光宗の后妃(『高麗史』巻88、列伝1、后妃1):現代語訳

目次

大穆王后皇甫氏

原文

 光宗大穆王后皇甫氏、太祖之女。生景宗・孝和太子、千秋・寶華二夫人、公主一。光宗七年、命按檢奴婢、辨其是非、奴背主者甚衆、陵上之風大行。人皆嗟怨、后切諫之、光宗不納。薨、謚大穆王后、祔光宗廟。穆宗五年四月、加安靜、顯宗五年三月、加宣明、十八年四月、加懿正、後又加信敬、文宗十年十月、加恭平、高宗四十年十月、加靜睿。

書き下し

 光宗大穆王后皇甫氏、太祖の女なり。景宗・孝和太子、千秋・宝華二夫人、公主一を生む。光宗七年、命じて奴婢を按検せしめ、其の是非を辨ぜしむるに、奴の主に背く者甚だ(おほ)く、陵上の風大いに行はる。人皆嗟怨(さえん)すれば、后 切に之を諌むれども、光宗 納れず。薨じて、大穆王后と謚し、光宗の廟に祔す。穆宗五年四月、安静を加へ、顕宗五年三月、宣明を加へ、十八年四月、懿正を加へ、後に又た信敬を加ふ。文宗十年十月、恭平を加へ、高宗四十年十月、静睿を加ふ。

現代語訳

 光宗クァンジョン〔の后妃である〕大穆(テモク)王后皇甫(ファンボ)氏は、太祖テジョの娘である。景宗キョンジョン孝和ヒョファ太子、千秋チョンチュ宝華ポファの二夫人、公主一人を産んだ。光宗7年(956)、奴婢を按検し、その是非を区別させると、奴婢で主人を裏切る者が非常に多くなり、目上の人を侮辱する風潮が蔓延した。人々が皆嘆き、怨みを抱くと、王后が切実に〔このことを光宗に〕諫めたが、光宗は聞き入れなかった。薨去後、諡号を大穆王后とし、光宗の廟に祔葬ふそうした。穆宗5年(1002)4月、〔諡号に〕安静を加え、顕宗5年(1014)3月、宣明を加え、〔顕宗〕18年(1027)4月、懿正を加え、のちにまた信敬を加えた。文宗10年(1056)10月、恭平を加え、高宗40年(1253)10月、静睿を加えた。

慶和宮夫人林氏

原文

 慶和宮夫人林氏、惠宗之女。惠宗二年、王規譖王弟堯及昭有異圖、惠宗、乃以女妻昭、以强其勢、語在規傳。

書き下し

 慶和宮夫人林氏、恵宗の女なり。恵宗二年、王規 王弟の堯及び昭に異図有りと(そし)るに、恵宗、乃ち女を以て昭に(めあは)せ、以て其の勢ひを強くす。語 規の伝に在り。

現代語訳

 慶和宮(キョンファグン)夫人イム氏は、恵宗ヘジョンの娘である。恵宗2年(945)、王規(ワンギュ)が王弟の王堯(ワンヨ)王昭(ワンソ)が反逆を(くわだ)てていると讒訴(ざんそ)すると、恵宗は〔自分の〕娘を王昭に嫁がせ、その勢力を強めた。この話は王規の伝記にある。

原文出典

  • 東亜大学校附属石堂学術院 編『국역 고려사(国訳 高麗史)』第20巻、景仁文化社、2006年、p.342
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この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

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