原文
智蔡文、鳳州人、顕宗元年、補中郎将。王聞契丹兵至、遣蔡文、将兵鎮和州、以備東北。及康兆敗、兆及李鉉雲・盧顗等、皆被執、命蔡文移兵援西京。蔡文即与軍容使侍御史崔昌進、次剛徳鎮、顗為契丹郷導、与契丹人劉経、賚檄至西京諭降。副留守元宗奭、与僚佐崔緯・咸質・楊沢・文晏等、已修降表。蔡文等聞之、引兵至西京、城門閉。昌呼分台御史曹子奇曰、「吾等奉王命、倍道来、今不納何也」。子奇具告顗・経諭降事、遂開門、蔡文入屯故宮南廊。昌諷宗奭拘留顗・経固守、宗奭不従。昌密与蔡文謀、遣兵城北、候顗等還、掩殺之、取其表焚之。
時城中疑弐、蔡文出鎮城南、独大将軍鄭忠節従之。俄而東北界都巡検使卓思政、率兵至、遂与合軍、復入城。王以三軍敗衄、州郡陥没、上表請朝、契丹主許之、遂禁俘掠、以馬保佑為開城留守、王八副之。遣乙凜、将騎兵一千、送保佑等、又遣其閤門引進使韓杞、以突騎二百、至西京北門。呼曰、「皇帝昨遣劉経・盧顗等、賚詔暁諭、何至今無消息也。若不拒命、留守官僚、来聴我指諭」。思政聞杞語、与蔡文謀、使麾下鄭仁等、将驍騎突出擊。斬杞等百余人、余悉擒之、無一人還者。思政以蔡文為先鋒、出与乙凜戦、乙凜・保佑敗走。於是、城中人心稍安、思政還入城、蔡文与李元、出屯慈恵寺。
契丹主復遣乙凜撃之、邏卒報、「敵兵来屯安定駅、勢甚盛」。蔡文馳告思政、遂与思政及僧法言、率兵九千、迎擊于林原駅南、斬首三千余級、法言死。翼日、蔡文復出戦、契丹兵敗走、於是、城中将士、登城以望、競出逐之。至馬灘、契丹回兵撃之、我軍敗、遂囲城。契丹主次城西仏寺、思政懼、紿将軍大道秀曰、「君自東門、吾自西門出、前後夾攻、蔑不勝矣」。遂以麾下兵夜遁。道秀出東門、始知見紿、又力不可敵、遂率所部、降于契丹。諸将皆潰、城中恟懼、統軍録事趙元、隘守鎮将姜民瞻、郎将洪叶・方休等、莫知所措、乃共禱神祠、筮得吉兆。於是、衆推元為兵馬使、収散卒、閉城固守。
蔡文奔還京、奏西京敗軍状、群臣議降、姜邯賛独勧王南行。蔡文請曰、「臣雖駑怯、願在左右、効犬馬労」。王曰、「昨李元・崔昌奔還、自請扈従、今不復見、為臣之義、果如是乎」。今卿既労于外、又欲捍衛、予甚嘉之」。賜酒食及銀鞍。
是夜、王与后妃及吏部侍郎蔡忠順等、率禁軍五十余人、出都、行至積城県丹棗駅、武卒堅英与駅人、張弓矢、将犯行宮。蔡文馳射之、賊徒奔潰、復自西南山、突出遮道、蔡文又射却之。王至昌化県、有吏告曰、「王識吾名面乎」。王陽不聞、吏怒将構乱、使人呼曰、「河拱辰将兵来矣」。蔡文曰、「何故来耶」。吏曰、「欲擒蔡忠順・金應仁等耳」。應仁及侍郎李正忠、郞将国近等皆遁、独蔡文・忠順・周佇等留侍。夜賊又至、侍従臣僚宦官嬪御皆亡匿、唯玄徳・大明二王后、侍女二人、承旨良叶・忠弼等侍。蔡文随機応変、賊不敢近。
及暁、蔡文請二后、先自北門出、手控御馬、閒行入道峰寺、賊不之知、忠順継至。蔡文奏曰、「去夜賊、疑非拱辰、臣請往跡之」。王恐其亡、不許。蔡文曰、「臣若背君、言与事違、天必誅之」。王乃許。即往昌化県、道逢国近。国近曰、「吾衣装尽為賊奪」。蔡文曰、「汝為臣不忠、獲保首領、足矣」。適拱辰・柳宗赴行在、蔡文遇諸道、具言賊変、且詰之、果非拱辰所為也。拱辰道見中軍判官高英起、敗軍南走、与俱来、時拱辰所領卒二十余人。蔡文遂以其卒、捜昌化県、得賊所盗馬十五匹・鞍十部。将還、蔡文謂拱辰等曰、「吾与諸君偕進、王必驚動、請諸君少後」。遂独行。忠弼在寺門望之、入奏、「智将軍来矣」。王喜、出門迎之。蔡文奏曰、「臣已得賊、実非拱辰所為、且偕拱辰来」。王引見拱辰・宗、労之。遂遣拱辰、往契丹営、請和。
明年正月、王次広州、失二王后所之、令蔡文往尋之。至饒呑駅、乃得奉還、王喜為留三日。王発広州踰嶺、宿鼻脳駅、蔡文奏、「扈従将士、皆托尋妻子四散、昏夜恐有賊窃発。請為幟挿将士冠以辨」。従之。宗曰、「臣郷陽城、去此不遠、請幸之」。王悦、遂幸陽城。夜宗・應仁等矯旨、毀御鞍、以賜県人、遅明、県吏皆遁。宗・應仁等、又請遣二王后、各帰其郷、遣扈従将卒、往東辺備急。王以問蔡文、蔡文大哭曰、「今君臣失道、横罹殃禍、播遷如此、正当動由仁義、以収人心。棄王后以求生、其可忍乎」。王曰、「将軍言是也」。
遂行過蛇山県、蔡文見群雁在田、欲慰悦王心、躍馬而前、雁驚飛、翻身仰射、応弦而墮、王大悦。蔡文下馬取雁進曰、「有臣如此、何憂盗賊」。王大笑慰奨。
至天安府、宗・應仁奏、「臣等請往石坡駅、供頓以迎」。遂逃。
至巴山駅、王謂蔡文曰、「玄徳王后有娠、不宜遠行、其郷善州、距此不遠、可以遣之」。蔡文固執前議。王曰、「勢不獲已」。遂遣之。次礪陽県、将卒有離心、蔡文奏曰、「聖祖統合之時、有功者雖小必賞。况今方涉険艱、要得衆心、宜先懋賞」。王従之、授玄安之等十六人為中尹。
至参礼駅、全州節度使趙容謙、野服迎駕。朴暹奏曰、「全州即古百済、聖祖亦悪之、請上勿幸」。王然之、宿長谷駅。容謙謀欲止王、挟以号令、与転運使李載・巡検使崔楫・殿中少監柳僧虔、以白幟挿冠、鼓噪而進。蔡文使人閉門堅守、賊不敢入。王与后、乗馬在駅庁事。蔡文登屋問曰、「汝等何得如是、柳僧虔来否」。賊曰、「来矣」。又問、「汝為誰」。賊曰、「汝亦為誰」。蔡文答以他語、賊曰、「智将軍也」。蔡文認其声曰、「汝是親従馬韓兆也」。仍以王命召僧虔、僧虔曰、「汝不出、吾不敢入」。蔡文出門呼僧虔、引至王前、僧虔泣奏曰、「今日之事、容謙所為、臣不知也。請奉旨召容謙来」。王許之。僧虔出、遂逃。王命良叶召容謙・載、既至、諸将欲殺之。蔡文呵止之。使二人牽大明宮主馬而行、既而遣還全州。
王入羅州、夜候人誤報、「契丹兵至」。王大驚、走出外、蔡文奏曰、「大駕夜行、百姓驚擾、願還御行宮、臣詗知、然後動、猶可及也」。蔡文出候之、通事舍人宋均彦・別将丁悦、賚契丹前鋒元帥駙馬書及拱辰奏状来。蔡文率詣行宮、王見拱辰状、知兵已退。喜以均彦為都兵馬録事、丁悦為親従郎将。駙馬書無解契丹字者、莫暁其意。
二月、還至公州、賜蔡文田三十結、教曰、「朕因避寇、狼狽遠塗、所従臣僚、罔不逃散。唯蔡文蒙犯風霜、跋涉山川、不辞羇靮之労、終保松筠之節。諒多殊効、何惜異恩」。
七年、以武職兼右常侍、十七年、拝右僕射卒。
徳宗即位、制曰、「故上将軍左僕射智蔡文、当聖考南幸、独全忠節、功在第一、宜録功科、以勧将来」。曽孫禄延。
書き下し
智蔡文、鳳州の人にして、顕宗元年、中郎将に補せらる。王 契丹兵の至るを聞き、蔡文を遣はして、兵を将ゐて和州に鎮せしめ、以て東北を備ふ。康兆の敗るるに及び、兆及び李鉉雲・盧顗等、皆執らへらるれば、蔡文に命じて兵を移して西京を援けしむ。蔡文 即ち軍容使侍御史崔昌と与に進み、剛徳鎮に次る。顗 契丹の郷導と為り、契丹人劉経と与に、檄を賚ひて西京に至り降を諭す。副留守元宗奭、僚佐の崔緯・咸質・楊沢・文晏等と与に、已に降表を修む。蔡文等 之を聞きて、兵を引きて西京に至れども、城門閉ざさる。昌 分台御史曹子奇を呼びて曰く、「吾等 王命を奉じ、倍道して来たるに、今納れざるは何ぞや」と。子奇 具に顗・経の降を諭すの事を告げ、遂に門を開けば、蔡文 入りて故宮の南廊に屯す。昌 宗奭に顗・経を拘留し固守せんことを諷せども、宗奭従はず。昌 密かに蔡文と与に謀り、兵を城の北に遣はして、顗等の還るを候ち、掩ち之を殺し、其の表を取りて之を焚く。
時に城中疑ひ弐き、蔡文出でて城の南に鎮するに、独り大将軍鄭忠節のみ之に従ふ。俄かにして東北界都巡検使卓思政、兵を率ゐて至り、遂に与に軍を合はせ、復た城に入る。王 三軍の敗衄し、州郡の陥没するを以て、上表して朝せんことを請ふ。契丹主 之を許し、遂に俘掠を禁じ、馬保佑を以て開城留守と為し、王八之に副せしむ。乙凜を遣はして、騎兵一千を将ゐて、保佑等を送らしめ、又た其の閤門引進使韓杞を遣はして、突騎二百を以て、西京の北門に至らしむ。呼びて曰く、「皇帝 昨 劉経・盧顗等を遣はして、詔を賚して暁諭せしむれども、何ぞ今に至りて消息無きや。若し命を拒まずんば、留守・官僚、来たりて我が指諭を聴け」と。思政 杞の語を聞きて、蔡文と謀り、麾下の鄭仁等をして、驍騎を将ゐて突かに出撃せしむ。杞等百余人を斬り、余りは悉く之を擒にし、一人として還る者無し。思政 蔡文を以て先鋒と為し、出でて乙凜と戦はしむるに、乙凜・保佑 敗走す。是に於いて、城中の人心稍安んじ、思政 還りて城に入り、蔡文 李元と与に、出でて慈恵寺に屯る。
契丹主 復た乙凜を遣はして之を撃つに、邏卒報げて、「敵兵来たりて安定駅に屯り、勢ひ甚だ盛んなり」と。蔡文 馳せて思政に告げ、遂に思政及び僧法言と与に、兵九千を率ゐて、林原駅の南に迎撃し、首三千余級を斬れども、法言死す。翼日、蔡文 復た出でて戦ふに、契丹兵敗走し、是に於いて、城中の将士、城に登りて以て望み、競ひ出でて之を逐ふ。馬灘に至るに、契丹 兵を回はして之を撃てば、我が軍敗れ、遂に城を囲まる。契丹主 城の西の仏寺に次り、思政懼れ、将軍大道秀を紿いて曰く、「君は東門より、吾は西門より出で、前後より夾攻せば、勝たざること蔑からん」と。遂に麾下の兵を以て夜に遁ぐ。道秀 東門に出で、始めて紿かるを知り、又た力むれども敵すべからず、遂に部ぶる所を率ゐて、契丹に降る。諸将皆潰え、城中恟懼し、統軍録事趙元、隘守鎮将姜民瞻、郎将洪叶・方休等、措く所を知らず、乃ち共に神祠に禱り、筮ひて吉兆を得たり。是に於いて、衆 元を推して兵馬使と為し、散りし卒を収め、城を閉ざして固守す。
蔡文 奔りて京に還り、西京の敗軍の状を奏するに、群臣 降を議り、姜邯賛のみ独り王に南行を勧む。蔡文 請ひて曰く、「臣 駑怯と雖も、願はくは左右に在りて、犬馬の労を効さん」と。王曰く、「昨 李元・崔昌奔り還りて、自ら扈従を請へども、今復た見えず、臣為るの義、果たして是くの如きか。今 卿既に外に労し、又た捍衛せんと欲せば、予甚だ之を嘉す」と。酒食及び銀の鞍を賜ふ。
是の夜、王 后妃及び吏部侍郎蔡忠順等と与に、禁軍五十余人を率ゐて、都を出で、行きて積城県丹棗駅に至るに、武卒の堅英 駅人と与に、弓矢を張り、将に行宮を犯さんとす。蔡文 馳せて之を射るに、賊徒奔り潰ゆれども、復た西南の山より、突かに出でて道を遮げば、蔡文 又た射て之を却く。王 昌化県に至り、吏有りて告げて曰く、「王 吾が名面を識るか」と。王 陽りて聞かざるに、吏 怒りて将に乱を構へんとし、人をして呼ばしめて曰く、「河拱辰 兵を将ゐて来たり」と。蔡文曰く、「何の故に来たるか」と。吏曰く、「蔡忠順・金應仁等を擒にせんと欲するのみ」と。應仁及び侍郎李正忠、郎将国近等皆遁げ、独り蔡文・忠順・周佇等のみ留りて侍す。夜賊又た至り、侍従の臣僚・宦官・嬪御皆亡げ匿れ、唯だ玄徳・大明二王后、侍女二人、承旨良叶・忠弼等のみ侍す。蔡文 機に随ひて応変すれば、賊敢へて近づかず。
暁に及び、蔡文 二后に請ひ、先に北門より出でしめ、手づから御馬を控きて、閒行して道峰寺に入るに、賊 之を知らず、忠順継いで至る。蔡文 奏して曰く、「去る夜の賊、疑ふらくは拱辰に非ず。臣 往きて之を跡ぬることを請ふ」と。王 其の亡げんことを恐れて、許さず。蔡文曰く、「臣 若し君に背き、言と事と違はば、天必ず之を誅せん」と。王乃ち許す。即ち昌化県に往くに、道に国近に逢ふ。国近曰く、「吾が衣装尽く賊の奪と為る」と。蔡文曰く、「汝 臣為るに忠ならず、首領を保つを獲たるは、足れり」と。適に拱辰・柳宗 行在に赴くに、蔡文諸道に遇ひ、具に賊の変を言ひ、且つ之を詰ふに、果たして拱辰の為す所に非ざるなり。拱辰 道に中軍判官高英起に見ゆ。敗軍して南に走り、与に俱に来たり。時に拱辰の領する所の卒二十余人なり。蔡文 遂に其の卒を以て、昌化県を捜し、賊の盗む所の馬十五匹・鞍十部を得たり。将に還らんとするに、蔡文 拱辰等に謂ひて曰く、「吾 諸君と偕に進まば、王必ず驚動せん。請ふ諸君少しく後れよ」と。遂に独り行く。忠弼 寺の門に在りて之を望み、入りて奏す、「智将軍来たり」と。王 喜びて、門に出でて之を迎ふ。蔡文 奏して曰く、「臣 已に賊を得るに、実に拱辰の為す所に非ず、且つ偕に拱辰来たり」と。王 拱辰・宗を引見し、之を労ふ。遂に拱辰を遣はして、契丹の営に往かしめ、和を請はしむ。
明年正月、王 広州に次り、二王后の之く所を失ひ、蔡文をして往きて之を尋ねしむ。饒呑駅に至り、乃ち奉じて還るを得たるに、王喜びて為に留まること三日なり。王 広州を発ちて嶺を踰え、鼻脳駅に宿るに、蔡文奏して、「扈従の将士、皆妻子を尋ぬるに托して四散す。昏夜に恐らくは賊の窃かに発すること有らん。請ふ幟を為りて将士の冠に挿して以て辨ぜしめよ」と。之に従ふ。宗曰く、「臣の郷の陽城、此を去ること遠からず。請ふ之に幸せんことを」と。王 悦びて、遂に陽城に幸す。夜 宗・應仁等旨を矯り、御鞍を毀して、以て県人に賜ふ。遅明、県吏皆遁ぐ。宗・應仁等、又た二王后を遣はして、各其の郷に帰らしめ、扈従の将卒を遣はして、東辺に往きて急に備へしめんことを請ふ。王 以て蔡文に問ふに、蔡文 大いに哭して曰く、「今 君臣 道を失ひ、横に殃禍に罹り、播遷すること此くの如し。正に当に動くに仁義に由り、以て人心を収むべし。王后を棄てて以て生を求むること、其れ忍ぶべけんや」と。王曰く、「将軍の言是なり」と。
遂に行きて蛇山県を過ぐるに、蔡文 群雁の田に在るを見て、王の心を慰悦せんと欲し、馬を躍らしめて前む。雁 驚ぎ飛ぶに、身を翻して仰ぎ射ち、弦に応じて墮つれば、王大いに悦ぶ。蔡文 馬を下りて雁を取りて進みて曰く、「臣此くの如き有れば、何ぞ盗賊を憂へんや」と。王 大いに笑ひて慰奨す。
天安府に至るに、宗・應仁奏して、「臣等 石坡駅に往き、供頓して以て迎へんことを請ふ」と。遂に逃ぐ。
巴山駅に至り、王 蔡文に謂ひて曰く、「玄徳王后 娠有れば、遠行に宜しからず。其の郷の善州、此を距つこと遠からず、以て之を遣はすべし」と。蔡文 前の議に固執す。王曰く、「勢 已むを獲ず」と。遂に之を遣はす。礪陽県に次るに、将卒離心有り、蔡文 奏して曰く、「聖祖 統合の時、功の有る者は小と雖も必ず賞す。况んや今方に険艱を涉れば、要は衆心を得ることなり。宜しく先ず懋賞すべし」と。王 之に従ひ、玄安之等十六人に授けて中尹と為す。
参礼駅に至るに、全州節度使趙容謙、野服もて駕を迎ふ。朴暹 奏して曰く、「全州即ち古の百済なれば、聖祖亦た之を悪む。請ふ 上 幸する勿かれ」と。王 之を然りとし、長谷駅に宿る。容謙 謀りて王を止め、挟みて以て号令せんと欲し、転運使李載・巡検使崔楫・殿中少監柳僧虔と与に、白幟を以て冠に挿し、鼓噪して進む。蔡文 人をして門を閉ざして堅く守らしむれば、賊 敢へて入らず。王 后と与に、馬に乗りて駅の庁事に在り。蔡文 屋に登りて問ひて曰く、「汝等何ぞ是くの如きするを得るや。柳僧虔来たるや否や」と。賊曰く、「来たり」と。又た問ふ、「汝は誰為るや」と。賊曰く、「汝も亦た誰誰為るや」と。蔡文 答ふるに他の語を以てするに、賊曰く、「智将軍なり」と。蔡文 其の声を認めて曰く、「汝是れ親従馬韓兆なり」と。仍ち王命を以て僧虔を召すに、僧虔曰く、「汝出でざらば、吾敢へて入らず」と。蔡文 門を出でて僧虔を呼びて、引きて王の前に至るに、僧虔泣き奏して曰く、「今日の事、容謙の為す所にして、臣知らざるなり。請ふ旨を奉じて容謙を召し来たらしめんことを」と。王 之を許す。僧虔出でて、遂に逃ぐ。王 良叶に命じて容謙・載を召さしむ。既に至れば、諸将之を殺さんと欲す。蔡文 呵めて之を止む。二人をして大明宮主の馬を牽きて行かしめ、既にして遣はして全州に還らしむ。
王 羅州に入るに、夜に候人誤りて報じて、「契丹兵至る」と。王 大いに驚き、走りて外に出づるに、蔡文 奏して曰く、「大駕夜に行かば、百姓驚き擾れん。願はくは行宮に還御せよ。臣 詗ひ知りて、然る後に動かば、猶ほ及ぶべきなり」と。蔡文 出でて之を候ふに、通事舎人宋均彦・別将丁悦、契丹前鋒元帥駙馬の書及び拱辰の奏状を賚して来たり。蔡文 率ゐて行宮に詣り、王 拱辰の状を見て、兵の已に退くを知る。喜びて以て均彦を都兵馬録事と為し、丁悦を親従郎将と為す。駙馬の書 契丹の字を解する者無く、其の意を暁ること莫し。
二月、還りて公州に至り、蔡文に田三十結を賜ひ、教して曰く、「朕 寇を避くるに因りて、狼狽して遠塗にあり、従ふ所の臣僚、逃げ散らざるは罔し。唯だ蔡文のみ風霜を蒙犯し、山川を跋涉し、羇靮の労を辞さず、終に松筠の節を保つ。諒に殊効多し。何ぞ異恩を惜まんや」と。七年、武職を以て右常侍を兼ぬ。
十七年、右僕射を拝して卒す。
徳宗即位し、制して曰く、「故上将軍左僕射智蔡文、聖考の南幸に当たりて、独り忠節を全うし、功第一に在り。宜しく功科を録し、以て将来を勧むべし」と。曽孫は禄延なり。
現代語訳
智蔡文は鳳州の人で、顕宗元年(1010)に中郎将に任命された。王は契丹軍が来たという知らせを聞くと、智蔡文に軍を率いて和州を守備させ、東北方面を防衛させた。康兆が敗れ、康兆及び李鉉雲・盧顗らが皆、捕虜となると、〔王は〕智蔡文に命じて軍を移動させ、西京を援護させた。智蔡文はただちに軍容使侍御史崔昌とともに進軍し、剛徳鎮に駐屯した。盧顗が契丹の案内役となり、契丹人劉経とともに檄文を持って西京に至り、降伏を諭した。西京副留守元宗奭は、配下の崔緯・咸質・楊沢・文晏らとともに、すでに降伏する表文を作成していた。智蔡文らがこれを聞き、軍勢を率いて西京に至ったが、城門は閉ざされていた。崔昌は分台御史曹子奇を呼び、「我々は王命を受けて急いで来たのに、今〔城内に我々を〕入って行かせないのは何のためか?」と言った。曹子奇が盧顗と劉経が降伏を勧めた事実を詳細に報告し、ついに城門を開けたので、智蔡文は旧宮殿の南回廊に入って駐屯した。崔昌が元宗奭にほのめかして、盧顗と劉経を抑留して〔城を〕固守しようと勧めたが、元宗奭は従わなかった。崔昌は密かに智蔡文と謀り、兵士たちを城の北側に送り、盧顗らが〔契丹軍営に〕帰るのを待ち伏せ、不意を突いて彼らを殺害し、表文を奪い取って焼き払った。
このとき、城内〔の人々〕は疑念を抱いて離反し、智蔡文が城の南へ出て陣を敷いても、ただ大将軍鄭忠節のみが彼に従った。しばらくして、東北界都巡検使卓思政が軍勢を率いて至り、ついに兵力を合わせて再び城内へ入った。王は三軍が敗戦し、州郡が陥落すると、〔契丹の君主に〕上表して朝会を請うた。契丹の君主はこれを許し、ついに略奪を禁止し、馬保佑を開城留守に、王八を副留守とした。乙凜に騎兵1,000騎を率いさせ、馬保佑らを護送させるとともに、また閤門引進使韓杞に突撃騎兵200騎を率いさせて西京の北門へ向かわせた。〔韓杞が〕叫んで言った。「皇帝が先般、劉経・盧顗に詔書を送って〔降伏を〕勧誘したのに、どうして今に至るまで知らせがないのか?もし、命令に逆らわないのであれば、留守・官僚たちは来て、私の指示を聞け」と。卓思政は韓杞の言葉を聞くと、智蔡文とともに謀り、配下の鄭仁らに勇猛な騎兵を率いて突撃させた。韓杞ら100余名を斬り、残りは全て捕らえたので、〔生き残って〕帰った者は一人もいなかった。卓思政は智蔡文を先鋒として、〔城外へ〕出させ、乙凜と戦わせると、乙凜と馬保佑は敗れて逃亡した。これにより、城内の人心がやや落ち着き、卓思政は城内に戻り、智蔡文は李元とともに慈恵寺へ出向いて駐屯した。
契丹の君主が再び乙凜を遣わして〔我が軍を〕攻撃させたところ、斥候兵が報告して、「敵軍が安定駅に来て駐屯しており、その勢いは非常に盛んです」と言った。智蔡文が急ぎ走って卓思政に報告し、ついに卓思政及び僧侶法言とともに、軍勢9,000人を率いて林原駅の南で敵を迎え撃ち、3,000余級を斬ったが、法言は戦死した。翌日、智蔡文が再び出撃すると、契丹軍は敗走した。これを見て、城内の将帥と兵卒たちは城壁に登って〔その光景を〕眺め、競って出て追撃した。馬灘に至ると、契丹は軍を反転させて我が軍を攻撃したので、我が軍は敗れ、ついに城は包囲された。契丹の君主は城の西側の寺に滞在していたが、卓思政は恐れをなし、将軍大道秀を騙して、「あなたは東門から、私は西門から出て前後から挟撃すれば、勝てないはずがない」と言った。結局、〔卓思政は〕配下の兵士たちを連れて夜中に逃亡した。大道秀は東門に出て初めて騙されたことに気付いたが、力を尽くしても抗えず、結局は自軍の部隊を率いて契丹に降伏した。諸将は散り散りになり、城内〔の人々〕は震え恐れる中、統軍録事趙元、隘守鎮将姜民瞻、郎将洪叶・方休らは途方に暮れ、共に神祠で祈り占いをすると、吉兆を得た。そこで、彼らは趙元を兵馬使に推戴し、散り散りになった兵士たちを収拾し、城門を閉じて固く守った。
智蔡文が急いで開京に戻り、西京の敗戦状況を報告すると、諸臣は降伏を議論したが、姜邯賛だけが王に南へ避難するよう勧めた。智蔡文が要請して、「私は鈍く臆病ではありますが、どうか側にいて、犬馬の労を尽くさせてください」と言った。〔それに対して〕王は、「先般、李元・崔昌が急ぎ戻り、護衛を志願したのに、今は再び見えなくなってしまうとは、臣下の義理とは果たしてこのようなものか?今、卿はすでに外で労苦を被ったのに、さらに護衛を申し出るのだから、私はとても卿を讃えたい」と言った。〔王は智蔡文に〕酒と食料及び銀製の鞍を下賜した。
この夜、王は后妃及び吏部侍郎蔡忠順らとともに禁軍50余名を率いて都を出発し、行列が積城県の丹棗駅に至ると、武卒の堅英が丹棗駅の人々とともに弓を構え、行宮を襲おうとした。智蔡文が馬を駆って弓を射ると、賊徒は四散して逃げたが、再び西南の山から突然現れて道を塞いだので、智蔡文が再び弓を射て彼らを撃退した。王が昌化県に至ると、ある郷吏が、「王は私の名と顔を知っていますか?」と言った。王が聞かないふりをすると、その郷吏は怒って騒ぎを起こそうと、人を遣わして叫ばせて、「河拱辰が軍勢を率いて来る」と言わせた。智蔡文が、「何のために来るのか?」と問うと、郷吏は、「蔡忠順・金應仁らを捕らえようとしているのです」と言った。金應仁及び侍郎李正忠、郎将国近らは皆逃げ去り、ただ智蔡文・蔡忠順・周佇らだけが残って王に付き従った。夜中に賊徒が再び襲来すると、侍従していた臣下・宦官・女官たちは皆逃げ隠れし、ただ玄徳・大明の二王后、侍女二人、承旨良叶・忠弼らだけが付き従った。智蔡文が状況に応じて対応したため、賊徒はあえて近づくことができなかった。
夜が明けると、智蔡文は二人の王后に願い出て、先に北門から出させ、自ら王の馬の綱を引いて小道を通って道峰寺へ入った。賊徒はこれに気付かず、蔡忠順も後から〔寺に〕到着した。智蔡文が申し上げて、「昨夜の賊徒は、どうも河拱辰のものではないようです。どうか、〔事実を確かめるため〕私に偵察に行かせてください」と言った。王は彼が逃亡することを恐れ、許可しなかった。智蔡文は、「もし、私が君主に背き、言葉と事実が一致していなければ、天は必ず私を殺すでしょう」と言った。〔これを聞いて〕王はついに〔偵察に行くことを〕許可した。〔智蔡文が〕すぐに昌化県へ向かうと、道中で国近に出会った。国近は、「私の衣服と装備は全て賊に奪われました」と言った。〔これに対して〕智蔡文は、「お前は臣下として不忠であったのに、首を保てただけでも十分だ」と言った。ちょうど、河拱辰・柳宗が行在所へ向かう途中、智蔡文が〔彼らに〕道中で出会い、賊徒が引き起こした変乱を詳しく説明し、また彼らを詰問したところ、やはり河拱辰の仕業ではなかった。河拱辰は道中で中軍判官高英起に遭遇した。〔高英起は〕敗戦して南へ逃亡していたが、〔河拱辰と〕共に〔行在所へ〕向かって来ていたのである。このときに河拱辰が率いた兵士は20余名であった。智蔡文はついにその兵士たちと昌化県を捜索し、賊徒が盗んだ馬15匹・鞍10部を得た。帰ろうとするとき、智蔡文は河拱辰らに告げて、「私が諸君とともに行けば、王様はきっと驚かれるだろう。どうか、諸君は少し遅れて来てほしい」と言い、ついに一人で行った。忠弼が寺の門前で〔帰還した〕智蔡文の姿を遠くに見つけると、〔寺の中に〕入り、「智将軍が来ました」と申し上げた。王は喜び、門に出て智蔡文を出迎えた。智蔡文が申し上げて、「私が賊徒を捕らえたところ、実に河拱辰の仕業ではなく、また〔私は〕河拱辰とともに来ました」と言った。〔すると〕王は河拱辰・柳宗を呼び寄せて会い、彼らを慰労した。そして、河拱辰に契丹の軍営へ赴かせ、和親を要請させた。
翌年の正月、王は広州に滞在していたが、二人の王后が行方不明となったため、智蔡文に命じて王后を探させた。〔智蔡文が〕饒呑駅に行き、すぐに〔二人の王后を〕見つけ出して連れて帰ると、王は喜び、その地(=広州)で三日間の滞在を続けた。王が広州を出発し、峠を越えて鼻脳駅で宿ると、智蔡文が申し上げて、「従軍していた兵士たちが皆、妻子の捜索を口実に四方へ散って逃亡しました。暗闇の夜中に賊徒が密かに現れる恐れがあります。どうか、目印の旗を作り、将士たちの冠に挿して区別してください」と言うと、〔王は〕許可した。柳宗が、「私の故郷である陽城県はここから遠くありません。どうか、そちらへ行幸ください」と言うと、王は喜んでついに陽城県へ行幸した。夜中に柳宗・金應仁らが王命を偽り、王の〔馬の〕鞍を外して県の民に与えた。夜明け頃、県の官吏たちが皆、逃げ去ってしまった。柳宗・金應仁らがまた〔王に対して〕、「二人の王后をそれぞれ故郷へ帰し、従軍する将兵らを東方の辺境へ遣わして、緊急事態に備えさせてください」と請願した。王が〔このことを〕智蔡文に相談すると、智蔡文は大声で慟哭しながら、「今、君主と臣下が道を失い、思いがけない災難に遭い、このように避難を続けています。〔このような状況においては〕まことに仁義に従って行動し、民心を収拾すべきです。王后を捨てて生き延びようとすることを、容認することができましょうか?」と答えた。王は、「将軍の言葉が正しい」と言った。
ついに、〔一行が〕蛇山県を通過すると、智蔡文は雁の群れが田んぼにいるのを見て、王の心を慰め喜ばせようと、馬を跳ね上がらせて前進した。雁が驚いて飛び立つと、〔智蔡文は〕体を反転させて上を向き、矢を放ってそのまま〔雁を〕落としたので、王は大変喜んだ。智蔡文が馬から降り、雁を拾い上げて献上しながら、「私がこのよう〔に勇敢〕であるのですから、どうして盗賊を心配する必要がありましょうか?」と言うと、王は大いに笑いながら労い、称賛した。
天安府に至ると、柳宗・金應仁が申し上げて、「お願いします。臣らは石坡駅へ行き、必要な物を準備して〔王様を〕迎えたいと思います」と言い、そのまま逃げ去ってしまった。
巴山駅に至り、王は智蔡文に告げて、「玄徳王后が妊娠中であるため、遠路を行くにはよろしくない。王后の故郷である善州はここから遠くないから、そこに送るのがよいだろう」と言った。智蔡文は以前の論議(=王后を捨ててはならないという意見)に固執した。王は、「事情がやむを得ない」と言い、ついに王后を〔故郷へ〕送った。礪陽県に滞在すると、将兵に反逆の兆しがあったが、智蔡文が申し上げて、「太祖が〔三韓を〕統一したとき、有功者には〔たとえ功績が〕小さくとも必ず賞を与えました。ましてや、今は困難を経験しているのですから、重要なのは衆心を得ることです。まず、〔将兵らを〕盛大に褒賞すべきです」と言うと、王はこれに従って玄安之ら16名を中尹に任命した。
参礼駅に至ると、全州節度使趙容謙が普段着の姿で御駕(王の乗る馬車)を迎えた。朴暹が申し上げて、「全州はまさに古の後百済〔の都〕なので、太祖も嫌っていました。どうか、王様は立ち寄らないでください」と言った。王はその通りだと考え、長谷駅に宿った。趙容謙は、王を留め置いて、〔王を〕脅して〔その威光を借りて〕威勢を振りまこうと企み、転運使李載・巡検使崔檝・殿中少監柳僧虔とともに白い目印の旗を冠に挿し、太鼓を打ち鳴らして騒々しく現れた。智蔡文が人に命じて門を閉ざして堅く守らせたため、賊はあえて侵入できなかった。王は王后とともに馬に乗り、駅の庁舎にいた。智蔡文が屋根に登って〔賊たちに〕問うて、「お前たちはどうしてこのようなことをするのか?柳僧虔は来ていないのか?」と言った。〔すると〕賊は、「来た」と言った。〔智蔡文が〕再び問うて、「お前は誰だ?」と言うと、賊は「お前はまた誰だ?」と言った。智蔡文が〔わざと〕別の声で答えると、賊は「智将軍か」と言った。智蔡文もその声を聞き分け、「お前は親従の馬韓兆か」と言った。そこで、王命で柳僧虔を呼ぶと、柳僧虔は「お前が出てこなければ、私も入らない」と言った。智蔡文が門を出て柳僧虔を呼び、引き連れて王の前に至ると、柳僧虔は泣きながら申し上げて、「今日の件は趙容謙の仕業であり、私は知りません。どうか、私に命じて趙容謙を召し出させに行かせてください」と言った。王はこれを許した。〔しかし、〕柳僧虔は出て行くと、そのまま逃亡した。王は良叶に命じて趙容謙・李載を呼び出させた。〔趙容謙・李載が〕来ると、諸将が彼らを殺そうとした。智蔡文が叱責してこれを制止した。〔趙容謙・李載の〕二人には、大明宮主の馬を引かせて行かせ、すぐに全州へ送り返した。
王が羅州に入ったところ、夜に斥候兵が誤って報告して、「契丹の軍勢が到着した」と言った。王が大変驚いて外へ駆け出すと、智蔡文が申し上げて、「王様が夜中に行幸すると、民衆は驚き混乱します。どうか、行宮へ戻ってください。私が偵察して確かめてから、そのあとに動いても遅くはありません」と言った。智蔡文が外に出て偵察すると、通事舎人宋均彦と別将丁悦が、契丹の前鋒元帥である駙馬の書状と河拱辰が提出した奏状を持って来た。智蔡文が〔彼らを〕連れて行宮へ行くと、王は河拱辰の奏状を見て、契丹軍がすでに撤退したことを知った。〔王は〕喜び、宋均彦を都兵馬録事に、丁悦を親従郎将に任命した。駙馬の書状は、契丹文字を解読する者がおらず、その内容を理解できる者はいなかった。
2月、〔王が〕帰還の途上で公州に至り、智蔡文に土地30結を下賜し、教書を下して、「朕は賊〔の侵攻〕を避けるため、慌ただしく遠路を行ったが、付き従っていた臣僚たちは皆、逃げ去ってしまった。ただ智蔡文のみが風霜に耐え、山を越え、川を渡り、馬の綱を引く労苦をいとわず、最後まで松竹の〔ように変わらぬ〕節操を守った。まことに卓越した功績が多い。どうして特別な恩恵を惜しむことがあろうか?」と述べた。
〔顕宗〕7年(1016)、〔智蔡文は〕武官として右常侍を兼ねた。〔顕宗〕17年(1026)、右僕射〔の官職〕を授かり、〔その後〕死去した。
徳宗が即位すると、詔して、「故上将軍左僕射智蔡文は、先王が南幸した際、ひとり忠節を全うし、功績が第一である。当然、功績を記録して後世に奨励すべきである」と言った。曾孫は智祿延である。
原文出典
- 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、pp.84-87

