韓国ドラマ『千秋太后』や『高麗契丹戦争』に登場するユ・ヘンガン。
ドラマでは、穆宗(モクチョン)の寵愛を受ける美男子でしたね。
ユ・ヘンガンは実在した人物です。
実際にはどのような人物だったのでしょうか。
この記事では、ユ・ヘンガンの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』に基づいて解説をしていきます。
記事の最後では、ドラマ『千秋太后』『高麗契丹戦争』で描かれるユ・ヘンガンと史実との違いも解説しております。
また、以下の記事では、『高麗史』収載のユ・ヘンガン(庾行簡)の伝記を和訳(現代日本語訳)しております。
実際の歴史書に書かれている内容を知りたい方におすすめです。併せてご覧ください。

庾行簡(ユ・ヘンガン)の詳細
庾行簡の基本情報
姓名:庾行簡(ユ・ヘンガン)
出生年:不明
死亡年:1009年(穆宗12年)
最終官職:閤門舎人
家族構成
- 父:庾稟廉(ユ・プンニョム)
庾行簡(ユ・ヘンガン)の生涯
生い立ち
庾行簡(ユ・ヘンガン)の生い立ちについては、残念ながら、全く分かっていません。
というのも、歴史書に庾行簡の幼少期の記録が残されていないからです。
『高麗史』によれば、庾行簡の父は庾稟廉(ユ・プンニョム)という人物で、衛尉少卿という官職に就いていました。
衛尉少卿とは、儀式に使う礼器や武器を管理する衛尉寺という中央官庁の次官職で、それなりに高い位の官職でした。

衛尉少卿は衛尉寺のナンバー2だったのです。衛尉寺の中ではかなりの高官ですね。
父親が高官であったことからみると、庾行簡の家柄はそこそこ高貴であったと考えられます。
穆宗(モクチョン)の寵愛を受ける
『高麗史』には、庾行簡(ユ・ヘンガン)は容姿端麗で美貌を備えていたと書かれています。
庾行簡は美男子だったのです。
そんな庾行簡を見た高麗の7代王・穆宗(モクチョン)は、彼を深く愛するようになり、男同士の性愛関係まで結んだといいます。
ところで、庾行簡と穆宗がどのように知り合ったのかは、よく分かっていません。
庾行簡の父・庾稟廉(ユ・プンニョム)が国に仕える高官だったことから、庾行簡も父と同じく仕官していた可能性があります。
そうだとすれば、彼が穆宗と出会う機会はいくらでもありそうです。
詳しい経緯は分かりませんが、こうして庾行簡は穆宗と出会い、寵愛を受けるに至りました。
権勢をほしいままに振るう
穆宗(モクチョン)の寵愛を受けた庾行簡(ユ・ヘンガン)は、閤門舎人という中位職に任命されました。
閤門舎人とは、国家儀礼を掌る閤門という官庁の中位職であり、決して高官ではありませんでした。
ですが、庾行簡は穆宗の寵愛により、官職にそぐわない、大きな権力を有するようになります。
『高麗史』には、穆宗が何か命令を下すときには必ず、まず庾行簡に相談してから実行したと記されています。



穆宗がいかに庾行簡を愛し、重用したのかが分かる記録ですね。
さて、穆宗の寵愛により権力を得た庾行簡は、それをいいことに、次第に傲慢になっていきました。
文武百官を軽蔑し、あごで人を使い、自分の顔色や態度だけで人々を動かしたといいます。
庾行簡の側近たちは、彼がまるで王であるかのように接しました。
やがて、穆宗が病床に伏すようになると、庾行簡は劉忠正(ユ・チュンジョン)とともに宮中で宿直しました。
朝廷の大臣たちが王の寝所に見舞いに訪れると、庾行簡はかたくなに見舞いを許可せず、大臣たちを追い返しました。



大臣たちの謁見を阻止できるほど、庾行簡は大きな権力を持っていたのです。
大良院君を後継者とすることに反対する
病床に伏した穆宗(モクチョン)は、王族の大良院君(テリャンウォングン)を迎えて後継者にしようとします。
穆宗には息子がいなかったため、出家していた大良院君を呼び寄せて、後継者にすることに決めたのです。
一方、庾行簡(ユ・ヘンガン)は、大良院君を後継者とすることに反対の意を示しました。
なぜ、庾行簡は反対したのでしょうか。
その理由までは歴史書に記されていないのですが、恐らく、大良院君が後継者となることで、自らの権力が失われると考えたのではないでしょうか。
庾行簡は穆宗の寵愛を受けることで、初めて権勢を振るうことができたのです。
大良院君が後を継げば、庾行簡は無力そのものになってしまいます。
しかも、これまで穆宗の寵愛を笠に着て権勢を振るってきたわけですから、彼のことを嫌う人は多かったはずです。
そうした人々の逆襲にあう危険すらありました。
庾行簡が大良院君の擁立に反対した背景には、このような事情があったのでしょう。
ところが、穆宗は庾行簡の目を盗み、密かに臣下に命じて大良院君を迎えに行かせることを決めます。
康兆(カン・ジョ)に殺害される
穆宗(モクチョン)が大良院君(テリャンウォングン)を後継者に決めた頃、高麗の朝廷は金致陽(キム・チヤン)の天下でした。
金致陽は千秋太后との間にもうけた息子を穆宗の後継者にしようと、反乱を企てていました。
この企てを知った穆宗は、急いで皇甫兪義(ファンボ・ユイ)を遣わして、神穴寺にいる大良院君を迎えに行かせました。
一方、このとき、西北面を防備していた西北面都巡検使の康兆(カン・ジョ)は、王が病死して宮殿が金致陽に掌握されたと勘違いし、金致陽の討伐と大良院君の擁立を掲げて挙兵をしました。
康兆は王都への進軍の途中で、王が死去していない事実を知りますが、もはや挙兵したからには後戻りはできないと悟ります。
そこで、康兆は、「金致陽ら奸悪な者たちが王位を狙っていること」、「王が庾行簡(ユ・ヘンガン)らの讒言や諂いを信じ、国の危機を招いた」などの名分を掲げて王の廃立を決意し、そのまま王都へ進軍を続けました。
康兆が王都に入城して宮殿を掌握すると、穆宗は驚き恐れて、康兆に庾行簡を差し出しました。
穆宗は庾行簡を差し出す代わりに、康兆に許しを求めようとしたのでしょう。
康兆のもとに送られた庾行簡は、金致陽父子とともに、康兆によって殺害されました。
ドラマ『千秋太后』と史実の違い(ネタバレ注意)
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
庾行簡(ユ・ヘンガン)は旅芸人ではない
『千秋太后』では、庾行簡(ユ・ヘンガン)は身分が卑しく、旅芸人として生きている設定でした。
穆宗(モクチョン)は、女装をして舞を舞う庾行簡に見とれ、彼を寵愛するようになりましたね。
しかし、高麗の歴史書『高麗史』によれば、庾行簡の父は高官職に就いているため、その息子の庾行簡も、それなりに高貴な身分であったと考えられます。
ドラマでは、庾行簡の不憫さを強調するために、身分の卑しい旅芸人という設定にしたのかもしれません。
金致陽(キム・チヤン)の味方にはなっていない
『千秋太后』では、庾行簡(ユ・ヘンガン)は金致陽(キム・チヤン)の手下になりました。
金致陽は庾行簡を宮殿に入れて穆宗(モクチョン)お付きの内官とし、穆宗の周りを監視させて、逐一報告をさせていました。
さらに、金致陽は庾行簡を通じて、穆宗に寒食散という精神薬を飲ませ、王の権威を失墜させようとすらしました。
しかし、歴史書には、庾行簡が金致陽の手下になったという事実は記されていません。
庾行簡が穆宗の側に侍っていたのは史実ですが、それは穆宗の寵愛を受けたからであり、そこに金致陽の関与は全くありませんでした。
もちろん、庾行簡が穆宗に精神薬を飲ませたのも史実ではなく、ドラマでのフィクションです。
庾行簡の人物像について
『千秋太后』では、庾行簡(ユ・ヘンガン)はひとえに穆宗を愛しながらも、最後にはその愛も叶わずに散っていく不憫な人物として描かれていました。
性格も温厚で優しげな印象がありましたね。
ですが、高麗の歴史書『高麗史』によれば、穆宗の寵愛を受けて権力を握った庾行簡は、権勢をほしいままに振るい、百官を軽蔑して、人をあごで使ったとされています。
ドラマでの庾行簡の人物像は、史実とはだいぶ違うようですね。



個人的には、『千秋太后』で描かれる温厚なユ・ヘンガン好きでした。
ドラマ『高麗契丹戦争』と史実の違い(ネタバレ注意)
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
『高麗契丹戦争』の庾行簡(ユ・ヘンガン)は史実通り
『高麗契丹戦争』の庾行簡(ユ・ヘンガン)は、史実に沿った人物像になっています。
穆宗の寵愛を受けて性愛関係を結び、その寵愛を笠に着て権力を振るう様は、まさに『高麗史』に書かれている庾行簡そのままです。
康兆(カン・ジョ)に殺害されて最期を迎えるのも、史実そのものです。
参考文献
- 『高麗史』巻3、世家第3、穆宗12年(1009)1月16日
- 『高麗史』巻3、世家第3、穆宗12年(1009)2月3日
- 『高麗史』巻123、列伝第36、嬖幸1、庾行簡
- 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽
- 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆
- 『高麗史』巻76、志第30、百官1、衛尉寺








