『高麗史』現代語訳 巻94、列伝7、河拱辰(ハゴンジン)

目次

原文

河拱辰、晋州人。成宗朝、為鴨江渡勾當使、穆宗時、除中郎将。王寝疾、拱辰与親従将軍庾方・中郎将卓思政等、常直近殿門。尋遷尚書左司郎中。及康兆挙兵至、拱辰遂与思政奔于兆。拱辰嘗在東・西界、擅発兵入東女真部落見敗。顕宗初、坐流遠島、尋召還復職。

未幾、王避契丹南幸、拱辰追謁于道、奏曰、「契丹本以討賊為名、今已得康兆。若遣使請和、彼必班師」。 王筮得吉卦、遂遣拱辰及高英起、奉表状往契丹営。拱辰行至昌化県、以表状授郎将張旻・別将丁悦、先往契丹軍言曰、「国王固願来覲、第懼兵威、又因内難、出避江南、遣陪臣拱辰等、陳告事由。拱辰等亦惶懼、不敢前来。請速収兵」。旻等未至、契丹先鋒、已至昌化。拱辰等具陳前意、契丹問、「国王安在」。答曰、「今向江南、不知所在」。又問、「遠近」。 答曰、「江南太遠、不知幾万里」。追兵乃還。

明年、拱辰与英起、至契丹営、乞班師。契丹主許之、遂留拱辰等。拱辰既被留、内図還国、外示忠勤。契丹主甚加寵遇。拱辰与英起密謀奏曰、「本国今已喪亡、臣等願領兵、点検而来」。契丹主許之。尋聞王返国、使英起居中京、拱辰居燕京、皆妻以良家女。

拱辰多市駿馬、列置東路、以為帰計、人告其謀。契丹主鞫之、拱辰具以実対、且曰、「臣於本国、不敢有二心。罪当万死、不願生事大朝。契丹主義而原之。諭令改節効忠、拱辰辞益厲不遜、遂殺之。争取心肝食之。

後王下教録功、加其子則忠禄資。文宗六年、制曰、「左司郎中河拱辰、在統和二十八年、契丹兵入侵、臨敵忘身、掉三寸舌、能却大兵。可図形閣上」。超授其子則忠五品職。尋又録其功、贈尚書工部侍郎。

書き下し

河拱辰は晋州の人なり。成宗朝、鴨江渡勾当使と為り、穆宗の時、中郎将に除せらる。王 疾に寝ぬるに、拱辰 親従将軍庾方・中郎将卓思政等と与に、常に殿門に直近す。尋いで尚書左司郎中に遷る。康兆の挙兵するに及び至りて、拱辰遂に思政と与に于兆に奔る。拱辰嘗て東・西界に在りて、擅に兵を発して東女真部落に入れども、敗せらる。顕宗の初め、坐して遠島に流され、尋いで召還せられ復職す。

未だ幾ならずして、王 契丹を避けて南に幸するに、拱辰追ひて道にまみえて、奏して曰く、「契丹 本より賊を討つを以て名と為し、今已に康兆を得たり。若し使を遣はして和を請へば、彼必ず師をかえさん」と。 王 うらなひて吉卦を得、遂に拱辰及び高英起を遣はして、表状を奉りて契丹の営に往かしむ。拱辰行きて昌化県に至り、表状を以て郎将張旻・別将丁悦に授け、先に契丹の軍に往きて言ひて曰く、「国王 固く来覲を願へども、だ兵威を懼れ、又た内難に因りて、出でて江南に避く。陪臣拱辰等を遣はして、事の由を陳告せしむ。拱辰等も亦た惶懼こうくにして、敢えて前に来たらず。速やかに兵を収めんことを請ふ」と。旻等未だ至らずして、契丹の先鋒、已に昌化に至る。拱辰等 具に前意を陳ぶ。契丹問ふ、「国王安くにか在る」と。答へて曰く、「今江南に向かふ。在る所を知らず」と。又た問ふ、「遠きか近きか」。 答へて曰く、「江南はなはだ遠し。幾万里なるかを知らず」と。追兵乃ち還る。

明年、拱辰 英起と与に、契丹の営に至り、師を班さんことを乞ふ。契丹の主 之を許し、遂に拱辰等を留む。拱辰 既に留められ、内に還国を図り、外に忠勤を示す。契丹の主 甚だ寵遇を加ふ。拱辰 英起と与に密謀して奏して曰く、「本国 今已に喪亡せば、臣等願はくは兵を領して、点検して来たらん」。契丹の主 之を許す。尋いで王の国に返るを聞きて、英起をして中京に居さしめ、拱辰をして燕京に居さしむ。皆妻するに良家の女を以てす。

拱辰 多く駿馬をあきなひ、東路に列ね置きて、以て帰計を為せども、人 其の謀を告ぐ。契丹の主 之をきはむるに、拱辰具に実を以て対へ、且つ曰く、「臣 本国に於いて、敢えて二心有らず。罪万死に当たる。生きて大朝に事ふることを願はず」と。契丹の主 義として之をゆるす。諭して節を改め忠をいたさしむれども、拱辰の辞 益々厲しく不遜なれば、遂に之を殺す。争ひて心肝を取り之を食らふ。

後に王 教を下して功を録し、其の子の則忠に禄資を加ふ。文宗六年、制して曰く、「左司郎中河拱辰、統和二十八年に在りて、契丹の兵の入侵するに、敵に臨みて身を忘れ、三寸の舌をるひ、能く大兵を却く。閣上に図形すべし」と。其の子の則忠に五品職を超え授く。尋いで又た其功を録し、尚書工部侍郎を贈る。

現代語訳

河拱辰(ハ・ゴンジン)は晋州の人である。成宗(ソンジョン)のときに鴨江渡勾当使となり、穆宗(モクチョン)のときに中郎将に任命された。王(=穆宗)が病床に就くと、河拱辰は親従将軍庾方(ユ・バン)・中郎将卓思政(タク・サジョン)らとともに寝殿の門近くで当直した。しばらくして、尚書左司郎中に遷った。康兆(カン・ジョ)が挙兵するに及んで、河拱辰はついに卓思政とともに康兆のもとへ逃亡した。河拱辰はかつて東・西界に駐屯していたことがあったが、勝手に軍を動かして東女真の部落に侵入して敗北した。顕宗の初め、〔この件で〕罪を受け、遠い島へ流刑となったが、すぐに召還されて復職した。

ほどなくして、王(=顕宗)が契丹〔の攻勢〕を避けて南へ逃れたとき、河拱辰は後を追い、道中で〔王に〕謁見して申し上げた。「契丹はもともと逆賊の討伐を名分としており、今やすでに〔契丹は〕康兆を捕らえました。もし、使者を派遣して和親を請えば、彼らは必ず軍を撤退させるでしょう」。王は占いをして吉兆を得たため、ついに河拱辰と高英起(コ・ヨンギ)に表文を持たせて、契丹の陣営に行かせた。河拱辰は昌化県に着き、表文を郎将張旻(チャン・ミン)・別将丁悦(チョン・ヨル)に渡すと、先に契丹の軍営へ赴き、こう伝えた。「国王は誠に参上して拝謁を望んでおりましたが、ただ軍の威勢を恐れ、また国内の困難な事情によって江南へ避難したため、陪臣の河拱辰らを遣わして事情を伝えさせたのです。河拱辰らもまた恐れ、あえて前に出て来られないので、どうか速やかに軍を引いてください」。張旻らがまだ〔契丹の軍営に〕到着しないうちに、契丹の先鋒軍はすでに昌化県まで進軍していた。河拱辰らが詳しく先の事情を説明すると、契丹側が問うて、「国王はどこにいるのか?」と言った。〔河拱辰が〕答えて、「今、江南へ行かれており、おられる場所は知りません」と言った。また、〔契丹側が〕問うて、「〔江南は〕遠いのか?近いのか?」と言った。〔河拱辰が〕「江南はとても遠く、幾万里か分からない〔ほど〕です」と答えると、追撃していた契丹軍は引き返した。

翌年、河拱辰は高英起とともに契丹の陣営へ行き、軍の撤退を請い求めた。契丹の君主はこれを許し、そのまま河拱辰らを拘留することにした。河拱辰は拘留されたが、内心では還国を図りながら、表向きは忠誠と勤行を示したため、契丹の君主は〔河拱辰に〕寵遇を加えた。河拱辰が高英起とともに密かに謀り、〔契丹の君主に〕申し上げて、「我が国は今やすでに滅びましたので、どうか、私たちが軍を率いて〔高麗を〕点検しに行くことをお許しください」と言うと、契丹の君主はこれを許した。まもなく、〔高麗王〕が国都(=開京)に戻った〔という知らせ〕を聞くと、〔契丹の君主は〕高英起を中京に住まわせ、河拱辰を燕京に住まわせ、〔彼らに〕良家の娘を嫁がせた。

河拱辰は駿馬を多く買い、東路(=高麗へ通じる道)に列ねて配置しておいたが、ある者がその計画を密告した。契丹の君主がこれ(=河拱辰)を尋問すると、河拱辰は詳細に事実を答え、さらに言った。「私は我が国を裏切ることはできません。罪は万死に値しますが、〔それでも私は〕生きて大朝(=契丹)に仕えることを望みません」。契丹の君主はこれを義と認め、彼を釈放した。〔そのうえで、彼に〕節操を改めて忠誠を尽くすように説得したが、河拱辰の口調がますます激しく不遜になったため、ついに彼を殺害した。〔すると、契丹人は〕競って心臓と肝臓を取り出して食らった。

のちに、王(=顕宗)は詔書を下して〔河拱辰の〕功績を記録し、彼の息子の河則忠には俸禄を増やし〔て与え〕た。文宗6年(1052)、〔王は〕詔書を下して、「左司郎中河拱辰は統和28年(1010)、契丹軍が侵攻してきた際、敵に向かい合って〔自分の〕身を顧みず、三寸の舌を動かして大軍を退けた。功臣閣に肖像を描くべきである」と述べ、その子の河則忠に五品職を飛び級で授けた。しばらくして、またその功績を記録し、尚書工部侍郎を追贈した。

原文出典

  • 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、pp.87~88。
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この記事を書いた人

・歴史学を専攻する大学院生。
・専門分野は朝鮮古代史と中国唐代史。
・韓流時代劇が大好き。
 
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