崔知夢(チェ・ジモン)(『高麗史』巻92、列伝第5)

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原文

崔知夢、初名聡進、南海霊巌郡人、元甫相昕之子。性清倹慈和、聡敏嗜学。学於大匡玄一、博涉経史、尤精於天文・卜筮。年十八、太祖聞其名、召使占夢。得吉兆曰、「必将統御三韓」。太祖喜、改今名、賜錦衣、授供奉職。常従征伐、不離左右。統合之後、侍禁中備顧問。

恵宗二年、王規謀害王弟。知夢時為司天官、奏云、「流星犯紫微、国必有賊」。後恵宗寝疾、在神徳殿、王規将謀乱。知夢卜之、又奏、「近将有変。宜以時移御」。定宗即位、誅規。褒知夢密奏事機、賜臧獲・鞍馬・銀器。

光宗朝、従幸帰法寺、被酒失礼、貶于隈傑県、凡十一年。景宗五年、召還授大匡内議令東萊郡侯、食邑一千戸、柱国、賜銀器・錦被褥・帳・衣・馬・幞頭・犀帯。一日、知夢奏曰、「客星犯帝座。願王申戒宿衛、以備不虞。未幾、王承等謀逆伏誅。賜御衣・金帯。

成宗元年、加左執政守内史令上柱国、賜弘文崇化致理功臣号、爵其父母。三年、知夢年七十八、三上表乞骸、不允。又上書固請、乃命除朝参、赴内史房、視事如旧。六年、知夢疾病。成宗命医賜薬、親臨問疾。以馬二匹、施帰法・海安二寺、飯僧三千以禱、凡可以已疾者、靡所不為。卒年八十一、訃聞震悼、賻布千匹、米三百碩、麦二百碩、茶二百角、香二十斤、官庀葬事。贈太子太傅。謚敏休、加贈太師。十三年、配享景宗廟庭。子玄同・懐遠。

書き下し

崔知夢、初名は聡進、南海霊巌郡の人にして、元甫相昕の子なり。性は清倹慈和にして、聡敏にして学を嗜む。大匡玄一に学び、博く経史を涉り、尤も天文・卜筮に精し。年十八、太祖 其の名を聞きて、召して夢を占はしむ。吉兆を得て曰く、「必ず将に三韓を統御せん」と。太祖 喜びて、今の名に改め、錦衣を賜ひ、供奉の職を授く。常に征伐に従ひ、左右を離れず。統合の後、禁中に侍りて顧問に備ふ。

恵宗二年、王規 王弟を害せんと謀る。知夢 時に司天官たり。奏して云く、「流星 紫微を犯せば、国に必ず賊有らん」と。後に恵宗 寝疾して、神徳殿に在り、王規 将に乱を謀らんとす。知夢 之を卜ひ、又た奏して、「近く将に変有らん。宜しく時を以て移御すべし」。定宗 即位し、規を誅す。知夢の密かに事の機を奏せしを褒め、臧獲・鞍馬・銀器を賜ふ。

光宗朝、帰法寺に幸するに従ひて、酒を被りて礼を失ひ、隈傑県に貶せらるること凡そ十一年なり。景宗五年、召し還して大匡内議令東萊郡侯、食邑一千戸、柱国を授け、銀器・錦被褥・帳・衣・馬・幞頭・犀帯を賜ふ。一日、知夢 奏して曰く、「客星 帝座を犯す。願はくは王 (かさ)ねて宿衛を戒め、以て不虞に備へよ」と。未だ幾ならず、王承等 逆を謀りて伏誅す。御衣・金帯を賜ふ。

成宗元年、左執政守内史令上柱国を加へ、弘文崇化致理功臣の号を賜ひ、其の父母を爵す。三年、知夢 年七十八、三たび上表して骸を乞へども、允されず。又た上書して固く請へば、乃ち命じて朝参を除き、内史房に赴き、事を視ること旧の如くせしむ。六年、知夢 疾病す。成宗 医に命じて薬を賜ひ、親ら臨みて疾を問ふ。馬二匹を以て、帰法・海安二寺に施し、僧三千に飯して以て禱らしむ。凡そ以て疾を已むべき者、為さざる所()し。卒年八十一、訃 聞こえて震悼し、布千匹、米三百碩、麦二百碩、茶二百角、香二十斤を賻し、官 葬事を庀す。太子太傅を贈る。敏休と謚し、加へて太師を贈る。十三年、景宗の廟庭に配享す。子は玄同・懐遠なり。

現代語訳

崔知夢(チェジモン)は、初名が聡進(ジョンジン)であり、南海霊巌郡の人で、元甫崔相昕(チェサンフン)の子である。性格は清廉で慈悲深く、聡明で学ぶことを好んだ。大匡玄一(ヒョンイル)のもとで学び、経書と史書を広く渉猟し、特に天文・卜筮に精通した。18歳のときに、太祖が彼の名を聞きつけて呼び寄せ、夢を占わせた。〔すると、崔知夢は〕吉兆を得て、「必ず三韓を全て治めることになります」と言った。太祖は喜び、〔崔知夢を〕今の名前に変え、絹の衣を下賜し、供奉の職に任命した。〔太祖が〕征伐に行くときは常に付き従い、傍らを離れず、〔三韓を〕統合したあとは、宮中で仕え、〔太祖の〕相談役となった。

恵宗2年(945)、王規(ワンギュ)が王の弟を害そうと謀ったとき、崔知夢は当時、司天官であったが、上奏して、「流星が紫微を侵犯しました。国に必ず賊が現れるでしょう」と言った。のちに、恵宗が病に伏して神徳殿にいたとき、王規が反乱を企てようとした。崔知夢が占いをし、また上奏して、「近い時期に変乱があるでしょうから、時期を見て御移りになられるべきです」と言った。定宗が即位すると、王規を誅殺し、崔知夢が密かに事の兆しを奏上したことを褒賞し、奴婢・鞍馬・銀器を下賜した。

光宗の時代、王の帰法寺行幸に随行した。〔このときに崔知夢は〕酒に酔って礼儀を失したため、隈傑県に流刑に処され、〔それから〕11年間を流刑地で過ごした。景宗5年(980)に呼び戻して、大匡・内議令・東莱郡侯、食邑一千戸、柱国を授け、銀器・錦被褥・帳・衣類・馬・幞頭・犀帯を下賜した。ある日、崔知夢が上奏して、「客星が帝座を犯しました。どうか、王様は改めて宿衛軍を警戒させ、不測の事態に備えてください」と言った。ほどなくして、王承(ワンスン)らが謀反を企てて処刑された。〔崔知夢に〕御衣と金帯を下賜した。

成宗元年(982)、左執政・守内史令・上柱国〔の位〕を加え、弘文崇化致理功臣の号を賜った。崔知夢の父母にも爵位を与えた。成宗3年(984)、崔知夢は78歳となり、三度、表文を上げて退官を請うたが許されなかった。さらに、〔崔知夢は〕上書して強く〔退官を〕請願したので、〔王は〕朝議への出席のみ免除し、内史房に赴いて以前と同様に職務を執らせた。成宗6年(987)、崔知夢が病に伏すと、成宗は医官に命じて薬を賜ひ、自ら〔崔知夢のもとへ〕行って病気を見舞った。馬2頭を帰法寺・海安寺に寄進し、3,000人の僧侶に食事を与えて祈祷させ、〔崔知夢の〕病を治すことのできるものは、何一つ行わないことがなかった。〔崔知夢は〕81歳で死去し、〔その〕訃報が伝わると、〔王は〕深く悲しんだ。香典として、布1,000匹、米300石、麦200石、茶200角、香20斤を贈り、官に葬儀を執り行わせた。太子太傅を追贈した。諡号を敏休とし、追加で太師を贈った。成宗13年(994)、景宗の廟庭に配享した。息子は崔玄同(チェヒョンドン)崔懐遠(チェフェウォン)である。

原文出典

  • 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、p.58
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この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

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