顕宗(ヒョンジョン):契丹との戦争を克服し、中興を成す[高麗王解説]

高麗8代王・顕宗ヒョンジョンは、数度に及ぶ契丹戦争の困難を克服し、高麗を中興へと導いた君主です。

幼少期は王室からの保護や教育を受けることができず、時の権力者・千秋太后チョンチュテフによって寺での生活を余儀なくされ、しまいには暗殺の危機にまで直面するなど、多くの困難を経験します。

それから、権臣・康兆のクーデターによって王位に祭り上げられたかと思えば、まもなく契丹の大々的な侵攻を受けて都落ちを迫られるなど、その生涯は波乱万丈でした。

時の文人によれば、顕宗はこうした数々の試練を乗り越え、高麗を中興に導いた君主として高く評価されています。

この記事では、顕宗の生涯と治績について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』や文献に基づいて解説していきます。

目次

顕宗(ヒョンジョン)の詳細

顕宗の基本情報

廟号:顕宗(ヒョンジョン)
姓名:王詢(ワン・スン)
出生日:992年(成宗11)7月1日(陰暦)
死亡日:1031年(顕宗22)5月25日(陰暦)
享年:38
在位:1009年2月3日~1031年5月25日(陰暦)

家族構成

祖父:太祖(初代王)
祖母:神成王太后金氏
父:安宗王郁
母:献貞王后皇甫氏

配偶者①:元貞王后金氏

配偶者②:元和王后崔氏

配偶者③:元城太后金氏
息子:徳宗(9代王)
息子:靖宗(10代王)
娘:仁平王后金氏(文宗后妃)
娘:景粛公主

配偶者④:元恵太后金氏
息子:文宗(11代王)
息子:平壌公王基
娘:孝思王后(徳宗后妃)

配偶者⑤:元容王后柳氏

配偶者⑥:元穆王后徐氏

配偶者⑦:元平王后金氏
娘:孝敬公主

配偶者⑧:元順淑妃金氏
娘:敬成王后(徳宗后妃)

配偶者⑨:元質貴妃王氏

配偶者⑩:貴妃庾氏

配偶者⑪:宮人韓氏

配偶者⑫:宮人李氏

配偶者⑬:宮人李氏

配偶者⑭:宮人朴氏
娘:阿志

顕宗(ヒョンジョン)の生涯

私生児として生まれ、母を亡くす

顕宗ヒョンジョンが誕生したのは、992年(成宗ソンジョン11年)。いみな王詢(ワン・スン)と言います。

父の王郁(ワン・ウク)は、太祖の第5妃である神成シンソン王太后キムの息子です。

王郁(ワン・ウク)
太祖(高麗初代王)と神成シンソン王后の間に産まれた王族。神成王后は、敬順キョンスン王(新羅最後の王)の叔父である金億廉キムオンニョンの娘。つまり、王郁は新羅王室の血を引く、高麗の王族であった

母の献貞ホンジョン王后皇甫ファンボは、王旭(ワン・ウク、※太祖の息子)と宣義ソニ王后の間に生まれました。

顕宗の家系図
※筆者作成

『高麗史』によれば、王詢(のちの顕宗)は、王郁(父)と献貞王后皇甫氏(母)の私通によって誕生したとされています

献貞王后皇甫氏(母)は、もともと5代王・景宗キョンジョンの后妃でしたが、景宗が早逝して未亡人になると、王郁の家に通って情を通じるようになったといいます。

そうしてついに、献貞王后皇甫氏(母)は妊娠しました。

しかし、この私通は発覚し、おおやけの知る所となってしまいます。

事を知った時の国王・成宗ソンジョン(6代王)は、王郁(父)を泗水サスへ流刑に処しました。

献貞王后皇甫氏(母)は夫の流刑を悲しみ、泣きながら私邸に戻っていたところ、門にたどり着いた途端に陣痛が始まってしまいます。

門の前にあったやなぎの枝を掴みながら子を産みましたが、母体は力尽きてそのまま亡くなってしまいました。

これが王詢(のちの顕宗)の誕生でした。

父が流刑に処され、生まれた途端に母を亡くした王詢。その波乱な生涯が幕を開けたのでした。

ちなみに、顕宗の母・献貞王后皇甫氏は成宗(6代王)の妹でした。

父が世を去る

生まれてすぐに母を亡くした王詢(ワン・スン、のちの顕宗)は、成宗ソンジョン(6代王)が選んだ乳母によって王室で育てられることになりました。

ですが、王詢が2歳を迎えた頃、成宗は彼を哀れに思って、泗水サス県にいる父親のもとに送り返しました。

それから、しばらく、王詢は泗水県で父親とともに過ごしました。

996年、父・王郁(ワン・ウク)が亡くなります。

このとき、王詢はわずか5歳(数え年)。幼くして父母を失うことになったのでした。

千秋太后によって僧侶にされる

父親が世を去ったあと、王詢(ワン・スン、のちの顕宗)は開京ケギョン(高麗の王都)に戻り、再び宮殿に入りました。

この頃までに、王詢は大良院君テリャンウォングンに冊封されました。

しかし、997年、国王の成宗ソンジョンが薨去し、7代王・穆宗モクチョンの治世に入ると、父を亡くしたばかりの幼子王詢に、早くも次の試練が降りかかります。

穆宗(モクチョン)[在位:997~1009]
高麗7代王。5代王・景宗キョンジョンの息子で、980年に生まれた。997年、18歳で即位したものの、母后である千秋太后チョンチュテフの摂政を受けるなど、その治世には母后の影響力が強く作用した。

この穆宗の治世は、母后の千秋太后が摂政となって権力を振るっていました。

千秋太后は摂政としてさまざまな政策を実現する一方で、愛人の金致陽(キム・チヤン)と私通して息子を出産します。

すると、千秋太后は金致陽と共謀して、自分たちの息子を穆宗の後継者にしようと企みました。

息子を王位に就けたい千秋太后にとって、王位継承の有力候補者となり得る大良院君・王詢は邪魔者でしかありません。

1003年、千秋太后は王詢を強制的に出家させ、僧侶として崇教寺スンギョサ(現在の北朝鮮・開城市)に送ってしまいました。

1006年には、王詢の身を三角山サムガクサン神穴寺シニョルサ(現在の韓国・ソウル特別市)に移しました。

こうして、王詢は寺での生活を余儀なくされたのでした。

暗殺の危機に直面する

千秋太后チョンチュテフは、王詢(ワン・スン、のちの顕宗)を寺に追放するだけでは事足りず、何度も神穴寺シニョルサに使者を派遣して、彼を暗殺しようとはかりました。

『高麗史』には、次のようなエピソードが残っています。

ある日、千秋太后は女官に命じて、毒入りの酒と餅を作らせ、これを神穴寺の王詢に送らせました。

女官が寺を訪問したところ、ある僧侶が突然、王詢を地面の穴の中に隠し、女官を騙して、「小君(=王詢)は遊びに出かけました」と答えました。

これを聞いた女官は、とうとう帰っていきました。

女官が帰ったあと、酒と餅を庭にいたところ、(からす)(すずめ)がこれを食べて死んでしまったといいます。

僧侶の助けにより、かろうじて王詢は難を逃れることができたようです。

金致陽(キム・チヤン)が反乱を企てる

王詢(ワン・スン、のちの顕宗)の暗殺に失敗した千秋太后チョンチュテフでしたが、その勢力は衰えることなく、愛人の金致陽(キム・チヤン)とともに国政を支配しました。

そのような中、ある事件が起きます。

1009年1月、穆宗モクチョン(7代王)が燃灯会ねんとうえを開いていたところ、火災が発生し、母后・千秋太后の住む千秋殿が焼失してしまったのです。

穆宗は、母親の居所が燃えたことに深く心を痛め、病床に伏すまでになります。

そして、あまりにも傷心が大きかったのか、これ以降、穆宗は政事を疎かにするようになりました。

一方、穆宗が病床に伏すと、金致陽がこの隙に乗じて反乱を企てました。自分と太后の息子を王位に就けるためです。

これを知った穆宗は、金致陽の反乱を阻止するため、臣下の蔡忠順(チェ・チュンスン)と相談し、王族の大良院君王詢を迎えて後継者にすることを決めます。

穆宗は蔡忠順に命じて王詢宛ての書状を書かせ、それを皇甫兪義(ファンボ・ユイ)に託し、神穴寺シニョルサにいる王詢を迎えに行かせました。

それと同時に、穆宗は自身の身を守るために、西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサ康兆(カン・ジョ)を呼び寄せ、護衛させるようにしました。

西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサ
西京ソギョン(現在の北朝鮮・平壌)を拠点に、西北面(現在の平安北道・南道一帯)の防備と軍事指揮を担当する臨時の最高官職。

ところが、この康兆は、穆宗がすでに亡くなって朝廷が金致陽に掌握されたと勘違いし、金致陽の討伐を掲げて王都へ進軍を開始してしまいます。

康兆(カン・ジョ)が政変を起こす

康兆(カン・ジョ)は王都へ進軍する途中、まだ穆宗が存命であり、金致陽(キム・チヤン)も反乱を起こしていなかったという事実を知ります。

実際、金致陽はあくまで反乱を「企てた」だけで、まだ実行には移していませんでした。

康兆はこの事実を知って衝撃を受けますが、もはや挙兵したからには後戻りはできないと悟ります。

そこで、康兆は、「金致陽ら奸悪な者たちが王位を狙っていること」、「王が庾行簡(ユ・ヘンガン)らの讒言ざんげんへつらいを信じ、国の危機を招いた」などの名分を掲げて王の廃立を決意。

新しい国王として、大良院君・王詢(ワン・スン)の擁立を決めました。康兆はすぐに、金応仁(キム・ウンジン)を使者として、神穴寺シニョルサの王詢を迎えに行かせました。

庾行簡(ユ・ヘンガン)
穆宗(モクチョン)の寵愛を受け、ほしいままに権勢を振るった佞臣ねいしん。文武百官を軽蔑し、あごで人を使い、自分の顔色や態度だけで人々を動かしたという。

康兆は軍勢を率いて王都に入城し、宮殿を掌握。

金致陽父子と庾行簡を殺害し、その一味を流刑に処しました。

それから、穆宗モクチョンを廃位して、千秋太后とともに宮殿の外へ追放しました。

こうして、康兆は新しい君主を迎えるための準備を整えたのでした。

国王に擁立される(8代王・顕宗の即位)

康兆(カン・ジョ)が王都へ進軍していた頃、神穴寺シニョルサの王詢(ワン・スン)のもとに、穆宗モクチョン(7代王)が派遣した皇甫兪義(ファンボ・ユイ)がやって来ました。

時を同じくして、康兆が派遣した金応仁(キム・ウンジン)も神穴寺に到着。

王詢は、皇甫兪義と金応仁に連れられて、王都・開京ケギョンへ向かうことになりました。

開京に到着して宮殿に入城すると、そこには康兆がいました。

そうして、王詢は康兆によって迎え入れられ、そのまま国王に擁立されました(1009年2月)。

これが、8代王・顕宗ヒョンジョンの即位でした

顕宗本人にとっては、あまりにも急なことだったでしょう。

一方、康兆は、追放した前君主・穆宗モクチョンを殺害し、その祭祀を行なって、自らの政変を締めくくりました。

康兆が権力を握る

顕宗ヒョンジョンは即位すると、康兆(カン・ジョ)を中台使チュンデサに任命しました。

中台使チュンデサ
1009年、中枢院チュンチュウォン(王命の出納を担当)・銀台ウンデ(王命の伝達を担当)・宣徽院ソヌィウォン(儀礼や国王の居住する宮殿の管理を担当)の三機構を統合して作られた中台省チュンデソンの長官。中台省は時の国務を統括する最高権力機構であり、その長官である中台使の実態は、国王を超える最高権力者であった

中台省は実質的に康兆が作った機構で、その官員は康兆一派によって独占されました。

以後、中台使・康兆が国の最高権力者として、国王を上回る強大な権力でもって政務を執りました。

この頃の顕宗は、「お飾り」のような存在だったと考えられます。

契丹の脅威が迫る

当時、高麗の北方には、モンゴル高原を中心に強大な勢力を誇った契丹きったんという国がありました。

契丹(遼)
中国北方のモンゴル高原で活動する遊牧民の契丹族が建てた国。916年、耶律阿保機やりつあぼきが、それまで分散していた契丹諸部族を統合して建国した。947年に国号を遼とする。

916年に建国された契丹は、まもなく急成長を遂げ、926年には渤海を滅ぼし、984~985年には定安国(渤海の遺民が建てた国)及び女真を征伐し、高麗の国境近くまで迫ってきていました。

契丹の定安国女真征伐(984~985年)
画像:安周燮(2003)、p.45をもとに筆者作成

そして、993年(成宗12年)には高麗へ侵攻し、戦争を起こしました(高麗契丹戦争の第1次戦争)。

高麗契丹戦争
993年~1019年までの約30年間に、高麗と契丹(遼)の間で勃発した戦争の総称。993年の第1次戦争、1010年の第2次戦争、1018年の第3次戦争に分けられる。

993年に勃発した高麗と契丹の戦争は、高麗の講和によって一段落しました。

しかし、1010年5月、高麗で康兆(カン・ジョ)が政変を起こすと、契丹の皇帝は「勝手に王を殺害した康兆を懲らしめる」という名分で、再び高麗侵攻の準備を始めました。

再び、契丹の脅威が差し迫ってきていたのです。

高麗契丹戦争については、以下の記事で詳しく解説しています。3度に及ぶ戦争の状況を、地図で分かりやすく説明しています。

戦争の準備をする

契丹の侵攻が目前に迫ってくると、顕宗ヒョンジョンは契丹に使者を派遣して、戦争を避けるための外交的努力を講じました。

その一方で、契丹の侵攻に備えた戦争準備も始めました。

顕宗は、康兆(カン・ジョ)を行営都統使ヘンヨントトンサ(総司令官)に任命し、李鉉雲(イ・ヒョヌン)と張延祐(チャン・ヨヌ)を都統副使トトンプサに、崔士威(チェ・サウィ)を統軍使トングンサに任命し、戦争を指揮させるようにしました。

契丹軍が高麗に侵攻する(第2次戦争の勃発)

1010年11月、契丹の皇帝聖宗せいそうは、40万の軍勢を率いて親征(皇帝自身が軍を率いて出陣する)を開始し、鴨緑江アムノッカンを渡って高麗に侵入しました。

契丹軍の侵攻路
画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

契丹軍は高麗に侵入すると、まず興化鎮フンファジンを攻めたものの、高麗の将帥・楊規(ヤン・ギュ)らの激しい抵抗により、攻略に失敗します。

そこで、契丹は興化鎮を諦めて南下することを選択します。

1010年11月23日、契丹の聖宗は無老代ムロデ20万の軍を残留させて背後の危険に備え、興化鎮を迂回して通州トンジュ方面に南進を始めました。

通州近郊の三水砦サムスチェでは、高麗軍の総司令官・康兆(カン・ジョ)が30万の軍勢を率いて陣を構えていました。

ところが、契丹軍はこの三水砦に奇襲をかけ、高麗軍の総指揮官・康兆を生け捕り。

高麗軍を瓦解させて、南下を続けました。

30万の高麗軍は、あっけなく敗れてしまったのです。

三水砦の戦い
画像:安周燮(2003)、p.127をもとに筆者作成

通州を南下した契丹軍は、郭州クァクチュ安北府アンブクプ粛州スクチュを次々に攻略し、破竹の勢いで西京ソギョンまで進軍していきました。

契丹軍、郭州・安北府・粛州を攻略して西京へ
画像:安周燮(2003)、p.135、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

契丹軍が開京に迫る

契丹軍は西京ソギョンに到着すると、高麗の捕虜を利用して西京に降伏を促しましたが、高麗の猛将・智蔡文(チ・チェムン)などが降伏を拒否し、激しい抵抗を見せました。

一方、高麗側も、西京の責任者であった東北面都巡検使トンブンミョントスンゴムサ卓思政(タク・サジョン)が逃亡したり、将軍の大道秀(テ・ドス)が契丹の捕虜になったりするなど、苦戦を強いられました。

また、猛将の智蔡文も打って出て契丹軍と戦い、連勝を重ねたものの、しまいには破れて開京へ敗走してしまいます。

指揮官が次々にいなくなり、風前の灯火となった西京でしたが、下級武官の趙元(チョ・ウォン)、姜民瞻(カン・ミンチョム)などが力を合わせて、粘り強く抵抗を続けました。

その結果、ついに契丹軍は西京の攻略を諦め、これを迂回して、開京ケギョン(高麗の首都)へ向けて南進していきました(1010年12月17日)。

卓思政(タク・サジョン)大道秀(テ・ドス)については、以下の記事で詳しく解説しています。

契丹軍を避けて、南への避難を始める

契丹軍の開京接近と顕宗の避難
画像:安周燮(2003)、p.138、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

いよいよ、契丹軍が高麗の都・開京ケギョンへ接近してきました。

同じ頃、西京から敗走してきた智蔡文(チ・チェムン)が開京に到着し、顕宗ヒョンジョンに西京で敗戦したことを報告しました。

すると、朝廷の臣下たちはすぐに降伏を議し始めます。

もし、西京が突破されれば開京は目と鼻の先でしたので、降伏すべきだと考えたのでしょう。

そのような中、ひとり姜邯賛(カン・ガムチャン)だけが、降伏を論じず、王に南へ避難するよう勧めました。

顕宗は、この姜邯賛の意見を受け入れ、南へ避難することを決意します。

そして、顕宗は智蔡文を護衛として、二人の王后や臣下たちとともに開京をあとにし、南へ向けて出発しました

二人の王后とは?
顕宗とともに南へ避難した元貞ウォンジョン王后(顕宗の第1王后)と元和ウォナ王后(顕宗の第2王后)のこと。

1010年12月28日、こうして顕宗の蒙塵もうじん(君主が災難や戦乱を避けて都から逃れること)が始まったのでした。

苦難を経て羅州に着く

顕宗の避難ルート
※筆者作成

顕宗ヒョンジョン一行の避難は、平坦なものではありませんでした。

積城チョクソン(現在の京畿道・坡州パジュ市・積城面)に至ったときには、地元民に襲撃されて危険な目に遭い、礪陽ヨヤン(現在の全羅北道・益山イクサン市・礪山ヨサン面)に到着したときには、侍従の兵士たちが反乱を起こそうとしました。

礪陽県のあとに立ち寄った全州チョンジュ(現在の全羅北道・全州市)では、威勢を振りまこうとする節度使チョルトサ(地方長官)に身を脅かされました。

けれども、護衛の智蔡文(チ・チェムン)が臨機応変に対処したおかげで、顕宗は無事に羅州ナジュ(現在の全南光州統合特別市・羅州市)までたどり着くことができました。

このときの智蔡文の活躍については、以下の記事で詳しく解説しています。

契丹と講和を結ぶ

顕宗ヒョンジョンが南へ避難する中、都の開京ケギョンには契丹軍が侵入し、略奪を尽くしたうえで宮殿を焼き払ってしまいました(1011年1月1日)。

同じ頃、避難中の顕宗は、河拱辰(ハ・ゴンジン)を契丹陣営に遣わし、「契丹軍が撤退すれば、高麗国王が親朝(国王が自ら挨拶しに行くこと)する」という条件で講和を申し入れました。

契丹との講和は河拱辰自身が提案したものでした。

これを受けて、契丹の皇帝聖宗せいそうは、高麗側の講和要求を受け入れます。

契丹がこうも簡単に講和を受け入れたのは、これまでの戦闘で契丹側も少なくない損失を被っており、戦争を継続することが難しかったからだと考えられます。

そのうえ、「高麗国王の親朝」という約束も得ることができたので、これ以上の侵攻は不要でした。

こうして、1011年1月11日、契丹軍は足早に回軍を始めました。

一方、退却する契丹軍に対して、西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサ楊規(ヤン・ギュ)別将ピョルチャン(正7品の武官職)金叔興(キムスックン)が、その退却路で執拗に襲撃を仕掛けました。

これにより、契丹軍は退却中に甚大な被害を出しながら、やっとの思いで高麗を脱出していったのでした。

こうして、契丹との戦争(第2次戦争)は終結しました。

※第2次戦争における最大の功臣・楊規(ヤン・ギュ)については、以下の記事で詳しく解説しています。

開京へ戻る

1011年2月、羅州ナジュに避難していた顕宗ヒョンジョンのもとに、契丹軍が撤退したという知らせが届きました。

顕宗一行は、ようやく避難を終えることになるのです。一行はすぐに羅州を出発し、王都・開京ケギョンへの帰路に着きました。

その道中、公州コンジュ(現在の忠清南道・公州市)に立ち寄ったときのことでした。

顕宗は、公州節度使チョルトサ(地方長官)金殷傅(キム・ウンブ)の歓待を受けて、しばらく公州に滞在することになりました。

このとき、金殷傅は長女に御衣(王様の着物)を縫わせて、顕宗に献上させました。

すると、これを受けた顕宗は、彼女を王妃として迎えることに決めました。これが顕宗の第3妃・元成ウォンソン王后です。

のちに、顕宗はさらに金殷傅の娘を二人、王妃として迎え入れることになります。これが第4妃・元恵ウォネ王后と第7妃・元平ウォンピョン王后です。

公州を出発した顕宗一行は、北へ向かって歩き続けました。

そして、2月23日には、ついに王都・開京に帰京することができました。約2か月に及んだ避難を終えたのでした。

宮殿を再建する

開京に戻った顕宗ヒョンジョンは、まず契丹軍によって灰燼かいじんに帰した宮殿の再建に着手。約3年の工事を経て、新しい宮殿が完成を見ました。

その一方、契丹の侵攻を受ける前から議論されていた、羅城の建設も進めました。

羅城とは、城の周りを囲む防御用の城壁のことです。

当時、開京には、国王が居住する宮殿と、それを囲む皇城がありました。

しかし、民家を始めとする多くの建物は皇城の外にあり、むき出しの状態でした。

これでは、城外の建物を守ることができないうえ、皇城だけでは防御体制も不十分と言わざるを得ません。

そこで、皇城の外に、さらにもう一重、羅城を築くことにしたのです。

この羅城の建設は、姜邯賛(カン・ガムチャン)の建議を発端として始められ、王可道(ワン・ガド)などが責任者として工事を担当しました。

ただし、この羅城が完成を見るのは、約20年後のこと。1029年を待たねばなりませんでした。

豪族を牽制し、中央集権制を強化する

契丹との第2次戦争が終結すると、顕宗はさまざまな制度改革を通して、君主としての権威を高めることに尽力しました。

まず、1011年1月(契丹軍が撤退を始めた時期)には、かつて権臣・康兆(カン・ジョ)が朝廷を牛耳るために作った中台省チュンデソン廃止します。

中台省チュンデソン
1009年に、中枢院チュンチュウォン(王命の出納を担当)・銀台ウンデ(王命の伝達を担当)・宣徽院ソヌィウォン(儀礼や国王の居住する宮殿の管理を担当)の三機構を統合して作られた最高権力機構。

それから、豪族を始めとする地方有力者たちを牽制するため、郡県制(全国を郡と県に分け、中央から地方官を派遣して統轄する)を整備しました。

1012年には、全国の主要な12か所の地域(12牧)に派遣されていた節度使(地方官)を廃止し、新たに75か所の地域(75道)に按撫使を配置しました。

1018年には、再び按撫使を廃止。広域区画として五道両界オドヤンゲを成立させ、その中に行政区画として、京・牧・府・郡・県・鎮を置き、それぞれに地方官を派遣して治めさせました。

五道両界オドヤンゲ
西海道ソヘド楊広道ヤングァンド交州道キョジュド全羅道チョルラド慶尚道キョンサンドの五道、北界プッケ東界トンゲの両界からなる広域区画。

五道両界
画像:韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.77をもとに筆者作成

そして、このような郡県制を維持していくために、各地域の郷吏ヒャンリ(地方官の下で実務を補佐する在地有力者)の定員を規定し、郷吏の長である戸長ホジャンの選抜にも、現地民の世論を反映させるようにしました。

つまり、顕宗は地方行政の末端にまで介入し、在地有力者が郷吏に就くことのできる条件を難しくすることで、彼らの勢力を弱めようとしたのです。

こうした地方制度の改変を基礎とする中央集権制の推進は、すでに成宗ソンジョン(高麗6代王)の時代に始まっていましたが、顕宗はこれをさらに発展させて、強化したと言えるでしょう。

顕宗はこうして中央集権制、言い換えれば王権を強化して、君主としての権威を高めていったのでした。

※高麗6代王・成宗代の政治や制度改革については、成宗の記事で解説しています。

崔質(チェ・ジル)などの反乱を鎮圧する

1014年11月、上将軍サンジャングン崔質(チェ・ジル)・金訓(キム・フン)などが反乱を起こし、政権を掌握しました。

顕宗ヒョンジョンにとって、臣下の反乱に遭うのは、康兆(カン・ジョ)の政変に続いて2回目でした。

崔質は、武官の最高位である上将軍の地位にありましたが、常に自分が文官職を得られないことに恨みを抱いていました。

当時の高麗では、武臣の中でも政務を処理する能力のある者には、文官職を兼任する道が用意されていました。

文官職を兼任すれば、たとえ武臣であっても、文臣と同じ立場で議論に参加したり、政務に関与したりすることが可能でした。

しかし、崔質は文官職に任命されなかったので、日々、恨みを抱いていたのです。

そのような中、中枢院使チュンチュウォンサ張延祐(チャン・ヨヌ)と中枢院日直員チュンチュウォンイルチグォン皇甫兪義(ファンボ・ユイ)が、官吏の俸禄不足を補うために、京軍(都の軍隊)の永業田(世襲を許された田)を削る意見を上げました。

つまり、武官の土地を回収して、それを官吏(文官)の俸禄に充てようというわけです。

当然、これを知った武官たちは不満を募らせました。

これを機会に、普段から朝廷に恨みを抱いていた崔質は、金訓(キム・フン)などとともに、この件でもって武官たちの怒りを煽りました。

そうして、兵士たちを誘い出し、ついに決起したのです。

この反乱以後、しばらくは崔質・金訓などの武臣が政権を掌握することとなりました。

しかし、質の悪い武臣たちが好き勝手に振る舞ったため、時の政治は乱れに乱れました。

一方、武臣たちの横暴が続く中、顕宗は密かに、彼らを排除する作戦を立てていました。

1015年3月、顕宗は反乱を起こした武臣たちを連れて、西京へ行幸。

西京に着くと、顕宗は武臣たちを招いて、長楽宮チャンナックンで宴を催しました。

武臣たちに酔いが回ったそのとき。

顕宗はその隙を突いて、兵士たちに彼らを奇襲させました。

もはや武臣たちに為すすべなし。

顕宗は、反乱の首謀者である崔質・金訓を始め、武臣18人を処刑し、反乱を鎮圧することに成功しました。

崔質と金訓の反乱についてもっと詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

再び契丹軍が侵攻してくる(第3次戦争の勃発)

契丹との第2次戦争は、高麗王が契丹に親朝(※国王が自ら挨拶しに行くこと)することを条件として、講和が成立しました(本記事・契丹と講和を結ぶを参照)。

しかし、高麗はその講和条件を、一向に実施しないでいました。

それもそのはず。

高麗は第2次戦争において、退却する契丹軍を相手に致命的な打撃を与えて勝利したのですから、あえて降伏に等しい親朝をする理由がなかったのです。

こうした高麗の態度に不満を抱き始めた契丹は、高麗の領土である江東六州カンドンユクチュという地域を返還するように命じてきました。

江東六州
画像:安周燮(2003)、p.110をもとに筆者作成

この江東六州は、過去に高麗が契丹から獲得した領土だったのですが、契丹は今になってその返還を求めてきたのです。

江東六州
993年(成宗12年)、高麗の大臣・徐熙ソヒが契丹と交渉し、契丹側から獲得した鴨緑江アムノッカン以東地域に設置された行政区域。

もちろん、高麗側は江東六州の返還命令に応じるはずがありませんでした。

怒りを発した契丹は、1014~17年にかけて3回も高麗に攻め込みましたが、結局、江東六州の返還を実施させることはできませんでした。

そして、1018年。

いよいよ、契丹の皇帝聖宗せいそうは、本格的に江東六州の奪還を企図し、大々的な高麗遠征を準備させました。

1018年10月、聖宗は蕭排押しょうはいおう都統ととう(遠征指揮官)に任命し、10万名の軍勢を率いさせて、高麗遠征を決行。

ここに、高麗契丹戦争・第3次戦争の火蓋が切って落とされたのです

高麗契丹戦争
993年~1019年までの約30年間に、高麗と契丹(遼)の間で勃発した戦争の総称。993年の第1次戦争、1010年の第2次戦争、1018年の第3次戦争に分けられる。

※第1次から第3次戦争までの全貌を知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

戦争の準備をする

契丹の侵攻が目前に迫ると、高麗は外交的な解決を試みつつ、一方では侵攻に備えて戦争準備をしました。

1018年10月、顕宗ヒョンジョンは契丹に使者を派遣して和平を提議する一方で、姜邯賛カン・ガムチャン)を西北面行営都統使ソブンミョンヘンヨントトンサ(司令官)に任命し、契丹の侵攻に備えました。

そして、契丹が和平提議を拒否し、侵攻が確実となると、高麗側は防御軍を編成して本格的な戦闘態勢を整えます。

12月、顕宗は行営都統使の姜邯賛上元帥サンウォンス(総司令官)に、大将軍テジャングン(従3品の武官職)姜民瞻(カン・ミンチョム)を副官に任命し、20万8,000名の防御軍を編成しました。

契丹軍が破竹の勢いで開京に迫る

1018年12月10日、蕭排押しょうはいおうの率いる10万の契丹軍が、鴨緑江アムノッカンを渡って高麗に侵入しました。

第3次戦争・契丹軍の侵攻路
画像:安周燮(2003)、p.164、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

契丹軍が興化鎮フンファジンに至ると、高麗の上元帥サンウォンス姜邯賛(カン・ガムチャン)は、興化鎮を東から西に流れる三橋川サムギョチョン付近の谷間で契丹軍を待ち伏せし、水攻めを実行しました。

三橋川の戦闘
画像:安周燮(2003)、p.166をもとに筆者作成

この水攻めを正面から食らった契丹軍は、大きな被害を受けることになりました。

けれども、契丹軍はそのまま南進し、清川江チョンチョンガンを渡って、まっすぐに高麗の都・開京ケギョンを目指しました。

南進を続ける契丹軍に対し、高麗軍の副司令官・姜民瞻(カン・ミンチョム)慈州チャジュ来口山ネグサンで大きな打撃を与え、馬灘マタンでも侍郎(正4品の文官職)の趙元(チョ・ウォン)が1万余名を打ち取る戦果を上げました。

来口山・馬灘の戦闘
画像:安周燮(2003)、p.162、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

すでに、多くの損害を被っていた契丹軍でしたが、構うところなく、ひたすら南進を続け、ただ開京のみを目指しました。

開京の危機を悟った姜邯賛は、兵馬判官ピョンマパンガン金宗鉉(キム・ジョンヒョン)に1万名の兵士を率いて開京へ行き、守らせるようにしました。

兵馬判官ピョンマパンガン
成宗8年(989)、高麗の行政区域である西北面ソブンミョン(北界とも言う)と東北面トンブンミョン(東界とも言う)にそれぞれ置かれた地方官の一種。位階は5~6品。

開京に迫る契丹軍を退ける

1019年1月3日、契丹軍は開京ケギョンから100里(数百km)北側に位置する新恩県シヌンヒョンに到着しました。いよいよ、開京の近くまで迫ってきたのです。

顕宗ヒョンジョンは契丹軍の開京攻撃に備え、開京城外の民戸を城内に移住させ、清野ちょうや作戦を実施して長期戦に備えました。

清野作戦
城外を焦土化してしまうことで、敵が食料や物資などを接収できないようにする作戦。

顕宗は開京を守るために、自ら指揮をしたのです。

一方、契丹軍の都統(遠征指揮官)蕭排押しょうはいおうは、開京攻撃に先立って、密かに偵察部隊である遠探欄子軍えんたんらんしぐん300余騎を開京近くに駐屯させました。

しかし、これを見抜いた高麗軍は、契丹軍が金郊駅クムギョヨク一帯を通過するときに襲撃し、この300余騎を殲滅させました。

金郊駅の戦闘で敗北した契丹軍は開京攻略を諦め、退却するほかありませんでした。

金郊駅の戦闘
画像:安周燮(2003)、p.162、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

姜邯賛(カン・ガムチャン)が契丹軍を撃滅する

第3次戦争・契丹軍の回軍路
画像:安周燮(2003)、p.162、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

金郊駅クムギョヨクから退却を始めた契丹軍に対して、高麗の上元帥サンウォンス姜邯賛(カン・ガムチャン)は漣州ヨンジュ渭州ウィジュで待ち伏せて、奇襲を仕掛けます。

この奇襲によって損害を被った契丹軍は、ようやく清川江チョンチョンガンを越え、亀州クィジュを通過しようというところでした。

1019年2月2日、姜邯賛は亀州東側の郊外に陣を構え、亀州を通過しようとする契丹軍を迎え撃ちました。

ですが、両軍の戦いは、なかなか決着がつきません。

そのような中、姜邯賛の命令で開京ケギョンを守りに行っていた兵馬判官の金宗鉉(キム・ジョンヒョン)が、兵士を率いて戦地に到着しました。

開京はすでに難を逃れたため、金宗鉉は背後から、退却する契丹軍を追ってきたのだと思われます。

このとき、突然に風雨が南から吹いてきて、高麗軍の形勢が有利になったので、この勢いに乗って契丹軍を激しく攻撃しました。

その結果、契丹軍は壊滅し、北へ敗走。

この戦闘により、契丹軍の死体は野原を覆い尽くし、高麗軍が獲得した捕虜や馬・らくだ、武器などは数え切れないほどであったといいます。

契丹軍で生きて帰った者は、10万名のうち、わずか数千名。

契丹の敗北がこれほど甚だしい戦争は、かつてなかったといいます。

こうして、契丹との第3次戦争は終幕を迎えたのです。

姜邯賛に金の花を授ける

顕宗ヒョンジョン迎波駅ヨンパヨク(開京のやや北方に位置する)まで出向いて、凱旋してくる姜邯賛(カン・ガムチャン)を自ら迎えました。

このとき、顕宗は金で作った花8輪を、姜邯賛の頭に飾ってやりました。

それから、顕宗は左手で姜邯賛の手を握り、右手で酒杯を取りながら、慰労と感嘆の言葉を絶やさなかったといいます。

顕宗が姜邯賛に心から感謝している様子が伝わってきますね。

契丹と修好する

契丹との戦争を大勝利で終えた高麗でしたが、これ以後は、契丹との講和に舵を切りました。

これに対し、高麗の抵抗に悩まされていた契丹側も、この講和を受け入れました。

こうして、第2次戦争の勃発と同時に崩れた両国の関係は、1022年に高麗が契丹の冊封を受けるかたちで修復されることとなりました。

冊封とは、皇帝が臣下となった国に爵位を与えることです。これにより、臣下国は皇帝から自国の支配を認められます。言い換えれば、皇帝から「自国の領土を支配していいよ」というお墨付き得られるということです

以降、契丹との関係は安定に向かい、比較的平和な状態が続くことになります。

顕宗の最期

契丹との戦争が終わったあと、顕宗ヒョンジョンはさまざまな制度改革を実施して国を復興していきました。

1025年には、民たちの土木事業を減らして、それぞれの農事に専念できるように処置を施しました。

また、税制度を改善し、土地の保有面積によって税を調節する養倉収斂法ヤンチャンスリョムポプを制定。

さらに、物価が高騰した場合には、国家が介入してこれを調整しました。

1028年には、桑の木を植えて、馬を育てる監牧養馬法カムモクヤンマポプも制定します。

そのほかにも、さまざまな制度改革を実施し、戦争からの復興にとどまらず、高麗を中興へと導いたのでした。

しかし、1031年4月、顕宗は病床に就くこととなりました。

そして、その翌月には薨去しました。

享年は38歳。

私生児として生まれ、幼年期は父の流刑先で過ごし、青年期には強制的に出家させられ、暗殺の危機にも直面。

その後、臣下のクーデターによって王位に祭り上げられたかと思えば、契丹の大々的な侵攻を受けて都落ちを迫られるなど、その生涯は波乱万丈でした。

けれども、顕宗はこうした数々の試練を乗り越え、王権を強化して諸制度を改革し、高麗を中興へと導いた偉大な君主となったのでした。

時の文人たちは、顕宗を堯舜ぎょうしゅん(中国古代の伝説上の聖君主)の再臨とみたり、仏や弥勒に比喩するほどだったといいます。

参考文献

  • 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
  • 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
  • 金甫桄「고려 초 康兆의 政變과 中臺省의 등장(高麗 初 康兆の政変と中台省の登場)」『史学研究』109号、2013年
  • 홍영의(ホン・ヨンイ)『고려왕조실록(高麗王朝実録)』살림출판사(サルリム出版社)、2024年
  • 李成市、宮嶋博史、糟谷憲一 編『朝鮮史1(世界歴史大系)』山川出版社、2017年
  • 『高麗史』巻3、世家第3、成宗15年(996)7月7日
  • 『高麗史』巻3、世家第3、穆宗6年(1003)
  • 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗即位年(1009)~13年(1022)
  • 『高麗史』巻5、世家第5、顕宗14年(1023)~22年(1031)
  • 『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、神成王太后金氏
  • 『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、献哀王太后皇甫氏
  • 『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、献貞王后皇甫氏
  • 『高麗史』巻90、列伝第3、宗室1、安宗郁
  • 『高麗史』巻94、列伝第7、姜邯賛
  • 『高麗史』巻94、列伝第7、智蔡文
  • 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽
  • 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆
  • 한국민족문화대백과사전「顯宗」https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0063417(最終閲覧日:2026年8月3日)
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この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

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