
武臣政権8代目の執政者。崔氏政権としては4代目で、崔氏政権最後の執政者。崔沆(チェ・ハン)の庶子。

この頃、宋吉儒は大将軍(従3品の高級武官職)に昇進し、慶尚道(現在の韓国慶州北道・南道にあたる)の防御を担当する「慶尚道水路防護別監」という役職に就きます。

慶尚道の民を強制移住させる

慶尚道に赴任した宋吉儒(ソン・ギリュ)は、慶尚道内の州や県を回り、そこの民たちを海島(海に浮かぶ島)に移住するよう促しました。

というのも、この頃、北方のモンゴルが相次いで高麗に侵略していたので、その侵略から民を守るために彼らを海島や山城に移住させる必要があったのです。

そこで、宋吉儒は慶尚道の民を海島に移住させようとしたわけです。

しかし、そのやり方が残酷でした。

宋吉儒は移住命令に従わない民がいれば、殴り殺したり、海に放り投げたりしたのです。

しまいには、移住命令に従わない民たちの家や金銭、穀物を焼き払って強制的に移住させたので、飢え死にする者が10人中8、9人に及んだといいます。

崔竩が宋吉儒を流刑にする

宋吉儒(ソン・ギリュ)は慶尚道の民を強制移住させるだけでなく、他人の土地や財産を奪って民を搾取し続けました。

これを知った按察使宋彦庠(ソン・オンサン)は、宋吉儒を弾劾する文書を朝廷に提出しました。

按察使(アンチャルサ)
地方の巡回・地方官を監視する役職。

宋吉儒を弾劾する文書が朝廷に届くと、宋吉儒と親しかった金俊(キム・ジュン)が、宋吉儒を助けるためにこの文書を隠そうと画策します。

金俊は文臣の柳璥(ユ・ギョン)に協力を求め、この文書が崔竩(チェ・ウィ)や王(高宗)に伝わらないようにしました。

ところが、このことが崔竩の耳に入ってしまいます。

事の経緯を知った崔竩は、金俊や柳璥を叱責したうえで、宋吉儒を島に流刑としました。

この宋吉儒の流刑を一つのきっかけとして、金俊は崔竩に不満を持ち始めるようになります。

このあと、金俊は崔竩を倒して崔氏政権を打倒するのですが、その詳しい経緯については、以下の金俊の記事をご覧ください。

宋吉儒の最期

1258年、金俊(キム・ジュン)などが挙兵して崔竩(チェ・ウィ)を殺害し、崔氏政権を打倒しました。

金俊が崔竩を倒すと、宋吉儒(ソン・ギリュ)は金俊と図って、かつて自分を弾劾した宋彦庠(ソン・オンサン)を害そうとしました。

恐らく、宋吉儒は崔竩の死去に伴い、この頃には流刑地から都(江華島)に戻って来ていたのでしょう。

しかし、王(高宗)が宋彦庠を擁護したため、宋吉儒の企みは実行されませんでした。

その後の宋吉儒の活動については、ほとんど記録がなく、よくわかっていません。

その後も官職が昇進しているため、金俊のもとで活動していたのだと思われます。

ところが、突然、足に悪いできものができてしまい、その部分が腐り落ちて、そのまま亡くなってしまいました。

これが宋吉儒の最期でした。

ドラマ『武神』と史実の違い

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

宋吉儒(ソン・ギリュ)と崔沆(チェ・ハン)の関係

ドラマ『武神』では、崔沆が宋吉儒を疎んで、慶尚道に左遷するという場面がありました。

しかし、『高麗史』によれば、崔沆は宋吉儒の官職昇進を後援しており、むしろ宋吉儒のことを気に入っていたように見えます。

他方で、宋吉儒は慶尚道に赴任すると、その地の民を島に強制移住させましたが、実はこれも崔沆が推進していた政策でした。

恐らく、崔沆は宋吉儒のことを信頼していたため、強制移住の任務を任せたのだと推測されます。

そうであれば、崔沆が宋吉儒を慶尚道に派遣したのは、左遷ではなかった可能性が高いです。

宋吉儒は金俊と義理兄弟になっていない

ドラマの後半では、金俊(キム・ジュン)朴松庇(パク・ソンビ)・宋吉儒(ソン・ギリュ)・李公柱(イ・ゴンジュ)が義理兄弟になりました。

実はこれはドラマ上のフィクションで、歴史書にそのような記録は残されていません。

ですが、金俊と宋吉儒が親しかったことは事実なので、ドラマではそのような史実を考慮し、義理兄弟という設定にしたのでしょう。

参考文献

  • 『高麗史』巻24、世家第24、高宗43年(1256)8月22日
  • 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)1月3日
  • 『高麗史』巻122、列伝第35、酷吏、宋吉儒
  • 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔沆
  • 『高麗史』巻130、列伝第43、叛逆、金俊
  • 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗43年(1256)8月
  • 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗45年(1258)1月
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