ドラマ『千秋太后』に登場するムン・イニは実在した人物です。
ドラマでは、当初、新羅系の筆頭であるチェ・ソムの執事として登場しましたが、実は密偵であり、裏では真の主君であるキム・チヤンに仕えていました。
ところが、ドラマの後半では、主君であるキム・チヤンに対しても、これまでとは違った行動を取るように・・・。
そんなムン・イニですが、史実では、どのような人物だったのでしょうか?
この記事では、ムン・イニという人物について、高麗の歴史書(『高麗史』『高麗史節要』)や研究論文に基づいて解説していきます。
記事の最後では、ドラマで描かれるムン・イニと史実との違いも解説しております。
文仁渭(ムン・イニ)の詳細
文仁渭の基本情報
姓名:文仁渭(ムン・イニ)
出生年:不明
死亡年:1019年(顕宗10年)
最終官職:尚書左僕射
家族構成
不明
文仁渭(ムン・イニ)の生涯
生い立ち
文仁渭(ムン・イニ)の記録はあまり残されておらず、生い立ちや家族のことは全く分かってません。
出身については記録があり、長淵県(現在の北朝鮮・黄海南道・長淵郡)の出身であったことが分かっています。
その性格は誠実で、飾り気のない人物であったといいます。
千秋太后により登用され、千秋宮使となる
文仁渭(ムン・イニ)が歴史舞台に初めて登場したのは、高麗7代王・穆宗(モクチョン)の時代でした。
穆宗の時代、文仁渭は朝廷に登用され、千秋宮使に任命されました。
千秋宮使の具体的な職掌は詳らかではありません。
ただ、職名から推測して、千秋太后(穆宗の母后)の側近として身辺を管理するポジションであったと考えられます。
当時、国王は穆宗だったのですが、母后である千秋太后が摂政(国王に代わって政事を行なうこと、またその立場)を行なっていたため、国の中心は実質、千秋太后でした。
文仁渭は、その千秋太后の側近たる重要な役職を任されたのです。
恐らく、文仁渭を登用したのも、千秋太后だったのでしょう。
千秋太后は摂政として権力を握ると、自身の後援勢力である近畿系(開京に近い地域を出身とする派閥)の者たちを中心に登用しました。
例えば、洞州出身の金致陽(キム・チヤン)、黄州出身の皇甫兪義(ファンボ・ユイ)などが挙げられますが、文仁渭もその一人でした。
文仁渭の身分や素性はよく分かりませんが、彼の出身地である長淵県は近畿系に該当し、また千秋太后の故郷である黄州にも近いため、もともと太后と関係があった可能性が高いです。
こうした縁もあって、文仁渭は千秋宮使に任命されたものと考えられます。
※千秋太后の生涯や摂政については、以下の記事で詳しく解説しています。

千秋太后の失脚にもかかわらず、唯一生き残る
千秋太后は摂政として国政を主導する傍ら、愛人である金致陽(キム・チヤン)と私通して息子を産みました。
すると、千秋太后と金致陽は、自分たちの息子を穆宗の後継者にしようと企むようになり、王位継承の有力候補者であった大良院君(テリャンウォングン)を追放したうえ、害そうとしました。
とりわけ、早くから反乱の計画まで立てていた金致陽は、ついにその計画を実行に移そうとしていました。
1009年1月、国王の穆宗(モクチョン)が燃灯会を開いていたところ、宮殿内で火災が発生し、母后・千秋太后の住む千秋殿が焼失してしまいました。
これを受けて、穆宗は深く心を痛め、病床に伏すまでになってしまいます。
あまりにも傷心が大きかったのか、これ以降、穆宗は政事を疎かにするようになりました。

火災の真相は分かっていませんが、一説によれば、金致陽が意図的に起こしたと考えられています。
王が病床に伏すと、金致陽はこの隙に乗じて、いよいよ反乱を起こそうとします。
ところが、この反乱は未然のうちに、穆宗の側近であった劉忠正(ユ・チュンジョン)の告発により、すぐに穆宗の耳にも伝わります。
金致陽の企てを知った穆宗は、臣下の蔡忠順(チェ・チュンスン)と相談し、大良院君(テリャンウォングン)を迎えて後継者にすることを決断。
同時に、穆宗は自身の身を守るために、西北面都巡検使の康兆(カン・ジョ)を呼び寄せ、護衛させるようにしました。
しかし、この康兆は、穆宗がすでに亡くなって朝廷が金致陽に掌握されたと勘違いし、金致陽の討伐を掲げて王都へ進軍を開始してしまいます。
康兆はその道中で、穆宗が存命であることを知りますが、もはや挙兵したからには後戻りはできないと悟り、政変を決意。そのまま王都へ進軍を続けました。
結局、康兆が王都を掌握し、金致陽父子は処刑され、穆宗と千秋太后は追放されることとなりました。
金致陽の処刑や千秋太后の失脚に伴い、太后側の官僚の多くが連座して処刑されたり、流刑に処されたりしました。
ところが、ただひとり文仁渭(ムン・イニ)だけが、康兆の庇護によって罪を免れることができました。
なぜ、康兆が太后の側近である文仁渭を助けたのかは判然としません。



文仁渭の出身地である長淵県は、康兆の出身地と考えられる信州にかなり近いため、二人の間には親交があったのかもしれません。
いずれにしても、太后や金致陽の勢力が総じて失脚する中、ひとり文仁渭だけは生き残ることができたのです。
※金致陽(キム・チヤン)と康兆(カン・ジョ)については、以下の記事で詳しく解説しています。




宰相となる
千秋太后の側近であったにもかかわらず罪を免れた文仁渭(ムン・イニ)は、そればかりか昇進を遂げて、高官職を歴任することになります。
康兆(カン・ジョ)の政変で擁立された顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)の時代、文仁渭はまず工部尚書(正3品)を経て右僕射(正2品)に任命され、すぐに参知政事(正2品)を兼職することになり、その後、左僕射(正2品)の官職を授かりました。
工部尚書、右僕射、参知政事、左僕射はどれも高級文官職です。
とりわけ、当時の高麗では、右僕射と左僕射は実職のない名誉職のようなものでしたが、同時に「参知政事」や「正堂文学」などの宰相職を兼ねることで、宰相会議に参与することができました。
文仁渭は参知政事を兼職したので、実職のある宰相として政事に関与していたのです。
文仁渭がこのように昇進を遂げた理由は記録されていませんが、彼が右僕射に任命された頃には、すでに康兆は死去しているので、康兆が力添えをしたわけではなさそうです。
『高麗史』は文仁渭の性格について、「誠実で、飾り気のない人物であった」と語っています。
その誠実さ、素朴さが評価されたのかもしれません。あるいは、彼自身に才があったからかもしれません。
このあたりのことは想像することしかできないのですが、とにもかくにも、文仁渭は宰相に席を連ねるほどに昇進を遂げたのでした。
そして、1019年に文仁渭は死去しました。
ドラマ『千秋太后』と史実の違い
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
キム・チヤンの部下だった?
ドラマ『千秋太后』では、文仁渭(ムン・イニ)は金致陽(キム・チヤン)の部下の一人でした。
ドラマの前半では、密偵として、新羅系の筆頭であるチェ・ソムの執事となって、金致陽に情報を流していました。
しかし、史実においては、文仁渭は金致陽の部下であったというよりは、千秋太后の側近でした。
彼は千秋太后によって朝廷に登用され、太后の身辺を管理する千秋宮使という重職を任されていました。
ただし、千秋太后の側近であれば、すなわち金致陽にも近しい人物であったと考えられます。
ドラマのように、金致陽の直属の部下ではなかったでしょうが、面識はあったに違いありません。
ところで、ドラマの前半では、文仁渭はチェ・ソムの執事でしたが、これは事実ではありません。
チェ・ソムは実在した人物なのですが、文仁渭がその執事になったという記録は存在しないからです。
主君を裏切った?
ドラマの後半、文仁渭は大業に失敗した主君・金致陽から離反し、ずる賢い立ち回りによって、金致陽勢力の中でただひとり生き残ることに成功しました。
しかし、これも事実とは異なります。
史実においては、そもそも文仁渭は金致陽の乱に加担していないからです。
彼が金致陽や千秋太后の失脚後も生き残ることができたのは事実です。
ただし、それは金致陽や千秋太后を失脚させた張本人である康兆(カン・ジョ)の庇護があったからでした。※千秋太后の失脚にもかかわらず、唯一生き残るを参照
参考文献
- 권순형(クォン・スニョン)「고려 목종대 헌애왕태후의 섭정에 대한 고찰(高麗 穆宗代 献哀王太后の摂政に対する考察)」『史學硏究』89号、2008年、pp.49-86
- 矢木毅『高麗官僚制度研究』京都大学学術出版会、2008年
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗即位年(1009)3月
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)8月4日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)12月10日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗10年(1019)3月4日
- 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽
- 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆
- 『高麗史節要』巻3、顕宗2年(1011)8月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗2年(1011)12月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗10年(1019)3月








