韓国ドラマ『高麗契丹戦争』に登場したタク・サジョンは実在した人物です。
ドラマでは、西京城の責任者であったにもかかわらず、契丹軍が迫ると、城を捨てて逃げ出してしまいました。
史実ではどのような人物だったのでしょうか。
この記事では、タク・サジョンという人物について、高麗の歴史書である『高麗史』に基づいて解説していきます。
卓思政(タク・サジョン)の詳細
卓思政の基本情報
姓名:卓思政(タク・サジョン)
出生年:不明
死亡年:不明
最終官職:右諫議大夫
家族構成
不明
卓思政(タク・サジョン)の生涯
宮殿で宿直する
歴史書に卓思政(タク・サジョン)の名が初めて現れるのは、1009年(穆宗12年)のことです。
当時、高麗は第7代王・穆宗(モクチョン)の治世にありました。
その治世の末年、1009年1月のことでした。
穆宗が燃灯会を開いていたところ、火災が発生して、母后・千秋太后の住む千秋殿が焼失するという事件が発生。
これを受けて、穆宗は深く心を痛め、病床に伏すまでになってしまいます。
『高麗史』によれば、このときに中郎将の卓思政は、同じく中郎将の柳琮(ユ・ジョン)・河拱辰(ハ・ゴンジン)、親従将軍の庾方(ユ・バン)とともに、宮殿で宿直し、病床に伏した穆宗の身辺を守っていました。

卓思政は穆宗のボディーガードの一人だったわけです。
康兆(カン・ジョ)に降る
穆宗が病床に伏していた頃、千秋太后(チョンチュテフ)とその愛人である金致陽(キム・チヤン)は、自分たちの息子を後継者にしようと謀っていました。
とりわけ、金致陽は息子を王位に就けるために、反乱を企てるようになります。
これを知った穆宗(モクチョン)は、金致陽の謀議を阻止するため、王族の大良院君(テリャンウォングン)を迎えて後継者にすることを決めます。
一方、同じ頃、西北面を防備していた西北面都巡検使の康兆(カン・ジョ)は、王が死去して宮殿が金致陽に掌握されたと勘違いし、金致陽の討伐と大良院君の擁立を掲げて挙兵をしました。
このときも、卓思政(タク・サジョン)は依然として穆宗の身辺を守っていました。
ところが、康兆が軍勢を率いて王都(開京)に入城すると、卓思政は河拱辰(ハ・ゴンジン)とともに、いち早く康兆側に降りました。
それから、康兆によって金致陽が討伐され、穆宗も死を賜り、大良院君が国王に擁立されました(第8代王・顕宗)。
こうして、高麗の朝廷は、国王を擁立した権臣・康兆の天下となります。
※千秋太后、金致陽(キム・チヤン)、康兆(カン・ジョ)については、以下の記事で詳しく解説しております。






契丹軍が高麗に侵攻する
康兆(カン・ジョ)が政変を起こすと、北方の大国・契丹は、「勝手に王を殺害した康兆を懲らしめるという」という名分で、高麗侵攻の準備を始めます。
そして、1010年11月には、契丹の皇帝である聖宗が、40万の軍勢を率いて親征(皇帝自身が軍を率いて出陣する)を開始し、鴨緑江を渡って高麗に侵入しました(高麗契丹戦争の第2次戦争)。


画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
契丹軍は高麗に侵入すると、まず興化鎮高麗の将帥・楊規らの激しい抵抗により、攻略に失敗します。


そこで、契丹軍は興化鎮を諦めて南下し、通州へ向かいました。
通州近郊の三水砦では、高麗軍の総司令官である康兆(カン・ジョ)が30万の軍勢を率いて陣を構えていました。
契丹軍はこの三水砦に奇襲をかけ、高麗軍の総指揮官・康兆を生け捕りにし、高麗軍を瓦解させて、南下を続けました。



30万の高麗軍は、あっけなく敗れてしまいました。
通州から南下した契丹軍は、郭州・安北府・粛州を次々に攻略し、破竹の勢いで西京まで進軍していきました。


画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
※高麗契丹戦争については、別途、徹底的に解説している記事があるので、興味のある方はぜひご参照ください。


援軍として西京へ行く
契丹軍が西京に迫ると、西京副留守(責任者)の元宗奭などは、契丹に降伏しようとしました。
そのような中、高麗の東北方地域を防備していた中郎将(正5品の武官職)智蔡文します。


智蔡文は西京に入ると、元宗奭らが作った降伏文書を焼き捨て、西京に徹底抗戦の構えを取らせました。
このときに、東北面都巡検使の卓思政(タク・サジョン)も援軍を率いて西京に到着しました。
東北面都巡検使は、東北方地域の防備を担当する最高責任者です。卓思政が重職を任されていたことがうかがえます。



もしかすると、卓思政は康兆側にいち早く降ったことで、康兆の信頼を得るに至り、重職を任されることになったのかもしれません。
以後、卓思政は西京城の指揮官として、智蔡文とともに抗戦していくこととなります。


画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
西京城を捨てて逃げ出す
1010年12月11日、契丹の皇帝聖宗は、使者として韓杞を西京に遣わして、降伏することを要求しました。
韓杞は騎兵200名を率いて西京に至り、降伏を促します。
これに対し、卓思政(タク・サジョン)は智蔡文(チ・チェムン)とともに謀り、彼らを襲撃して韓杞ら100余名を殺害。残りの兵は全て捕らえ、捕虜としました。
次いで、卓思政は智蔡文に命じ、西京城を包囲していた契丹軍を襲撃させ、その敵将を敗走させました。
12月12日には、卓思政自身が僧侶の法言(ポブオン)とともに9,000の軍勢を率いて西京城を出て、契丹軍と戦って3,000余名を斬首しました。



西京城の高麗軍は城外に出て契丹軍と戦い、連戦連勝の戦果を収めることができたのです。
ところが、12月13日、智蔡文が城外で契丹軍を追撃していたところ、西京郊外の馬灘(※正確な場所は不明)で契丹軍の逆襲にあい、大敗を喫してしまいます。
馬灘での敗北により、西京城の高麗軍は一気に劣勢となり、窮地に追い込まれます。
このように形成が苦しくなってくると、卓思政は敵に恐れを抱くようになりました。
すると、卓思政は将軍(正4品の武官職)の大道秀(テ・ドス)に、次のように言いました。
「あなたが東門から、私が西門から出て〔契丹軍を〕前後から挟撃すれば、勝てないはずがない」。
『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
しかし、卓思政は西門から出て契丹軍を攻撃すると見せかけ、配下の兵士を引き連れて、ひとり夜中に逃亡する始末。



卓思政は西京城を捨てて逃亡してしまったのです。
一方の大道秀は、卓思政の言葉通り、東門から出て契丹軍を攻撃しました。
ですが、卓思政が現れなかったため、大道秀は契丹軍に抗う術なく、降伏せざるを得ませんでした。
※大道秀(テ・ドス)については、以下の記事で詳しく解説しております。


流刑に処される
卓思政(タク・サジョン)逃亡後の西京では、統軍録事の趙元(チョ・ウォン)、隘守鎮将の姜民瞻(カン・ミンチョム)などが力を合わせて契丹軍に抵抗し、ついに城を守り抜くことに成功します。
その後、契丹軍は西京の攻略を諦めて南下し、高麗の王都・開京に侵入。契丹軍はここで略奪を尽くし、宮殿を焼き払いました(1011年1月1日)。
一方、高麗王の顕宗(ヒョンジョン)は、一足先に南へ避難しており、契丹軍の攻勢から難を逃れることができました。
やがて、高麗と契丹の間で講和が成立。1011年1月末には、契丹軍は自国へ引き返していきました。
このあたりの詳しい戦況については、以下の高麗契丹戦争の記事をご参照ください。


西京城から逃亡した卓思政でしたが、戦争が終わると、御史中丞という中~高位の官職に任命されました(1011年3月)。
次いで、卓思政は右諫議大夫という官職に昇進しています(1011年4月)。



西京城を捨てて逃げ出したにもかかわらず、なぜ卓思政が昇進したのかは、よく分かっていません。
しかし、まもなく、卓思政は康兆(カン・ジョ)に与した罪に問われ、流刑に処されることとなりました。
康兆が政変を起こしたとき、卓思政はいち早く康兆に降っていたので、その罪が問われたものと考えられます。



史料には書かれていませんが、西京城を捨てて逃亡したことも、流刑に処された原因であったかもしれません。
流刑後の卓思政がどのような結末を迎えたのかは、記録が残されておらず、知ることができません。
参考文献
- 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
- 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
- 『高麗史』巻3、世家第3、穆宗12年(1009)1月16日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)3月15日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)4月4日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)8月15日
- 『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
- 『高麗史』巻94、列伝第7、河拱辰
- 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆
- 한국민족문화대백과사전「右諫議大夫」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0039781(最終閲覧日:2026年5月16日)
- 한국민족문화대백과사전「卓思政」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0058738(最終閲覧日:2026年5月16日)
- 한국민족문화대백과사전「中丞」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0053809(最終閲覧日:2026年5月16日)








