原文
崔亮、慶州人。性寬厚、能属文。光宗朝、登第為攻文博士。成宗在潜邸、引為師友。及即位、遂加擢用。甚協人望。累授左散騎常侍・参知政事兼司衛卿、以疾解官。
既而王謂左右曰、「亮在告百日、御事選官、依例請解職、朕已允之。然念、亮自我潜邸、竭其忠貞、以匡眇昧。言念勲労、未敢忘也」。乃命復職。未幾、拝門下侍郎、遷内史侍郎兼民官御事・同内史門下平章事・監修国史。
十四年卒、王痛悼、贈太子太師、賻米三百石、麦二百石、脳原茶一千角、以礼葬之。謚匡彬。後配享成宗廟庭。累贈太尉・太保・太師・内史令・三重大匡。
子元信・元佐・元億・元偉・元偘・元保・元俊。元信擢甲科、歴戸部侍郎礼賓卿。顕宗朝、与李守和如宋賀正、及還、以奉使汚辱、坐流。
書き下し
崔亮、慶州人なり。性は寬厚にして、属文を能くす。光宗朝、登第して攻文博士と為る。成宗 潜邸に在りしとき、引きて師友と為す。即位するに及びて、遂に擢用を加ふ。甚だ人望に協ふ。累ねて左散騎常侍・参知政事兼司衛卿を授くれども、疾を以て解官す。
既にして王 左右に謂ひて曰く、「亮 百日を告するに在り、御事選官、例に依りて解職を請へば、朕 已に之を允す。然れども念ふに、亮 我が潜邸より、其の忠貞を竭くし、以て眇昧を匡す。勲労を言ひ念ひ、未だ敢へて忘れざるなり」と。乃ち復職を命ず。未だ幾ならずして、門下侍郎を拝し、内史侍郎兼民官御事・同内史門下平章事・監修国史に遷す。
十四年卒す。王 痛悼し、太子太師を贈り、米三百石、麦二百石、脳原茶一千角を賻り、礼を以て之を葬る。匡彬を謚す。後に成宗の廟庭に配享す。累ねて太尉・太保・太師・内史令・三重大匡を贈る。
子は元信・元佐・元億・元偉・元偘・元保・元俊なり。元信 甲科に擢せられ、戸部侍郎礼賓卿を歴たり。顕宗朝、李守和と与に宋に如きて賀正し、還るに及びて、奉使の汚辱を以て、坐して流さる。
現代語訳
崔亮は慶州の人で、性格は寛大かつ厚徳であり、文章を書くことに長けていた。光宗の時代、科挙に及第して攻文博士となった。成宗は王位に就く前に、〔彼を〕召し出して師友とした。〔成宗が〕王位に就くと、ついに抜擢して登用したが、〔その登用は〕甚だ〔崔亮の〕人望にかなうものであった。〔その後、〕重ねて昇進させ、左散騎常侍・参知政事兼司衛卿を授けたが、病のために解職した。
しばらくして、王が左右の者たちに言った。「崔亮は100日の病気休暇中にあり、御事御事が規定に従って解職を要請したので、私はすでに許可した。しかし、考えてみると、崔亮は私が王位に就く前から忠誠を尽くして、未熟な私を正してくれた。これまで、その功労を思い、あえて忘れるようなことはなかった」と言い、すぐに復職を命じた。ほどなくして、門下侍郎に任命し、内史侍郎兼民官御事・同内史門下平章事・監修国事に昇進させた。
成宗14年(995)に〔崔亮が〕死去すると、王は追悼し、太子太師を追贈した。また、香典として米300石、麦200石、脳原茶1,000角を送り、礼法に従って彼を葬った。諡号を匡彬とした。のちに、成宗の廟廷に配享され、追贈されて太尉・太保・太師・内史令・三重大匡となった。
息子は元信・元佐・元億・元偉・元偘・元保・元俊である。元信は甲科に及第し、戸部侍郎・礼賓卿を歴任した。〔元信は〕顕宗の時代、李守和とともに宋に行って新年を祝賀したが、帰国すると、使者としての振る舞いが国を辱めたとして罪に問われ、流刑に処された。
原文出典
- 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、p.71
