韓国ドラマ『千秋太后』に登場するサガムン・サイルラ兄妹。
ドラマでは、キム・チヤンの部下であり、主要メンバーである千秋太后、カン・ジョ、キム・チヤンなどと肩を並べるほど存在感を発揮した兄妹でした。
凛々しく果敢なサガムンと、時より情に脆く、か弱さも見せるサイルラ。そんな魅力的な兄妹に愛着を抱いた方も多いのではないでしょうか。
サガムンとサイルラは、実在した人物です。
ただし、ドラマでのサガムンとサイルラは、かなり脚色されており、ほとんどがフィクションと言っても過言ではありません。
この記事では、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』を活用して、サガムンとサイルラについての記録を確認しながら、ドラマで描かれる二人と史実との違いを解説していきます。
結論だけを知りたい方は、【まとめ】実在したサガムン・サイルラとドラマの違いまでジャンプしてください。
沙訶問(サガムン)・沙逸羅(サイルラ)の詳細
沙訶問(サガムン)の基本情報
姓名:沙訶問(サガムン)
出生年:不明
死亡年:不明
地位:弗柰国(女真の一部族)の酋長
沙逸羅(サイルラ)の基本情報
姓名:沙逸羅(サイルラ)
出生年:不明
死亡年:不明
地位:女真の某部族の酋長
沙訶問(サガムン)についての記録
まずは、高麗の歴史書(『高麗史』『高麗史節要』)から沙訶問(サガムン)についての記録を見てみます。
沙訶問(サガムン)についての記録は、わずか二つしかありません。
『高麗史』『高麗史節要』に一つずつ記録が残されています。
ですが、『高麗史節要』の記事は『高麗史』の記事を再収録しているだけなので、実質一つしかないと言えます。
①高麗に土産物を献上する
沙訶問(サガムン)についての記録は、『高麗史』巻4、世家第4、顕宗11年(1020)6月19日条に見えます。
弗柰国の酋長沙訶問が女真の奴隷鬱達を派遣してきて、〔高麗に〕土産物を献上した。
『高麗史』巻4、世家第4、顕宗13年(1020)6月19日
この記録よれば、沙訶問は弗柰国の酋長(族長)であり、女真人の奴隷である鬱達という者を高麗に派遣し、土産物を献上したといいます。
弗柰国が何を意味するのかは正確には分かりませんが、恐らくは女真族(高麗の東北方に居住していた民族)の一部族の名称だと考えられます。
つまり、沙訶問は女真人であり、弗柰国という部族の族長だったことになります。
この記録を再収録したものが、『高麗史節要』巻3、顕宗11年(1020)6月条に見えますが、内容が同じなので引用は省略します。
沙逸羅(サイルラ)についての記録
次に、高麗の歴史書(『高麗史』『高麗史節要』)から沙逸羅(サイルラ)についての記録を見てみます。
沙逸羅(サイルラ)についての記録は六つ確認されます。
そのうち、『高麗史』に三つ、『高麗史節要』に三つ記録が残されています。
ですが、『高麗史節要』の記事は『高麗史』の記事を再収録しているだけなので、実質三つになります。
①高麗に来朝する
沙逸羅(サイルラ)についての一つ目の記録は、『高麗史』巻4、世家第4、顕宗13年(1022)1月17日条に見えます。
黒水の酋長沙逸羅と曼投弗らが〔高麗に〕来朝した。
『高麗史』巻4、世家第4、顕宗13年(1022)1月17日
この記録によれば、沙逸羅は黒水の酋長(族長)であり、曼投弗という者とともに高麗に来朝したといいます。
「黒水」は女真の古称なので、沙逸羅は女真の某部族の族長であったと解釈できます。
この記録を再収録したものが、『高麗史節要』巻3、顕宗13年(1022)1月条に見えますが、内容が同じなので引用は省略します。
②高麗に馬を献上する
沙逸羅(サイルラ)についての二つ目の記録は、『高麗史』巻5、世家第5、顕宗19年(1028)12月条に見えます。
東女真の沙逸羅らが来て、〔高麗に〕馬を献上した。
『高麗史』巻5、世家第5、顕宗19年(1028)12月
この記録に見える「東女真」は、高麗の東北方(現在の北朝鮮・咸鏡道)に居住していた女真族の総称です。
つまり、一つ目の記録に見えた「黒水」と同じく女真族のことを意味します。
この二つ目の記録には、直接に「酋長」と書かれていませんが、史料上に名前が記されていることから考えて、この頃も沙逸羅は部族長クラスだったとみてよいでしょう。
この記録を再収録したものが、『高麗史節要』巻3、顕宗19年(1028)12月条に見えますが、内容が同じなので引用は省略します。
③高麗に土産の馬を献上する
沙逸羅(サイルラ)についての三つ目の記録は、『高麗史』巻5、世家第5、顕宗22年(1031)3月条に見えます。
女真の沙逸羅ら40余人が来て、〔高麗に〕土産の馬を献上した。
『高麗史』巻5、世家第5、顕宗22年(1031)3月
ここにも、「女真」とあって、沙逸羅が女真人であったことが分かります。40余人の代表者として記されているあたり、やはり沙逸羅は某部族の族長だったのでしょう。
この記録によれば、沙逸羅は再び高麗にやって来て、土産の馬を献上しています。
一つ目の記録、二つ目の記録と併せて考えると、沙逸羅は高麗に来朝したり、馬を献上したりして、高麗と友好的な関係を継続させていたものと考えられます。
この記録を再収録したものが、『高麗史節要』巻3、顕宗22年(1031)3月条に見えますが、内容が同じなので引用は省略します。
【まとめ】実在したサガムン・サイルラとドラマの違い
ここまで、高麗の歴史書『高麗史』『高麗史節要』から、実在したサガムンとサイルラについての記録を見てきました。
記録の内容をまとめると、次のように説明することができます。
- 沙訶問(サガムン):弗柰国(女真の一部族)の族長。顕宗11年(1020)に高麗に来朝し、土産物を献上した。
- 沙逸羅(サイルラ):女真の某部族の族長。顕宗13年(1022)、顕宗19年(1028)、顕宗22年(1031)の3回にわたって高麗に来朝し、土産の馬などを献上した。
沙訶問(サガムン)と沙逸羅(サイルラ)は、いずれも女真の一部族の族長であり、高麗に来朝した経歴を持つ人物でした。
しかし、記録から分かることは、これぐらいしかありません。
記録を見るだけでも、ドラマ『千秋太后』におけるサガムンとサイルラが、ほとんどフィクションであることが分かるかと思います。
以下では、これらの記録を踏まえて、実在したサガムン・サイルラとドラマの違いを解説します。
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
キム・チヤンの部下ではなかった
ドラマでは、サガムンとサイルラはキム・チヤンの部下でした。
しかし、史実においては、サガムンとサイルラにキム・チヤンとの接点はありませんでした。
沙訶問(サガムン)と沙逸羅(サイルラ)は、いずれも女真の一部族の酋長(族長)でした。
一方、金致陽(キム・チヤン)は高麗の権臣です。
地理的にも立場的にも遠く離れた両者が、ドラマのような主君と部下の関係になることはありませんでした。
確かに、沙訶問は1回、沙逸羅は3回ほど高麗に来朝した記録がありますが、それらは全て金致陽(キム・チヤン)死後のものです。
彼らが出会うこと自体、ありえなかったのです。

サガムンとサイルラは兄妹だった?
ドラマでは、サガムンとサイルラは兄妹という設定でした。
史実においては、二人は「兄妹」ではありませんが、「兄弟」であった可能性はあります。
「兄妹」ではない理由は、ドラマで女性だったサイルラが、史実では男性だったと考えられるからです(史実のサイルラは族長であったことから、男性である可能性が高いです)。
そのうえで、二人が兄弟であったかどうかは、記録が少ないので否定する材料もないのですが、かといって、兄弟と決めつけることもできません。
推測を広げれば、沙訶問(サガムン)と沙逸羅(サイルラ)はいずれも姓名に「沙」を帯びているため、女真の中でも近しい部族、あるいは同じ部族に所属していたかもしれません。
しかも、沙訶問が1020年に、沙逸羅が1022年、1028年、1031年に高麗へ来朝したことを考慮すると、二人が同時代を生きた人物であったことは間違いありません。
そうなると、二人は兄弟とは言い切れずとも、何らかの関連性があった可能性は十分にあるでしょう。
参考文献
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗11年(1020)6月19日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗13年(1022)1月17日
- 『高麗史』巻5、世家第5、顕宗19年(1028)12月
- 『高麗史』巻5、世家第5、顕宗22年(1031)3月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗11年(1020)6月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗13年(1022)1月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗19年(1028)12月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗22年(1031)3月

