原文
献貞王后皇甫氏、亦戴宗之女。景宗薨、出居王輪寺南私第。嘗夢登鵠嶺、旋流溢国中、尽成銀海。卜之曰、「生子則王、有一国」。后曰、「我既寡、何以生子」。時安宗第与后第相近、因与往来通焉。有娠弥月、人莫敢言。成宗十一年七月、后宿安宗第、家人積薪于庭而火之。火方熾。百官奔救、成宗亦亟往問之。家人遂以実告、乃流安宗。后慙恨哭泣、比還其第、纔及門胎動、攀門前柳枝、免身而卒。成宗命択姆以養其児。是為顕宗。顕宗即位、追尊為孝粛王太后、陵曰元陵。八年五月、加恵順。十二年六月、改恵順為仁恵。十八年四月、加宣容、高宗四十年十月、加明簡。
書き下し
献貞王后皇甫氏、亦た戴宗の女なり。景宗 薨じて、出でて王輪寺南の私第に居る。嘗て夢に鵠嶺に登り、旋して国中に流れ溢れ、尽く銀海と成る。之を卜ひて曰く、「子を生まば則ち王なり、一国を有せん」と。后曰く、「我既に寡なり、何を以てか子を生まん」と。時に安宗の第と后の第と相ひ近く、因りて与に往来して通ず。娠む有りて弥月なれども、人 敢へて言ふこと莫し。成宗十一年七月、后 安宗の第に宿るに、家人 薪を庭に積みて之を火にす。火 方に熾んなり。百官 奔りて救ひ、成宗も亦た亟やかに往きて之を問ふ。家人 遂に実を以て告ぐれば、乃ち安宗を流す。后 慙ぢ恨みて哭泣し、其の第に還るに比び、纔かに門に及べば胎動し、門前の柳の枝に攀ぢ、免身して卒す。成宗 命じて姆を択びて以て其の児を養はしむ。是れ顕宗たり。顕宗 即位し、追尊して孝粛王太后と為し、陵を元陵と曰ふ。八年五月、恵順を加ふ。十二年六月、恵順を改めて仁恵と為す。十八年四月、宣容を加ふ。高宗四十年十月、明簡を加ふ。
現代語訳
献貞王后皇甫氏もまた戴宗の娘である。景宗が崩御すると、〔宮殿を〕出て王輪寺南の私邸に住んだ。かつて、夢の中で鵠嶺に登り、〔そこで〕小便をしたら、国中に溢れ出て、全てが銀色の海となった。〔占い師が〕この夢のことを占って、「息子を産めば王となり、一国を持つでしょう」と言った。〔これに対して〕王后は、「私はすでに寡婦となった身です。どうして息子を産めましょうか?」と言った。このとき、安宗の家は王后の家と近く、それゆえに〔互いに〕往来し、情を通じた。〔王后が〕妊娠し、出産が迫っても、〔周囲の〕人々は何も言うことができなかった。成宗11年(992)7月、王后が安宗の家に滞在すると、家の人々が庭に薪を積み、これに火をつけた。炎が勢いよく燃え上がると、百官が駆けつけて消火し、成宗も急いで来て〔安否を〕尋ねた。〔このとき〕家の人々がついに〔王后と安宗の私通の〕事実を〔成宗に〕告げた。これにより、安宗は流刑に処された。王后は恥じ入りつつも悔しみ、泣き叫びながら自分の家に戻ったが、ようやく門にたどり着いた途端に胎動があり、門前の柳の枝をつかんで子を産みながら、〔そのまま〕亡くなった。成宗は命じて乳母を選び、その子を育てさせた。これが顕宗である。顕宗が即位すると、〔王后を〕追尊して孝粛王太后とし、陵を元陵と称した。〔顕宗〕8年(1017)5月、〔諡号に〕恵順を加えた。〔顕宗〕12年(1021)6月、恵順を改めて仁恵とした。〔顕宗〕18年(1027)4月、〔諡号に〕宣容を加えた。高宗40年(1253)10月、〔諡号に〕明簡を加えた。
原文出典
- 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、p.5
