韓国ドラマ『高麗契丹戦争』に登場するチ・チェムン。
ドラマでは、勇猛な将軍として描かれ、契丹軍が王都に侵攻してくると、高麗王・顕宗(ヒョンジョン)の避難に付き従い、王を守りました。
チ・チェムンは実在した人物です。
この記事では、チ・チェムンの生涯について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて詳しく解説します。
智蔡文(チ・チェムン)の詳細
智蔡文の基本情報
姓名:智蔡文(チ・チェムン)
出生年:不明
死亡年:1026年(顕宗17年)
最終官職:尚書右僕射
家族構成
曾孫:智祿延(チ・ノギョン)
智蔡文(チ・チェムン)の生涯
生い立ち
智蔡文(チ・チェムン)の生い立ちについては、歴史書に記録が残されておらず、知ることができません。
ただ、顕宗元年(1010)に「中郎将に任命された」という記録があり、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)の時代には仕官していたようです。
契丹軍が高麗に侵攻する
ちょうど智蔡文(チ・チェムン)が中郎将に任命された頃、北方の大国・契丹が高麗へ侵攻を始めました。
1010年11月、契丹の皇帝聖宗は、40万の軍勢を率いて親征(皇帝自身が軍を率いて出陣する)を開始し、鴨緑江を渡って高麗に侵入しました。

画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
契丹軍は高麗に侵入すると、まず興化鎮高麗の将帥・楊規らの激しい抵抗により、攻略に失敗します。

そこで、契丹軍は興化鎮を諦めて南下し、通州へ向かいました。
通州近郊の三水砦では、高麗軍の総司令官である康兆(カン・ジョ)が30万の軍勢を率いて陣を構えていました。
契丹軍はこの三水砦に奇襲をかけ、高麗軍の総指揮官・康兆を生け捕りにし、高麗軍を瓦解させて、南下を続けました。

30万の高麗軍は、あっけなく敗れてしまいました。


画像:安周燮(2003)、p.127をもとに筆者作成


通州を南下した契丹軍は、郭州・安北府・粛州を次々に攻略し、破竹の勢いで西京まで進軍していきました。


画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
こうして、高麗に侵攻を始めた契丹軍は、あっという間に西京まで至ったのでした。
ちなみに、この高麗と契丹の戦争は、高麗契丹戦争と呼ばれています。
今回の戦争は、第2次戦争に該当します。
この高麗契丹戦争(第1次・第2次・第3次戦争)については、別途、徹底的に解説している記事があるので、興味のある方はぜひご参照ください。


援軍として西京へ向かう
契丹軍は西京に到着すると、通州で捕虜とした盧戩(ノ・ジョン)などを使節として派遣し、西京に降伏を勧誘しました。
これを受けて、西京副留守の元宗奭(ウォン・ジョンソク)などは、契丹軍と一戦を交えることもなく、すぐに降伏を決定し、降伏する文書を作らせました。
一方、同じ頃、高麗王の顕宗(ヒョンジョン)は、東北方面(現在の北朝鮮・咸鏡道地域)を守っていた智蔡文(チ・チェムン)に、西京を援護するよう命じました。
智蔡文は命令を受けると、すぐに軍勢を率いて西京へ向かいました。
ところが、智蔡文が西京に到着した頃には、すでに西京副留守の元宗奭などが降伏を決定したあとでした。
元宗奭らによって城門は閉ざされてしまい、入城することができません。
そのような中、西京城の曹子奇(チョ・ジャギ)という者が城門を開けてくれたので、智蔡文らはようやく、西京城に入ることができました。
智蔡文は入城すると、元宗奭に対して、契丹の使節を抑留して城を守ることを勧めました。
しかし、元宗奭は聞き入れず、降伏の決定を覆しません。
そこで、智蔡文は強行手段に出ることに。陣営に帰るところだった契丹の使節を襲撃して殺害し、降伏を約束する文書を焼き捨てたのです。



智蔡文の西京を守る意思の強さがうかがえますね。
ほどなくして、東北面都巡検使の卓思政(タク・サジョン)が率いる援軍も到着し、西京の高麗軍は増強されました。
以後、智蔡文・卓思政が中心となって西京を掌握し、契丹軍に対する徹底抗戦の構えを取りました。


画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
西京で契丹軍を討つ
1010年12月11日、契丹の皇帝聖宗は、西京から降伏要求に対する答えがなかったため、再び韓杞を西京に遣わして、降伏することを要求しました。
韓杞は騎兵200名を率いて西京に至り、改めて降伏を促しました。
智蔡文(チ・チェムン)と卓思政(タク・サジョン)はこれを襲撃し、韓杞ら100余名を殺害。残りの兵は全て捕らえ、捕虜としました。
次いで、智蔡文は城外へ打って出て、西京城を包囲していた契丹軍を襲撃し、その敵将を敗走させました。
さらに、12月12日、智蔡文は卓思政及び僧侶の法言(ポブオン)とともに9,000の軍勢を率いて西京城を出て、契丹軍と戦って3,000余名を斬首します。



12月11日~12日にかけて、西京の高麗軍は城の外に打って出て、連戦連勝の戦果を収めたのです。
契丹軍に敗れ、開京へ行く
12月13日、智蔡文は再び城外で契丹軍を撃破し、敗走する契丹の兵士を追撃しました。
ところが、西京郊外の馬灘(※正確な場所は不明)で契丹軍の逆襲にあい、智蔡文の率いる高麗軍は大敗を喫します。
馬灘での敗北により、西京城は契丹軍によって完全に包囲されてしまいます。
形勢が苦しくなると、恐れをなした卓思政(タク・サジョン)は将軍の大道秀を騙して、「城の西側と東側に出て、契丹軍を挟撃しよう」と持ちかけておきながら、自らは西門から配下を引き連れて逃亡する始末。



大道秀は東門から出て契丹軍を襲撃したものの、卓思政が現れなかったため、契丹軍に敗北してしまいました。
智蔡文・卓思政・大道秀ら指揮官が不在となった西京は、今や風前の灯火でした。
けれども、統軍録事の趙元(チョ・ウォン)、隘守鎮将の姜民瞻(カン・ミンチョム)などが力を合わせ、散り散りになった兵士たちを収拾し、城門を閉じて固く守りました。
12月17日、ついに契丹軍は西京城を陥落させることができなかったため、これを迂回し、開京(高麗の首都)へ向けて南進することを選択します。
一方、馬灘で契丹軍の逆襲を受けた智蔡文は、敗走して開京へ向かいました。
※卓思政(タク・サジョン)と大道秀(テ・ドス)については、以下の記事で詳しく解説しております。




顕宗の護衛を申し出る
智蔡文(チ・チェムン)は開京に到着すると、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)に、西京で敗戦したことを報告しました。
報告を受けるやいなや、朝廷の臣下たちは、すぐに降伏を議論し始めました。



もし西京が突破されれば開京は目と鼻の先でしたので、臣下たちは降伏すべきだと考えたのでしょう。
そのような中、ひとり姜邯賛(カン・ガムチャン)だけが、降伏を論じず、王に南へ避難するよう勧めました。
顕宗は姜邯賛の意見に従い、南への避難を選択します。
このとき、智蔡文は次のように言って、王の護衛を申し出ました。
「私は鈍く臆病ではありますが、どうか側にいて、犬馬の労を尽くさせてください」。
『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
これを聞いた顕宗は感激し、智蔡文に酒や食料、銀製の鞍を下賜したといいます。


避難する顕宗を守る


※筆者作成
1010年12月28日、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)は王后や臣下たちとともに都を出発し、南への避難を始めます。
智蔡文(チ・チェムン)は顕宗一行に付き従い、護衛をしました。
一行が積城県(現在の京畿道・坡州市・積城面)に至ったときでした。武卒の堅英(という者が地元の人々とともに弓を構え、顕宗らを襲撃してきました。
すぐさま、智蔡文は馬を駆り、賊徒たちに向けて弓を射ました。すると、堅英ら賊徒は散り散りになって逃げていきました。
智蔡文の機敏な応戦により、事なきを得ました。
それから、一行が昌化県(現在の京畿道・楊州市)に至ると、今度は県の郷吏(中央から派遣された下級職員)が騒ぎを起こし、夜中に顕宗らを襲おうとしました。
これを受けて、顕宗に付き従っていた多くの臣下や宦官、女官たちは逃げ隠れてしまいます。
けれども、智蔡文や蔡忠順(チェ・チュンスン)など一部の臣下は王の側に残り続けました。



顕宗ら一行は、避難先で度重なる賊徒の襲撃にあったのです。
このとき、智蔡文が偵察に出ようとしたところ、顕宗は彼が逃げるのではないかと心配して、許可しませんでした。
多くの臣下が逃げたあとだったので、顕宗が心配するのも無理はありません。
そこで、智蔡文はこう言いました。
「もし、私が君主に背き、言葉と事実が一致していなければ、天は必ず私を殺すでしょう」。
『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
この言葉を聞き、顕宗はついに偵察に行くことを許しました。智蔡文のことを信頼したのです。
しばらくして、果たして、智蔡文は偵察から戻ってきました。
顕宗は喜んで智蔡文を出迎えたといいます。
行方不明になった王后を捜索する


※筆者作成
1011年1月1日、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)が広州に滞在していたところ、二人の王后が行方不明になってしまいます。
顕宗は智蔡文(チ・チェムン)に命じて、二人の王后を捜索させました。
そうすると、智蔡文がすぐに二人の王后を見つけて連れ帰ったので、顕宗は大いに喜びました。
顕宗一行が鼻脳駅を経て陽城県(現在の京畿道・安城市)に至ると、臣下の柳宗(ユ・ジョン)らが、二人の王后を故郷へ帰すように要請しました。
顕宗がこのことを智蔡文に相談したところ、智蔡文は泣きながら、次のように答えました。
「今、君主と臣下が道を失い、思いがけない災難に遭い、このように避難を続けています。〔このような状況においては〕まことに仁義に従って行動し、民心を収拾すべきです。王后を捨てて生き延びようとすることを、容認することができましょうか?」。
『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
智蔡文は王后を捨ててはならないと諫言したのです。
顕宗は智蔡文の言葉を正しいと考え、王后を故郷に帰すことを中止しました。
しかし、このあと、顕宗は結局、元貞王后が妊娠しているため故郷に送るのがよいと判断し、元貞王后を故郷に帰しています。



一方でこの頃、開京では契丹軍が侵入し、略奪を尽くして宮殿を焼き払いました。
将兵の離反を防ぐ
顕宗一行が礪陽県(現在の全羅北道・益山市・礪山面)に至ると、付き従っていた将兵に離反の兆しが見られました。
この状況を見て、智蔡文(チ・チェムン)は王に申し上げました。
「太祖が〔三韓を〕統一したとき、有功者には〔たとえ功績が〕小さくとも必ず賞を与えました。ましてや、今は困難を経験しているのですから、重要なのは衆心を得ることです。まず、〔将兵らを〕盛大に褒賞すべきです」。
『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
顕宗は智蔡文の意見に従い、玄安之(ヒョン・アンジ)ら将兵に官職を与えました。
智蔡文は、将兵たちを褒賞することで、彼らの離反を防ごうとしたのです。



智蔡文の臨機応変な対応ぶりが見て取れますね。
最後まで王を守り抜く


※筆者作成
顕宗一行が全州(現在の全羅北道・全州市)の参礼駅に至ると、全州節度使の趙容謙(チョ・ヨンギョム)が出迎えました。
ところが、この趙容謙は王を歓待せずに、むしろ王を脅して威勢を振りまこうと、配下を引き連れて、王が滞在する庁舎に詰め寄りました。
智蔡文(チ・チェムン)は庁舎の門を閉ざし、堅く守りました。
これにより、趙容謙の配下たちは、あえて庁舎に侵入することができませんでした。
その後、顕宗一行は羅州(現在の全羅南道・羅州市)に到着。
このとき、一行のもとに、契丹軍が撤退したという知らせが届きました。
ついに、顕宗らは避難を終えることとなるのです。一行は羅州を出発し、開京への帰路に着きました。
1011年2月、帰還の途中で公州(現在の忠清南道・公州市)に立ち寄ったとき、顕宗は智蔡文に土地を下賜し、称賛して次のように言いました。
「朕は賊〔の侵攻〕を避けるため、慌ただしく遠路を行ったが、付き従っていた臣僚たちは皆、逃げ去ってしまった。ただ智蔡文のみが風霜に耐え、山を越え、川を渡り、馬の綱を引く労苦をいとわず、最後まで松竹の〔ように変わらぬ〕節操を守った。まことに卓越した功績が多い。どうして特別な恩恵を惜しむことがあろうか?」。
『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文



顕宗は最後まで側で守ってくれた智蔡文を、大いに褒め称えたのです。
それから時は流れ、1016年(顕宗7年)、智蔡文は右常侍(正3品の高級文官職)に任命されました。
1026年(顕宗17年)、智蔡文は右僕射(正2品の高級文官職)に任命され、その後、まもなく死去しました。
参考文献
- 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
- 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
- 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗7年(1016)12月11日
- 『高麗史』巻5、世家第5、顕宗17年(1026)4月24日
- 『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
- 『高麗史節要』巻3、顕宗元文大王、顕宗1年(1010)12月8日、12月10日、12月27日、顕宗2年(1011)1月1日、1月4日、1月5日、1月16日、2月、顕宗17年(1026)4月
- 한국민족문화대백과사전「節度使」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0049795(最終閲覧日:2026年5月14日)
- 한국민족문화대백과사전「智蔡文」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0054413(最終閲覧日:2026年5月14日)










