原文
安宗郁、居第在王輪寺南、与景宗妃皇甫氏私第近。景宗薨、妃出居其第。郁遂烝有身。事覚、成宗流郁泗水県、謂曰、「叔犯大義、故流之。慎勿焦心」。命内侍謁者高玄押送。玄還、郁贈詩曰、「与君同日出皇畿、君已先帰我未帰。旅檻自嗟猿似鎖、離亭還羨馬如飛。帝城春色魂交夢、海国風光涙満衣。聖主一言応不改、可能終使老漁磯」。
初流郁之日、皇甫氏免身而卒、成宗為択傅姆養其兒。兒至二歲、姆常誨之曰「爺」。一日成宗召見、姆抱以入、兒仰視成宗、呼云爺。就膝上捫衣襟、又再呼爺。成宗憐之、下涙曰、「此兒深慕父也」。遂送泗水以帰郁。是為顕宗。
郁工文辞、又精於地理。嘗密遺顕宗金一囊曰、「我死、以金贈術師、令葬我県城隍堂南帰竜洞、必伏埋」。成宗十五年、郁卒于貶所、顕宗如其言、将葬請伏埋。術師曰、「何大忙乎」。明年二月、顕宗還京、及即位、追尊孝穆大王、廟号安宗。八年四月、移葬乾陵。五月、加号憲景。十二年、改孝穆為孝懿。十八年、加聖徳。後称武陵。
書き下し
安宗郁、居第 王輪寺の南に在りて、景宗妃皇甫氏の私第と近し。景宗薨ずるに、妃 出でて其の第に居す。郁 遂に烝して身有り。事覚するに、成宗 郁を泗水県に流し、謂ひて曰く、「叔 大義を犯す、故に之に流す。慎んで焦心すること勿かれ」と。内侍謁者高玄に命じて押送せしむ。玄 還らんとするに、郁 詩を贈りて曰く、「君と与に同じ日に皇畿を出で、君は已に先に帰り我は未だ帰らず。旅檻に自ら猿の鎖せらるの似きを嗟き、離亭に還りて馬の飛ぶが如きを羨む。帝城の春色 魂の夢に交わり、海国の風光 涙の衣に満つ。聖主の一言 応に改まざるべし。可能くんぞ終に漁磯に老いしめんや」と。
初め郁を流すの日、皇甫氏 身を免じて卒す。成宗 為に傅姆を択びて其の兒を養はしむ。兒 二歲に至りて、姆 常に之に誨へて曰く、「爺」と。一日成宗 召見す。姆 抱きて以て入るに、兒 成宗を仰ぎ視て、呼びて「爺」と云ふ。膝上に就きて衣の襟を捫りて、又た再び「爺」と呼ぶ。成宗 之を憐れみ、涙を下して曰く、「此の兒 深く父を慕ふなり」と。遂に泗水に送りて以て郁に帰す。是れ顕宗たり。
郁 文辞を工にして、又た地理に精し。嘗て密かに顕宗に金一囊を遺して曰く、「我れ死せば、金を以て術師に贈り、我を県の城隍堂南の帰竜洞に葬らしめ、必ず伏して埋めよ」と。成宗十五年、郁 貶所に卒す。顕宗 其の言の如くし、将に葬らんとして伏して埋むることを請ふ。術師曰く、「何ぞ大いに忙しきや」と。明年二月、顕宗 京に還り、即位するに及びて、孝穆大王と追尊し、廟号を安宗とす。八年四月、乾陵に移葬す。五月、号に憲景を加ふ。十二年、孝穆を改めて孝懿と為す。十八年、聖徳を加ふ。後に武陵と称す。
現代語訳
安宗王郁(ワン・ウク)は住んでいた家が王輪寺の南側にあり、景宗の妃である皇甫氏の私邸と近かった。景宗が崩御すると、妃は〔宮殿を〕出てその家(=王郁の家)に住んだ。王郁はついに〔皇甫氏と〕私通し、〔皇甫氏は〕子を宿した。事が発覚すると、成宗は王郁を泗水県へ流刑に処し、「叔父が大義を犯したために、流刑とするのです。どうか、心を痛めないでください」と告げた。内侍謁者高玄に命じて、〔王郁を流刑地に〕押送させた。高玄が帰ろうとすると、王郁は〔次のような〕詩を詠んで贈った。
「君と私は同じ日に都を出たのに、君は先に帰り、私は帰れぬ。旅先の檻で自ら、猿が鎖に縛られたかのようであることを嘆き、別れの亭で振り返り、飛び立つような馬を羨む。帝城の春の光景は魂となって夢の中で交わり、海辺の国の風光に涙で衣が濡れる。聖主の一言は当然変わらないものである。〔しかし、それでも、〕どうして〔私は〕最後まで魚村で老いゆくことがあるだろうか」。
かつて、王郁が流刑に処されたとき、皇甫氏が子を産み、〔そのまま〕死去したため、成宗は乳母を選んで子を育てさせた。子が2歳になると、乳母はいつも彼に、「パパ」という言葉を教えた。ある日、成宗が子を呼んだ。乳母が〔子を〕抱いて入ってきたところ、子は成宗を仰ぎ見上げて、「パパ」と呼んだ。膝の上に這い上がってきて衣の襟を掴み、また「パパ」と呼んだ。成宗は子を哀れに思い、涙を流しながら、「この子は父を深く慕っているのである」と言った。ついに、〔成宗は〕子を泗水県に送り、王郁に返した。この子が顕宗である。
王郁は文章が精巧で、また地理にも精通していた。かつて、密かに金一袋を顕宗に残し、「私が死んだらこの金を術師に渡し、私をこの県の城隍堂の南にある帰竜洞に葬らせて、〔その際に〕必ず〔遺体を〕逆さまにして埋葬するようにせよ」と言った。成宗15年(996)、王郁は流刑地で死去した。顕宗は彼の言葉通り、葬る際に逆さまに埋葬してほしいと要請した。〔それに対して〕術師は、「なぜ、そんなにせわしないのですか?」と言った。翌年2月、顕宗は開京に戻り、王位に就くと、〔王郁を〕追尊して孝穆大王とし、廟号を安宗とした。〔顕宗〕8年(1017)4月、乾陵へ移葬した。5月、諡号に憲景を加えた。〔顕宗〕12年(1021)、孝穆を改めて孝懿とした。18年(1027)、〔諡号に〕聖徳を加えた。後に〔陵号を〕武陵と呼んだ。
原文出典
- 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、p.30
