成宗(ソンジョン):国初に本格的な国政改革を実現[高麗王解説]

高麗6代王・成宗ソンジョンは、国初、本格的に国家体制を整備して王権の強化を目指し、中国王朝にのっとった儒学的政治を志向した王でした。

この記事では、成宗の生涯と治績について、高麗の歴史書(『高麗史』『高麗史節要』)や文献に基づいて解説していきます。

成宗は、韓国ドラマ『千秋太后』にも登場しました。

記事の最後では、ドラマ『千秋太后』で描かれた成宗と史実の違いも解説しています。

目次

成宗(ソンジョン)の詳細

成宗の基本情報

廟号:成宗(ソンジョン)
姓名:王治(ワン・チ)
出生日:960年(光宗11)12月26日
死亡日:997年(成宗16)10月27日
享年:36
在位:981年7月9日~997年10月27日

家族構成

祖父:太祖(初代王)
祖母:神静王太后皇甫氏
父:戴宗王旭
母:宣義王后柳氏

兄:孝徳太子
弟:敬章太子
妹:献哀王太后皇甫氏(千秋太后)、献貞王后皇甫氏

配偶者①(王后):文徳王后劉氏

配偶者②(王后):文和王后金氏
娘:元貞王后(顕宗后妃)

配偶者③(夫人):延昌宮夫人崔氏
娘:元和王后(顕宗后妃)

成宗(ソンジョン)の生涯

生い立ちと家系

成宗ソンジョンが誕生したのは、960年。高麗4代王・光宗クァンジョンの時代でした。

いみな王治(ワン・チ)と言います。

父は太祖テジョ(初代王)の息子である王旭(ワン・ウク、※戴宗テジョンと追贈される)、母は太祖の娘である宣義ソニ王后でした。

父・王旭は太祖の第4妃である神静シンチョン王太后皇甫ファンボの息子であり、母・宣義王后柳氏は太祖の第6妃である貞徳チョンドク王后柳氏の娘でした。

成宗の家系図
※筆者作成

つまり、王治(成宗)の父母は、いずれも太祖の子だったわけです

異母兄妹きょうだいが結婚し、王治(成宗)を産んだことになります。現代では考え難いかもしれませんが、この時代では普通のことでした。

しかし、王治(成宗)は幼くして母を亡くしたので、二人の妹とともに、故郷の黄州ファンジュにて、祖母・神静王太后の懐で育ちました。

ちなみに、王治(成宗)の二人の妹とは、のちに「千秋太后チョンチュテフ」と呼ばれる献哀王太后ホネワンテフ皇甫ファンボ、もう一人は顕宗ヒョンジョン(8代王)の母となる献貞王后ホンジョンワンフ皇甫氏です。

献哀王太后皇甫氏
5代王・景宗キョンジョンに嫁ぎ、王誦(ワン・ソン)を産む。のちに、息子が王位に就くと(穆宗モクチョン)、摂政として国政を主導し、「千秋太后チョンチュテフ」と呼ばれた。

献貞王后皇甫氏
姉とともに5代王・景宗に嫁いだが、景宗の没後、太祖の息子・王郁(ワン・ウク)と私通して王詢(ワン・スン)を産んだ。王詢はのちの顕宗ヒョンジョン(8代王)である。

妹が景宗の妃となる

二人の妹とともに、祖母のもとで育った王治(ワン・チ)。

やがて、二人の妹が揃って、第5代王・景宗キョンジョンに嫁ぐことになりました。

突然、彼女たちが景宗に嫁ぐことになったのは、祖母・神静王太后と、その背後にいる黄州皇甫ファンジュファンボの意向があったからです。

黄州皇甫氏は、王治の祖母である神静王太后シンチョンワンテフ皇甫氏が太祖に嫁いで以来、これまで王室の外戚としての地位を維持してきました。

このときも、王治の妹二人を景宗に嫁がせることで、皇甫氏は外戚の地位を維持し、背後から王室や政界に影響力を及ぼそうとしたのです。

ともあれ、二人の妹は景宗の妃となりました。のちに、上の妹は「献哀王太后ホネワンテフ」に、下の妹は「献貞王后ホンジョンワンフ」に冊封されました。

980年には、景宗と献哀王太后の間に、息子の王誦(ワン・ソン、※のちの穆宗モクチョン)が生まれました。

王位に就く(高麗6代王・成宗の即位)

景宗キョンジョン(5代王)は息子の王誦(ワン・ソン)が生まれてから、いくらもしないうちに、病床に伏せるようになります。

981年7月9日、ついに危篤となった景宗は、従兄弟いとこ王治(ワン・チ)を呼び寄せ、王位を譲る教書を下しました。

このとき、景宗の息子・王誦は、生後1年を過ぎたばかりの幼子で、とても王位を継げる年齢ではありませんでした。

そこで、景宗は血縁的に近かった王治に王位を譲ることにしたのです。

それから2日後、景宗は世を去りました。享年25歳でした。

こうして、王治が王位に就くこととなりました。第6代王・成宗ソンジョンの即位です。

儒教を理念として、国家体制を整備する

成宗ソンジョンは即位すると、儒学者官人の崔承老(チェ・スンノ)を補佐役に据えて、本格的な国家体制の整備に力を注ぎました。

というのも、成宗は中国にならって、儒教を基本理念とした政治体制を敷くことで、中央集権体制ないし王権の強化を志していたからです。

中央官制の改変

具体的な政策としては、まず、中央官制の改変が挙げられます。

983年、成宗は中国王朝・とうの官制を参考に、中枢官庁として、唐の三省六部さんしょうりくぶに倣った三省六曹サムソンユクチョを設置しました。

三省六部
唐の中枢官庁。中書省門下省尚書省三省、尚書省の管轄化にある吏部兵部戸部刑部礼部工部六部からなる。皇帝の命令書は、まず中書省で起草され、門下省での審議を通して、尚書省で実施される仕組みとなっていた。尚書省に通達された命令は、執行機関である六部で実行された。

三省六曹サムソンユクチョ
983年、成宗が唐の三省六部に倣って設置した中枢官庁。内史省ネサソン門下省ムナソン御事都省オサトソン三省、御事都省の管轄化にある選官ソングァン兵官ピョングァン民官ミングァン刑官ヒョングァン礼官イェグァン工官コングァン六曹からなる。

991年には、中国王朝・そう枢密院ちゅうすういんに倣って、中枢院チュンチュウォン(王命の出納すいとうや宮中の機密に参与する国王の近侍組織)を設置します。

995年には、三省の一つである御事都省を、中国王朝と同じく尚書省に改め、それに伴って御事都省の管轄化にあった六曹も六部に改めました。

こうして、成宗は中国王朝に倣った中央官制を創出したのです。

地方制度の改革

一方、地方に対しては、中央から地方官を派遣することで、在地有力者(郷吏ヒャンリ)を牽制しようとしました。

983年、全国から主要な地域を選定して、ここに行政区画である12牧を設置し、それぞれ地方官(牧使モクサ)を派遣しました。

これに伴い、在地有力者への統制も強化します。

これまで地方では、地域ごとに、在地有力者たちによって多様な序列組織が形成されていました。

成宗はこれにメスを入れ、全ての地域を一貫して、戸長ホジャンを頂点とする序列組織に統一。

地域を問わず、各地の在地有力者たちは、この戸長を頂点とする序列組織に組織化されました。

もちろん、戸長に就くのは、在地有力者の中でも特に有力な者でした。

そして、その戸長の上には、中央から派遣された地方官がいたわけです。

このように、成宗は在地の有力者たちを組織化し、それを中央から派遣される地方官の管轄化に置くことで、中央集権化を目指したのです。

995年には、12牧の制度を改変し、牧使に代わって、軍事的な性格を帯びた節度使チョルトサが地方官として派遣されるようになりました。

これらの地方制度改革は、中国式の州県制(全国を州と県に分け、中央から地方官を派遣して統轄する)に倣ったものでした。

儀礼の中国化

成宗は中央官制、地方制度にとどまらず、国家儀礼についても中国化を推進しました。

983年、圜丘壇ウォングダン(祭天儀礼施設)を設置し、ここで祈穀祭(豊年を祈る)や雨乞いの儀式を行なったり、国王が自ら藉田チョクチョン(農耕儀礼)をしたりしました。

また、歴代の君主を祀る大廟テミョを建てました。これらは、いずれも中国式の儀礼を導入したものでした。

一方で、非中国的で土風的な儀式だった燃灯会ヨンドゥンフェ八関会パルグァンフェなどは廃止しました。

しかし、成宗のこうした改革は、かなり急進的な内容を含んでいたゆえに、反発を受けることもありました。

例えば、重臣の李知白(イ・ジベク)は燃灯会・八関会などの廃止に反対し、これら行事の復活を求めたことがありました。

とうとう成宗代に燃灯会・八関会が再び挙行されることはありませんでしたが、2代あとの顕宗ヒョンジョン(8代王)の時代に至って、二つの行事は復活することになります。

顕宗代に燃灯会・八関会が復活したことからみて、成宗代の廃止に対する反発は大きかったのだと思われます。

儒学者を重用する

成宗ソンジョンは儒教を基本理念とした政治体制を敷き、王権の強化を志向したわけですが、その実現には、儒学的素養を備えた人材が欠かせませんでした。

成宗はそうした人材を集めるため、科挙(官吏登用試験)を頻繁に実施しました。

科挙
中国のずい王朝(581~618年)で初めて導入された官吏登用試験。高麗では光宗クァンジョン(4代王)の時代に初めて実施された。

この科挙という試験は、すでに4代王・光宗の時代から実施されていたものの、これまでは開催回数が比較的少なかったのです。

それを、成宗は毎年実施するようにし、儒学に精通した人材をより多く確保するようにしたのです。

また、試験だけでなく、そうした人材を育てるための教育にも力を入れました。

986年には、開京ケギョン(高麗の都)に各地の在地有力者たちの子弟を集めて、教育を受けさせました。

992年には、開京に国子監ククチャガム(国の最高教育機関)を設置し、将来の官人候補生を養成するようにしました(ただし、国子監に入学できるのは、高位官僚の子弟に限られた)。

成宗はこうした施策を通じて、儒学的素養を備えた官人を重用することで、儒教を理念とした国政運営を実現したのでした。

その中でも、特に成宗が重用したのが、慶州キョンジュ(慶州一帯の非豪族出身者たち)や羅州ナジュ(羅州一帯の中小豪族たち)といった派閥の者たちでした。

慶州系や羅州系の官人は、成宗の志向する儒教を基本理念とした政治体制に深く共感していました。

とりわけ、慶州系は中国をモデルとした儒教的・華風的な政治路線を望んでいたため、成宗の理念と通ずるところが大きかったのです。

こういう理由で、成宗は慶州系や羅州系を重用したわけですね。

これにより、成宗の治世の前半期は、慶州系や羅州系を始めとする儒学者官人が政治の主導権を握ることとなりました

一方、慶州系や羅州系と対立する近畿系(開京に近い地域)の豪族勢力は、このように儒学者官人が政治の主導権を握る状況を面白く思っていませんでした。

近畿系の豪族勢力は土風的な政治を望んでおり、慶州系・羅州系の儒学者官人が主導する儒教的・華風的な改革に難色を示していたからです。

この政治的反動は、成宗の治世の後半期には表出し、穆宗モクチョン(7代王)の治世においては、逆に近畿系が慶州系・羅州系を圧倒して主導権を握ることとなります。

このあたりのことは、千秋太后の記事で詳しく解説しています。

契丹が侵攻してくる

国家体制の整備が進む中、外敵の脅威が迫ってきていました。

993年、契丹の皇帝聖宗せいそうが、東京留守とうきょうりゅうしゅ蕭遜寧しょうそんねいに命じて、高麗遠征を実施させたのです。

契丹(遼)
中国北方のモンゴル高原で活動する遊牧民の契丹族が建てた国。916年、耶律阿保機やりつあぼきが、それまで分散していた契丹諸部族を統合して建国した。947年に国号を遼とする。

これが、高麗契丹戦争・第1次戦争の幕開けでした。

高麗と契丹は以後、この第1次戦争を皮切りに、第2次戦争(1010年)、第3次戦争(1018年)と、3度にわたって大戦を繰り広げることとなるのです。

さて、蕭遜寧の率いる契丹軍は、鴨緑江アムノッカンを渡河して保州ポジュを経由し、いよいよ高麗に侵入してきました。

契丹軍の侵攻路
画像:安周燮(2003)、p.99、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

自ら戦争を指揮する

契丹が侵攻してくることを知った成宗ソンジョンは、急いで戦争の準備に取り掛かりました。

993年10月、成宗は朴良柔(パク・ヤンユ)を上軍使サングンサに、徐熙(ソ・ヒ)を中軍使チュングンサに、崔亮(チェ・リャン)を下軍使ハグンサに任命し、それぞれ最前線に配置して軍を指揮させました。

ちなみに、このとき下軍使に任命された崔亮は、成宗の学問の師匠でした。

そして、成宗自身も出陣し、西京ソギョン(現在の北朝鮮・平壌)へ行幸して、陣頭指揮する意思を示しました。

緒戦で敗北する

蓬山郡の戦闘
画像:安周燮(2003)、p.99をもとに筆者作成

993年10月、蕭遜寧しょうそんねいの率いる契丹軍は、鴨緑江アムノッカンを渡ったあと、保州ポジュを経由して蓬山郡ポンサングンへ侵攻。ここで最初の戦闘が繰り広げられました。

高麗側は先鋒将の尹庶顔(ユン・ソアン)がこれを迎え撃ちました。

ところが、この戦闘で高麗軍は尽く撃破され、先鋒将の尹庶顔は敵に捕らえられてしまいます。

この頃、西京ソギョンに滞在していた成宗ソンジョンは、自ら前線で軍を指揮しようと、高麗軍の指揮所がある安北府アンブクプへ向かっているところでした。

しかし、高麗軍の敗北により、成宗は安北府まで行くことができなくなり、西京に戻らざるを得なくなりました。

そこで、成宗は中軍使の徐熙(ソ・ヒ)を蓬山郡に派遣して、契丹軍の侵攻を阻ませるようにしました。

割地論(契丹への領土割譲)を選択する

徐熙(ソ・ヒ)が蓬山郡で契丹軍の侵攻を阻む中、契丹の将帥・蕭遜寧しょうそんねいは「80万の軍勢を率いてきた」と豪語しながら、高麗朝廷に降伏を勧誘しました。

これを受けて、成宗ソンジョンは臣下を集めて対策を議論させました。

このとき、臣下の意見は二つに分かれました。

一つ目が降伏論、二つ目が割地論です。

降伏論
蕭遜寧の降伏要求を受け入れようという立場。降伏を受け入れれば、戦争によるこれ以上の被害を免れることができます。しかし、その代わりに、高麗が契丹の属国となり、多くの貢物を献上し、内政干渉を受けなければならないことを意味しました。

割地論
降伏しない代わりに、西京以北の土地を契丹に切り離して与えようという立場。降伏の負担を避けることができますが、その代償として、土地を失うことになります。

降伏するか、あるいは降伏を避けて土地を失うか、いずれも消極的な主張でした。

高麗は緒戦で敗北したうえ、蕭遜寧が「80万の軍勢を率いてきた」と脅してきたので、臣下たちも相当に萎縮していたのでしょう。

苦渋の決断を迫られた成宗は、結局、西京以北の土地を契丹に与える割地論を選択しました。

徐熙(ソ・ヒ)の諫言により、割地論を諦める

西京ソギョン以北の割譲を決断した成宗ソンジョンは、西京の穀物倉を民に開放し、残った穀物は契丹の軍糧米とならないよう川に投げ捨てるように命じました。

ところが、戦争指揮官の一人・中軍使の徐熙(ソ・ヒ)がこの行為を厳しく諫言したので、成宗はついに命令を取り消しました。

続けて、徐熙(ソ・ヒ)は、成宗が選択した割地論を猛烈に批判。

徐熙の諫言を受けて、とうとう成宗は割地論も諦め、契丹との講和を模索することにしました。

一方、この頃、契丹の蕭遜寧しょうそんねいは、高麗から降伏についての返答が遅れていたため、軍勢を派遣して、安戎鎮アニュンジンを攻撃しました。

安戎鎮アニュンジン
清川江チョンチョンガン下流の渡河地域に位置した鎮。清川江以北を守る高麗軍の指揮所が置かれた安北府アンブクプから西方に約26kmの地点に位置する。

安戎鎮の戦闘
画像:安周燮(2003)、p.45、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

安戎鎮の戦闘では、高麗の将帥・大道秀(テ・ドス)、庾方(ユ・バン)らが契丹軍の攻勢から城をよく守り、ついには敵を撃退することに成功します。

契丹軍はこれ以上の進軍ができなくなり、再び使者を派遣して高麗朝廷に降伏を促しました。

徐熙を契丹陣営に送り、会談をさせる

割地論を諦めて契丹との講和を模索した成宗ソンジョンは、張瑩(チャン・ヨン)を契丹陣営に派遣したところ、蕭遜寧しょうそんねいはもっと位の高い大臣を遣わすように要求してきました。

そこで、成宗は、契丹との会談を自ら名乗り出た徐熙(ソ・ヒ)を契丹陣営に派遣し、蕭遜寧と会談をさせました。

結果、徐熙は巧みな弁舌で会談を有利に導き、高麗優位の講和を取り結ぶことに成功します。

具体的には、高麗は西京ソギョン以北の土地を失わずに済んだばかりか、かえって鴨緑江アムノッカン以東の地域を獲得することに成功したのです。

講和が成立すると、ついに契丹軍は撤退していきました。こうして、契丹との第1次戦争は終結したのでした。

講和会談を成功に導いた徐熙の功績は、とても大きなものでした。

その翌年(994年)、成宗は新たに獲得した西北地域の経営を進めました。

まず、徐熙を派遣して、鴨緑江周辺の女真族を追い払い、長興鎮チャンフンジン帰化鎮キファジン郭州クァクチュ亀州クィジュに城を築かせました。

その翌年(995年)には、徐熙に命じて安義鎮アニジン興化鎮フンファジンに城を築かせ、そのまた翌年(996)には通州トンジュ孟州メンジュに城を築かせます。

そして、成宗はこれらの地域に江東六州カンドンユクチュ(興化鎮・龍州ヨンジュ・通州・鉄州チョルチュ・亀州・郭州)を設置し、行政区域として編入しました。

江東六州
画像:安周燮(2003)、p.110をもとに筆者作成

病にかかり、王誦(ワン・ソン)に譲位する

997年9月、成宗ソンジョンは病におかされ、床に就くようになりました。

翌月、危篤状態に陥った成宗は、甥の開寧君ケリョングン王誦(ワン・ソン)を呼び寄せ、譲位を宣言。

王誦(ワン・ソン)
高麗5代王・景宗キョンジョン献哀王太后ホネワンテフ皇甫ファンボ氏(のちの千秋太后チョンチュテフ)の間に生まれた息子。7代王・穆宗モクチョンとなる。

かつて、景宗から王位を譲り受けた成宗が、今度は景宗の息子である王誦にその位を譲り渡したのです。

高麗7代王・穆宗モクチョンの即位でした。

その後、成宗は宮殿を出て、内天王寺ネチョンワンサというお寺に入りました。そして、まもなく薨去しました。

享年は36歳でした。

続く穆宗の治世では、母后・千秋太后チョンチュテフが摂政となって実権を握り、政治を執り行なうこととなります。

これ以降のことは、千秋太后の記事で詳しく解説しています。

ドラマ『千秋太后』と史実の違い(ネタバレ注意)

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

崇徳宮主(のちの千秋太后)を息子に会わせなかった?

ドラマ『千秋太后』では、成宗ソンジョンはチェ・ジモンの予言に従って、崇徳宮主スンドククンジュ(のちの千秋太后)と彼女の息子・王誦(ワン・ソン)を隔離し、二人を会わせないようにしていました。

そのチェ・ジモンの予言とは、将来、崇徳宮主が成宗の障害になるというものでした。

チェ・ジモンは崇徳宮主の排除まで勧めましたが、さすがに成宗はそれには従わず、崇徳宮主を遠ざけて、王誦(ワン・ソン)を王室で育てることにしたのでした。

成宗は、実の妹である崇徳宮主にこのような仕打ちをしなければならないことに心苦しさを感じながらも、予言があるゆえに、どうすることもできない。そんな心の葛藤を抱えていました。

実のところ、これらの展開はドラマのフィクションであり、事実ではありません

確かに、崇徳宮主の息子・王誦が王室で育てられたのは事実とみてよいですが、成宗が母子を意図的に引き離すようなことはありませんでした。

成宗の治世における崇徳宮主の動向はほとんど記録に残されていません。

ただ、彼女は千秋太后として権力を握る前から、宮殿内の千秋宮に居住していたことが分かっています『高麗史』巻『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽

そのため、成宗の治世において、崇徳宮主と王誦は共に宮殿で暮らしていたと考えられます。

ドラマでは、成宗が崇徳宮主を宮殿から退け、息子に会わせないようにしましたが、これは事実ではなかったのですね。

崇徳宮主(のちの千秋太后)と対立した?

ドラマでは、成宗と崇徳宮主スンドククンジュの関係性は、成宗が崇徳宮主を宮殿から退けたことや、政治的信念の違いが原因で、対立の関係にありました。

しかし、歴史書からは二人の対立構造を見出すことはできません

確かに、史実においても、成宗が慶州キョンジュ(ドラマでは「新羅系」と呼ばれている)を重用したのに対し、千秋太后は慶州系と対立する近畿系(ドラマでは「北方系」と呼ばれている)を重用しました。

ですが、これは慶州系近畿系の派閥的な対立に過ぎず、千秋太后と成宗本人が対立したわけではありませんでした。

もちろん、成宗の没後に千秋太后が権力を握ったという流れから考えれば、二人の間に全く対立がなかったとも言い切れませんが、ドラマのような露骨な対立構造は少なくとも歴史書から知ることはできません。

参考文献

  • 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
  • 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
  • 권순형(クォン・スニョン)「고려 목종대 헌애왕태후의 섭정에 대한 고찰(高麗 穆宗代 献哀王太后の摂政に対する考察)」『史學硏究』89号、2008年、pp.49-86
  • 홍영의(ホン・ヨンイ)『고려왕조실록(高麗王朝実録)』살림출판사(サルリム出版社)、2024年
  • 矢木毅『高麗官僚制度研究』京都大学学術出版会、2008年
  • 李成市、宮嶋博史、糟谷憲一 編『朝鮮史1(世界歴史大系)』山川出版社、2017年
  • 『高麗史』巻2、世家第2、景宗
  • 『高麗史』巻3、世家第3、成宗
  • 『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、神静王太后皇甫氏、献哀王太后皇甫氏、献貞王后皇甫氏
  • 『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
  • 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

目次