『高麗史』巻93、列伝6、韓彦恭(ハンオンゴン)

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原文

韓彦恭、湍州人。父聡礼光禄少卿。彦恭、性敏好学。光宗朝、年十五、属光文院書生、未幾、為本院承事郎、転内承旨。請赴進士挙不第。進累内議承旨舎人。成宗時、再転刑・兵二官侍郎。

如宋謝恩、宋以彦恭儀容中度、授金紫光禄大夫検校兵部尚書兼御史大夫。彦恭奏請大蔵経。帝賜蔵経四百八十一函凡二千五百巻、又賜御製秘蔵詮・逍遙・蓮花心輪。還王授御史礼官侍郎判礼賓省事。彦恭奏、「宋枢密院、即我朝直宿員吏之職。請置其官」。於是、始設中枢院、置使・副各二人、以彦恭為副使。俄転為使殿中監知礼官事、進参知政事上柱国。

穆宗即位、授内史侍郎平章事。四年、拝門下侍中。王巡省州郡、至長湍県、謂彦恭曰、「此卿本貫也。念卿功労、可陞為湍州」。時全用銭幣、禁麤布、民頗患之。彦恭上疏、論其弊、王納之。後累加特進開国侯、食邑一千戸、監修国史、贈其父聡礼内史令。王嘗幸平州、日暮寒甚、駐輦道傍、酣飲不行。彦恭進曰、「臣等醉飽、柰軍士何」。王嘉之、賜貂鼠裘、趣駕入行宮。遇事直言、多類此。

六年、彦恭病。王賜医薬及車二乗、往浴温泉、命州県供給。疾篤、遣近臣問疾、又賜厩馬三匹、以資祈禱、竟不愈。明年卒、年六十五。訃聞、王悼甚、賻米五百石、麦三百石、布一千二百匹、茶二百角。贈内史令、謚貞信、以礼葬之。顕宗十八年、配享穆宗廟庭、徳宗二年、加贈太傅。子祚。

書き下し

韓彦恭、湍州の人なり。父の聡礼は光禄少卿なり。彦恭、性 敏にして学を好む。光宗朝、年十五にして、光文院の書生に属し、未だ幾ならずして、本院の承事郎と為り、内承旨に転ず。進士の挙に赴かんことを請へども第せず。内議承旨舎人に進累す。成宗時、再び刑・兵二官侍郎に転ず。

宋に如きて謝恩するに、宋 彦恭の儀容度に()つるを以て、金紫光禄大夫検校兵部尚書兼御史大夫を授く。彦恭 大蔵経を奏請す。帝 蔵経四百八十一函凡二千五百巻を賜ひ、又た御製秘蔵詮・逍遙・蓮花心輪を賜ふ。還りて王 御史礼官侍郎判礼賓省事を授く。彦恭 奏して、「宋の枢密院、即ち我が朝の直宿員吏の職なり。其の官を置かんことを請ふ」と。是に於いて、始めて中枢院を設け、使・副各二人を置き、彦恭を以て副使と為す。俄かに転じて使殿中監知礼官事と為り、参知政事上柱国に進む。

穆宗即位、内史侍郎平章事を授く。四年、門下侍中を拝す。王 州郡を巡省し、長湍県に至りて、彦恭に謂ひて曰く、「此れ卿の本貫なり。卿の功労を念ひ、陞らしめて湍州と為すべし」と。時に全く銭幣を用ゐ、麤布を禁ずれば、民 頗る之を患ふ。彦恭 上疏して、其の弊を論ずるに、王 之を()る。後に累ねて特進開国侯、食邑一千戸、監修国史を加へ、其の父の聡礼に内史令を贈る。王 嘗て平州に幸して、日暮れて寒さ甚だしく、輦を道傍に(とど)め、酣飲して行かず。彦恭 進みて曰く、「臣等 醉ひ飽くれども、軍士を柰何せん」と。王 之を嘉し、貂鼠裘を賜ひ、駕を(うなが)して行宮に入る。事に遇ひて直言するに、多く此の類ひなり。

六年、彦恭 病む。王 医薬及び車二乗を賜ひ、往きて温泉に浴せしめ、州県に命じて供給せしむ。疾篤く、近臣を遣はして疾を問はしめ、又た厩馬三匹を賜ひ、資を以て祈禱せしむれども、竟に愈えず。明年卒す、年六十五なり。訃聞こえ、王 悼むこと甚しく、米五百石、麦三百石、布一千二百匹、茶二百角を賻る。内史令を贈り、貞信と謚し、礼を以て之を葬る。顕宗十八年、穆宗の廟庭に配享す。徳宗二年、加へて太傅を贈る。子は祚なり。

現代語訳

韓彦恭(ハンオンゴン)は湍州の人で、父の韓聡礼(ハンチョンネ)は光禄小卿〔の位〕であった。韓彦恭は聡明で学問を好んだ。光宗の時代、15歳で光文院の書生となり、いくらもしないうちに光文院の承事郎となり、〔さらに〕内承旨に転任した。進士科の受験を請うて、〔受験をしたが〕落第した。〔それから〕何度か昇進し、内議承旨舎人となった。成宗の時代には、さらに刑部・兵部の二部の侍郎に転任した。

宋に謝恩使として赴いた際、宋〔の皇帝〕は韓彦公の立ち居ふるまいが礼儀にかなっていたため、金紫光禄大夫・検校兵部尚書兼御史大夫を授けた。韓彦恭が〔皇帝に〕奏上して、『大蔵経』を請うと、皇帝は『大蔵経』481函、全2,500巻を下賜し、さらに、『御製秘蔵詮』・『逍遙』・『蓮花心輪』も下賜した。〔韓彦公が〕帰国すると、王は〔彼を〕御史礼官侍郎・判礼賓省事に任命した。韓彦恭が上奏して、「宋の枢密院は、まさに我が国における宿直の官員と胥吏の職〔を掌る機関〕です。どうか、そのような官庁を設置してください」と言った。これにより、初めて中枢院を設置し、使と副使を各2人置き、韓彦恭を副使とした。まもなく、〔中枢院〕使・殿中監・知礼官事に任命され、〔その後〕参知政事・上柱国に昇進した。

穆宗が即位すると、内史侍郎平章事に任命された。〔穆宗〕4年(1001)に門下侍中となった。王が州郡を巡行して視察し、長湍県に到着すると、韓彦恭に告げて、「ここは卿の本貫である。卿の功績を思えば、〔長湍県を〕昇格させて湍州とすべきである」と言った。当時、貨幣のみを使用し、粗布〔の使用〕を禁じたため、民衆は〔このことを〕とても憂慮していた。韓彦恭が上疏してその弊害を論じると、王はその意見を受け入れた。のちに、〔韓彦恭を〕何度も昇進させて、特進・開国侯、食邑1,000戸、監修国史を授け、父の韓聡礼には内史令を追贈した。王がかつて平州へ行幸した際、日が暮れて寒さが厳しかったため、〔王は〕車駕を道端に止め、酒を飲んで楽しみ、〔そのまま〕出発しないでいた。韓彦恭が進み出て、「臣らは思う存分に酔い、満腹にもなりましたが、軍士はどうしましょうか。〔軍士のことも考えるべきです〕」と言った。王はこの進言を称賛して、貂鼠毬(ちょうしゅきゅう)(=(てん)の毛皮で作った衣服)を下賜し、車駕を急がせて行宮に入った。〔韓彦恭が〕諸々の事に対して直言する際には、このような〔有り様で直言する〕ことが多かった。

〔穆宗〕6年(1003)、韓彦恭は病に伏した。王は薬と車2乗を下賜し、温泉に行かせて入浴させるとともに、〔その道中では〕州県に命じて供給をさせた。病状が危篤となると、近臣を派遣して見舞わせ、さらに厩馬3頭を賜り、資金を投じて祈祷を助けさせたが、結局、回復しなかった。翌年に死去し、享年は65歳であった。訃報が伝わると、王は深く悲しみ、香典として米500石、麦300石、布1,200匹、茶200角を贈った。内司令を追贈し、諡号を貞信として、礼を尽くして葬った。顕宗18年(1027)、穆宗の廟庭に配享した。徳宗2年(1033)、太傅を追贈した。息子は韓祚(ハンジョ)である。

原文出典

  • 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、pp.71~72
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この記事を書いた人

・歴史学を専攻する大学院生。
・専門分野は朝鮮古代史と中国唐代史。
・韓流時代劇が大好き。
 
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