タクサジョン(卓思政)は実在の人物 高麗契丹戦争

韓国ドラマ『高麗契丹戦争』に登場したタク・サジョンは実在した人物です

ドラマでは、西京城の責任者であったにもかかわらず、契丹軍が迫ると、城を捨てて逃げ出してしまいました。

史実ではどのような人物だったのでしょうか。

この記事では、タク・サジョンという人物について、高麗の歴史書である『高麗史』に基づいて解説していきます。

目次

卓思政(タク・サジョン)の詳細

卓思政の基本情報

姓名:卓思政(タク・サジョン)
出生年:不明
死亡年:不明
最終官職:右諫議大夫

家族構成

不明

卓思政(タク・サジョン)の生涯

宮殿で宿直する

歴史書に卓思政(タク・サジョン)の名が初めて現れるのは、1009年(穆宗12年)のことです。

当時、高麗は第7代王・穆宗(モクチョン)の治世にありました。

穆宗(モクチョン)[在位:997~1009]
高麗7代王。5代王景宗(キョンジョン)の息子で、980年に生まれた。997年、18歳で即位したものの、母后である千秋太后(チョンチュテフ)の摂政を受けるなど、その治世には母后の影響力が強く作用した。

その治世の末年、1009年1月のことでした。

穆宗が燃灯会ねんとうえを開いていたところ、火災が発生して、母后・千秋太后の住む千秋殿が焼失するという事件が発生。

これを受けて、穆宗は深く心を痛め、病床に伏すまでになってしまいます。

『高麗史』によれば、このときに中郎将チュンナンジャン卓思政は、同じく中郎将の柳琮(ユ・ジョン)・河拱辰(ハ・ゴンジン)、親従将軍チンジョンチャングンの庾方(ユ・バン)とともに、宮殿で宿直し、病床に伏した穆宗の身辺を守っていました

中郎将チュンナンジャン
正5品の中級武官職。

卓思政は穆宗のボディーガードの一人だったわけです。

康兆(カン・ジョ)に降る

穆宗が病床に伏していた頃、千秋太后(チョンチュテフ)とその愛人である金致陽(キム・チヤン)は、自分たちの息子を後継者にしようと謀っていました。

とりわけ、金致陽は息子を王位に就けるために、反乱を企てるようになります。

金致陽(キム・チヤン)
千秋太后の愛人。穆宗の摂政をしていた千秋太后とともに絶大な権力を握った。太后との間に男子を設ける。

これを知った穆宗(モクチョン)は、金致陽の謀議を阻止するため、王族の大良院君(テリャンウォングン)を迎えて後継者にすることを決めます。

一方、同じ頃、西北面を防備していた西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサ康兆(カン・ジョ)は、王が死去して宮殿が金致陽に掌握されたと勘違いし、金致陽の討伐と大良院君の擁立を掲げて挙兵をしました。

西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサ
西京ソギョン(現在の北朝鮮・平壌)を拠点に、西北面(現在の平安北道・南道一帯)の防備と軍事指揮を担当する臨時の最高官職。

このときも、卓思政(タク・サジョン)は依然として穆宗の身辺を守っていました。

ところが、康兆が軍勢を率いて王都(開京ケギョン)に入城すると、卓思政は河拱辰(ハ・ゴンジン)とともに、いち早く康兆側に降りました

それから、康兆によって金致陽が討伐され、穆宗も死を賜り、大良院君が国王に擁立されました(第8代王・顕宗)。

こうして、高麗の朝廷は、国王を擁立した権臣・康兆の天下となります。

千秋太后金致陽(キム・チヤン)康兆(カン・ジョ)については、以下の記事で詳しく解説しております。

契丹軍が高麗に侵攻する

康兆(カン・ジョ)が政変を起こすと、北方の大国・契丹きったんは、「勝手に王を殺害した康兆を懲らしめるという」という名分で、高麗侵攻の準備を始めます。

契丹(遼)
中国北方のモンゴル高原で活動する遊牧民の契丹族が建てた国。916年、耶律阿保機やりつあぼきが、それまで分散していた契丹諸部族を統合して建国した。947年に国号を遼とする。

そして、1010年11月には、契丹の皇帝である聖宗せいそうが、40万の軍勢を率いて親征(皇帝自身が軍を率いて出陣する)を開始し、鴨緑江アムノッカンを渡って高麗に侵入しました(高麗契丹戦争の第2次戦争)。

高麗契丹戦争
993年~1019年までの約30年間に、高麗と契丹(遼)の間で勃発した戦争の総称。993年の第1次戦争、1010年の第2次戦争、1018年の第3次戦争に分けられる。

第2次戦争・契丹軍の侵攻路
画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

契丹軍は高麗に侵入すると、まず興化鎮フンファジンを攻めたものの、高麗の将帥・楊規(ヤン・ギュ)らの激しい抵抗により、攻略に失敗します。

そこで、契丹軍は興化鎮を諦めて南下し、通州トンジュへ向かいました。

通州近郊の三水砦サムスチェでは、高麗軍の総司令官である康兆(カン・ジョ)が30万の軍勢を率いて陣を構えていました。

契丹軍はこの三水砦に奇襲をかけ、高麗軍の総指揮官・康兆を生け捕りにし、高麗軍を瓦解させて、南下を続けました。

30万の高麗軍は、あっけなく敗れてしまいました。

通州から南下した契丹軍は、郭州クァクチュ安北府アンブクプ粛州スクチュを次々に攻略し、破竹の勢いで西京ソギョンまで進軍していきました。

契丹軍、郭州・安北府・粛州を攻略して西京へ
画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

高麗契丹戦争については、別途、徹底的に解説している記事があるので、興味のある方はぜひご参照ください。

援軍として西京へ行く

契丹軍が西京ソギョンに迫ると、西京副留守プユス(責任者)の元宗奭ウォンジョンソクなどは、契丹に降伏しようとしました。

そのような中、高麗の東北方地域を防備していた中郎将(正5品の武官職)智蔡文(チ・チェムン)の増援軍が西京に到着します。

智蔡文は西京に入ると、元宗奭らが作った降伏文書を焼き捨て、西京に徹底抗戦の構えを取らせました。

このときに、東北面都巡検使トンブンミョントスンゴムサ卓思政(タク・サジョン)も援軍を率いて西京に到着しました

東北面都巡検使トンブンミョントスンゴムサ
東北面(高麗時代の行政区域である「東界」)の防備と軍事指揮を担当する臨時の最高官職。

東北面都巡検使は、東北方地域の防備を担当する最高責任者です。卓思政が重職を任されていたことがうかがえます。

もしかすると、卓思政は康兆側にいち早く降ったことで、康兆の信頼を得るに至り、重職を任されることになったのかもしれません。

以後、卓思政は西京城の指揮官として、智蔡文とともに抗戦していくこととなります。

西京の戦闘
画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

西京城を捨てて逃げ出す

1010年12月11日、契丹の皇帝聖宗せいそうは、使者として韓杞かんき西京ソギョンに遣わして、降伏することを要求しました。

韓杞は騎兵200名を率いて西京に至り、降伏を促します。

これに対し、卓思政(タク・サジョン)は智蔡文(チ・チェムン)とともに謀り、彼らを襲撃して韓杞ら100余名を殺害。残りの兵は全て捕らえ、捕虜としました。

次いで、卓思政は智蔡文に命じ、西京城を包囲していた契丹軍を襲撃させ、その敵将を敗走させました。

12月12日には、卓思政自身が僧侶の法言(ポブオン)とともに9,000の軍勢を率いて西京城を出て、契丹軍と戦って3,000余名を斬首しました。

西京城の高麗軍は城外に出て契丹軍と戦い、連戦連勝の戦果を収めることができたのです。

ところが、12月13日、智蔡文が城外で契丹軍を追撃していたところ、西京郊外の馬灘マタン(※正確な場所は不明)で契丹軍の逆襲にあい、大敗を喫してしまいます。

馬灘での敗北により、西京城の高麗軍は一気に劣勢となり、窮地に追い込まれます。

このように形成が苦しくなってくると、卓思政は敵に恐れを抱くようになりました。

すると、卓思政は将軍(正4品の武官職)の大道秀(テ・ドス)に、次のように言いました。

「あなたが東門から、私が西門から出て〔契丹軍を〕前後から挟撃すれば、勝てないはずがない」。

『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文

しかし、卓思政は西門から出て契丹軍を攻撃すると見せかけ、配下の兵士を引き連れて、ひとり夜中に逃亡する始末。

卓思政は西京城を捨てて逃亡してしまったのです。

一方の大道秀は、卓思政の言葉通り、東門から出て契丹軍を攻撃しました。

ですが、卓思政が現れなかったため、大道秀は契丹軍に抗う術なく、降伏せざるを得ませんでした。

大道秀(テ・ドス)については、以下の記事で詳しく解説しております。

流刑に処される

卓思政(タク・サジョン)逃亡後の西京では、統軍録事トングンノクサ趙元(チョ・ウォン)、隘守鎮将エスチンジャン姜民瞻(カン・ミンチョム)などが力を合わせて契丹軍に抵抗し、ついに城を守り抜くことに成功します。

その後、契丹軍は西京の攻略を諦めて南下し、高麗の王都・開京ケギョンに侵入。契丹軍はここで略奪を尽くし、宮殿を焼き払いました(1011年1月1日)。

一方、高麗王の顕宗(ヒョンジョン)は、一足先に南へ避難しており、契丹軍の攻勢から難を逃れることができました。

やがて、高麗と契丹の間で講和が成立。1011年1月末には、契丹軍は自国へ引き返していきました。

このあたりの詳しい戦況については、以下の高麗契丹戦争の記事をご参照ください。

西京城から逃亡した卓思政でしたが、戦争が終わると、御史中丞オサチュンスンという中~高位の官職に任命されました(1011年3月)。

御史中丞
御史台(百官を監察する機関)に属する従4品の官職。

次いで、卓思政は右諫議大夫ウガニデブという官職に昇進しています(1011年4月)。

右諫議大夫
門下省(中央の最高行政機関)に属する正4品の官職

西京城を捨てて逃げ出したにもかかわらず、なぜ卓思政が昇進したのかは、よく分かっていません。

しかし、まもなく、卓思政は康兆(カン・ジョ)に与した罪に問われ、流刑に処されることとなりました。

康兆が政変を起こしたとき、卓思政はいち早く康兆に降っていたので、その罪が問われたものと考えられます。

史料には書かれていませんが、西京城を捨てて逃亡したことも、流刑に処された原因であったかもしれません。

流刑後の卓思政がどのような結末を迎えたのかは、記録が残されておらず、知ることができません。

参考文献

  • 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
  • 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
  • 『高麗史』巻3、世家第3、穆宗12年(1009)1月16日
  • 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)3月15日
  • 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)4月4日
  • 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)8月15日
  • 『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
  • 『高麗史』巻94、列伝第7、河拱辰
  • 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆
  • 한국민족문화대백과사전「右諫議大夫」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0039781(最終閲覧日:2026年5月16日)
  • 한국민족문화대백과사전「卓思政」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0058738(最終閲覧日:2026年5月16日)
  • 한국민족문화대백과사전「中丞」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0053809(最終閲覧日:2026年5月16日)
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この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

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