ドラマ『千秋太后』に登場するキム・シモンは実在した人物です。
ドラマでは、新羅系の筆頭チェ・ソムの婿であり、開寧君(のちの穆宗)の師父を務めていました。
千秋太后とは深く対立し、チェ・ソムや延興宮主とともに悪知恵を働かせて、太后一派を害そうとしたり、陥れようとしたりしました。
ドラマでは、悪役の立ち位置にあった人物と言えるでしょう。
しかし、史実におけるキム・シモンの人柄は、ドラマで描写された悪いイメージとは似ても似つかないものでした。
実際には、どのような人物だったのでしょうか?
この記事では、キム・シモンの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて解説していきます。
記事の最後では、ドラマ『千秋太后』で描写されたキム・シモンと史実との違いを解説しています。
金審言(キム・シモン)の詳細
金審言の基本情報
姓名:金審言(キム・シモン)
出生年:不明
死亡年:1018年(顕宗9年)
最終官職:内史侍郎平章事
家族構成
父母:不詳
配偶者:崔氏
義父:崔暹(チェ・ソム)
金審言(キム・シモン)の生涯
生い立ち
金審言(キム・シモン)の出身地は静州霊光県。現在の韓国・全南光州統合特別市・霊光郡に当たります。
出生年や幼少期のことは記録に残されていませんが、早くから学者の崔暹(チェ・ソム)に師事し、学問に力を注いだようです。
やがて、師父の崔暹は、自分の娘を金審言に嫁がせることにしました。
これにより、金審言と崔暹は婿と義父の関係になりました。
科挙に合格し、昇進を重ねる
崔暹(チェ・ソム)のもとで学識を深めた金審言(キム・シモン)は、成宗(高麗6代王)の時代に科挙を受験し、これに合格しました。
金審言は仕官すると、何度も昇進を重ねて、右補闕 兼 起居注の官職を得ました。
右補闕 兼 起居注は中級官職に相当するもので、科挙に合格したとしても、そう簡単に就ける官職ではありません。
科挙合格から短期間で右補闕 兼 起居注にまで昇進した金審言は、学問だけでなく、政務を処理する能力にも長けていたと考えられます。
一方、金審言が昇進を重ねたのは、彼自身の能力だけでなく、国王成宗の意向も強く関わっていました。
成宗は儒教を重視し、これを基本理念とした政治を志向していました。
この成宗の理念に共感していたのが、慶州系(慶州一帯の非豪族出身者たち)や羅州系(羅州一帯の中小豪族たち)といった派閥でした。
成宗は慶州系や羅州系の者たちを中心に登用し、彼らを重用することで、儒教を基本理念とした政治を実現したのです。
金審言も、その中で重用された一人であったと考えられます。
というのも、金審言の出身地である静州霊光県は羅州に近く、彼自身、羅州系に属する人物だったからです。
しかも、金審言は儒学に精通した儒学者でもありました。
儒教を基本理念とした政治を志向する成宗にとって、金審言は逸材だったのです。
金審言の昇進の背景には、こうした成宗の意向があったと考えられます。
※高麗6代王・成宗(ソンジョン)については、以下の記事で詳しく解説しています。

成宗に提言する
990年、金審言(キム・シモン)は成宗(高麗6代王)に対して、提言を記した文書を上げました。
この文書で金審言は、以下の二つの古典を引用しながら、主張を展開しました。
一つ目の古典は、前漢の儒学者・劉向が編纂した『説苑』という書物に収載される「六正・六邪文」です。
「六正・六邪文」は、六正(臣下として正しい六つのあり方)と六邪(臣下として間違った六つのあり方)を列挙したものでした。
二つ目の古典は、前漢の歴史書『漢書』に見える「刺史六条の政」です。
「刺史六条の政」は、地方官として正しい六つのあり方を説いたものでした。
内容からうかがえるように、「六正・六邪文」と「刺史六条の政」はいずれも、「正しい臣下としてのあり方」を啓発した古典でした。
金審言は古典を引用し終えると、次いで、これらの古典の内容を中央と地方の所管庁に頒布し、各官庁の壁に掲示して、模範とすることを要請しました。
さらに続けて、金審言は、かつて唐が洛陽に知台御史(百官を監察する役職)を設置した例に倣い、西京(高麗の第二の都、※現在の北朝鮮・平壌)にも司憲を設置し、官吏の不正を正すことを要請しました。
つまり、金審言はこの文書を通して、「正しく誠実な臣下」を増やし、「間違った不誠実な臣下」を減らすための具体的な政策提言を行なったのでした。
成宗は金審言の提言を深く称賛し、これを中央と地方の所管庁に対する訓戒としたうえ、この提言に基づいて政策を施行するようにしました。
※この提言の全文は金審言の伝記(『高麗史』巻93、列伝第6、金審言)に掲載されています。金審言の伝記は、以下の記事で現代語訳されているので、気になる方はご覧ください。

地方に赴任し、名声を得る
成宗を継いで即位した穆宗(高麗7代王)の時代、金審言(キム・シモン)は地方に赴任し、某州の長官になりました。
金審言は地方長官でありながら、自ら農事に励み、現地の民たちを救済しました。
これにより、金審言は大きな名声を得たといいます。
ところで、成宗の時代に朝廷で昇進を重ねていた金審言が、穆宗の時代に至って、なぜ急に地方へ転任することになったのでしょうか?
一説によれば、穆宗代には近畿系(開京に近い地域の出身者たち)が台頭し、成宗代に有力だった慶州系(慶州一帯の非豪族出身者たち)や羅州系(羅州一帯の中小豪族たち)の勢力が弱体化したためだと考えられています。
金審言は羅州系に属する人物だったので、近畿系が台頭した穆宗朝においては、朝廷に彼の居場所はなかったとみられます。
そういうわけで、地方へ転任することになったのだと思われます。
このことは、のちの顕宗(高麗8代王)の時代、金審言が再び朝廷に復職し、昇進を重ねることからも裏付けられます。
ちなみに、穆宗代に近畿系が台頭した理由は、母后である千秋太后の勢力基盤が黄州皇甫氏を始めとする近畿系の大豪族だったからです。
千秋太后は摂政(国王に代わって政事を行なうこと、またその立場)に就き、自らの勢力基盤である近畿系を中心に登用し、時の政治を主導しました。
このあたりのことは、千秋太后の記事で詳しく解説しています。

朝廷に戻り、さらに昇進を重ねる
1009年、西北面都巡検使の康兆(カン・ジョ)が政変を起こし、千秋太后の愛人で権臣の金致陽(キム・チヤン)を殺害し、太后を退けて、穆宗をも排除して政権を握りました。

それから、康兆は王族の大良院君を擁立して、王位に就けました。高麗8代王・顕宗の即位です。
顕宗が即位すると、それまで地方へ転任していた金審言(キム・シモン)は朝廷に復職し、右散騎常侍(正3品の文官職)に抜擢されました。
その後、間もなく、礼部尚書(正3品の文官職)に転任。
1014年(顕宗5年)には、内史侍郎平章事(正2品の文官職)に昇進を遂げました。
内史侍郎平章事は、宰相クラスの最高級官職の一つでした。
顕宗代、金審言はこうして昇進を重ね、宰相の一人として席を連ねることになったのでした。
それから4年後、金審言は死去しました。
金審言の末年は、このように官職の昇進記事が中心で、具体的な活動はほとんど知ることができません。
ドラマ『千秋太后』と史実の違い(ネタバレ注意)
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
なぜ、キム・シモンは悪役として描かれたのか?
ドラマ『千秋太后』では、キム・シモンはチェ・ソムらとともに千秋太后を害そうとしたり、延興宮主と結託し、悪知恵を働かせて、太后一派を陥れようとしたりするなど、悪役として描写されていました。
しかし、史実における金審言(キム・シモン)は、ドラマの悪役イメージとは似ても似つかない、清廉な官僚でした。
このことは、彼が成宗(高麗6代王)に対して、「正しく誠実な臣下」を増やすために、古典を引用しながら熱心な政策提言を行なったことから、よくうかがうことができます(詳しくは、本記事の成宗に提言するを参照)。
では、なぜ、金審言はドラマであれほど悪役として描かれたのでしょうか?
それは、史実において、金審言と千秋太后がそれぞれ対立する政治的派閥に属していたからだと考えられます。
金審言は羅州系(羅州一帯の中小豪族たち)に属する人間だったのに対し、千秋太后は羅州系と対立する近畿系(開京に近い地域の出身者たち)の代表的人物でした。
つまり、史実上、金審言は千秋太后と対立する派閥に属していたため、ドラマでは主人公の千秋太后に対立する人間の立ち位置として、「悪いイメージ」で描写されたのだと思われます。
実際には、金審言は悪人ではないのですが、ドラマではこういう事情があって、彼を悪役として描いたのでしょう。
そのため、チェ・ソムらとともに千秋太后を害そうとしたことや、延興宮主との結託も全てフィクションです。
また、千秋太后の排除に失敗し、チェ・ソムらとともに流刑に処されるシーンも見られましたが、もちろん、これも事実ではありません。
参考文献
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗即位年(1009)3月
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)5月5日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗5年(1014)4月21日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗9年(1018)9月28日
- 『高麗史』巻93、列伝第6、金審言
- 『高麗史節要』巻3、顕宗9年(1018)9月

