金審言(キム・シモン)(『高麗史』巻93、列伝第6)

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原文

 金審言、靜州靈光縣人、初從常侍崔暹學。暹坐寐夢、審言頂上出火、氣屬于天心、異之、妻以女。成宗朝登第、進累、右補闕兼起居注。

 九年七月、上封事、王下敎褒獎曰、「朕自御洪圖、思臻盛業、內設百寮、外分牧守、無曠分憂之任、欲施利俗之方。柰冲人之庸昧、想政敎之陵夷。昨省右補闕兼起居注金審言所上封事二條。

 其一曰、『周開盛業、姬旦上無逸之篇、唐啓中興、宣宗製百僚之誡。按說苑六正六邪文曰、「夫人臣之行、有六正六邪、行六正則榮、犯六邪則辱。何謂六正。一曰、萌芽未動、形兆未見、明然獨見興亡之機、預禁乎未然之前、使主超然立于顯榮之處、如此者、聖臣也。二曰、虛心白意、進善通道、勉主以禮義、諭主以長策、將順其美、匡救其惡、如此者、良臣也。三曰、夙興夜寐、進賢不懈、數稱往古之行事、以勵主意、如此者、忠臣也。四曰、明察成敗、早防而救之、轉禍爲福、使君終已無憂、如此者、智臣也。五曰、守文奉法、任官職事、辭祿讓賜、飮食節儉、如此者、貞臣也。六曰、國家昏亂、所爲不諛、敢犯主之嚴顔、面言主之過失、如此者、直臣也。是謂六正。何謂六邪。一曰、安官貪祿、不務公事、與世沉浮、左右觀望、如此者、具臣也。二曰、主所言、皆曰善、主所爲、皆曰好、隱而求主之所好而進之、以快主之耳目、偸合苟容、與主爲樂、不顧其後害、如此者、諛臣也。三曰、中實陰詖、外貌小勤、巧言令色、妬善嫉賢、所欲進則明其善而隱其惡、所欲退則明其過而匿其美、使主賞罰不當、號令不行、如此者、姦臣也。四曰、智足以飾非、辯足以行說、內離骨肉之親、外構亂於朝廷、如此者、讒臣也。五曰、專權擅勢、以爲輕重、私門成黨、以爲富家、擅矯主命、以自貴顯、如此者、賊臣也。六曰、諂主以佞邪、陷主於不義、朋黨比周、以蔽主明、白黑無別、是非無閒、使主惡布於境內、聞於四隣、如此者、亡國之臣也。是謂六邪。賢臣處六正之道、不行六邪之術、故上安而下理」。又按漢書刺史六條政、一則察民庶疾苦失職者、二則察墨綬長吏以上居官政者、三則察盜賊民之害及大奸猾、四則察田犯律四時禁者、五則察民有孝悌廉潔行修正茂才異者、六則察吏不簿入錢穀故散者。請將六正六邪文及刺史六條、俾委攸司、於二京六官諸署局及十二道州縣官廳堂壁、各寫其文、出入省覽、以備龜鑑』。

 其二曰、『設職分司、帝王令典、開都列邑、古今通規。我國家以西京、境壓鯨津、地連鴈塞、寫金湯而設險、模鐵瓮以築城、署百官、置萬戶、分司文武甚多。而廉恥者、無人薦奏、非違者、無人糺彈、涇渭同流、薰蕕一致。請依唐東都置知臺御史例、分司憲一員、使得糺理、則下情上達、黜陟惟明、物泰時雍、非朝卽夕』。

 所奏如是、予甚嘉之。汝心敦補政、志切匡時、錄正邪二理、諷我襟懷。令內外諸司、用爲勸戒、其下內史門下、頒示內外司、存依所奏施行」。

 穆宗朝、出爲州牧、務農恤民、甚獲時譽。顯宗卽位、擢右散騎常侍、遷禮部尙書。五年、轉內史侍郞平章事、出爲西京留守、九年卒、輟朝三日、謚文安。

書き下し

 金審言、静州霊光県の人にして、初め常侍崔暹に従ひて学ぶ。暹 坐りて()ぬるに夢みる。審言 頂上より出火し、気 天心に(つづ)く。之を異とし、(めあは)すに女を以てす。成宗朝登第し、進累して、右補闕兼起居注となる。

 九年七月、封事を上るに、王 教を下して褒奨して曰く、「朕 自ら洪図に御してより、盛業に(いた)るを思ひ、内に百寮を設け、外に牧守を分け、分憂の任を(むな)しくすること無く、利俗の方を施さんと欲す。沖人の庸昧、政教の陵夷を想ふことを(いかん)せん。昨 右補闕兼起居注金審言の上する所の封事二条を省みる。

 其の一に曰く、『周 盛業を開くに、姫旦 無逸の篇を上り、唐 中興を啓くに、宣宗 百僚の誡を(つく)る。説苑の六正六邪文を按ずるに曰く、「夫れ人臣の行、六正六邪有りて、六正を行へば則ち栄え、六邪を犯せば則ち辱む。何をか六正と謂ふ。一に曰く、萌芽未だ動かず、形兆未だ(あらは)れざれども、明然として独り興亡の機を見て、預め未然の前に禁じ、主をして超然として顕栄の処に立たしむ、此くの如き者、聖臣なり。二に曰く、心を虚しくして意を白し、善に進みて道を通して、主を勉むるに礼義を以てし、主を諭すに長策を以てし、其の美を将順し、其の悪を匡救す、此くの如き者、良臣なり。三に曰く、夙に興き夜に()ね、賢を進むること(おこた)らず、(しばしば)往古の行事を称へ、以て主の意を励ます、此くの如き者、忠臣なり。四に曰く、成敗を明察し、早く防ぎて之を救ひ、禍を転じて福と為し、君をして終に已に憂ふる無からしむ、此くの如き者、智臣なり。五に曰く、文を守り法を奉じ、官を(にな)ひ事を(つかさど)り、禄を辞して賜を譲り、飲食節倹す、此くの如き者、貞臣なり。六に曰く、国家昏乱すれども、為す所(へつら)はず、敢へて主の厳顔を犯し、面えて主の過失を言ふ、此くの如き者、直臣なり。是れ六正と謂ふ。何をか六邪と謂ふ。一に曰く、官に安んじて禄を貪り、公事に務めず、世と与に沈浮し、左右観望す、此くの如き者、具臣なり。二に曰く、主の言ふ所、皆善しと曰ひ、主の為す所、皆好しと曰ひ、(ひそ)かに主の好む所を求めて之を進め、以て主の耳目を快くし、偸合(とうごう)苟容し、主と与に楽を為し、其の後害を顧みず、此くの如き者、諛臣なり。三に曰く、中は実に陰詖にして、外貌は小しく勤め、巧言令色し、善を妬み賢を嫉み、進めんと欲する所は則ち其の善を明らかにして其の悪を隠し、退けんと欲する所は則ち其の過ちを明らかにして其の美を匿し、主をして賞罰当たらず、号令行はざらしめんとす、此くの如き者、姦臣なり。四に曰く、智は以て非を飾るに足り、辯は以て説を行ふに足り、内に骨肉の親を離し、外に乱を朝廷に構ふ、此くの如き者、讒臣なり。五に曰く、権を専らにし勢を擅にし、以て軽重を為し、私門に党を成し、以て富家を為し、擅に主命を矯り、以て自ら貴顕す、此くの如き者、賊臣なり。六に曰く、主に諂ふに佞邪(ねいじゃ)を以てし、主を不義に陥れ、朋党比周して、以て主の明を蔽ひ、白黒に別無く、是非に閒無く、使主の悪をして境内に()き、四隣に聞こえしむ、如く此き者、亡国の臣なり。是れ六邪と謂ふ。賢臣 六正の道に()り、六邪の術を行はず。故に上は安んじて下は理まる」と。又た漢書の刺史六條の政を按ずるに、「一に則ち民庶の疾苦し失職する者を察し、二に則ち墨綬長吏以上の官に居りて政する者を察し、三に則ち盗賊民の害及び大奸猾を察し、四に則ち田して律の四時の禁を犯す者を察し、五に則ち民の孝悌廉潔にして行ひ修正にして茂才異なる者有るを察し、六に則ち察吏の銭穀を簿入せずして故に散ずる者を察す」と。請ふ六正六邪文及び刺史六條を将ゐて、攸司に委ねしめ、二京六官諸署局及び十二道の州県の官庁の堂壁に於いて、(おのおの)其の文を写さしめ、出入して省覧し、以て亀鑑を備へしめんことを』と。

 其の二に曰く、『職を設け司を分かつは、帝王の令典にして、都を開き邑を列するは、古今の通規なり。我が国家 西京を以て、境は鯨津に圧し、地は鴈塞に連なり、金湯を写して険を設け、鐵瓮を模して以て築城し、百官を署して、万戸を置き、分司文武甚だ多し。而れども廉恥なる者、人の薦奏する無く、非違なる者、人の糾弾する無く、涇渭同に流れ、薫蕕(くんゆう)一致せん。請ふ唐の東都に知台御史を置く例に依りて、司憲一員を分かち、糾理することを得せしめば、則ち下情上達し、黜陟(ちゅつちょく)惟れ明らかにして、物は(やす)く時は雍らぐ。朝に非ずんば即ち夕ならん』と。

 奏する所是くの如くして、予 甚だ之を嘉す。汝が心 政を補ふに(あつ)く、志 時を匡すに切なり。正邪二理を録し、我が襟懐を(さと)す。内外諸司をして、用て勧戒と為さしめん。其れ内史門下に下して、内外の司に頒示し、奏する所に依りて施行せんと(おも)ふ」。

 穆宗朝、出でて州牧と為り、農に務め民を(あは)れみ、甚だ時の誉れを獲たり。顕宗即位するに、右散騎常侍に擢せられ、礼部尚書に遷る。五年、内史侍郎平章事に転じ、出でて西京留守と為る。九年卒す。朝をむること三日、文安と(おくりな)す。

現代語訳

 金審言(キムシモン)は、静州霊光県の人で、当初は常侍崔暹(チェソム)に師事した。〔ある日〕崔暹が座って居眠りをしていたところ、夢を見た。〔夢の中で〕金審言の頭頂部から火が噴き出し、その気勢が天の中心へと昇っていった。〔崔暹は〕これを不思議に思い、〔自分の〕娘を金審言に嫁がせた。成宗(ソンジョン)の時代、〔金審言は〕科挙に及第し、何度も昇進して右補闕兼起居注となった。

 〔成宗〕9年(990)7月、〔金審言が〕封事を上奏すると、王は詔を下して称賛し、〔次のように〕述べた。「朕が即位して以来、盛業を成し遂げることを考え、中央には官僚を置き、地方には牧守(=地方長官)を分置し、地方官の職務に欠けることのないようにし、風俗を正す方策を実行しようとしている。〔しかし〕朕の愚鈍により、政治と教化が衰退することを憂慮している。どうすればよいだろうか。先般、右補闕兼起居注の金審言が上奏した封事二条を検討した。

 その第一条には、『周が王業を開いたとき、()(たん)が『無逸の篇』を奏上し、唐が中興の時代を迎えたとき、宣宗(せんそう)が百僚を戒める〔文章〕を著しました。『説苑』の「六正・六邪文」を調べてみると、〔次のように〕述べられています。「概して、臣下の品行には六正と六邪があり、六正を行えば即ち繁栄し、六邪を犯せば即ち恥辱を受ける。何を六正というのか。第一に、まだ芽生えず、兆しも現れないが、ひとり興亡の気配を明瞭に知り、まだ事が起こらないうちに予めそれを止めさせ、君主を超然として栄光ある地位に立たせることである。このような人を聖臣という。第二に、心を空にし、志を(きよ)くして、善へと進んで道理を明らかにし、礼儀をもって君主を戒め励まし、優れた策をもって君主を導き、〔君主の〕美徳を助長し、〔君主の〕悪い行いを改めさせることである。このような人を良臣という。第三に、朝早くに起きて夜遅くに寝て、賢者の推挙を怠らず、しばしば古人の事績を引き合いに出して称揚し、君主の志を鼓舞することである。このような人を忠臣という。第四に、〔事の〕成否を明瞭に見極め、〔過ちを〕未然に防いで正し、禍を福に変え、君主が終生憂いなく過ごせるようにすることである。このような人を智臣という。第五に、文(=礼儀)を守って法を奉じ、職責を尽くして、俸禄を辞退して褒賞を遠慮し、飲食を節約して倹約することである。このような人を貞臣という。第六に、国家が混乱しても、振る舞いに(へつら)いがなく、あえて君主の厳しい表情を恐れず、君主の過ちを面前で申し上げることである。このような人を直臣という。これらを六正というのである。〔それでは〕何を六邪というのか。第一に、安逸に官職に就き、禄ばかりを貪って公務に励まず、世の中〔の情勢〕に応じて〔言動が〕変わり、周りのなりゆきをうかがうことである。このような人を具臣という。第二に、君主が言うことは全て正しいと言い、君主がすることは全て良いと言い、密かに君主の好むものを〔聞き〕求めて献上し、君主の耳と目を喜ばせ、卑屈に迎合して機嫌を取り、君主とともに楽しみ、のちに来る害を顧みないことである。このような人を()臣という。第三に、本心は実に陰険で狡猾であるのに、外見は少し勤勉そうで、口先を巧みにして、顔色を良く取り繕い、善良な人を妬み、賢明な人を憎み、推挙しようとする者がいればその長所のみを露わにして短所を隠し、排除しようとする者がいればその過ちのみを露わにして長所を隠し、君主に賞罰を不当に行わせ、命令を実行させないようにすることである。このような人を姦臣という。第四に、知恵は〔自身の〕過ちを隠蔽するに足り、弁舌は〔自身の〕主張を展開するに足り、内では肉親を離間し、外では朝廷に波乱を引き起こすことである。このような人を(ざん)臣という。第五に、権力を独占し、権勢を意のままに振るい、それによって国家の大事を決し、私的に党派を結成することで〔自分の〕家を豊かにし、勝手に君主の命令を詐称することで自らの身分を上昇させて名声を高めることである。このような人を賊臣という。第六に、君主に対して狡猾に諂い、君主を不義に陥れ、朋党を形成することで、君主の聡明を覆い隠して、〔君主に〕白黒を区別させず、是非を判断させず、君主の悪を国内に蔓延させ、周辺の国々にまで伝播させることである。このような人を亡国の臣という。これらを六邪というのである。賢臣は六正の道に身を置き、六邪の術策を行わない。それゆえ、上は安らかであり、下はよく治まるのである」〔と『説苑』の「六正・六邪文」には書いてあります〕。また、『漢書』の「刺史六条の政」を調べてみると、「第一に、民の中で病に苦しみ、失職した者を調査し、第二に、墨綬を〔授かった〕長吏以上の官吏の政務を調査し、第三に、盗賊や民の害、極めて狡猾な者を調査し、第四に、土地を耕すにあたり、四季を通じて守るべき禁令を犯す者を調査し、第五に、民衆の中から孝悌廉潔(=親孝行をし、年長者を敬い、清廉潔白)で品行方正、かつ才能が傑出している者を調査し、第六に、官吏が金や穀物を帳簿に記載せず、故意に散逸させる行為を調査する」とあります。どうか、「六正・六邪文」と「刺史六条」を有司に委ね、二京・六官・諸署と諸局、及び十二道の州県の官庁の堂壁にそれぞれその文を掲示させ、出入りする際に目にして、手本とするようにしてください』とあった。

 その第二条には、『官職を設置し、職務を分担することは帝王の令典であり、都を開き、邑を設置することは古今の通規です。わが国の西京は、境界が黄海に迫り、土地が北の国境に接しているため、堅固な要害を模して要塞を築き、鉄瓮(てつおう)(=鉄のかめ)を模して城を築き、多くの官僚を任命し、万戸を配置しており、分司文武の官僚が非常に多いです。ところが、廉恥(=無欲で恥を知る)な人物を〔君主に〕推挙して上奏する者もなく、過ちを犯した者を弾劾する者もいないため、濁流と清流が共に流れ、善人と悪人が一つになってしまいます。どうか、唐の東都(=洛陽)に知台御史を設置した例に倣い、司憲一名を配置して糾理(=不正を正して裁く)すれば、下級官吏の事情が上層部に伝えられ、官吏の昇進と降格が明確になり、万物が平穏になり、時代が和やかになるでしょう。〔それは〕ほどなく実現されるでしょう』とあった。

 〔金審言が上げた二つの〕上奏文はこのようなものであり、私(=成宗)はこれを深く称賛する。汝(=金審言)の心は励んで国政を補佐し、〔汝の〕志は時局を正すことにねんごろである。正と邪の二つの理を書き記し、私の心を啓発してくれた。内外(=中央と地方)の諸官庁に、これを勧戒(=善を勧め、悪を戒める)〔の指針〕とさせよう。内史門下に下し、内外の官庁に布告して、〔金審言の〕上奏文に基づいて施行させるつもりである」〔と成宗は述べた〕。

 穆宗(モクチョン)の時代、〔金審言は〕州牧となり、〔地方へ〕出て農事に尽力し、民を救恤(きゅうじゅつ)したことで、このとき大きな名声を得た。顕宗(ヒョンジョン)が即位すると、右散騎常侍に抜擢され、礼部尚書に転任した。〔顕宗〕5年(1014)、内史侍郎平章事に転じ、〔西京へ〕赴任して西京留守となった。〔顕宗〕9年(1018)、〔金審言は〕死去した。〔金審言の死後〕3日間、朝会を停止し、諡号を文安とした。

原文出典

  • 東亜大学校附属石堂学術院 編『국역 고려사(国訳 高麗史)』第21巻、景仁文化社、2006年、pp.502-503
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この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

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