韓国ドラマ『武神』に登場するチェ・ウィ。
ドラマでは、チェ・ハンを継いで最高権力者となりますが、もはや世はキム・ジュンの時代で、チェ・ウィの出る幕はありませんでした。
チェ・ウィは崔氏政権の4代目執政者となった実在の人物です。
この記事では、チェ・ウィの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて詳しく解説します。
崔竩(チェ・ウィ)の詳細
崔竩の基本情報
姓名:崔竩(チェ・ウィ)
出生年:不明
死亡年:1258年
最終官職:右副承宣
家族構成
曽祖父:崔忠献(チェ・チュンホン)
祖父:崔瑀(チェ・ウ)
父:崔沆(チェ・ハン)
崔竩(チェ・ウィ)の生涯
生い立ち
崔竩(チェ・ウィ)の生い立ちについては、歴史書に詳しい記録がなく、よくわかっていません。
『高麗史』には、崔竩は容貌が美しく、性格は無口で恥ずかしがり屋であったと書かれています。
父の崔沆(チェ・ハン)は、崔氏武臣政権の3代目の最高権力者でした。
崔沆には本妻との間に子がなく、婢(他人の家の使用人)との間に息子をもうけました。
それがまさに崔竩です。崔竩は崔沆の庶子ということになります。
ちなみに、父親の崔沆も庶子でした。
崔沆は、崔瑀(チェ・ウ)が妓女との間にもうけた息子の一人でした。
すなわち、崔沆・崔竩は親子二代に渡って庶子の出自であったことになります。
『高麗史』には、崔沆と崔竩の母親が妓女で卑しい身分だったので、「当時の人々は書物や文書で「倡妓」や「賤隷」という言葉が出てくると、その言葉を避けた」とあります。
崔沆と崔竩が、「倡妓」や「賤隷」などの卑しい身分を示す言葉を嫌っていたことがうかがえる記録です。
特に、崔竩は自分の出身を誹謗した者がいると、殺害したといいます。
※崔瑀(チェ・ウ)と崔沆(チェ・ハン)については、以下の記事で詳しく解説しております。
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崔沆(チェ・ハン)を継いで最高権力者になる
1257年、崔竩(チェ・ウィ)の父で武臣政権の最高権力者だった崔沆(チェ・ハン)が病気で死去します。
崔沆は病床にあった頃、自身の側近の宣仁烈(ソン・インニョル)と柳能(ユ・ヌン)に遺言を残しました。
崔沆の遺言は、自分の息子である崔竩(チェ・ウィ)に政権を継がせることでした。
崔沆が死去すると、その側近たちは遺言に従って動き始めました。
まず、崔沆の側近で武人の崔良伯(チェ・ヤンベク)は、崔沆の死を周囲に知られないように隠しました。
崔沆の死を隠したのは、この機に乗じて政権を奪おうとする者が現れることを危惧したからでしょう。
そのうえで、柳能(ユ・ヌン)らが夜別抄・神義軍(高麗における軍隊組織の一つ)を率いて、すぐに崔竩を護衛しました。
崔竩の身辺の守りを固め、体制が万全に整ったところで、側近たちは崔沆の死を公表しました。
こうして、崔氏武臣政権は4代目の崔竩に継承されることとなりました。1257年閏4月のことでした。
※崔良伯(チェ・ヤンベク)については、以下の記事で詳しく解説しております。

側近だけを信用する
最高権力者となった崔竩(チェ・ウィ)は、崔良伯(チェ・ヤンベク)・宣仁烈(ソン・インニョル)・柳能(ユ・ヌン)などの側近だけを信用しました。
このような崔竩の態度は、崔瑀(チェ・ウ)や崔沆(チェ・ハン)の代から崔氏に仕えてきた家臣たちの不満を買うことになります。
特に、崔瑀・崔沆の二代に渡って仕え、奴隷身分から立身出世を果たして権臣となりつつあった金俊(キム・ジュン)は、崔竩に大きな不満を抱きました。
崔竩が金俊のことを軽視し、側近だけを重用したからです。
好き勝手な政治を行なう
崔竩(チェ・ウィ)は自らの側近だけを侍らせ、好き勝手な政治を行ないました。
『高麗史』によれば、崔竩は最高権力者になった直後こそ、穀倉を開いて飢えた民たちを助けました。
しかし、それからすぐに民を搾取するようになったので、そのせいで民は苦しみに喘いだといいます。
国に飢饉が起きても穀物を放出せず、民を助けようとしなかったため、崔竩は人望を大きく失いました。
それどころか、崔竩の叔父の元拔(ウォンバル)や妾の心鏡(シンギョン)が、崔竩の身内であることをいいことに威勢を振るい、財物を貪る始末でした。
こうなってしまっては、もはや崔竩政権の信頼は失墜したも同然でした。
宋吉儒(ソン・ギリュ)を流刑にする
1258年1月、崔竩(チェ・ウィ)は、大将軍の宋吉儒(ソン・ギリュ)を流刑にします。
なぜ、崔竩は崔氏政権の重臣である宋吉儒を流刑に処したのでしょうか。
この頃、宋吉儒は慶尚道(現在の韓国慶州北道・南道にあたる)で、住民を島に移住させる任務にあたっていました。
というのも、北方のモンゴル帝国が相次いで高麗に侵略していたので、その侵略から民を守るために島や山城に移住させる必要があったからです。
ところが、宋吉儒は慶尚道の住民を移住させるだけでなく、他人の土地や財産を奪って民を搾取しました。
このような宋吉儒の乱暴を止めようと、按察使の宋彦庠(ソン・オンサン)という者が宋吉儒の弾劾を求める文書を朝廷に提出しました。
文書が朝廷に届くと、宋吉儒と親しかった金俊(キム・ジュン)が、宋吉儒を助けるためにこの文書を隠そうと画策します。
しかし、このことが崔竩の耳に入ってしまいます。
そこで、事の経緯を知った崔竩は金俊を叱責したうえで、宋吉儒を島に流刑に処したのです。
他方では、この宋吉儒の流刑を一つのきっかけとして、金俊が崔竩にさらなる恨みを抱くようになりました。
金俊としては、かねてより不満を抱いていた崔竩から叱責されたうえ、自分と親しい宋吉儒が流刑にされたのですから。
金俊(キム・ジュン)らのクーデターに遭う
自分の側近だけを優遇しながら、旧来の家臣を軽視して、好き勝手に振る舞った崔竩(チェ・ウィ)。
いよいよ、金俊ら家臣たちの崔竩への鬱憤が爆発することになります。
1258年3月、金俊(キム・ジュン)・柳璥(ユ・ギョン)・李公柱(イ・ゴンジュ)・朴松庇(パク・ソンビ)・林衍(イム・ヨン)・金大材(キム・テジェ、金俊の息子)などが謀議し、クーデターを計画したのです。
崔竩の側近の崔良伯(チェ・ヤンベク)は、この謀議のことを知って、すぐに崔竩に告発しました。
崔竩はすぐに側近の柳能(ユ・ヌン)を呼んで対策を議論しました。
一方の金俊らは、謀議の内容が崔竩側に漏れたことを知って、ただちに計画を実行することにしました。
※金俊(キム・ジュン)については、以下の記事で詳しく解説しております。

金俊らによって殺害される
金俊らは軍隊を集め、ついに事を起こします。
まず、金俊は崔良伯(チェ・ヤンベク)を自陣に招いて斬りつけ、それから、崔竩(チェ・ウィ)の家に進軍しました。
金俊らの軍隊が崔竩の家に突入してくると、崔竩の叔父の元拔(ウォンバル)が剣を抜いて門の前を塞ぎました。
元拔(ウォンバル)はしばらく戦ってから、もはや勝てないと悟り、崔竩を担いで屋根の上に登らせました。
崔竩を逃がした元拔はその後も門を塞ぎ続けましたが、いよいよ攻勢に耐えきれなくなり、逃走しました。
しかし、金俊ら軍隊の追撃により、まもなく元拔は首をはねられました。
やがて、崔竩と柳能(ユ・ヌン)も見つかり、殺害されることとなりました。
これが崔竩の最期でした。
こうして、崔竩政権はわずか一年足らずで崩壊を見ることになりました。
同時に、崔忠献(チェ・チュンホン)以来、60年四代に渡って続いた崔氏政権に幕が下ろされたのでした。
参考文献
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗44年(1257)閏4月2日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗44年(1257)7月17日
- 『高麗史』巻24、世家第24、高宗45年(1258)3月26日
- 『高麗史』巻122、列伝第35、酷吏、宋吉儒
- 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔沆
- 『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆、崔竩
- 『高麗史』巻130、列伝第43、叛逆、金俊
- 『高麗史節要』巻17、高宗4、高宗44年(1257)閏4月
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