景宗の后妃(『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1):現代語訳

目次

献粛王后金氏

原文

景宗献粛王后金氏、新羅敬順王之女也。薨、諡献粛王后、祔景宗廟。穆宗五年四月、加温敬。顕宗五年三月、加恭孝。十八年四月、加良恵、後又加懿穆・順聖。文宗十年十月、加懐安。高宗四十年十月、加仁厚。

書き下し

景宗献粛王后金氏、新羅敬順王の女なり。薨じて、献粛王后と諡し、景宗の廟に祔す。穆宗五年四月、温敬を加ふ。顕宗五年三月、恭孝を加ふ。十八年四月、良恵を加へ、後に又た懿穆・順聖を加ふ。文宗十年十月、懐安を加ふ。高宗四十年十月、仁厚を加ふ。

現代語訳

景宗〔の后妃〕献粛王后金氏は新羅敬順王の娘である。崩御後、諡号を献粛王后とし、景宗の廟に祀った。穆宗5年(1002)4月、〔諡号に〕温敬を加えた。顕宗5年(1014)3月、〔諡号に〕恭孝を加えた。〔顕宗〕18年(1027)4月、〔諡号に〕良恵を加え、のちにまた懿穆・順聖を加えた。文宗10年(1056)10月、〔諡号に〕懐安を加えた。高宗40年(1253)10月、〔諡号に〕仁厚を加えた。

献懿王后劉氏

原文

献懿王后劉氏、宗室文元大王貞之女。

書き下し

献懿王后劉氏、宗室の文元大王貞の女なり。

現代語訳

献懿王后劉氏は、宗室の文元大王王貞(ワンジョン)の娘である。

献哀王太后皇甫氏

原文

献哀王太后皇甫氏、戴宗之女。生穆宗。穆宗即位、冊上尊号曰、応天啓聖静徳王太后。穆宗年己十八、太后摂政、居千秋殿、世号千秋太后。与金致陽通而生子、欲以其子嗣王位。時顕宗為大良院君。太后忌之、強令出家、寓居三角山神穴寺。時称神穴小君。太后屢遣人謀害。一日、使内人遺以酒餅。皆和毒薬。内人到寺、求見小君、欲親勧食。寺有僧、輒匿小君於地穴中、紿之曰、「小君出遊山中。安知去処耶」。及内人還、散之庭中、烏雀食而即斃。凡忠臣義士、尤所忌憚、多以非罪陥之。穆宗不能禁。十二年正月、千秋殿災、太后入長生殿後、康兆殺致陽父子、流太后親属于海島、又使人弑穆宗。於是、太后帰居黄州者二十一年。顕宗二十年正月、薨于崇徳宮。寿六十六。葬幽陵。

書き下し

献哀王太后皇甫氏、戴宗の女なり。穆宗を生む。穆宗即位し、冊して尊号を上りて曰く、「応天啓聖静徳王太后」と。穆宗 年己に十八にして、太后摂政し、千秋殿に居れば、世 千秋太后と号す。金致陽と通じて子を生み、其の子を以て王位を嗣がしめんと欲す。時に顕宗 大良院君たり。太后 之を忌み、強ひて出家せしめ、三角山神穴寺に寓居せしむ。時に神穴小君と称す。太后 屢々人を遣はして害せんことを謀る。一日、内人をして以て酒餅を遺らしむ。皆毒薬を和す。内人 寺に到り、小君に見えんことを求め、親ら食らふことを勧めんと欲す。寺に僧有り、輒ち小君を地穴の中に匿し、之を紿(あざむ)きて曰く、「小君 出でて山中に遊ぶ。安くにか去る処を知らんや」と。内人の還るに及び、之を庭中に散らせば、烏雀食らひて即ち(たふ)る。凡そ忠臣義士、尤も忌み憚る所にして、多く非罪を以て之を陥る。穆宗 禁ずること能はず。十二年正月、千秋殿災あり、太后 長生殿に入る後、康兆 致陽父子を殺し、太后の親属を海島に流し、又た人をして穆宗を弑せしむ。是に於いて、太后 黄州に帰り居ること二十一年なり。顕宗二十年正月、崇徳宮に薨ず。寿六十六なり。幽陵に葬る。

現代語訳

献哀王太后皇甫(ファンボ)氏は戴宗(テジョン)の娘で、穆宗(モクチョン)を産んだ。穆宗が即位すると、冊封して尊号を献上して、「応天啓聖静徳王太后」と称した。穆宗の年齢はすでに18歳であったが、太后が摂政し、千秋殿に居住したため、世間の人々は〔太后のことを〕千秋太后と呼んだ。〔太后は〕金致陽(キムチヤン)と私通して息子を産み、その息子に王位を継がせようとした。当時、顕宗(ヒョンジョン)は大良院君であった。太后は彼を嫌って強制的に出家させ、三角山の神穴寺に住まわせたため、時〔の人々〕は〔大良院君のことを〕神穴小君と呼んだ。太后は何度も人を遣わして〔大良院君を〕害そうと謀った。ある日、〔太后が〕内人に命じて酒と餅を送らせたが、全て毒薬を混ぜたものだった。内人が寺に着き、小君に会うことを求めながら、直接〔酒と餅を〕食べるように勧めようとしたところ、寺にいたある僧が突然、小君を地面の穴の中に隠し、〔内人〕を騙して、「小君は山へ遊びに出かけられました。どうして行かれた場所が分かるでしょうか?」と言った。内人が帰ったあと、酒と餅を庭に撒き散らすと、(からす)(すずめ)が食べてすぐに死んでしまった。総じて、〔太后は〕忠臣や義士をますます忌み嫌うようになり、罪なくして〔忠臣や義士を罪に〕陥れることが多かった。穆宗はこれを止めることができなかった。〔穆宗〕12年(1009)正月、千秋殿が焼失し、太后が長生殿に移ったあと、康兆(カンジョ)が金致陽父子を殺害し、太后の親族を海の島へ流刑に処し、さらに人を遣わして穆宗を弑害した。これを受けて、太后は黄州に戻り、〔そこで〕21年間を過ごした。顕宗20年(1029)正月、〔太后は〕崇徳宮で崩御した。享年66歳であった。幽陵に葬られた。

献貞王后皇甫氏

原文

献貞王后皇甫氏、亦戴宗之女。景宗薨、出居王輪寺南私第。嘗夢登鵠嶺、旋流溢国中、尽成銀海。卜之曰、「生子則王、有一国」。后曰、「我既寡、何以生子」。時安宗第与后第相近、因与往来通焉。有娠弥月、人莫敢言。成宗十一年七月、后宿安宗第、家人積薪于庭而火之。火方熾。百官奔救、成宗亦亟往問之。家人遂以実告、乃流安宗。后慙恨哭泣、比還其第、纔及門胎動、攀門前柳枝、免身而卒。成宗命択姆以養其児。是為顕宗。顕宗即位、追尊為孝粛王太后、陵曰元陵。八年五月、加恵順。十二年六月、改恵順為仁恵。十八年四月、加宣容、高宗四十年十月、加明簡。

書き下し

献貞王后皇甫氏、亦た戴宗の女なり。景宗 薨じて、出でて王輪寺南の私第に居る。嘗て夢に鵠嶺に登り、旋して国中に流れ溢れ、尽く銀海と成る。之を(うらな)ひて曰く、「子を生まば則ち王なり、一国を有せん」と。后曰く、「我既に寡なり、何を以てか子を生まん」と。時に安宗の第と后の第と相ひ近く、因りて与に往来して通ず。娠む有りて弥月なれども、人 敢へて言ふこと莫し。成宗十一年七月、后 安宗の第に宿るに、家人 薪を庭に積みて之を()にす。火 方に熾んなり。百官 奔りて救ひ、成宗も亦た亟やかに往きて之を問ふ。家人 遂に実を以て告ぐれば、乃ち安宗を流す。后 ()ぢ恨みて哭泣し、其の第に還るに(およ)び、(わず)かに門に及べば胎動し、門前の柳の枝に()ぢ、免身して卒す。成宗 命じて姆を択びて以て其の児を養はしむ。是れ顕宗たり。顕宗 即位し、追尊して孝粛王太后と為し、陵を元陵と曰ふ。八年五月、恵順を加ふ。十二年六月、恵順を改めて仁恵と為す。十八年四月、宣容を加ふ。高宗四十年十月、明簡を加ふ。

現代語訳

献貞王后皇甫(ファンボ)氏もまた戴宗(テジョン)の娘である。景宗(キョンジョン)が崩御すると、〔宮殿を〕出て王輪寺南の私邸に住んだ。かつて、夢の中で鵠嶺(こくれい)に登り、〔そこで〕小便をしたら、国中に溢れ出て、全てが銀色の海となった。〔占い師が〕この夢のことを占って、「息子を産めば王となり、一国を持つでしょう」と言った。〔これに対して〕王后は、「私はすでに寡婦となった身です。どうして息子を産めましょうか?」と言った。このとき、安宗(アンジョン)の家は王后の家と近く、それゆえに〔互いに〕往来し、情を通じた。〔王后が〕妊娠し、出産が迫っても、〔周囲の〕人々は何も言うことができなかった。成宗11年(992)7月、王后が安宗の家に滞在すると、家の人々が庭に薪を積み、これに火をつけた。炎が勢いよく燃え上がると、百官が駆けつけて消火し、成宗(ソンジョン)も急いで来て〔安否を〕尋ねた。〔このとき〕家の人々がついに〔王后と安宗の私通の〕事実を〔成宗に〕告げた。これにより、安宗は流刑に処された。王后は恥じ入りつつも悔しみ、泣き叫びながら自分の家に戻ったが、ようやく門にたどり着いた途端に胎動があり、門前の柳の枝をつかんで子を産みながら、〔そのまま〕亡くなった。成宗は命じて乳母を選び、その子を育てさせた。これが顕宗(ヒョンジョン)である。顕宗が即位すると、〔王后を〕追尊して孝粛王太后とし、陵を元陵と称した。〔顕宗〕8年(1017)5月、〔諡号に〕恵順を加えた。〔顕宗〕12年(1021)6月、恵順を改めて仁恵とした。〔顕宗〕18年(1027)4月、〔諡号に〕宣容を加えた。高宗40年(1253)10月、〔諡号に〕明簡を加えた。

大明宮夫人柳氏

原文

大明宮夫人柳氏、宗室元荘太子之女。

書き下し

大明宮夫人柳氏、宗室の元荘太子の女なり。

現代語訳

大明宮(テミョングン)夫人()氏は、宗室の元荘(ウォンジャン)太子の娘である。

原文出典

  • 国書刊行会編『高麗史』第3、国書刊行会、1909年、pp.4~5
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この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

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