神恵王后柳氏
原文
太祖神惠王后柳氏、貞州人、三重大匡天弓之女。天弓家大富、邑人稱爲長者。太祖事弓裔爲將軍、引兵過貞州、息馬古柳下。后立路傍川上、見其有徳容、問「汝誰氏女」。對曰、「此邑長者家女也」。太祖因至宿焉。其家饗一軍甚豊、以后侍寢。厥後、絶不相聞、后守志貞潔、剃髮爲尼。太祖聞之、召以爲夫人。
弓裔末、洪儒・裴玄慶・申崇謙・卜智謙、詣太祖第、將議廢立。不欲令后知之、謂后曰、「園中豈有新瓜乎。可摘來」。后知其意出、從北戶、潛入帳中。於是、諸將遂言推戴之意、太祖作色、拒之甚堅。后遽從帳中出、謂太祖曰、「擧義代虐、自古而然。今聞諸將議、妾猶奮發、况大丈夫乎」。手提甲領以被之。諸將扶擁而出、遂卽位。
太祖十六年、後唐明宗、遣太僕卿王瓊等、來冊后。官告曰、「爲人之妻、能從夫以貴者、是爲宜其家矣。封邑之制、彝典所垂、俾增伉儷之光、以稱國君之爵。大義軍使特進檢校太保使持節玄菟州都督上柱國高麗國王妻河東柳氏、內言必正、同獎固多。贊虎幄之嘉謀、保魚軒之寵數、輔成忠節、諒屬柔明。爰降殊榮、載踰常等。勉助勤王之志、是謂報國之規。可封河東郡夫人」。薨、謚神惠王后、祔葬顯陵。
書き下し
太祖神恵王后柳氏、貞州の人にして、三重大匡天弓の女なり。天弓の家 大いに富み、邑人 称して長者と為す。太祖 弓裔に事へて将軍と為り、兵を引きて貞州を過ぎ、馬を古柳の下に息はしむ。后 路傍の川の上に立つに、其の徳容有るを見て、「汝 誰氏の女なるか」と問ふ。対へて曰く、「此の邑の長者の家の女なり」と。太祖 因りて至りて焉に宿る。其の家 一軍を饗すこと甚だ豊かにして、后を以て寝に侍らしむ。厥後、絶へて相ひ聞かざるに、后 志を守り貞潔にし、髪を剃りて尼と為る。太祖 之を聞きて、召して以て夫人と為す。
弓裔の末、洪儒・裴玄慶・申崇謙・卜智謙、太祖の第に詣りて、将に廃立を議らんとす。后をして之を知らしめんと欲せず、后に謂ひて曰く、「園中に豈に新瓜有らんや。摘みて来たるべし」と。后 其の意を知りて出で、北戸より、潜かに帳中に入る。是に於いて、諸将 遂に推戴の意を言ふに、太祖 色を作して、之を拒むこと甚だ堅し。后 遽かに帳中より出で、太祖に謂ひて曰く、「義を挙げて虐に代はるは、古より然り。今 諸将の議を聞くに、妾すら猶ほ奮発す、况んや大丈夫をや」と。手づから甲領を提げて以て之を被らしむ。諸将 扶擁して出で、遂に即位す。
太祖十六年、後唐の明宗、太僕卿王瓊等を遣はして、来たりて后を冊す。官告に曰く、「人の妻為るや、能く夫に従ひて以て貴き者、是れ其の家を宜しきと為すなり。封邑の制、彝典 垂るる所にして、伉儷の光を増して、以て国君の爵に称はしむ。大義軍使特進検校太保使持節玄菟州都督上柱国高麗国王の妻河東柳氏、内言必ず正しく、同に奨むること固に多し。虎幄の嘉謀を賛け、魚軒の寵数を保ち、輔けて忠節を成し、諒属して柔明なり。爰に殊栄を降し、常を踰ゆる等を載ふ。王を助勤するの志に勉むれば、是れ報国の規と謂はん。河東郡夫人に封ずべし」と。薨じて、神恵王后と謚し、顕陵に祔葬す。
現代語訳
太祖〔の后妃である〕神恵王后柳氏は貞州の人で、三重大匡柳天弓の娘である。柳天弓の家は大いに裕福で、邑人たちは〔彼を〕「長者」と呼んでいた。太祖が弓裔に仕えて将軍となり、軍を率いて貞州を通りかかったとき、古い柳の木の下で馬を休ませた。王后が道端の川のほとりに立っていたところ、〔太祖が〕その徳のある姿を見て、「あなたは誰の娘でしょうか」と尋ねた。〔柳氏が〕答えて、「この邑の長者の家の娘です」と言った。そこで、太祖はそこに泊まることにした。その家は、〔太祖ら〕一軍を大層豊かにもてなし、王后に太祖の寝所を仕えさせた。その後、〔消息が〕途絶えて互いに〔連絡が〕取れなくなると、王后は志を貫き、貞節を清く保とうと髪を剃って尼となった。太祖はそれを聞いて〔王后を〕呼び寄せ、妃とした。
弓裔の末年、洪儒・裵玄慶・申崇謙・卜智謙が太祖の家を訪れ、〔弓裔を〕廃立させることを議論しようとした。〔太祖は〕王后にそれを知られないようにしようと、王后に、「恐らく、庭に新しく実ったウリがあるだろう。摘んで持ってきてほしい」と言った。王后はその意図を悟り、北の扉から出て行き、こっそりと帳の中に入った。諸将が遂に〔太祖を王に〕推戴しようとする意を伝えると、太祖は顔色を変え、激しく拒んだ。〔そのとき〕王后が急いで帳の中から出てきて、太祖に告げて、「義を挙げて暴虐な者に代わることは、古来よりそうでありました。今、諸将の意見を聞いてみると、妾でさえも奮い立つのに、ましてや大丈夫(=一人前の男)ならなおさらではないですか」と言った。〔そして〕自ら鎧を取り出して〔太祖に〕着せた。諸将が太祖を護衛しながら家を出て、ついに〔太祖が〕即位した。
太祖16年(933)、後唐の明宗が太僕卿の王瓊らを派遣し、王后を冊封した。〔その〕官告には〔次のように〕記されていた。
「妻として夫に従うことによって貴くなる者こそ、その家柄をふさわしいものとすることができる。諸侯を冊封する制度は彝典(=古くからの掟)に定められたものであり、〔その〕夫人にも光栄を加えることで、国君の官爵にふさわしいものとするのである。大義軍使・特進・検校太保・使持節・玄菟州都督・上柱国・高麗国王の妻である河東柳氏は、内助する言葉が常に正しく、〔太祖と〕共に〔励んで〕補助することが実に多かった。虎幄の嘉謀(=優れた策略)をよく補い、夫人としての寵愛と礼儀を守り、〔太祖を〕助けて忠節を成し、〔太祖の心を〕推し量って付き従い、柔和で明朗であった。そこで、特別な栄誉を授け、常例を超えて〔あなたを〕遇した。王を助けようとする志を尽くせば、それは我が国への報いとなるだろう。今、〔あなたを〕河東郡夫人に封じる」。
薨去後、諡号を神恵王后とし、顕陵に祔葬した。
荘和王后呉氏
原文
莊和王后吳氏、羅州人。祖富伅、父多憐君、世家州之木浦。多憐君娶沙干連位女德交、生后。后嘗夢浦龍來入腹中。驚覺以語父母、共奇之。未幾、太祖以水軍將軍、出鎭羅州、泊舟木浦。望見川上、有五色雲氣。至則后浣布。太祖召幸之。以側微、不欲有娠、宣于寢席。后卽吸之、遂有娠生子。是爲惠宗。面有席紋、世謂之襵主。常以水灌寢席、又以大甁貯水、洗臂不厭。眞龍子也。年七歲、太祖知有繼統之德、恐母微不得嗣位、以故笥盛柘黃袍、賜后。后示大匡朴述熙、述熙揣知其意、請立爲正胤。后薨、謚莊和王后。
書き下し
荘和王后呉氏、羅州の人なり。祖は富伅、父は多憐君にして、世 州之木浦に家す。多憐君 沙干連位の女徳交を娶り、后を生む。后 嘗て浦龍の来たりて腹の中に入るを夢みる。驚き覚めて以て父母に語るに、共に之を奇とす。未だ幾ならず、太祖 水軍将軍を以て、羅州に出鎮し、舟を木浦に泊む。望みて川の上を見るに、五色の雲気有り。至れば則ち后 布を浣ふ。太祖 召して之を幸ひす。側微を以て、娠有るを欲せず、寝席に宣す。后 即ち之を吸ひ、遂に娠有りて子を生む。是れ恵宗為り。面に席の紋有れば、世 之を襵主と謂ふ。常に水を以て寝席に灌ぎ、又た大瓶を以て水を貯め、臂を洗ふこと厭はず。真に龍の子なり。年七歳にして、太祖 継統の徳有るを知り、母の微にして嗣位するを得ざるを恐れ、以て故に笥に柘黃袍を盛り、后に賜ふ。后 大匡朴述熙に示すに、述熙 揣りて其の意を知り、立てて正胤と為さんことを請ふ。后 薨じて、荘和王后と謚す。
現代語訳
荘和王后呉氏は羅州の人である。祖父は呉富伅、父は呉多憐君であり、代々羅州の木浦に住んでいた。呉多憐君は、沙干連位の娘である徳交を娶り、王后を産んだ。王后はかつて、港の龍が腹の中に入ってくる夢を見た。驚いて目を覚まし、父母に話すと、〔父母〕共にそれを不思議なことだと思った。ほどなくして、太祖が水軍将軍として羅州に出陣し、木浦に停泊した。〔太祖が〕川辺を眺めると、五色の雲のような気配が漂っていた。〔その場所へ〕行くと、王后が洗濯をしていた。太祖は〔王后を〕呼び寄せ、愛した。〔しかし、王后の家柄が〕卑しいので、妊娠させまいとし、寝床に敷いた蓆に〔精液を〕撒いた。王后はこれをすぐに〔自身の膣の中に〕入れ、結局、妊娠して息子を産んだ。これがまさに恵宗である。〔恵宗は〕顔に蓆の模様があったため、世の人々は「襵主(=しわのある君主)」と呼んだ。常に寝床に水を張っておき、また大きな瓶に水を溜めておき、腕を洗うことを厭わなかった。まことに龍の子であった。7歳のとき、太祖は〔恵宗に〕王位を継ぐに足る徳があることを知ったが、その母が身分の低いために王位を継げないのではないかと心配し、わざと衣装箱に柘黄袍を納めて王后に下賜した。王后が〔それを〕大匡の朴述熙に見せると、朴述熙は太祖の意図を推し量り、〔恵宗を〕正胤として立てるよう要請した。王后が薨去すると、諡号を荘和王后とした。
神明順成王太后劉氏
原文
神明順成王太后劉氏、忠州人、贈太師內史令兢達之女。生太子泰、定宗・光宗、文元大王貞・證通國師、樂浪・興芳二公主。薨、謚神明順聖太后。
書き下し
神明順成王太后劉氏、忠州の人にして、太師内史令を贈らるる兢達の女なり。太子泰、定宗・光宗、文元大王貞・証通国師、楽浪・興芳二公主を生む。薨じて、神明順聖太后と謚す。
現代語訳
神明順成王太后劉氏は忠州の人で、太師・内史令に追贈された劉兢達の娘である。太子の王泰、定宗・光宗、文元大王王貞・証通国師、楽浪・興芳の二人の公主を産んだ。〔王后が〕薨去すると、諡号を神明順聖太后とした。
神静王太后皇甫氏
原文
神靜王太后皇甫氏、黃州人、太尉三重大匡忠義公悌恭之女。生戴宗及大穆王后。初封明福宮大夫人。成宗二年七月薨。
成宗早喪宣義太后、長於后。故哀慕盡禮、率百僚、臨于殯殿、上謚曰、神靜大王太后。册文曰、「德侔附寶、功比姜嫄。曾表異於手文、亦炳靈於胎敎。端逢聖祖始卜好逑、膺妙選於六宮、贊昌基於庶政。克修婦道、爰備坤儀、節儉之風、行乎閨閫、箴規之義、播在朝廷。樊姬之不食鮮禽、楚王改過、衛女之不聽淫樂、齊主知非。矧乃辭輦之謙、群情所伏、破環之智、列辟攸尊。霸業之興、由其儆誡、洪啚之盛、仗乃賢謀。旋屬駕枉商山、天崩杞國、嫠居四紀、鞠育諸孫。名在景鍾、事光彤管。顧惟眇質、早遘閔凶。纔當齠齕之年、旣違慈母、比及幼冲之歲、又喪嚴親、便歸祖妣之懷中、似接高堂之膝下。旨甘輟口、每加吐哺之恩、軟暖附身、幾沐字孤之惠。盖因撫養、以至長成、幸承門蔭之功、叨獲禪傅之位。欲報祖先之德、誓輸孫子之誠、豈惎太史書氛、靈臺告。松齡未享、蘭質俄捐、魚軒靜兮、鑑殿並空。十亂缺兮、百身難贖。九族茹靡依之歎、衆民含罔極之悲。今則遠日已臻、玄宮欲閟。啓殯堂兮、殮儀必備、仍泉隧兮、窆且將加。特命禮官、敎徵茂實、考前芳而累行、表徽號以易名。今遣某官某、謹上謚曰、神靜大王太后」。葬壽陵。
穆宗五年四月、加謚定憲、顯宗五年三月、加懿敬、十八年四月、又加宣德。文宗十年十月、加謚慈景、册文曰、「鷰石開祥、鳩洲協德、漲家成國。內伸弼贊之勞、翼子謀孫、旁及慈和之訓、嬪風載韙、王化由宣。所以契一儀合配之尊、處百代不遷之廟。但臣因叨慶系、彌注孝思、奉群序以合升、執薄羞而親饋。屬玆龜獻、仍益鴻稱。謹奉册、加上尊謚曰慈景」。
仁宗十八年四月、加柔明、高宗四十年十月、加貞平。
書き下し
神静王太后皇甫氏、黄州の人にして、太尉三重大匡忠義公悌恭の女なり。戴宗及び大穆王后を生む。初め明福宮大夫人に封ぜらる。成宗二年七月薨ず。
成宗 早くも宣義太后を喪ひ、后に長ぜらる。故に哀慕して礼を尽くし、百僚を率ゐ、殯殿に臨みて、謚を上りて、神静大王太后と曰ふ。冊文に曰く、「徳は附宝に侔しく、功は姜嫄に比す。曽て異を手文に表し、亦た霊を胎教に炳す。端に聖祖の始めて好逑を卜ふに逢ひ、妙選を六宮に膺け、昌基を庶政に賛く。克く婦道を修め、爰に坤儀を備へ、節倹の風、閨閫に行ひ、箴規の義、朝廷に播く。樊姫の鮮禽を食らはざれば、楚王 過ちを改め、衛女の淫楽を聴かざれば、斉主 非を知る。矧んや乃ち輦を辞するの謙、群情の伏す所にして、破環の智、列辟の尊する攸なり。霸業の興こるは、其の儆誡に由り、洪図の盛んなるは、乃ち賢謀に仗る。旋いで駕の商山に枉するに属ひ、天 杞国を崩するに、嫠居すること四紀、諸孫を鞠育す。名は景鍾に在り、事は彤管に光あり。顧みるに惟だ眇質にして、早く閔凶に遘ふ。纔かに齠齕の年に当たり、既に慈母を違ひて、幼冲の歳に及ぶ比ひ、又た厳親を喪ひて、便ち祖妣の懐中に帰り、高堂の膝下に接するが似し。旨甘を輟口し、毎に吐哺の恩を加へ、軟暖を身に附し、幾くも孤を字しむの恵を沐す。蓋し撫養に因りて、以て長成するに至り、幸ひに門蔭の功を承け、叨くも禅傅の位を獲たり。祖先の徳に報いんと欲し、孫子の誠を輸さんと誓ふに、豈に惎むらくは太史 氛を書し、霊台 祲を告げんや。松齢 未だ享けず、蘭質 俄かに捐て、魚軒 静かにして、鑑殿 並びに空し。十乱欠けば、百身 贖ひ難し。九族 依る靡きの歎を茹み、衆民 極むる罔きの悲みを含む。今 則ち遠日已に臻り、玄宮 閟ぢんと欲す。殯堂を啓き、殮儀必ず備はり、泉隧に仍りて、窆 且に将に加へんとす。特に礼官に命じて、教へて茂実を徵せしめ、前芳を考へて行を累ね、徽号を表して以て名を易ふ。今 某官の某を遣はして、謹んで謚を上りて神静大王太后と曰ふ」と。寿陵に葬る。
穆宗五年四月、謚に定憲を加へ、顕宗五年三月、懿敬を加へ、十八年四月、又た宣徳を加ふ。文宗十年十月、謚に慈景を加へて、冊文に曰く、「鷰石 祥を開き、鳩洲 徳を協はせば、家を漲さしめ国を成さしむ。内に弼賛の労を伸ばし、子を翼け孫を謀り、旁く慈和の訓を及ぼせば、嬪風 載ち韙く、王化由りて宣ぶ。一儀合配の尊を契する所以にして、百代不遷の廟に処く。但だ臣 慶系を叨くするに因り、弥孝思を注ぎて、群序を奉じて以て合升し、薄羞を執りて親ら饋る。玆に亀献に属し、仍って鴻称を益さん。謹んで冊を奉じ、尊謚を加上して慈景と曰ふ」と。
仁宗十八年四月、柔明を加へ、高宗四十年十月、貞平を加ふ。
現代語訳
神静王太后皇甫氏は、黄州の人で、太尉 三重大匡 忠義公である皇甫悌恭の娘である。戴宗と大穆王后を産んだ。当初、明福宮大夫人として冊封された。成宗2年(983)7月に薨去した。
成宗は早くに〔実母である〕宣義太后を亡くし、王后(=神静王太后皇甫氏)に育てられた。そのため、〔王后の死を〕深く悲しんで慕い、礼を尽くし、百僚を率いて嬪殿に赴き、諡号を献上して神静大王太后とした。その冊文では、〔次のように〕述べた。
「〔王后の〕徳は〔黄帝の母である〕附宝のごとく、功は〔后稷の母である〕姜嫄に比肩するものです。早くから手相に異才が現れ、母体に宿ったときからすでに〔王后には〕霊妙な徳が現れていました。ちょうど、太祖が初めて良き伴侶を得ようと占ったとき、〔王后は〕優れた人選を受けて王后に選ばれ、〔それ以降、王后は〕あらゆる政事において、〔国が〕繁栄する礎を築くのを助けました。夫人の道をよく修め、王后としての徳義を備え、節倹の気風を閨閫(=婦女の部屋)で広め、正しい規範の意を朝廷に広めました。樊姫が新鮮な獣の肉を食べなかったため、楚王が〔自身の〕過ちを改め、衛女が淫らな音楽を聴かなかったため、斉の桓公が〔自身の〕過ちに気づいたのです〔王后もまた、樊姫と衛女のような人物でした〕。ましてや、〔皇帝とともに〕車に乗ることを辞退した〔班倢伃のような〕謙虚さは、人々の心を感服させ、指輪を砕いた〔斉の王后のような〕知恵は、歴代の君主たちから尊敬されるものでした。覇業が興ったのは、その警戒〔心〕によるものであり、大計が隆盛したのは、その賢明な計策によるものでした。ほどなくして、御駕(=天子の乗る車)が商山に立ち寄り、〔そのときにちょうど〕天が杞国を滅ぼすと、〔王后は〕40余年を独りで過ごしながら、多くの孫たちを育てました。その名は景鐘に刻まれ、その事績は女史の記録に輝いています。振り返ってみれば、〔私は〕取るに足らない身でありながら、かつて父母の死という不幸に見舞われました。やっと乳歯が生え変わる年には、すでに母を亡くし、幼い頃には父までも失い、すぐに祖母の懐に戻りましたが、〔それは〕まるで父母の膝下にいるかのようでした。〔王后は〕美味しい食べ物を〔自分の〕口から離して、その都度〔私に〕食べさせてくれる恩恵を加え、柔らかく温かい衣を〔私に〕身に着けさせ、〔私は〕幾度となく〔王后による〕孤独な私を慈しみ育てる恩恵を受けました。およそ、〔王后による〕慈しみと養育のおかげで、〔私は〕成長し、幸いにも門蔭の功を受け継ぎ(=先祖の功績によって地位を得て)、僭越ながらも禅傅(=王位継承)の地位を得ることができました。今、祖先の徳に報いようと、孫の精誠(=まごころ)を捧げようと誓った矢先、どうして太史が災いを記し、霊台が邪悪な気配があることを告げるなどと思うでしょうか。松のように〔長寿を〕全うせず、蘭のようであった方が突然に〔世を〕去り、〔王后が乗っていた〕車は静まり返り、〔住んでいた〕宮殿もまた空っぽとなりました。〔周の武王を補佐した〕十人の賢臣が去れば、百人であっても代わることは難しいものです。多くの王族は頼る所のない嘆きを漏らし、民衆は限りない悲しみを胸に抱きました。今や葬儀を行なう日が到来し、玄宮(=墓室)がまもなく閉じようとしています。殯堂(=仮殯する施設)を開き、葬送の儀式が必ず整えられ、墓道へと進み、まさに埋葬を行おうとしています。特に礼官に命じて、彼らに〔王后の〕優れた徳を表させるとともに、過去の芳しい数々の行跡を考証し、立派な号を表して、〔王后の〕名を改めます。今、某官職にある某を遣わし、謹んで諡号をたてまつり、神静大王太后とします」。
〔そうして〕寿陵に葬った。
穆宗5年(1002)4月、諡号に定憲を加え、顕宗5年(1014)3月、懿敬を加え、〔顕宗〕18年(1027)4月にまた宣徳を加えた。文宗10年(1056)10月、諡号に慈景を加え、〔そのときの〕冊文には〔次のように〕記されている。
「夫婦が祥瑞を開き、妻が徳をもって助けてこそ、家系は繁栄し、国は成るものです。〔太后は〕内において尽力して〔夫である君主を〕補佐し、子を助けて孫のことをよく考慮し、広く慈と和を重んじる教えを広めたので、嬪たちの気風は正しくなり、王の教化はこれによって大いに広まりました。それゆえに、〔太祖と太后を〕一つの儀礼により共に尊く祀り、百代を経ても変わることのない廟廷に安置しました。いたずらに、私は厚かましいことながら王家の後裔となったため、孝行の心を尽くして、多くの先祖を共に祀り、ささやかな供物を手に取り、自ら〔これを〕送ります。このたび、吉兆を得たため、〔王后に〕さらに立派な称号を加えたいと思います。謹んで冊文を奉じ、尊い諡号を加えて、慈景とします」。
仁宗18年(1140)4月、〔諡号に〕柔明を加え、高宗40年(1253)10月、貞平を加えた。
神成王太后金氏
原文
神成王太后金氏、新羅人、匝干億廉之女。新羅王金傅遣使請降、太祖待以厚禮。使歸告曰、「今王以國與寡人、其爲賜大矣。願結昏宗室、以永甥舅之好」。傅報曰、「我伯父億廉有女、德容雙美。非是、無以備內政」。太祖遂取之、生安宗。顯宗卽位、追謚神成王太后、陵曰貞。
書き下し
神成王太后金氏、新羅の人にして、匝干億廉の女なり。新羅王金傅 使を遣はして降を請へば、太祖 待するに厚礼を以てす。使帰るに告げて曰く、「今 王 国を以て寡人に与ふ、其の賜を為すこと大いなり。願はくは宗室と結昏し、以て甥舅の好を永くせん」と。傅 報じて曰く、「我が伯父億廉 女有りて、徳容双び美し。是に非ずんば、以て内政を備ふる無し」と。太祖 遂に之を取り、安宗を生む。顕宗即位して、追ひて神成王太后と謚し、陵を貞と曰ふ。
現代語訳
神成王太后金氏は、新羅の人で、匝干金億廉の娘である。新羅王の金傅が使臣を遣わして降伏を請願したため、太祖は手厚い礼遇でもって迎えた。使臣が帰るとき、〔太祖は次のように〕告げた。「今、王が国を私に譲ろうとしていますが、その譲り渡すものは実に大きいです。願わくは、〔新羅の〕宗室と結婚し、末永く義父と婿の好を保ちたいと思います」。〔これに対して〕金傅が返答して、「私の伯父である金億廉に娘がおり、徳性と容貌の双方が美しいです。この者以外に、内政(=後宮・宮中のことを取り仕切る務め)を整えられる者はいないでしょう」と言った。太祖はついに彼女を妻として迎え入れ、安宗を産んだ。顕宗が即位し、諡号を追贈して神成王太后とし、陵を貞陵と称した。
貞徳王后柳氏
原文
貞德王后柳氏、貞州人、侍中德英之女。生王位君・仁愛君・元莊太子・助伊君、文惠・宣義二王后。
書き下し
貞徳王后柳氏、貞州の人にして、侍中徳英の女なり。王位君・仁愛君・元荘太子・助伊君、文恵・宣義二王后を生む。
現代語訳
貞徳王后柳氏は、貞州の人で、侍中柳徳英の娘である。王位君・仁愛君・元荘太子・助伊君、文恵・宣義の二人の王后を産んだ。
献穆大夫人平氏
原文
獻穆大夫人平氏、慶州人、佐尹俊之女。生壽命太子。
書き下し
献穆大夫人平氏、慶州の人にして、佐尹俊の女なり。寿命太子を生む。
現代語訳
献穆大夫人平氏は、慶州の人で、佐尹平俊の娘である。寿命太子を産んだ。
貞穆夫人王氏
原文
貞穆夫人王氏、溟州人、三韓功臣太師三重大匡景之女。生順安王大妃。
書き下し
貞穆夫人王氏、溟州の人にして、三韓功臣太師三重大匡景の女なり。順安王大妃を生む。
現代語訳
貞穆夫人王氏は、溟州の人で、三韓功臣 太師 三重大匡王景の娘である。順安王大妃を産んだ。
東陽院夫人庾氏
原文
東陽院夫人庾氏、平州人、太師三重大匡黔弼之女。生孝穆太子義・孝隱太子。
書き下し
東陽院夫人庾氏、平州の人にして、太師三重大匡黔弼の女なり。孝穆太子義・孝隠太子を生む。
現代語訳
東陽院夫人庾氏は、平州の人で、太師 三重大匡庾黔弼の娘である。孝穆太子王義と孝隠太子を産んだ。
粛穆夫人
原文
肅穆夫人、史失其姓氏。鎭州人、大匡名必之女。生元寧太子。
書き下し
粛穆夫人、史に其の姓氏を失ふ。鎮州の人にして、大匡名必の女なり。元寧太子を生む。
現代語訳
粛穆夫人は、史書がその姓氏を失った。鎮州の人で、大匡名必の娘である。元寧太子を産んだ。
天安府院夫人林氏
原文
天安府院夫人林氏、慶州人、太守彦之女。生孝成太子琳珠・孝柢太子。
書き下し
天安府院夫人林氏、慶州の人にして、太守彦の女なり。孝成太子琳珠・孝柢太子を生む。
現代語訳
天安府院夫人林氏は、慶州の人で、太守林彦の娘である。孝成太子王琳珠と孝祗太子を産んだ。
興福院夫人洪氏
原文
興福院夫人洪氏、洪州人、三重太匡規之女。生太子稷・公主一。
書き下し
興福院夫人洪氏、洪州の人にして、三重太匡規の女なり。太子稷・公主一を生む。
現代語訳
興福院夫人洪氏は、洪州の人で、三重大匡洪規の娘である。太子王稷と公主一人を産んだ。
後大良院夫人李氏
原文
後大良院夫人李氏、陜州人、大匡元之女。
書き下し
後大良院夫人李氏、陜州の人にして、大匡元の女なり。
現代語訳
後大良院夫人李氏は、陜州の人で、大匡李元の娘である。
大溟州院夫人王氏
原文
大溟州院夫人王氏、溟州人、內史令乂之女。
書き下し
大溟州院夫人王氏、溟州の人にして、内史令乂の女なり。
現代語訳
大溟州院夫人王氏は、溟州の人で、内史令王乂の娘である。
広州院夫人王氏
原文
廣州院夫人王氏、廣州人、大匡規之女。
書き下し
広州院夫人王氏、広州の人にして、大匡規の女なり。
現代語訳
広州院夫人王氏は、広州の人で、大匡王規の娘である。
小広州院夫人王氏
原文
小廣州院夫人王氏、亦規之女。生子廣州院君。
書き下し
小広州院夫人王氏、亦た規の女なり。子の広州院君を生む。
現代語訳
小広州院夫人王氏もまた、王規の娘である。息子として広州院君を産んだ。
東山院夫人朴氏
原文
東山院夫人朴氏、昇州人、三重大匡英規之女。
書き下し
東山院夫人朴氏、昇州の人にして、三重大匡英規の女なり。
現代語訳
東山院夫人朴氏は、昇州の人で、三重大匡朴英規の娘である。
礼和夫人王氏
原文
禮和夫人王氏、春州人、大匡柔之女。
書き下し
礼和夫人王氏、春州の人にして、大匡柔の女なり。
現代語訳
礼和夫人王氏は春州の人で、大匡王柔の娘である。
大西院夫人金氏
原文
大西院夫人金氏、洞州人、大匡行波之女。
書き下し
大西院夫人金氏、洞州の人にして、大匡行波の女なり。
現代語訳
大西院夫人金氏は洞州の人で、大匡金行波の娘である。
小西院夫人金氏
原文
小西院夫人金氏、亦行波之女。行波善射御、太祖賜姓金。太祖幸西京、行波率獵徒道謁、請至其家、留信宿、以二女、各侍一夜。後不復幸、二女皆出家爲尼。太祖憐之、召見曰、「爾等旣出家、志不可奪也」。命於西京、城中、作大・小西院兩寺、置田民、令各居之、故稱大・小西院夫人。
書き下し
小西院夫人金氏、亦た行波の女なり。行波 射御を善くし、太祖 姓金を賜ふ。太祖 西京に幸するに、行波 猟徒を率ゐて道に謁し、其の家に至るを請ひ、留りて信宿するに、二女を以て、各一夜を侍らしむ。後に復た幸せざれば、二女皆出家して尼と為る。太祖 之を憐れみ、召見して曰く、「爾等 既に出家すれば、志を奪ふべからざるなり」と。西京に命じて、城中に、大・小西院両寺を作らしめ、田民を置きて、各之に居らしむ。故に大・小西院夫人と称す。
現代語訳
小西院夫人金氏も、〔大西院夫人と同じく〕また金行波の娘である。金行波は弓術と馬術に優れ、太祖は〔彼に〕金姓を賜った。太祖が西京へ行幸すると、金行波は狩人らを率いて道中で謁見し、自らの家に来るよう請うた。太祖が二晩〔金行波の家に〕滞在する間、二人の娘をそれぞれ一晩ずつ〔太祖に〕侍らせた。のちに、再び〔太祖が〕行幸することがなかったため、二人の娘は共に出家して尼となった。太祖はこれを哀れに思い、呼び寄せて会い、こう言った。「あなたたちはすでに出家したのだから、その志を奪うことはできない」。〔そうして〕西京に命じて、城内に大西院と小西院の二つの寺を建てさせ、田民を置いて、〔二つの寺に大西院夫人と小西院夫人を〕それぞれ住まわせた。それゆえ、大・小西院夫人と呼ばれたのである。
西殿院夫人
原文
西殿院夫人、史失其氏族。
書き下し
西殿院夫人、史に其の氏族を失ふ。
現代語訳
西殿院夫人は、史書が其の氏族を失った。
信州院夫人康氏
原文
信州院夫人康氏、信州人、阿飡起珠之女。生一子、早卒、養光宗爲子。
書き下し
信州院夫人康氏、信州の人にして、阿飡起珠の女なり。一子を生めども、早く卒し、光宗を養ひて子と為す。
現代語訳
信州院夫人康氏は信州の人で、阿飡康起珠の娘である。息子を一人生んだが、早くに亡くなり、光宗を育てて息子とした。
月華院夫人
原文
月華院夫人、大匡英章之女、史失姓氏。
書き下し
月華院夫人、大匡英章の女にして、史に姓氏を失ふ。
現代語訳
月華院夫人は大匡英章の娘であるが、史書は姓氏を失った。
小黄州院夫人
原文
小黃州院夫人、元甫順行之女、史失姓氏。
書き下し
小黄州院夫人、元甫順行の女にして、史に姓氏を失ふ。
現代語訳
小黄州院夫人は元甫順行の娘であるが、史書は姓氏を失った。
聖茂夫人朴氏
原文
聖茂夫人朴氏、平州人、三重大匡智胤之女。生孝悌・孝明二太子、法登・資利二君。
書き下し
聖茂夫人朴氏、平州の人にして、三重大匡智胤の女なり。孝悌・孝明二太子、法登・資利二君を生む。
現代語訳
聖茂夫人朴氏は平州の人で、三重大匡朴智胤の娘である。孝悌・孝明の二太子と法登・資利の二君を生んだ。
義城府院夫人洪氏
原文
義城府院夫人洪氏、義城府人、太師三重大匡儒之女。生義城府院大君。
書き下し
義城府院夫人洪氏、義城府の人にして、太師三重大匡儒の女なり。義城府院大君を生む。
現代語訳
義城府院夫人洪氏は義城府の人で、太師・三重大匡洪儒の娘である。義城府院大君を生んだ。
月鏡院夫人朴氏
原文
月鏡院夫人朴氏、平州人、太尉三重大匡守文之女。
書き下し
月鏡院夫人朴氏、平州の人にして、太尉三重大匡守文の女なり。
現代語訳
月鏡院夫人朴氏は平州の人で、太尉三重大匡朴守文の娘である。
夢良院夫人朴氏
原文
夢良院夫人朴氏、平州人、太尉三重大匡守卿之女。
書き下し
夢良院夫人朴氏、平州の人にして、太尉三重大匡守卿の女なり。
現代語訳
夢良院夫人朴氏は平州の人で、太尉三重大匡朴守卿の娘である。
海良院夫人
原文
海良院夫人、海平人、大匡宣必之女、史失姓氏。
書き下し
海良院夫人、海平の人にして、大匡宣必の女なり。史に姓氏を失ふ。
現代語訳
海良院夫人は海平の人で、大匡宣必の娘であるが、史書はその姓氏を失った。
原文出典
- 東亜大学校附属石堂学術院 編『국역 고려사(国訳 高麗史)』第20巻、景仁文化社、2006年、pp.336~339

