韓国ドラマ『高麗契丹戦争』に登場するカン・ガムチャンは実在した人物です。
ドラマでは、高麗王の顕宗(ヒョンジョン)と並ぶもう一人の主人公とも言える存在で、劇中では二人を中心とした人間ドラマが描写されました。
時には、契丹への勝利にこだわるその強い思いにより、顕宗と激しい口論になったり、朝廷の大臣との間に亀裂を生じさせたりすることも。自らの信念を貫き通す姿が印象的でした。
その一方で、夫人との間では、おちゃめな姿も見せていましたね。
また、カン・ガムチャンはドラマ『千秋太后』でも登場し、太后の味方として描かれていました。
そんなカン・ガムチャンですが、実際にはどのような人物だったのでしょうか。
この記事では、カン・ガムチャンの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基き、徹底的に解説していきます。
記事の最後では、ドラマで描かれるカン・ガムチャンと史実との違いも解説しています。
姜邯賛(カン・ガムチャン)の詳細
姜邯賛の基本情報
姓名:姜邯賛(カン・ガムチャン)※初名は姜殷川(カン・ウンチョン)
出生年:948年(定宗3年)
死亡年:1031年(顕宗22年)
最終官職:門下侍中
家族構成
父:姜弓珍(カン・グンジン)
息子:姜行経(カン・ヘンギョン)
姜邯賛(カン・ガムチャン)の生涯
生い立ち
姜邯賛(カン・ガムチャン)が生まれたのは、948年(定宗3年)のこと。
衿州(現在の韓国・ソウル特別市)の豪族・姜氏の息子として誕生しました。
幼い頃のことについては記録が少なく、あまりよく分かっていませんが、『高麗史』には「幼い頃から学問を好み、優れた知略に富んでいた」と書かれています。
5代前の祖先である姜余清(カン・ヨチョン)は、もともと新羅の人でしたが、衿州に移住し、住み着くようになったといいます。
その後、姜氏は衿州の豪族として成長したとみられ、姜邯賛の父に当たる姜弓珍(カン・グンジン)は太祖(高麗初代王)に仕えて、三韓壁上功臣という号を賜りました。
この功臣号は、太祖が後三国を統一するに当たり、特に功績のあった者に与えたものでした。
つまり、姜弓珍は太祖の時代に大きな功績を上げた人物だったのです。

姜弓珍の代には、姜氏家門は衿州の有力豪族であったとみてよいでしょう。
そして、その息子として誕生したのが、まさに姜邯賛でした。
科挙に合格し、朝廷に仕官する
983年(成宗2年)、姜邯賛(カン・ガムチャン)は科挙に首席合格し、官途に就きました。
それから、昇進を重ねて、礼部侍郎となりました。
残念ながら、姜邯賛が科挙に合格してから、礼部侍郎に昇進するまでの詳しい官途や活動については記録が残されていません。
契丹軍が侵攻してくる ~高麗契丹戦争・第2次戦争の勃発~
1009年(穆宗12年)2月、西北面都巡検使の康兆(カン・ジョ)が政変を起こし、朝廷を牛耳っていた金致陽(キム・チヤン)を始末。
次いで、時の王であった穆宗(モクチョン)をも殺害して、大良院君(テリャンウォングン)を王位に擁立しました。
これが高麗8代王・顕宗(ヒョンジョン)の即位でした。




一方、康兆が政変を起こすと、北方の大国・契丹は、「勝手に王を殺害した康兆を懲らしめるという」という名分で、高麗侵攻の準備を開始。
高麗側も契丹の侵攻に備えて、準備を始めました。
顕宗は康兆を行営都統使(総司令官)に任命し、李鉉雲)と張延祐を都統副使に、崔士威を統軍使に任命し、戦争の準備を整えました。
そして、高麗軍の総司令となった康兆は、30万の軍勢を率いて通州に駐屯しました。
ちなみに、今、始まろうとしている高麗と契丹の戦いは、高麗契丹戦争と呼ばれています。
今回の戦争は、第2次戦争に該当します。
この高麗契丹戦争(第1次・第2次・第3次戦争)については、別途、徹底的に解説している記事があるので、興味のある方はぜひご覧ください。


契丹軍が開京に迫る
1010年11月、ついに契丹の皇帝聖宗は、40万の軍勢を率いて親征(皇帝自身が軍を率いて出陣する)を開始し、鴨緑江を渡って高麗に侵入しました。


画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
契丹軍は高麗に侵入すると、まず興化鎮高麗の将帥・楊規らの激しい抵抗により、攻略に失敗します。


興化鎮の攻略に失敗した契丹軍は、これを迂回して南下。通州方面へ向かいました。
通州近郊の三水砦では、高麗軍の総司令官である康兆(カン・ジョ)が30万の軍勢を率いて陣を構えていました。
ところが、康兆(カン・ジョ)は緒戦を勝利に導いたものの、契丹軍の奇襲を受け、あっけなく生け捕りにされてしまい、しまいには殺害されてしまいます。
康兆軍を突破した契丹軍は南下を続け、郭州・安北府・粛州を次々に攻略し、破竹の勢いで西京まで進軍していきました。


画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
西京では、高麗の武将である趙元(チョ・ウォン)、姜民瞻(カン・ミンチョム)などが城を固守。
途中、最高指揮官だった卓思政(タク・サジョン)が城を捨てて逃亡したり、武将の智蔡文(チ・チェムン)や将軍の大道秀が城外に打って出て契丹軍に敗れたりするなど、西京は窮地に陥りました。
けれども、趙元や姜民瞻の尽力により、なんとか西京はこの難局を乗り越えることができました。
結局、契丹軍は西京を攻略することができず、これを迂回して高麗の都・開京へ向けて南下を始めることとなるのです。






顕宗に避難を勧める
西京から敗走してきた智蔡文(チ・チェムン)が開京に入り、西京で敗戦したことを告げると、朝廷の臣下たちは、すぐに降伏を議論し始めました。
もし、西京が突破されれば開京は目と鼻の先でしたので、多くの臣下たちは早くに降伏すべきだと考えたのでしょう。
そのような中、ひとり姜邯賛(カン・ガムチャン)だけが、降伏を論じず、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)に南へ避難するよう勧めました。
ついに、顕宗は姜邯賛の意見に従い、南へ避難することを決意。智蔡文の護衛を受けながら、王后や臣下たちとともに都を出発し、避難を始めました。



記録はありませんが、姜邯賛も顕宗の避難に随行したと考えられます。


画像:安周燮(2003)、p.138、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
一方、契丹軍は開京に侵入し、略奪を尽くしたうえで宮殿を焼き払いました(1011年1月1日)。
ですが、契丹軍がこれ以上に南下することはありませんでした。
契丹軍もこれまでに少なくない被害を被り、戦闘力が限界に達していたからです。
このような事情もあって、まもなく高麗と契丹の間では講和が成立します。
こうして、契丹軍は撤退していくこととなりますが、その道中で楊規(ヤン・ギュ)ら高麗軍による逆襲を受けることになるのです。
このあたりの詳しい戦況については、楊規(ヤン・ギュ)の記事で解説しています。


昇進を重ねる
高麗契丹戦争の第2次戦争が終結し、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)も都に帰還してきました。
これ以降、しばらく、姜邯賛(カン・ガムチャン)についての記録は少なくなり、その事蹟を知ることは難しくなります。
ただ、第2次戦争の終結から、次の第3次戦争が勃発するまでの約7年間、彼が昇進を重ねていたことが記録からうかがえます。
- 1011年6月、翰林学士(正4品の高級文官職)に昇進。
- 1016年までに、吏部尚書(正3品の高級文官職)に昇進。
- 1018年、内史侍郎平章事(正2品の高級文官職)に昇進。
1011~18年にかけて、正4品→正3品→正2品と着実に昇進していることが分かります。
特に、内史侍郎平章事は、中央の最高行政機関の一つである内史省の高級官職で、かなり高い地位でした。
このとき、国王・顕宗が姜邯賛に下した告身(任命書)には、次のように書かれていました。
姜邯賛を西京留守・内史侍郎平章事に任命した。王は自ら告身の裏に〔次のように〕記した。「庚戌年(1010)、外敵の侵入があった際、槍と盾(=契丹軍)が漢江の岸辺まで深く侵入してきた。当時、姜公の計策を用いなければ、国全体が全て野蛮人となっていただろう」。世の多くの人々はこれを栄誉とみなした。
『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗9年5月
顕宗は、過去に契丹が侵攻してきたときのことを回顧して、姜邯賛の計策による功績が大きかったと称賛しているのです。
この「計策」とは、契丹軍が開京に迫ってきたとき、顕宗に南への避難を勧めたことだと考えられます。
もし、あのときに姜邯賛の進言を聞いていなければ、顕宗は契丹軍によって囚われの身になっていた可能性すらあったのです。
この度の昇進には、往時の「計策」による功績も作用したのでしょう。
私有地を国に捧げる
他方、1016年12月の記録には、姜邯賛が自分の土地を国に捧げたというエピソードが残されています。
12月、吏部尚書の姜邯賛が奏上して〔次のように〕言った。「私は開寧県に良質な土地12結を所有しているので、〔これを〕軍戸に割り当ててください」。〔王は〕この意見に従った。
『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗7年12月
姜邯賛は私有地を軍戸(軍籍に属する軍人やその家族の家)に提供したのです。



姜邯賛の人物像がうかがえる記事ですね。私腹を肥やさず、国や民のために尽くした姿が垣間見えます。
再び契丹軍が侵攻してくる ~高麗契丹戦争・第3次戦争の勃発~
第2次戦争の終結とともに、高麗と契丹の間では講和が成立していました。
しかし、高麗はその講和条件であった国王の契丹への親朝(※国王が自ら挨拶しに行くこと)を、一向に実施しないでいました。
これを受けて、高麗に不満を抱き始めた契丹は、高麗の領土である江東六州という地域を返還するように命じてきました。


画像:安周燮(2003)、p.110をもとに筆者作成
この江東六州は、過去に高麗が契丹から獲得した領土だったのですが、契丹は今になってその返還を求めてきたのです。


もちろん、高麗側は江東六州の返還命令に応じるはずがありませんでした。
怒りを募らせた契丹は、1014~17年にかけて3回も高麗に攻め込みましたが、結局、江東六州の返還を実施させることはできませんでした。
そして、1018年。
いよいよ、契丹の皇帝聖宗は、本格的に江東六州の奪還を企図し、大々的な高麗遠征を準備させました。
1018年10月、聖宗は蕭排押を都統に任命し、10万名の軍勢を率いさせて、高麗遠征を決行。
ここに、高麗契丹戦争・第3次戦争の火蓋が切って落とされたのです。
※第1次から第3次戦争までの全貌を知りたい方は、以下の記事をご覧ください。


戦争の総司令官となる
契丹の侵攻が目前に迫ると、高麗は外交的な解決を試みつつ、一方では侵攻に備えて戦争準備をしました。
1018年10月、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)は契丹に使者を派遣して和平を提議しながらも、姜邯賛を西北面行営都統使(司令官)に任命。
そして、契丹が和平提議を拒否し、侵攻が確実となると、高麗側は防御軍を編成して本格的な戦闘態勢を整えます。
12月、顕宗は行営都統使の姜邯賛を上元帥(総司令官)に、大将軍(従3品の武官職)姜民瞻)を副官に任命し、20万8,000名の防御軍を編成しました。



姜邯賛は上元帥として、戦争の総指揮を任されることとなったのです。
三橋川で契丹軍を瓦解させる
1018年12月10日、蕭排押の率いる10万の契丹軍が、ついに鴨緑江を渡って高麗に侵入します。


画像:安周燮(2003)、p.164、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
鴨緑江を越えた契丹軍は興化鎮に至ると、これを攻撃せずに迂回し、南進しようとしました。
契丹には第2次戦争で興化鎮の攻略に失敗した過去があったので、今回はこれを攻撃せずに迂回する作戦を立てたようです。
これに対し、契丹軍の作戦を察知した姜邯賛は、1万2,000名の軍勢を率いて、興化鎮を東から西に流れる三橋川付近の谷間で待ち伏せし、水攻め作戦を計画。


画像:安周燮(2003)、p.166をもとに筆者作成
姜邯賛は堤防を築いて三橋川の水を塞き止め、契丹軍が川を渡るのを待ちました。
契丹軍が興化鎮を迂回し、三橋川を渡り始めると、姜邯賛はせき止めていた堤防を開いて水を放出。これにより、契丹軍の戦列を一気に瓦解させます。
さらに、契丹軍の戦列が崩れた隙に乗じて、姜邯賛は待ち伏せさせていた兵士たちを突撃させ、契丹軍に大きな被害を与えました。
姜邯賛の活躍により、高麗軍は緒戦で勝利を収めることができたのです。
開京を守らせる
契丹軍は三橋川の戦闘で損害を被りながらも南進し、清川江を渡って、まっすぐに高麗の都・開京を目指しました。


画像:安周燮(2003)、p.164、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
契丹軍の南進を受けて、高麗軍はその道中で奇襲攻撃を仕掛けました。
1018年12月下旬、高麗軍の副司令官・姜民瞻(が南進する契丹軍を追撃し、慈州の来口山で大きな打撃を与えます。
次いで、来口山から南下してきた契丹軍を、侍郎(正4品の文官職)趙元が馬灘で攻撃し、1万余名を打ち取る戦果を上げました。


画像:安周燮(2003)、p.162、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
すでに、多くの損害を被っていた契丹軍でしたが、構うところなく、ひたすら南進を続け、ただ開京のみを目指しました。
開京の危機を悟った姜邯賛は、兵馬判官の金宗鉉に1万名の兵士を率いて開京へ行き、守らせるようにしました。
契丹軍が金郊駅で敗北し、退却を始める


画像:安周燮(2003)、p.162、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
1019年1月3日、契丹軍は開京から100里(数百km)北側に位置する新恩県に到着しました。いよいよ、開京の近くまで迫ってきました。
高麗王・顕宗)は契丹軍の開京攻撃に備え、開京城外の民戸を城内に移住させ、清野作戦を実施して長期戦に備えました。
一方、契丹軍の都統(遠征指揮官)蕭排押は、開京攻撃に先立って、密かに偵察部隊である遠探欄子軍300余騎を開京近くに駐屯させました。
しかし、これを見抜いた高麗軍は、契丹軍が金郊駅一帯を通過するときに襲撃し、この300余騎を殲滅させます。
金郊駅の戦闘で敗北した契丹軍は開京攻略を諦め、退却するほかありませんでした。
退却する契丹軍を襲撃する
金郊駅から退却を始めた契丹軍は、侵攻路と同じ道を利用して、北上していきました。


画像:安周燮(2003)、p.162、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
高麗軍総司令官・姜邯賛(カン・ガムチャン)は、退却する契丹軍を黙って見てはいませんでした。
1019年1月23日、北上する契丹軍に対し、姜邯賛は漣州・渭州で奇襲を仕掛けました。
この戦闘で、姜邯賛らは敵兵500余名を斬る戦果を収めます。
亀州で契丹軍を撃滅する ~亀州大捷~


画像:安周燮(2003)、p.169をもとに筆者作成
漣州・渭州で奇襲を受けながらも、契丹軍はようやく清川江を越えることができ、そして亀州を通過しようというところでした。
1019年2月2日、姜邯賛は、亀州東側の郊外に陣を構え、亀州を通過しようとする契丹軍を迎え撃ちました。
ですが、両軍の戦いは、なかなか決着がつきません。
そのような中、姜邯賛の命令で開京を守りに行っていた兵馬判官の金宗鉉が、兵士を率いて戦地に到着しました。



開京はすでに難を逃れていたため、金宗鉉は退却する契丹軍を追ってきたのだと思われます。
このとき、突然に風雨が南から吹いてきて、旗が北の方向を指しました。これにより、形勢は高麗軍の優位に転じます。
姜邯賛の率いる高麗軍は、この勢いに乗って、契丹軍を激しく攻撃。
ついに、契丹軍は惨敗し、北へ向かって逃げていきました。
さらに、高麗軍は敗走する契丹の兵士たちを追撃し、これを撃滅させました。
契丹軍は大敗北。
この戦闘により、契丹軍の死体が野原を覆い尽くし、高麗軍が獲得した捕虜や馬・駱、武器などは数え切れないほどでした。
契丹軍で生きて帰った者は、10万名のうち、わずか数千名。
契丹の敗北がこれほど甚だしい戦争は、かつてなかったといいます。
一方、敗北の報告を聞いた契丹皇帝の聖宗は、使者を遣わして蕭排押を激しく叱責したと記録されています。
こうして、高麗契丹戦争の第3次戦争は終幕を迎えたのです。
韓国では、この亀州での勝利を「亀州大捷(きしゅうたいそう)」と呼んでいます。
凱旋し、金の花を賜る
姜邯賛(カン・ガムチャン)が軍を率いて凱旋すると、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)は迎波駅(開京のやや北方に位置する)まで出向いて、自ら迎えました。
このとき、顕宗は金で作った花8輪を、姜邯賛の頭に飾ってやりました。
それから、顕宗は左手で姜邯賛の手を握り、右手で酒杯を取りながら、慰労と感嘆の言葉を絶やさなかったといいます。



顕宗が姜邯賛に心から感謝している様子が伝わってきますね。
姜邯賛の最期
戦争が終結すると、姜邯賛(カン・ガムチャン)は高齢を理由に辞職を願い出ました。
けれども、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)は許可せず、姜邯賛に肘掛けと杖を下賜して、三日に一度だけ朝廷に来るようにさせました。
翌年、姜邯賛が再び辞職を願い出ると、ついに顕宗はこれを許可しました。
以後、姜邯賛は都城の南にある別邸で暮らしました。
それから時は流れ。
1030年(顕宗21年)、姜邯賛は門下侍中(従1品の最高級文官職。官僚のトップ)の職を授かりました。
その翌年、顕宗が薨去。
同じ年、まもなく姜邯賛も死去しました。享年は84歳でした。
姜邯賛の卒伝(死去した人物について書かれた記事)はこう伝えています。
姜邯賛は清廉で質素な性格であり、産業を営まなかった。容貌は小柄で見苦しく、衣服は汚れて破れており、普通の者より優れているところなどなかった。〔しかし、〕厳粛な面持ちで朝廷に立ち、重大な事柄に臨んで政策を決定するときは、威厳ある姿で国の柱であり礎となった。当時、豊作で民は安らぎ、国中が平穏であったため、人々はこれら全てが姜邯賛の功績であると考えた。
『高麗史』巻94、列伝第7、姜邯賛
ドラマ『高麗契丹戦争』と史実の違い(ネタバレ注意)
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
顕宗との関係性は史実なのか?
『高麗契丹戦争』では、ドラマを通して、高麗王・顕宗(ヒョンジョン)の成長が描かれました。
そんな顕宗の成長に最も影響を与えたのが、第二の主人公とも言える姜邯賛(カン・ガムチャン)であったことは言うまでもないでしょう。
ドラマでは、契丹との戦争だけでなく、そうした顕宗と姜邯賛を中心とした人間ドラマが描写されました。
しかし、史実においては、顕宗と姜邯賛の関係性は、ドラマほど濃いものではなかった可能性が高いです。
というのも、姜邯賛について残されている記録は、契丹との戦争に関係するものがほとんどで、ドラマで見られたような顕宗との関係性や両者の間での心理的な描写は、史料には記されていないからです。
とはいえ、高麗の歴史書『高麗史』と『高麗史節要』には、顕宗が姜邯賛を称賛する記事が数多く見られるため、顕宗が姜邯賛を重用し、信頼していたことは確かでしょう。
ドラマでは、そうした史料の記録に基づきながら、さらに二人の関係性に想像を膨らませて、物語を作ったのではないかと推測されます。
姜邯賛をめぐる史実とフィクション
ドラマ『高麗契丹戦争』における姜邯賛(カン・ガムチャン)の描写は、史実に沿った部分が多いですが、フィクションもそれなりにあります。
どこが史実で、どこがフィクションなのか。実際に挙げようとすると、切りがありません。
なので、ここではいくつかの場面を抜粋し、それらを史実の場面・フィクションの場面に分け、箇条書きで示すこととします。
史実の場面
- 1010年、契丹皇帝が率いる契丹軍が開京に迫ると、姜邯賛が顕宗に対し、降伏せずに避難することを勧めた
- 1018年、蕭排押が率いる契丹軍が高麗に侵攻すると、顕宗は姜邯賛を上元帥(総司令官)に任命し、戦争を総指揮させた
- 姜邯賛が亀州で蕭排押の契丹軍を撃滅させた
- 姜邯賛が契丹軍に勝利して凱旋すると、顕宗が自ら出迎え、姜邯賛の頭に金の花を飾ってやった
フィクションの場面
- 1010年、契丹皇帝が率いる軍が西京に迫ると、姜邯賛が使者として契丹陣営に行き、契丹皇帝を巧みに欺くことで、契丹軍の西京侵攻を遅らせた。
→ 史料には、このときに姜邯賛が西京に行ったという記録は確認できません。 - 顕宗による豪族の抑圧政策に反発し、顕宗と対立した
→ 史料上、姜邯賛が顕宗の政策に反発したという事実は記録されていません。 - 姜邯賛と夫人のやり取り
→ 史料には、姜邯賛と夫人のやり取りを示す記事は残されていません。ドラマでは、夫人とのユーモラスなやり取りが面白かったですが、実はこれはフィクションになります。
ドラマ『千秋太后』と史実の違い(ネタバレ注意)
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
千秋太后や慶州院君とは接点がなかった
ドラマ『千秋太后』では、姜邯賛(カン・ガムチャン)は千秋太后(チョンチュテフ)の味方の一人で、大きな存在感がありました。
ですが、史料には、姜邯賛と太后の関係性を示す記事はなく、実際のところ、両者には接点すらなかったと考えられます。
また、姜邯賛は慶州院君・王郁(ワン・ウク)と仲が良い設定でしたが、この両者の接点も、史料上から見出すことはできません。
参考文献
- 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
- 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗2年(1011)6月1日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗3年(1012)6月17日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗9年(1018)5月18日、10月19日、12月1日
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗10年(1019)2月1日、6日、11月1日
- 『高麗史』巻5、世家第5、顕宗21年(1030)5月19日
- 『高麗史』巻5、世家第5、徳宗即位年(1031)6月3日、8月20日
- 『高麗史』巻94、列伝第7、姜邯賛
- 『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
- 『高麗史節要』巻2、成宗文懿大王、成宗2年(983)12月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗1年(1010)12月28日
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗7年(1016)12月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗9年(1018)5月、12月10日
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗10年(1019)1月2日、23日、2月1日、6日、4月、11月、12月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗11年(1020)6月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗20年(1029)8月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗21年(1030)5月
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗22年(1031)6月、8月
- 한국민족문화대백과사전「侍郎」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0032342(最終閲覧日:2026年5月23日)
- 한국민족문화대백과사전「禮部」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0037927(最終閲覧日:2026年5月23日)









