キムチヤン(金致陽)は実在した人物【千秋太后の愛人】

ドラマ『千秋太后』や『高麗契丹戦争』に登場するキム・チヤン。

『千秋太后』では、大業を遂げるためならば何でもいとわない冷徹さを発揮する一方、実は太后を愛する心を諦められないなど、人情の持ち主でもありました。

キム・チヤン(金致陽)は実在した人物です

劇中では、キム・チヤンは新羅王の後裔として登場したり、自らの大業を遂げるため千秋太后に取り入って愛人になったりしていましたが、一体、どこまでが史実なのでしょうか?

この記事では、キム・チヤン(金致陽)の生涯について、高麗の歴史書(『高麗史』『高麗史節要』)や研究論文に基づいて解説していきます。

記事の最後では、ドラマ『千秋太后』で描かれるキム・チヤンと史実との違いも解説しております。

目次

金致陽(キム・チヤン)の詳細

金致陽の基本情報

姓名:金致陽(キム・チヤン)
出生年:不明
死亡年:1009年(穆宗12年)
最終官職:右僕射 兼 三司事

家族構成

祖先:金行波(キム・ヘンパ)

愛人:千秋太后
息子:※姓名不明

金致陽(キム・チヤン)の生涯

生い立ちと出自

金致陽(キム・チヤン)の生い立ちについては、残念ながら、歴史書に記録が残っておらず、よく分かっていません。

ただ、高麗の歴史書である『高麗史』によれば、金致陽は洞州トンジュ(現在の黄海北道・瑞興郡ソフングン)の出身で、「千秋太后の外族」であると記録されています(『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽伝)。

この「外族」は母方の親戚と解釈するのが最も自然です。

仮に、母方の親戚でなかったとしても、わざわざ「千秋太后の外族」と記している点から、それが血縁的に近いか遠いかはさて置き、金致陽は千秋太后と親戚関係にあったと考えられます

実際、金致陽の祖先とされる金行波(キム・ヘンパ)は、太祖テジョ(高麗の初代王)に二人の娘を嫁がせています(『高麗史』巻88、列伝1、后妃1、大西院夫人金氏・小西院夫人金氏)。

金行波(キム・ヘンパ)
洞州出身の豪族。弓術と馬術に優れ、太祖から金姓を賜った。太祖の西京行幸に際して、金行波は太祖を家に招き、二人の娘を侍らせた。のちに、太祖は彼女たちを夫人として迎え入れ、西京ソギョンに大西院と小西院という二つの寺を建てて、それぞれ彼女たちを住まわせた。

二人の娘が太祖の妃になったことで、金行波は王室の外戚になったわけです。

それならば、金行波の子孫である金致陽自身も、王室と何らかの関係性を持っていた可能性は高く、「千秋太后の外族」という記録も妥当性のあるものと判断されます。

結局、金致陽の生い立ちはよく分からないのですが、洞州の豪族である金行波の子孫であったこと、千秋太后の親戚であったことは確かだと言えます

千秋太后(献哀王ホネワン太后皇甫ファンボ氏)については、以下の記事で詳しく解説しております。

千秋太后との間で醜聞(スキャンダル)を起こし、流刑に処される

成宗(ソンジョン、高麗6代王)の時代、金致陽(キム・チヤン)は剃髪して僧侶を装い、皇甫ファンボ氏(のちの千秋太后)が居住する千秋宮に出入りし、醜聞(スキャンダル)を起こしました。

具体的にどのような醜聞(スキャンダル)だったのかは記録が残されていませんが、恐らく、密通の類でしょう。

これを知った成宗は、金致陽を棍棒で打たせ、遠方へ流刑に処したといいます。

このような事実から見るに、成宗の時代には、すでに金致陽と皇甫氏(のちの千秋太后)は愛人関係にあったようです。

彼らがいつ、どのように出会い、愛し合うようになったのかは知る由もありませんが、もともと親戚であったため、出会う機会はそれなりにあったと思われます。

穆宗の即位後、高官職に任命される

997年、成宗が病死し、穆宗(モクチョン、高麗7代王)が即位しました。

穆宗(モクチョン)[在位:997~1009]
高麗7代王。5代王景宗(キョンジョン)の息子で、980年に生まれた。997年、18歳で即位したものの、母后である千秋太后(チョンチュテフ)の摂政を受けるなど、その治世には母后の影響力が強く作用した。

穆宗が即位すると、母后である千秋太后が摂政(国王に代わって政事を行なうこと、またその立場)となり、政事を執り行ないました。

このとき、流刑に処されていた金致陽(キム・チヤン)は、穆宗(実質的には千秋太后)によって呼び戻され、閤門通事舎人ハンムントンササインの官職に任命されました。

閤門通事舎人
閤門ハンムン(国家儀礼や国王の政務空間を管理する機関)に所属する官職の一種。位階は正7品。

それから、数年もしないうちに、金致陽は高官職である右僕射ウボギャ三司事サムササに任命されました。

当時、右僕射は実質的な職務のない名ばかりの官職でしたが、一方で三司事は国家の財政を掌る三司の高官(正3品)でした。

つまり、金致陽は国家財政を掌る重要なポストに抜擢されたのです。

『高麗史』によれば、こうした金致陽の急激な昇進は、寵愛によるものとされていますが、無論、それは愛人である千秋太后の寵愛だったに違いありません。

こうして、権力を握った金致陽は以後、愛人の太后とともに権勢を振るっていくこととなるのです。

権勢を振るう

穆宗(モクチョン)の治世は、主に母后である千秋太后が政務を執り行ない、さまざまな政策を打ち出していました。

金致陽(キム・チヤン)は右僕射ウボギャ三司事サムササの官職を帯び、強大な権力を有して、太后とともに政治に関与しました。

『高麗史』によれば、この頃、百官の人事権は全て金致陽の手から出るようになり、その親族や一味が要職を占め、勢力は国中に及んだといいます。

このように権勢を誇った金致陽は、広大な屋敷を構え、そこには楼閣や庭園、美しい池があったとも記録されています。まさに、彼の権勢を象徴するような屋敷です。

また、農民を動員して、自らの故郷である洞州トンジュ星宿寺ソンスサを建立したほか、王都(開京)の西北に十王寺シワンサを建立しました。

金致陽がこのような寺を建てたのは、「異志」(反逆の心)を抱いていた彼が、その志を成就させるために、神秘的な加護を受けるためだったといいます。

事実、のちに金致陽は反乱をたくらむことになりますが、寺を建てた動機から見るに、この頃から着々とその準備を進めていたのでしょう。

今や高麗朝廷は太后と金致陽の天下と言えました。

一方、国王の穆宗は金致陽を恨み、常に追放したいと思っていましたが、母后の意に逆らうことを恐れ、結局は実行することができませんでした。

大良院君を僧侶にして追放する

1003年、金致陽(キム・チヤン)は千秋太后と私通し、太后との間に息子をもうけました。

すると、金致陽と太后は、自分たちの息子を穆宗(モクチョン)の後継者にしようとくわだてるようになります。

そこで、金致陽らは真っ先に、王位継承の有力候補であった大良院君(テリャンウォングン)を強制的に出家させ、三角山サムガクサン神穴寺シニョルサという寺に送ります。

大良院君(テリャンウォングン)
いみなは王詢(ワン・スン)。王郁(ワン・ウク、太祖の息子)と献貞ホンジョン王后(千秋太后の妹)の間に生まれる。のちの高麗8代王・顕宗(ヒョンジョン)。

さらに、寺に送っただけでは終わらず、大良院君の暗殺まで企てた金致陽と太后は、神穴寺に女官を遣わして、毒入りの酒と餅を送らせました。

寺の僧侶の助けにより、大良院君はこれを避けることができましたが、女官が帰ったあと、この酒と餅を庭に撒いたところ、(からす)(すずめ)が食べてすぐに死んでしまったといいます(『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、献貞王后皇甫氏)。

このように、金致陽と太后は大良院君を追放したうえ、暗殺を目論んだのですが、結局、追放しただけで暗殺には失敗したのでした。

息子を王にするため反乱を企てる

大良院君(テリャンウォングン)の暗殺に失敗した金致陽は、いよいよ温めてきた反乱の計画を実行に移そうとしていました。

穆宗(モクチョン)の治世も末年に差し掛かった頃のことです。

1009年1月、穆宗が燃灯会ねんとうえを開いていたところ、宮殿内で火災が発生し、母后・千秋太后の住む千秋殿が焼失してしまいました。

これを受けて、穆宗は深く心を痛め、病床に伏すまでに。

あまりにも傷心が大きかったのか、これ以降、穆宗は政事を疎かにするようになりました。

火災の真相は分かっていませんが、一説によれば、金致陽が意図的に起こしたと考えられています。

王が病床に伏すと、金致陽はこの隙に乗じて反乱をくわだてました。自分と太后の息子を王位に就けるためです。

ところが、この企ては穆宗の側近であった劉忠正(ユ・チュンジョン)の告発により、すぐに穆宗の耳にも伝わります。

金致陽の企てを知った穆宗は、臣下の蔡忠順(チェ・チュンスン)と相談し、大良院君(テリャンウォングン)を迎えて後継者にすることを決断しました。

次いで、穆宗は蔡忠順に命じて大良院君宛ての書状を書かせ、それを皇甫兪義(ファンボ・ユイ)に託し、神穴寺にいる大良院君を迎えに行かせました。

それと同時に、穆宗は自身の身を守るために、西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサ康兆(カン・ジョ)を呼び寄せ、護衛させるようにしました。

西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサ
西京ソギョン(現在の北朝鮮・平壌)を拠点に、西北面(現在の平安北道・南道一帯)の防備と軍事指揮を担当する臨時の最高官職。

ところが、この康兆(カン・ジョ)は、穆宗がすでに亡くなって朝廷が金致陽に掌握されたと勘違いし、金致陽の討伐を掲げて王都へ進軍を開始してしまいます。

康兆(カン・ジョ)により殺害される

康兆(カン・ジョ)は王都へ進軍する途中、まだ穆宗が存命であり、金致陽(キム・チヤン)も反乱を起こしていなかったという事実を知ります。

実際、金致陽はあくまで反乱を「くわだてた」だけで、まだ実行には移していませんでした。

康兆はこの事実を知って衝撃を受けますが、もはや挙兵したからには後戻りはできないと悟ります。

そこで、康兆は、「金致陽ら奸悪な者たちが王位を狙っていること」、「王が庾行簡(ユ・ヘンガン)らの讒言ざんげんへつらいを信じ、国の危機を招いた」などの名分を掲げて王の廃立を決意し、そのまま王都へ進軍を続けました。

庾行簡(ユ・ヘンガン)
穆宗(モクチョン)の寵愛を受け、ほしいままに権勢を振るった佞臣ねいしん。文武百官を軽蔑し、あごで人を使い、自分の顔色や態度だけで人々を動かしたという。

康兆軍が迫る中、金致陽はどうすることもできず、数日の間、ただ様子をうかがっているだけでした。

そうこうしていると、とうとう康兆軍が王都に入城。

金致陽とその息子は、庾行簡など7名とともに、康兆によって殺害されてしまいました。

そして、金致陽の一派であった李周禎(イ・ジュジョン)など30余名は、海島へ流刑に処されました。

愛人であった千秋太后も宮殿を追放され、以降、故郷の黄州ファンジュで余生を過ごすこととなるのでした。

こうして、太后とともに高麗朝廷を牛耳った金致陽とその一派は、康兆のクーデターにより、あっけなく散っていったのです。

ところが、千秋太后や金致陽の一派だったにもかかわらず、唯一、罪を免れて昇進を遂げた人物がいました。

その名を文仁渭(ムン・イニ)といいます。

彼については、別の記事で解説しているので、興味のある方はご覧ください。

一方、康兆は穆宗を殺害したのち、大良院君(テリャンウォングン)を国王に擁立して政変を完了し、太后と金致陽に代わる新たな権臣として君臨しました。

これ以降のことについては、康兆の記事で詳しく解説しております。

ドラマ『千秋太后』と史実の違い(ネタバレ注意)

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

金致陽(キム・チヤン)は新羅王室の子孫だった?

ドラマ『千秋太后』では、金致陽は麻衣太子(新羅最後の王・敬順王キョンスンワンの息子)の孫という設定でした。

しかし、史実においては、金致陽は麻衣太子の孫ではありません

このことは、金致陽の祖先である金行波(キム・ヘンパ)が、新羅王室と何の関係もない人物であったことから裏付けられます。

『高麗史』によれば、金行波は洞州トンジュ(現在の黄海北道・瑞興郡ソフングン)出身の豪族で、太祖(高麗の初代王)から金姓を賜ったと記録されています(列伝1、后妃1、大西院夫人金氏・小西院夫人金氏)。

太祖から金姓を賜ったということは、それまでは別の姓を持っていたことになります。

一方、新羅最後の王・敬順王は金姓だったので(敬順王のいみな金溥キムブ)、その子孫は当然、金氏でなければなりません。

ところが、金行波はもともと金姓ではなかったので、新羅王室の子孫ではありえないことになります。

したがって、金致陽は麻衣太子の孫ではなく、新羅王室とは何の関係もない、洞州の一豪族の家系出身だったのです。

ドラマでは、金致陽は新羅復興の大業を掲げていましたが、これはフィクションということになります。

金致陽は契丹の捕虜になった?

ドラマの前半では、金致陽(キム・チヤン)は千秋太后とともに契丹の捕虜になってしまいました。

劇中では、この契丹での捕虜生活を通して、金致陽と太后の恋が育まれてきました。

しかし、史実においては、金致陽は契丹の捕虜にはなっていません

そのため、金致陽と太后が契丹で体験した出来事は、全てドラマのフィクションということになります。

サガムン・サイルラ兄妹は実在した?

金致陽(キム・チヤン)の側近だったサガムン・サイルラ兄妹は実在した人物です

しかし、ドラマでは脚色が加えられており、二人の描写は史実と異なっています。

実在したサガムンとサイルラについて知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

参考文献

  • 권순형(クォン・スニョン)「고려 목종대 헌애왕태후의 섭정에 대한 고찰(高麗 穆宗代 献哀王太后の摂政に対する考察)」『史學硏究』89号、2008年、pp.49-86
  • 李泰鎮「金致陽 亂의 性格 : 高麗初 西京勢力의 政治的 推移와 관련하여(金致陽の乱の性格:高麗初西京勢力の政治的推移と関連して)」『韓國史研究』17号、1977年、pp.67-113
  • 『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、献哀王太后皇甫氏
  • 『高麗史』巻123、列伝第36、嬖幸1、庾行簡
  • 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽
  • 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆
  • 『高麗史節要』巻2、穆宗6年(1003)
  • 한국민족문화대백과사전「閣門」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0000449(最終閲覧日:2026年7月2日)
  • 한국민족문화대백과사전「庾行簡」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0041979(最終閲覧日:2026年7月2日)

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この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

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