『高麗史』巻94、列伝7、徐熙(ソヒ)

目次

原文

 徐熙、小字廉允、內議令弼子也。性嚴恪。光宗十一年、年十八擢甲科、超授廣評員外郞、累遷內議侍郞。二十三年、奉使如宋、時不朝宋十數年、熙至、容儀中度、宋太祖嘉之、授檢校兵部尙書。成宗二年、由佐丞、拜兵官御事、從幸西京、成宗欲微行遊永明寺、熙上䟽諫。乃止、賜鞍馬以賞之、後改內史侍郞。

 十二年、契丹來侵、熙爲中軍使、與侍中朴良柔、門下侍郞崔亮、軍于北界備之。成宗欲自將禦之、幸西京、進次安北府。契丹東京留守蕭遜寧、攻破蓬山郡、獲我先鋒軍使給事中尹庶顔等、成宗聞之、不得進乃還。熙引兵欲救蓬山、遜寧聲言、「大朝旣已奄有高勾麗舊地、今爾國侵奪疆界、是以來討」。又移書云、「大朝統一四方、其未歸附、期於掃蕩。速致降款、毋涉淹留」。熙見書、還奏有可和之狀、成宗遣監察司憲借禮賓少卿李蒙戩、如契丹營請和。遜寧又移書云、「八十萬兵至矣、若不出江而降、當湏殄滅、君臣宜速降軍前」。蒙戩至營、問所以來侵之意、遜寧曰、「汝國不恤民事、是用恭行天罰、若欲求和、宜速來降」。蒙戩還、成宗會群臣議之。或言車駕還京、令重臣率軍乞降、或言割西京以北與之、自黃州至岊嶺、畫爲封疆。成宗將從割地之議、開西京倉米、任百姓所取、餘者尙多、成宗恐爲敵所資、令投大同江。熙奏曰、「食足則城可守、戰可勝也。兵之勝負、不在强弱、但能觀釁而動耳。何可遽令弃之乎、况食者民之命也、寧爲敵所資、虛弃江中。又恐不合天意」。成宗然而止之。熙又奏曰、「自契丹東京、至我安北府、數百里之地、皆爲生女眞所據、光宗取之、築嘉州・松城等城。今契丹之來、其志不過取此二城、其聲言取高勾麗舊地者、實恐我也。今見其兵勢大盛、遽割西京以北與之、非計也。且三角山以北、亦高勾麗舊地、彼以谿壑之欲、責之無厭、可盡與乎。况割地與敵、萬世之恥也、願駕還都城、使臣等一與之戰、然後議之、未晩也」。前民官御事李知白奏曰、「聖祖創業垂統、洎于今日、無一忠臣、遽欲以土地、輕與敵國、可不痛哉、古人有詩云、『千里山河輕孺子、兩朝冠劒恨譙周』。盖謂譙周爲蜀大臣、勸後主納土於魏、爲千古所笑也。請以金銀寶器賂遜寧、以觀其意。且與其輕割土地、弃之敵國、曷若復行先王燃燈八關仙郞等事、不爲他方異法、以保國家致大平乎。若以爲然、則當先告神明、然後戰之與和、惟上裁之」。成宗然之。時成宗、樂慕華風、國人不喜、故知白及之。

 遜寧以蒙戩旣還、久無回報、遂攻安戎鎭。中郞將大道秀、郞將庾方、與戰克之、遜寧不敢復進、遣人促降。成宗遣和通使閤門舍人張瑩、往契丹營、遜寧曰、「宜更以大臣、送軍前面對」。瑩還、成宗會群臣問曰、「誰能往契丹營、以口舌却兵、立萬世之功乎」。群臣無有應者、熙獨奏曰、「臣雖不敏、敢不惟命」。王出餞江頭、執手慰籍而送之。熙奉國書、如遜寧營、使譯者問相見禮。遜寧曰、「我大朝貴人、宜拜於庭」。熙曰、「臣之於君、拜下禮也、兩國大臣相見、何得如是」。往復再三、遜寧不許。熙怒還、臥所館不起、遜寧心異之、乃許升堂行禮。於是、熙至營門、下馬而入。與遜寧分庭揖、升行禮、東西對坐。遜寧語熙曰、「汝國興新羅地、高勾麗之地、我所有也、而汝侵蝕之。又與我連壤、而越海事宋、故有今日之師。若割地以獻、而修朝聘、可無事矣」。熙曰、「非也。我國卽高勾麗之舊也、故號高麗、都平壤。若論地界、上國之東京、皆在我境、何得謂之侵蝕乎。且鴨綠江內外、亦我境內、今女眞盜據其閒、頑黠變詐、道途梗澁、甚於涉海。朝聘之不通、女眞之故也、若令逐女眞、還我舊地、築城堡通道路、則敢不修聘。將軍如以臣言、達之天聰、豈不哀納」。辭氣慷慨、遜寧知不可强、遂具以聞。契丹帝曰、「高麗旣請和、宜罷兵」。遜寧欲宴慰、熙曰、「本國雖無失道、而致上國勞師遠來、故上下皇皇、操戈執銳、暴露有日、何忍宴樂」。遜寧曰、「兩國大臣相見、可無歡好之禮乎」。固請、然後許之、極歡乃罷。熙留契丹營七日而還、遜寧贈以駝十首・馬百匹・羊千頭・錦綺羅紈五百匹。成宗大喜、出迎江頭、卽遣良柔爲禮幣使入覲。熙復奏曰、「臣與遜寧約、盪平女眞、收復舊地、然後朝覲可通、今纔收江內、請俟得江外、修聘未晩」。成宗曰、「久不修聘、恐有後患」。遂遣之。轉平章事。

 十三年、率兵逐女眞、城長興・歸化二鎭、郭・龜二州。明年又率兵、城安義・興化二鎭、又明年、城宣・孟二州。熙嘗扈駕海州、成宗幸熙幕欲入、熙曰、「臣之幕、非至尊所當臨」。命進酒曰、「臣之酒不堪獻也」。成宗乃坐幕外、進御酒共飮而罷。供賓令鄭又玄、上封事論時政七事、忤旨。成宗會宰相議曰、「又玄敢越職論事、罪之何如」。皆曰、「惟命」。熙曰、「古者諫無官、越職何罪。臣以不才、謬居宰相、竊位素餐、使官卑者、論政敎得失、是臣之罪也。况又玄論事甚切、宜加褒獎」。成宗感悟、擢又玄監察御史、賜熙繡鞍廐馬・酒果、以慰之、拜太保內史令。

 十五年、熙患疾、在開國寺、成宗駕幸問疾、以御衣一襲・馬三匹、分施寺院。又以穀一千石、施開國寺、凡所以祈命者、無所不爲。明年頒祿、熙病尙未愈、命有司曰、「熙年雖未及致仕、以疾病未得侍朝、宜給致仕祿」。穆宗元年卒、年五十七、聞訃震悼、賻布一千匹、麥三百石、米五百石、腦原茶二百角、大茶十斤、栴香三百兩、以禮葬之、謚章威。顯宗十八年、配享成宗廟庭、德宗二年、加贈太師。子訥、側室子周行。

書き下し

 徐熙、小字は廉允にして、内議令弼の子なり。性は厳恪なり。光宗十一年、年十八にして甲科に擢し、超えて広評員外郎を授けられ、累ねて内議侍郎に遷る。二十三年、使を奉じて宋に如く。時に宋に朝せざること十数年なれども、熙 至りて、容儀度に()つれば、宋太祖 之を嘉し、検校兵部尚書を授く。成宗二年、佐丞を由りて、兵官御事を拝せらる。西京に幸するに従ひ、成宗 (ひそ)かに永明寺に行遊せんと欲するに、熙 上疏して諫む。乃ち止めしめ、鞍馬を賜ひて以て之を賞し、後に内史侍郎に改む。

 十二年、契丹来侵し、熙 中軍使と為り、侍中朴良柔、門下侍郎崔亮と与に、北界に軍して之に備ふ。成宗 自ら将に之を(ふせ)がんと欲し、西京に幸し、進みて安北府に(やど)る。契丹東京留守蕭遜寧、攻めて蓬山郡を破り、我が先鋒軍使給事中尹庶顔等を獲れば、成宗 之を聞きて、進むを得ず乃ち還る。熙 兵を引きて蓬山を救はんと欲するに、遜寧 声して言ふ、「大朝 既已に高勾麗の旧地を奄有(えんゆう)す。今 爾が国 疆界を侵奪すれば、是を以て来討せん」と。又た書を移して云ふ、「大朝 四方を統一す。其れ未だ帰附せざれば、掃蕩を期せん。速やかに降款を致し、涉りて淹留すること毋かれ」と。熙 書を見て、還りて和すべき有りの状を奏するに、成宗 監察司憲借礼賓少卿李蒙戩を遣はして、契丹営に如きて和を請はしむ。遜寧 又た書を移して云ふ、「八十万の兵至る。若し江に出て降らずんば、当に須らく殄滅すべし。君臣 宜しく速やかに軍前に降るべし」と。蒙戩 営に至り、来侵する所以の意を問ふに、遜寧曰く、「汝が国 民事を恤せず、是を用て天罰を恭行す。若し和を求めんと欲せば、宜しく速かに来たりて降るべし」と。蒙戩 還るに、成宗 群臣を会して之を議る。或いは言ふ、「車駕 京に還り、重臣をして軍を率ゐて降を乞はしむべし」と。或いは言ふ、「西京以北を割きて之に与へ、黄州より岊嶺に至るまで、(かぎ)りて封疆と為すべし」と。成宗 将に割地の議に従はんとして、西京の倉米を開き、百姓の取る所に任すれども、余る者尚ほ多ければ、成宗 敵の資する所と為るを恐れ、大同江に投ぜしむ。熙 奏して曰く、「食足れば則ち城守るべくして、戦勝つべきなり。兵の勝負、強弱に在らず、但だ能く釁を観て動くのみ。何ぞ遽かに之を棄てしむべきや、况んや食は民の命なり。寧ろ敵の資する所と為るとも、虚しく江中に棄てるか。又た恐らくは天意に合はず」と。成宗 然りとして之を止む。熙 又た奏して曰く、「契丹の東京より、我が安北府に至るまで、数百里の地、皆生女真の拠る所と為り、光宗 之を取りて、嘉州・松城等の城を築く。今契丹の来たるは、其の志 此の二城を取るに過ぎず、其の声言 高勾麗の旧地を取るは、実に我を恐るるなり。今 其の兵勢の大いに盛んなるを見て、遽かに西京以北を割きて之に与ふるは、計に非ざるなり。且つ三角山以北、亦た高勾麗の旧地なれども、彼の谿壑の欲を以て、之を責めて厭ふこと無くんば、尽く与ふるべきか。况んや地を割きて敵に与ふるは、万世の恥なり。願はくは駕 都城に還り、臣等をして一たび之と戦はしめ、然る後に之を議るも、未だ晩からざるなり」と。前民官御事李知白 奏して曰く、「聖祖 創業して垂統し、今日に(およ)び、一に忠臣無く、遽かに土地を以て、軽く敵国に与えんと欲す、痛まざるべきかな。古人詩有りて云ふ、『千里山河を軽んずる孺子、両朝の冠刀 譙周を恨む』と。蓋し譙周 蜀に大臣為りて、後主に勧めて土を魏に納めしめ、千古の笑ふ所と為るを謂ふなり。請ふ金銀宝器を以て遜寧に(まひな)ひ、以て其の意を観よ。且つ其の軽く土地を割きて、之を棄てて敵国に与ふるは、曷んぞ復た先王の燃燈八関仙郎等の事を行ひ、他方の異法を為さず、以て国家を保ち大平を致すに若かんや。若し以て然りと為さば、則ち当に先ず神明に告げ、然る後に之と戦ふと和すると、惟だ上 之を裁くべし」と。成宗 之を然りとす。時に成宗、楽しみて華風を慕ふに、国人喜ばず、故に知白 之に及ぶ。

 遜寧 蒙戩既に還りて、久しく回報無きを以て、遂に安戎鎮を攻む。中郎将大道秀、郎将庾方、与に戦ひて之に克ち、遜寧 敢へて復た進まず、人を遣はして降ることを促す。成宗 和通使閤門舎人張瑩を遣はして、契丹営に往かしむるに、遜寧曰く、「宜しく更に大臣を以て、軍前に送りて面対すべし」と。瑩還りて、成宗 群臣を会して問ひて曰く、「誰か能く契丹営に往きて、口舌を以て兵を却け、万世の功を立つるか」と。群臣 応ずる有る者無く、熙 独り奏して曰く、「臣敏ならずと雖も、敢へて惟命せざらんや」と。王 出でて江頭に(おく)り、手を執りて慰籍して之を送る。熙 国書を奉じて、遜寧の営に如き、訳者をして相見の礼を問はしむ。遜寧曰く、「我 大朝の貴人なれば、宜しく庭に拝すべし」と。熙曰く、「臣の君に於ける、下に拝するは礼なり。両国の大臣相ひ見ゆるに、何ぞ是くの如くするを得んや」と。往復すること再三、遜寧 許さず。熙 怒りて還り、館する所に臥して起きざれば、遜寧の心 之を異とし、乃ち許して堂に(のぼ)りて礼を行はしむ。是に於いて、熙 営門に至り、馬を下りて入る。遜寧と分かれて庭に揖し、升りて礼に行ひ、東西に対して坐る。遜寧 熙に語りて曰く、「汝が国 新羅の地に興りて、高勾麗の地、我の有する所なりて、而れども汝 侵して之を蝕む。又た我と壌を連なりて、而れども海を越へて宋に事ふる。故に今日の師有り。若し地を割きて以て献じ、而して朝聘を修めば、事無かるべし」と。熙曰く、「非ざるなり。我が国 即ち高勾麗の旧なり、故に高麗と号し、平壌に都す。若し地界を論ずれば、上国の東京、皆我が境に在り、何ぞ之を侵蝕と謂ふを得んや。且つ鴨緑江の内外、亦た我が境内なれども、今女真 盗みて其の閒を拠し、頑黠(がんかつ)変詐(へんさ)にして、道途を梗渋し、涉海よりも甚だし。朝聘の通ぜざるは、女真の故なり。若し女真を()はしめ、我が旧地を還し、城堡を築きて道路を通ぜしめば、則ち敢へて聘を修めざらんや。将軍 如し臣の言を以て、之を天聡に達せば、豈に哀れみて納れざらんや」と。辞気慷慨なれば、遜寧 強ふべからざるを知り、遂に具に以て聞す。契丹帝曰く、「高麗 既に和を請へば、宜しく兵を罷むべし」と。遜寧 宴して慰めんと欲するに、熙曰く、「本国 道を失ふこと無きと雖も、而るに上国師を労して遠く来るを致し、故に上下皇皇として、戈を操りて鋭を執り、暴露して日有れば、何ぞ宴楽に忍びんや」と。遜寧曰く、「両国の大臣相ひ見え、歓好の礼無かるべけんや」と。固く請へば、然る後に之を許し、歓を極めて乃ち罷む。熙 契丹営に留まること七日にして還るに、遜寧 贈るに駝十首・馬百匹・羊千頭・錦綺羅紈五百匹を以てす。成宗 大いに喜びて、出でて江頭に迎へ、即ち良柔をして礼幣使と為して入覲せしむ。熙 復た奏して曰く、「臣 遜寧と約するは、女真を盪平し、旧地を収復し、然る後に朝覲通ずるべし。今(わず)かに江内を収む。請ふ江外を得るを俟ちて、聘を修めよ、未だ晩からず」。成宗曰く、「久しく聘を修めざらば、恐らくは後患有らん」と。遂に之を遣はす。平章事に転ず。

 十三年、兵を率ゐて女真を逐ひ、長興・帰化二鎮、郭・亀二州に城く。明年又た兵を率ゐて、安義・興化二鎮に城き、又た明年、宣・孟二州に城く。熙 嘗て駕に扈ひて海州にあり、成宗 熙の幕に幸して入らんと欲するに、熙曰く、「臣の幕、至尊の当に臨むべき所に非ず」と。命じて酒を進めんとするに、曰く、「臣の酒 献ずるに堪へざるなり」と。成宗乃ち幕外に坐り、御酒を進ましめ共に飲みて罷む。供賓令鄭又玄、封事を(たてまつ)りて時政の七事を論じて、旨に(さか)ふ。成宗 宰相を会して議りて曰く、「又玄 敢へて職を越えて事を論ず。之を罪すること何如」と。皆曰く、「惟命」と。熙曰く、「古は諫むるに官無し。職を越ゆること何の罪か。臣 才あらざるを以て、(あやま)りて宰相に居り、位を(ぬす)みて素餐し、官の卑き者をして、政教の得失を論ぜしむ。是れ臣の罪なり。况んや又玄の論事甚だ切なれば、宜しく褒奨を加ふべし」と。成宗 感悟して、又玄を監察御史に擢し、熙に繡鞍厩馬・酒果を賜ひ、以て之を慰め、太保内史令に拝す。

 十五年、熙 疾を患ひ、開国寺に在りて、成宗 駕幸して疾を問ひ、御衣一襲・馬三匹を以て、分けて寺院に施す。又た穀一千石を以て、開国寺に施し、凡そ祈命する所以の者、為さざる所無し。明年禄を頒かち、熙の病尚ほ未だ愈えざれば、有司に命じて曰く、「熙の年未だ致仕に及ばずと雖も、疾病を以て未だ朝に侍するを得ざれば、宜しく致仕禄を給ふべし」と。穆宗元年卒す、年五十七なり。訃を聞きて震悼し、布一千匹、麦三百石、米五百石、脳原茶二百角、大茶十斤、栴香三百両を賻り、礼を以て之を葬り、章威と謚す。顕宗十八年、成宗の廟庭に配享し、徳宗二年、太師を加贈す。子は訥にして、側室の子は周行なり。

現代語訳

 徐熙(ソヒ)の幼いときの(あざな)廉允(ヨミュン)であり、内議令徐弼(ソピル)の息子である。性格は厳格で慎み深かった。光宗(クァンジョン)11年(960)、18歳で〔科挙の〕甲科に及第し、飛び級で広評員外郎に任命され、数度にわたり昇進して内議侍郎となった。光宗23年(972)、徐熙が使命を受けて宋へ行った。当時、宋への朝会が10数年途絶えていたが、徐熙が到着して礼儀を尽くしたため、宋の太祖は彼を称賛し、検校兵部尚書を授けた。成宗(ソンジョン)2年(983)、〔徐熙は〕佐丞を経て兵官御事に任命された。〔成宗の〕西京への行幸に随行した際、成宗が永明寺に密かに遊びに行こうとしたところ、徐熙が上疏して諫言した。これにより、〔王の永明寺への遊行を〕中止させ、〔王は徐熙に〕鞍馬を下賜して褒めたたえ、のちに内史侍郎へ転任させた。

 成宗12年(993)、契丹が〔高麗に〕侵攻すると、徐熙は中軍使となり、侍中朴良柔(パクヤンユ)・門下侍郎崔亮(チェリャン)とともに北界に軍を駐屯させ、これに備えた。成宗も自ら契丹の侵入を防御しようと西京へ行幸し、安北府まで赴いて滞在した。〔そのとき〕契丹の東京留守蕭遜寧(しょうそんねい)が蓬山郡を撃破し、我が軍の先鋒軍使給事中尹庶顔(ユンソアン)らを捕虜としたため、成宗はこの報を聞いて、それ以上進軍できずに引き返した。徐熙が軍を率いて蓬山郡を救援しようとすると、蕭遜寧が声を張り上げて言った「大朝(=遼)はすでに高句麗の旧地を占領したが、今、汝らが国境地帯を侵奪したため、私が来て討伐する」と。また、書簡を送って言った。「大朝は四方を統一した。もし、帰順しなければ、必ずや掃討する。速やかに来て降伏し、遅れることのないようにせよ」と。徐熙が〔この〕書簡を見て〔成宗のもとに〕戻り、講和の余地があると奏上すると、成宗は監察司憲・借礼賓少卿の李蒙戩(イモンジョン)を契丹陣営に派遣し、講和を要請させた。〔これに対して〕蕭遜寧は再び書簡を送って言った。「800,000の軍勢が到着したので、もし、川(=鴨緑江)に出て来て降伏しなければ、皆、殲滅しよう。君主と臣下は速やかに我が軍の前へ来て降伏せよ」と。李蒙戩が敵陣営に到着し、侵攻の理由を問うと、蕭遜寧は、「汝の国が民を救済しないため、天〔に代わって〕謹んで罰を下すのである。もし、講和を求めるのであれば、速やかに来て降伏すべきである」と答えた。李蒙戩が戻ると、成宗は臣下たちを集めてこれについて議論した。ある者は「王様は開京へ帰り、重臣に軍を率いさせて降伏を請うべきです」と述べた。またある者は、「西京以北の土地を分割して彼らに与え、黄州から岊嶺までを国境として区画すべきです」と述べた。成宗は土地を分割して与えるという意見に従おうとし、西京の倉庫の米を開放して民に自由に持って行かせたが、それでもなお残った穀物が多かったため、成宗は〔これが〕敵の軍糧米として使われることを恐れ、大同江に投げ捨てさせた。徐熙が上奏して〔次のように〕言った。「食糧が豊富であれば城を守ることができ、戦いにも勝つことができます。戦いの勝敗は強弱にあるのではなく、ただ敵の隙をよく見て動くことができるかどうかにあります。どうして、急に食糧を捨てることを命じるのでしょうか?ましてや、食糧は民の命です。むしろ、敵の軍糧となるにせよ、むなしく川に捨てるべきでしょうか?それは天の意思にもそぐわないでしょう」と。成宗は〔これを〕正しい言葉だと考え、中止した。徐熙がまた上奏して〔次のように〕言った。「契丹の東京から我が安北府までの数百里の土地は、全て生女真に占拠されていましたが、光宗がそれを奪い、嘉州・松城などの城を築きました。今、契丹が来たのは、その意図はただこの二つの城を取ろうとするに過ぎませんが、彼らが高句麗の旧地を取ろうと大げさに言うのは、実は我々を恐れているからです。今、彼らの軍勢が強盛であることだけを見て、急いで西京以北の土地を切り離して彼らに与えるのは計策とは言えません。また、三角山以北も高句麗の旧地であるにもかかわらず、彼らが際限のない欲望を振りかざして要求を止めなければ、〔我が国土を〕全て与えるのでしょうか?ましてや、土地を切り離して敵に与えることは、万世の恥辱であります。どうか、王様は都に戻られ、臣たちに一度彼らと戦わせてから、改めて議論しても遅くはありません」と。前民官御事の李知白(イジベク)も上奏して〔次のように〕言った。「太祖(テジョ)が創業されて〔その事業が〕子孫に伝えられ、今日に至ったのに、もっぱら忠臣がおらず、突然に国土を軽率に敵国に与えようとは、なんとも嘆かわしい限りです。古人の詩には、『幼子が千里の山河を軽んじたゆえに、二王朝の文武官が譙周(しょうしゅう)を恨んだ』とあります。これは、蜀の大臣である譙周が後主(=君主)に勧めて国土を魏に献上させた結果、千古の笑いものとなったことを意味します。どうか、金銀宝器を蕭遜寧に賄賂として与え、彼の意向を確かめてください。軽率に国土を切り離し、これを捨てて敵国に与えるよりは、先王が設けた燃灯会・八関会・仙郎などの行事を再び行ない、他国の奇妙な法を取り入れず、国家を保全し、太平を成し遂げたほうがよいです。もし、これを正しいと考えるようでしたら、まず天地神明に告げ、そのあとに戦うか和解するかは、ただ王様が決めるべきことです」と。成宗はこれを正しい言葉だと考えた。当時、成宗は中華の風習を好んで慕っていたが、〔このことを〕国人たちは好ましく思わなかったため、李知白がこれを言及するに至ったのである。

 蕭遜寧は李蒙戩が帰ったあとも長い間〔高麗から〕返答がなかったため、ついに安戎鎮を攻撃した。中郎将大道秀(テドス)と郎将庾方(ユバン)が彼らと戦って勝利すると、蕭遜寧は再び進軍することができず、使者を送って降伏を促した。成宗は和通使として閤門舎人張瑩(チャンヨン)を契丹陣営へ派遣させたが、蕭遜寧は、「改めて大臣を軍営へ派遣し、対面すべきである」と述べた。張瑩が戻ると、成宗は諸臣を集めて、「誰か契丹の陣営へ行き、弁舌でもって軍勢を退け、万世の功を立てられる者はいないか?」と問うた。臣下の中に応じる者はいなかったが、徐熙だけが奏上して、「臣は賢くはありませんが、どうして命令に従わないことがありましょうか」と言った。王は川の辺まで出て行って見送りをし、手を握って彼を慰め、送り出した。徐熙が国書を持って蕭遜寧の軍営に行き、通訳者に面会の手順を尋ねさせた。蕭遜寧は、「私は大朝の貴人であるから、〔汝は〕当然、庭で拝礼すべきだ」と答えた。〔それに対して〕徐熙は、「臣下が君主に下から拝礼するのは礼儀である。〔しかし〕二国の大臣が互いに会うのに、どうしてこのようにできるだろうか?」と言った。〔徐熙は面会の礼儀を受け入れてもらうまで〕何度も行ったり来たりしたが、蕭遜寧は許さなかった。徐熙は怒って戻り、官舎に伏せたまま起き上がらなかったので、蕭遜寧は心の中で彼を奇妙に思い、ついに許して堂に上がり、〔対等に〕礼を行なうようにした。そこで、徐熙は軍営の門に着くと、馬から降りて中に入った。蕭遜寧と庭で互いに礼を交わし、〔堂に〕上がり、礼法に従って行ない、東西に向かい合って座った。蕭遜寧が徐熙に対して、「汝の国は新羅の地から起こり、高句麗の地は我々の所有であったのに、汝らが侵犯してきたのである。しかも、〔汝の国は〕我々と国境を接しているにもかかわらず、海を越えて宋に仕えている。それゆえに、今日の出兵に至ったのだ。もし、土地を分割して献上し、朝聘を行なうのであれば、無事でいられるだろう」と言った。〔これに対し〕徐熙は〔次のように〕言った。「そうではない。我が国こそがまさに高句麗の旧地であるゆえ、〔国号を〕高麗と称して平壤に都を置いた。もし、国境問題を論じるならば、遼の東京も全て我が領土にあるのに、どうして〔我々が〕侵犯してきたと言えるのか?そのうえ、鴨緑江の内外もまた我が領土であるのに、今や女真がその地を盗み取って占拠し、頑悪で狡猾に嘘をつきながら道を塞いでいるため、〔遼へ行くことは〕海を渡るよりも難しい。朝貢が通じないのは女真のためである。もし、女真を追い出し、我々の旧領土を返還し、城と砦を築き、道路を通じさせてくれるのであれば、どうして朝貢を怠ろうか?将軍がもし私の言葉を天子に伝えてくれるのであれば、どうして〔天子が〕哀切に思って受け入れないことがあろうか?」と。その口調が強く高ぶっていたため、蕭遜寧も強制できないことを悟り、ついにそのまま〔皇帝に〕報告した。〔報告を受けて〕契丹の皇帝は、「高麗がすでに講和を求めてきたのだから、よろしく軍事行動を中止しなさい」と言った。蕭遜寧が宴を設けて〔徐熙らを〕慰めようとすると、徐熙が言った。「我が国はたとえ過ちがなかったとしても、遼が軍を率いて遠征してきたので、〔我々は〕上も下も皆慌てて武器を手に何日も野営したのである。どうして、宴を開いて楽しむことができようか?」と。〔これに対して〕蕭遜寧が、「両国の大臣が互いに会ったのに、どうして歓好の礼がないだろうか」と言って、〔宴を催すことを〕強く要請したので、ついに徐熙は承諾し、〔宴を〕楽しく過ごし、終えた。徐熙が契丹の陣営に七日間滞在し、帰るときになって、蕭遜寧は〔徐熙に〕ラクダ10頭、馬100頭、羊1,000頭、絹500匹を贈った。成宗は大いに喜び、川の辺で出迎えて、すぐに朴良柔を礼幣使として〔契丹に〕入覲(※天子に拝謁すること。ここでは契丹の皇帝に拝謁すること)させた。徐熙が上奏して〔次のように〕言った。「私が蕭遜寧と約束したのは、女真を完全に平定し、旧地を回復したあとに初めて〔契丹に対して〕朝覲を行なうというものでした。今、〔我々は〕ようやく〔鴨緑〕江の内の地を回復したばかりです。お願いいたします、江の外の〔領土まで〕を獲得してから、朝聘を行なうようにしてください。〔それでも〕遅くはないでしょう」と。〔これに対して〕成宗は、「長く朝聘しなければ、後患が生じるかもしれない」と言った。〔結局〕ついに、朴良柔を〔契丹に〕派遣した。徐熙は平章事に転任した。

 〔成宗〕13年(994)、〔徐熙は〕軍勢を率いて女真族を追い払い、長興鎮・帰化鎮と郭州・亀州に城を築いた。翌年、再び軍勢を率いて安義鎮・興化鎮に城を築き、またその翌年に宣州・孟州に城を築いた。徐熙がかつて王に随行して海州にいたとき、成宗が徐熙の幕舎に入ろうとしたところ、徐熙は、「臣下の幕舎は至尊がお越しになる場所ではありません」と言った。〔成宗が〕酒を捧げるよう命じると、〔徐熙は〕「〔恐れ多くも〕臣下の酒を捧げることはできません」と言った。成宗はそこで、幕舎の外に座って御酒を出すよう命じ、〔徐熙と〕共に飲んで解散した。供賓令鄭又玄(チョンウヒョン)が封事を上奏し、時政についての七つの事柄を論じたが、〔これは〕王の考えに反するものであった。〔これを受けて〕成宗が宰相を集めて議論して、「鄭又玄が恐れ多くも職分を越えてその事柄を論じた。彼を処罰するのはどうだろうか?」と問うと、皆が「ご命令に従います」と答えた。〔しかし〕徐熙が言った。「昔、諫言をするのに官職の区別はありませんでした。職分を越えることが何の罪でしょうか?臣は才なくして不当に宰相の座を占め、地位を盗むだけで何の職責も果たさず、〔臣が無力であるがために〕官職の低い者に政治の是非を論じさせました。これはまさに臣の罪です。ましてや、鄭又玄の言論は極めて適切であり、称賛に値します」と。成宗は過ちを悟り、鄭又玄を監察御史に抜擢し、徐熙には、刺繍を施した鞍付きの厩馬と酒、果物を下賜して慰労し、太保内史令に任命した。

 〔成宗〕15年(996)、徐熙が病を患って開国寺に滞在すると、成宗が自ら見舞いに行き、御衣1着・馬3頭を寺に分けて施した。また、穀物1,000石を開国寺に施し、あらゆる命運を祈願するためのもので、行なわないことはなかった。翌年、禄を支給する際、徐熙の病気がまだ治っていなかったため、〔王は〕有司に命じて、「徐熙はまだ辞職する年齢には達していないが、病気のため朝廷に出られないので、致仕禄(※辞職後にもらう禄)を支給するのが妥当である」と言った。穆宗(モクチョン)元年(998)、〔徐熙は〕死去し、享年57歳であった。〔穆宗は〕訃報を受けて深く悲しみ、香典として布1,000匹、麦300石、米500石、脳原茶200角、大茶10斤、栴香300両を贈り、礼をもって葬り、諡号を章威と称した。顕宗18年(1027)、成宗の廟庭に配享し、徳宗2年(1033)、太師を追贈した。息子は徐訥(ソノル)で、側室の息子は徐周行(ソジュヘン)である。

原文出典

  • 東亜大学校附属石堂学術院 編『국역 고려사(国訳 高麗史)』第21巻、景仁文化社、2006年、pp.511~513
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この記事を書いた人

・歴史学を専攻する大学院生。
・専門分野は朝鮮古代史と中国唐代史。
・韓流時代劇が大好き。
 
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