原文
金殷傅、水州安山県人。性勤倹。成宗朝、授甄官丞、穆宗時、累遷御厨使、顕宗初、為公州節度使。王避契丹南下、次公州、殷傅備礼郊迎曰、「豈意聖上跋涉山川、凌冒霜雪、至於此極」。献衣帯土物。王遂更衣、以土物分賜扈従官。王至巴山駅、吏皆遁、御厨闕膳。殷傅又進膳羞、分供朝夕。
契丹兵退、王還次公州、殷傅使長女製御衣以進、因納之。是為元成王后。元恵・元平二王后亦其女也。尋除刑部侍郎、如契丹賀生辰。還至来遠城、契丹惎女真、執之以帰、数月乃得還。進知中枢事、転戸部尚書、拝中枢使・上護軍。八年卒。以王后故、贈推忠守節昌国功臣・開府儀同三司・守司空・上柱国・安山郡開国侯、食邑一千戸、妻封安山郡大夫人。又贈其父尚書左僕射・上柱国・安山県開国侯、食邑一千五百戸、母安山郡大夫人。妻父李許謙亦贈尚書左僕射・上柱国・邵城県開国侯、食邑一千五百戸。
書き下し
金殷傅、水州安山県の人なり。性は勤倹なり。成宗朝のとき、甄官丞を授かり、穆宗の時、累ねて御厨使に遷り、顕宗の初め、公州節度使と為る。王 契丹を避けて南下し、公州に次るに、殷傅 礼を備へて郊に迎へて曰く、「豈に聖上の山川を跋涉し、霜雪を凌冒し、此の極に至ることを意ふ」と。衣帯・土物を献ず。王 遂に衣を更め、土物を以て分けて扈従官に賜ふ。王 巴山駅に至りしとき、吏 皆遁ぐれば、御厨 膳を闕く。殷傅 又た膳羞を進め、分として供ふること朝夕なり。
契丹兵退き、王 還た公州に次るに、殷傅 長女をして御衣を製てて以て進ましむ、因りて之を納る。是れ元成王后たり。元恵・元平二王后も亦た其の女なり。尋いで刑部侍郎に除し、契丹に如きて生辰を賀はしむ。還りて来遠城に至るに、契丹 女真に惎へれば、之を執らへて以て帰る。数月して乃ち還るを得たり。知中枢事に進み、戸部尚書に転じ、中枢使・上護軍を拝けらる。八年卒す。王后の故を以て、推忠守節昌国功臣・開府儀同三司・守司空・上柱国・安山郡開国侯、食邑一千戸を贈り、妻 安山郡大夫人に封ず。又た其の父に尚書左僕射・上柱国・安山県開国侯、食邑一千五百戸、母に安山郡大夫人を贈る。妻父の李許謙も亦た尚書左僕射・上柱国・邵城県開国侯、食邑一千五百戸を贈る。
現代語訳
金殷傅(キム・ウンブ)は水州安山県の人である。品性は勤勉で倹約家であった。成宗(ソンジョン)の時代に甄官丞を務め、穆宗(モクチョン)の時代には何度も昇進して御厨使となり、顕宗(ヒョンジョン)の初年には公州節度使となった。王(=顕宗)が契丹を避けて南へ避難し、公州に滞在することになると、金殷傅は礼儀を整えて郊外で出迎えながら、「聖上は山を越え、川を渡り、霜や雪の危険を顧みずに進み、この地まで来られたことでしょう」と言い、衣服や帯、土産物を献上した。王はついに衣を替え、〔金殷傅からもらった〕土産品を付き従う者たちに下賜した。王が巴山駅に到着したとき、駅吏たちが皆逃げてしまったので、御厨に食料が備わっていなかった。金殷傅は再び食料を献上し、喜んで朝夕を通してもてなした。
契丹軍が撤退し、王が〔開京への帰路で〕、再び公州に滞在すると、金殷傅は長女に命じて御衣を縫わせて献上させた。これにより、〔王は〕その娘をめとった。これが元成王后である。元恵・元平の二人の王后もまた金殷傅の娘である。しばらくして、〔金殷傅を〕刑部侍郎に任命し、契丹に派遣して〔皇帝の〕生誕を祝わせたが、帰途で来遠城に至ったとき、契丹が女真に知らせたため、〔女真が〕彼を捕らえて連れて帰った。〔金殷傅は〕数か月を経てようやく〔高麗に〕帰ることができた。〔その後〕知中枢事に昇進し、戸部尚書に転任したあと、中枢使・上護軍に任命された。〔金殷傅は〕顕宗8年(1017)に死去した。王后の縁故により、〔金殷傅に〕推忠守節昌国功臣・開府儀同三司・守司空・上柱国・安山郡開国侯と食邑1,000戸を追贈し、その妻を安山郡大夫人に封じた。また、その父に尚書左僕射・上柱国・安山県開国侯と食邑1,500戸を追贈し、母を安山郡大夫人とした。〔金殷傅の〕妻の父である李許謙(イ・ホギョム)にも尚書左僕射・上柱国・邵城県開国侯、食邑1,500戸を追贈した。
原文出典
- 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、p.88。
