原文
献哀王太后皇甫氏、戴宗之女。生穆宗。穆宗即位、冊上尊号曰、応天啓聖静徳王太后。穆宗年己十八、太后摂政、居千秋殿、世号千秋太后。与金致陽通而生子、欲以其子嗣王位。時顕宗為大良院君。太后忌之、強令出家、寓居三角山神穴寺。時称神穴小君。太后屢遣人謀害。一日、使内人遺以酒餅。皆和毒薬。内人到寺、求見小君、欲親勧食。寺有僧、輒匿小君於地穴中、紿之曰、「小君出遊山中。安知去処耶」。及内人還、散之庭中、烏雀食而即斃。凡忠臣義士、尤所忌憚、多以非罪陥之。穆宗不能禁。十二年正月、千秋殿災、太后入長生殿後、康兆殺致陽父子、流太后親属于海島、又使人弑穆宗。於是、太后帰居黄州者二十一年。顕宗二十年正月、薨于崇徳宮。寿六十六。葬幽陵。
書き下し
献哀王太后皇甫氏、戴宗の女なり。穆宗を生む。穆宗即位し、冊して尊号を上りて曰く、「応天啓聖静徳王太后」と。穆宗 年己に十八にして、太后摂政し、千秋殿に居れば、世 千秋太后と号す。金致陽と通じて子を生み、其の子を以て王位を嗣がしめんと欲す。時に顕宗 大良院君たり。太后 之を忌み、強ひて出家せしめ、三角山神穴寺に寓居せしむ。時に神穴小君と称す。太后 屢々人を遣はして害せんことを謀る。一日、内人をして以て酒餅を遺らしむ。皆毒薬を和す。内人 寺に到り、小君に見えんことを求め、親ら食らふことを勧めんと欲す。寺に僧有り、輒ち小君を地穴の中に匿し、之を紿きて曰く、「小君 出でて山中に遊ぶ。安くにか去る処を知らんや」と。内人の還るに及び、之を庭中に散らせば、烏雀食らひて即ち斃る。凡そ忠臣義士、尤も忌み憚る所にして、多く非罪を以て之を陥る。穆宗 禁ずること能はず。十二年正月、千秋殿災あり、太后 長生殿に入る後、康兆 致陽父子を殺し、太后の親属を海島に流し、又た人をして穆宗を弑せしむ。是に於いて、太后 黄州に帰り居ること二十一年なり。顕宗二十年正月、崇徳宮に薨ず。寿六十六なり。幽陵に葬る。
現代語訳
献哀王太后皇甫氏は戴宗の娘で、穆宗を産んだ。穆宗が即位すると、冊封して尊号を献上して、「応天啓聖静徳王太后」と称した。穆宗の年齢はすでに18歳であったが、太后が摂政し、千秋殿に居住したため、世間の人々は〔太后のことを〕千秋太后と呼んだ。〔太后は〕金致陽と私通して息子を産み、その息子に王位を継がせようとした。当時、顕宗は大良院君であった。太后は彼を嫌って強制的に出家させ、三角山の神穴寺に住まわせたため、時〔の人々〕は〔大良院君のことを〕神穴小君と呼んだ。太后は何度も人を遣わして〔大良院君を〕害そうと謀った。ある日、〔太后が〕内人に命じて酒と餅を送らせたが、全て毒薬を混ぜたものだった。内人が寺に着き、小君に会うことを求めながら、直接〔酒と餅を〕食べるように勧めようとしたところ、寺にいたある僧が突然、小君を地面の穴の中に隠し、〔内人〕を騙して、「小君は山へ遊びに出かけられました。どうして行かれた場所が分かるでしょうか?」と言った。内人が帰ったあと、酒と餅を庭に撒き散らすと、烏と雀が食べてすぐに死んでしまった。総じて、〔太后は〕忠臣や義士をますます忌み嫌うようになり、罪なくして〔忠臣や義士を罪に〕陥れることが多かった。穆宗はこれを止めることができなかった。〔穆宗〕12年(1009)正月、千秋殿が焼失し、太后が長生殿に移ったあと、康兆が金致陽父子を殺害し、太后の親族を海の島へ流刑に処し、さらに人を遣わして穆宗を弑害した。これを受けて、太后は黄州に戻り、〔そこで〕21年間を過ごした。顕宗20年(1029)正月、〔太后は〕崇徳宮で崩御した。享年66歳であった。幽陵に葬られた。
原文出典
- 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、pp.4~5
