カンジョ(康兆)は実在の人物!キムチヤンを排除し、千秋太后を退けた権臣【高麗】

韓国ドラマ『千秋太后チョンチュテフ』『高麗契丹戦争コリョコランチョンジェン』に登場するカン・ジョ。

ドラマ『千秋太后』では、渤海の遺民で、千秋太后に思いを寄せる剛直な武人として描かれていました。

一方、ドラマ『高麗契丹戦争』では、政変を起こして千秋太后・金致陽(キム・チヤン)を退け、王を廃立した反逆者として描かれていました。

カン・ジョ(康兆)は実在した人物です

二つのドラマで全く違う描かれ方をしたカン・ジョですが、実際にはどのような人物だったのでしょうか。

そして、どちらのドラマが、より史実に近いカン・ジョを描写しているのでしょうか。

この記事では、カン・ジョという人物について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて解説していきます。

記事の最後では、二つのドラマで描かれるカン・ジョと史実との違いも解説しています。

目次

康兆(カン・ジョ)の詳細

康兆の基本情報

姓名:康兆(カン・ジョ)
出生年:不明
死亡年:1010年(顕宗即位年)
最終官職:中台使

家族構成

不明

康兆(カン・ジョ)の生涯

生い立ち

康兆(カン・ジョ)の生い立ちについては、残念ながら、全く分かっていません。

というのも、歴史書に康兆の生い立ちを示す記録が残されていないからです。

それどころか、出身や家族、祖先のことなども、何一つ記録が残されていません。

ただ、康兆の姓である「康」氏は、黄海道地域の土着姓であるため、この地域の出身であった可能性は考えられます。

一説には、康兆は黄海道の「信川康氏」の出身とされています。

しかし、少なくとも、高麗の歴史書である『高麗史』や『高麗史節要』は康兆の出身・家族のことについて口を閉ざしており、何も知ることができません。

そのため、確かに言えることとしては、「康兆の生い立ちはよく分からない」ということになります。

西北面都巡検使となる

康兆(カン・ジョ)の生い立ちは全く分かりませんが、彼が仕官した時代は、高麗7代王の穆宗(モクチョン)期であったと考えられます。

穆宗(モクチョン)[在位:997~1009]
高麗7代王。5代王景宗(キョンジョン)の息子で、980年に生まれた。997年、18歳で即位したものの、母后である千秋太后(チョンチュテフ)の摂政を受けるなど、その治世には母后の影響力が強く作用した。

康兆はこの穆宗モクチョン(高麗7代王)の時代に昇進を重ね、西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサとなります。

西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサ
西京ソギョン(現在の北朝鮮・平壌)を拠点に、西北面(現在の平安北道・南道一帯)の防備と軍事指揮を担当する臨時の最高官職。

康兆が就任した西北面都巡検使は西北面を守る最高指揮官なので、当然、強大な軍事力を有しました。

この軍事力がのちの政変で主体となっていくのです。

政局の混乱

康兆(カン・ジョ)が仕官した穆宗(モクチョン)の治世は、母后である千秋太后(チョンチュテフ)の影響力が強い時代でした。

千秋太后は穆宗に代わって政務を摂り(摂政せっしょう)、愛人の金致陽(キム・チヤン)を重用して、共に絶大な権力を握りました。

千秋太后は金致陽との間に男子も設けました。

このような状況に対し、穆宗は金致陽を恨み、常に追放しようと考えていましたが、母后の意に逆らうことを恐れ、結局は実行することができませんでした。

千秋太后と金致陽の独壇場どくだんじょうは、留まるところを知りませんでした。

そのような中、ある事件が起きます。

1009年1月、穆宗が燃灯会ねんとうえを開いていたところ、火災が発生し、母后・千秋太后の住む千秋殿が焼失してしまったのです。

これを受けて、穆宗は深く心を痛め、病床に伏すまでに。

あまりにも傷心が大きかったのか、これ以降、穆宗は政事を疎かにするようになりました。

高麗の政局には、暗雲が立ち込めていました。

千秋太后金致陽(キム・チヤン)については、以下の記事で詳しく解説しています。

金致陽(キム・チヤン)の反乱を受け、穆宗に呼び寄せられる

穆宗(モクチョン)が病床に伏した頃、千秋太后(チョンチュテフ)と金致陽(キム・チヤン)は、自分たちの息子を後継者にしようと謀っていました。

とりわけ、金致陽は息子を王位に就けるために、反乱を企てるようになります。

このことを知った穆宗は、金致陽の謀議を阻止するため、臣下の蔡忠順(チェ・チュンスン)と相談し、王族の大良院君(テリャンウォングン)を迎えて後継者にすることを決めます。

大良院君(テリャンウォングン)
のちの高麗8代王・顕宗(ヒョンジョン)。穆宗の摂政をしていた千秋太后(チョンチュテフ)により出家させられ、三角山サムガクサン神穴寺シニョルサ(※現在のソウル特別市に位置する)に住んでいた。

穆宗は蔡忠順に命じて大良院君宛ての書状を書かせ、それを皇甫兪義(ファンボ・ユイ)に託し、神穴寺にいる大良院君を迎えに行かせました。

それと同時に、穆宗は自身の身を守るために、西北面都巡検使ソブンミョントスンゴムサ康兆(カン・ジョ)を呼び寄せ、護衛させるようにしました。

王命を受けた康兆は、西京ソギョンを出発し、都の開京ケギョンへ向かっていきました。

金致陽を討伐するため挙兵する

西京を出発した康兆(カン・ジョ)は、その道中で魏従正(ウィ・ジョンジョン)と崔昌(チェ・チャン)という二人の者に出くわしました。

この二人は、今の朝廷に恨みを持っていた者たちでした。

魏従正(ウィ・ジョンジョン)と崔昌(チェ・チャン)は康兆に会うと、次のように言いました。

「王様の病は危篤で、余命は短いです。〔千秋〕太后は金致陽とともに社稷(=国家・朝廷)を簒奪することを企てています。公は辺境にいて多くの兵力を掌握しているため、〔太后と金致陽は公が〕もしかすると従わないのではないかと恐れ、王命を偽って〔公を〕呼び出したのです。公は速やかに西北面に戻り、大義の軍を起こして国を守り、ご自身を守らなければなりません。時を逃すわけにはいきません」。

『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆

魏従正と崔昌は康兆に対して、千秋太后と金致陽を倒すために大義の軍を起こすよう唆したのです。

これを聞いた康兆は、王がすでに亡くなって朝廷が金致陽に掌握されたと勘違いし、西京へ戻り、挙兵の準備を始めてしまいます。

康兆は魏従正らに騙されて、挙兵を決意することとなったのです。

そして、ついに康兆は部下の李鉉雲(イ・ヒョヌン)らとともに5,000名の兵を率い、金致陽(キム・チヤン)の討伐を掲げて、王都へ進軍を開始しました。

王が亡くなっていない事実を知る

康兆(カン・ジョ)自身としては、王を殺害した反逆者たる金致陽(キム・チヤン)を討伐するために、大義の軍を起こしたつもりでした。

ところが、開京への道中で、康兆は「実は王が亡くなっていない」という事実を知ることになります。

この事実を知った康兆は気勢を失い、頭を垂れてしばらくそのままであったといいます。

それもそのはず。王が存命とあれば、挙兵した康兆は反逆者となってしまうからです。

仮に、金致陽がすでに王を殺害していたのであれば、康兆は金致陽を討伐することで英雄になることができたでしょう。

しかし、王が存命とあれば、話は別です。挙兵しただけで反逆者に転落します。

しかも、金致陽は反乱を「企てた」だけで、実行には移していませんでした。

康兆が挙兵することのできる名分は、実は何もなかったのです。

康兆が事実を知って失意するのにも頷けますね。

康兆はこの時点で、不意に反逆者と成り果ててしまったのです。

金致陽と庾行簡(ユ・ヘンガン)を処刑する

王が存命であることを知った康兆(カン・ジョ)は、もはや後戻りはできないと悟ります。

そこで、康兆は、「金致陽(キム・チヤン)ら奸悪な者たちが王位を狙っていること」、「王が庾行簡(ユ・ヘンガン)らの讒言やへつらいを信じ、国の危機を招いた」などの名分を掲げて王の廃立を決意し、そのまま王都へ進軍を続けました。

康兆の政変が始まったのです。

庾行簡(ユ・ヘンガン)
穆宗(モクチョン)の寵愛を受け、ほしいままに権勢を振るった佞臣ねいしん。文武百官を軽蔑し、あごで人を使い、自分の顔色や態度だけで人々を動かしたという。

康兆が王都に入城して宮殿を掌握すると、穆宗は驚き恐れて、康兆のもとに庾行簡を差し出しました。

穆宗は庾行簡を差し出すことで、何とか康兆に政変を中止してもらおうと思ったのでしょう。

しかし、康兆はそのまま庾行簡を処刑。金致陽父子も殺害し、その一味を流刑としました。

それから、穆宗を廃位して千秋太后(チョンチュテフ)とともに宮殿の外へ追放し、大良院君(テリャンウォングン)を国王に擁立しました(第8代王・顕宗)。

ですが、まだ政変は終わっていませんでした。

穆宗(モクチョン)を弑逆する

宮殿を追われた穆宗(モクチョン)と千秋太后(チョンチュテフ)は、共に忠州(現在の韓国・忠清北道・忠州)へ向かいました。

一方、康兆(カン・ジョ)は後から人を遣わして、忠州へ向かっていた穆宗に毒薬を献上します。

康兆は始めから穆宗を生かしておくつもりはなかったようです。

しかし、穆宗が毒薬を飲もうとしなかったため、王の近衛兵であっ安覇(アン・ペ)に穆宗を殺害させました。

その後、康兆は穆宗の祭祀を行ない、自身の政変を締めくくりました。

権臣となる

康兆(カン・ジョ)によって擁立された顕宗(ヒョンジョン)は、康兆を中台使チュンデサに、李鉉雲(イ・ヒョヌン)をその副使に任命しました。

中台使チュンデサ
1009年、中枢院チュンチュウォン(王命の出納を担当)・銀台ウンデ(王命の伝達を担当)・宣徽院ソヌィウォン(儀礼や国王の居住する宮殿の管理を担当)の三機構を統合して作られた中台省チュンデソンの長官。中台省は時の国務を統括する最高権力機構であり、その長官である中台使の実態は、国王を超える最高権力者であった

中台省は実質的に康兆が作った機構で、その官員は康兆一派によって独占されました。

中台使に就任した康兆は、国の最高権力者として、国王を上回る強大な権力でもって政務を執りました。

契丹の脅威が迫る

当時、高麗の北方には、モンゴル高原を中心に強大な勢力を誇った契丹きったんという国がありました。

契丹(遼)
中国北方のモンゴル高原で活動する遊牧民の契丹族が建てた国。916年、耶律阿保機やりつあぼきが、それまで分散していた契丹諸部族を統合して建国した。947年に国号を遼とする。

契丹は916年に建国された新しい国家でしたが、それから急成長を遂げ、926年に渤海を滅ぼし、984~985年には定安国(渤海の遺民が建てた国)及び女真を征伐し、高麗の国境近くまで迫ってきました。

契丹の定安国女真征伐(984~985年)
画像:安周燮(2003)、p.45をもとに筆者作成

そして、993年には高麗にも侵攻し、戦争を起こしています(高麗契丹戦争の第1次戦争)。

高麗契丹戦争
993年~1019年までの約30年間に、高麗と契丹(遼)の間で勃発した戦争の総称。993年の第1次戦争、1010年の第2次戦争、1018年の第3次戦争に分けられる。

993年に勃発した高麗と契丹の戦争は、講和によって一段落しました。

しかし、1010年5月、高麗で康兆(カン・ジョ)が政変を起こすと、契丹の皇帝は「勝手に王を殺害した康兆を懲らしめる」という名分で、再び高麗侵攻の準備を始めました。

契丹の脅威が差し迫ってきていたのです。

高麗契丹戦争については、以下の記事で詳しく解説しております。

戦争の総司令官となる

高麗側も契丹の侵攻に備えて、戦争準備を始めました。

顕宗(ヒョンジョン)は、康兆(カン・ジョ)を行営都統使ヘンヨントトンサ(総司令官)に任命し、その部下である李鉉雲(イ・ヒョヌン)を都統副使トトンプサとして、戦争を指揮させるようにしました。

康兆は自ら戦争を総指揮したのです。

高麗軍の総司令官となった康兆は、30万の軍勢を率いて通州トンジュに駐屯しました(※通州の場所は下画像を参照)。

契丹が侵攻を開始する

契丹軍の侵攻路
画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

1010年11月、ついに契丹の皇帝聖宗せいそうは、40万の軍勢を率いて親征(皇帝自身が軍を率いて出陣する)を開始し、鴨緑江アムノッカンを渡って高麗の興化鎮フンファジンに迫りました。

しかし、興化鎮を守っていた高麗の将帥・楊規(ヤン・ギュ)らの激しい抵抗により、契丹軍は興化鎮を陥落させることに失敗します。

そこで、契丹軍は無老代ムロデ20万の軍を残留させて背後の危険に備え、興化鎮を迂回して通州トンジュ方面に南進を始めました。

契丹軍、興化鎮を迂回して通州へ
画像:安周燮(2003)、p.125、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

通州では、高麗軍の総司令官である康兆(カン・ジョ)が30万の本軍を率いて、駐屯していました。

三水砦で契丹軍を迎え撃つ

契丹軍が迫ると、康兆(カン・ジョ)は通州城外へ出て、三つの川が合流する地点の三水砦サムスチェに陣を張り、契丹軍を待ち構えました。

いよいよ、契丹軍が三水砦に進軍してくると、康兆はこれを迎え撃ちました。

康兆は戦闘兵器である剣車コムチャを利用して契丹軍の攻勢を阻み、この戦いを大勝利に導くことに成功します。

三水砦の戦い
画像:安周燮(2003)、p.127をもとに筆者作成

契丹軍に捕らわれる

三水砦サムスチェで大勝利を収めた康兆(カン・ジョ)。

ところが、この勝利によって慢心した康兆は、戦場で将棋を打つなど指揮を疎かにするようになってしまいます。

そうした中、契丹の先鋒将軍の耶律盆奴やりつぶんどが三水砦に奇襲をかけました。

奇襲の報告を受けた康兆は、「口の中の食べ物のように、〔敵軍が〕少なければ良くない。多く侵入させておけ」と冗談じみた発言をする始末。

康兆は完全に敵を侮っていたようです。

まもなく、契丹の大軍が三水砦に侵入してくると、康兆は驚いて、ようやく立ち上がりましたが、時すでに遅し。

契丹軍によって康兆は縛り上げられ、部下の李鉉雲(イ・ヒョヌン)とともに契丹陣営に連れ去られてしまいました。

契丹によって処刑される

康兆(カン・ジョ)は、契丹の皇帝聖宗せいそうの面前に連れて行かれました。

契丹皇帝が康兆の縛りを解きながら、「我が臣下となるか?」と問うと、康兆はこう答えました。

「私は高麗人である。どうして汝の臣となれようか?」。

『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆

そうすると、契丹皇帝は刀で康兆の体を削ぎながら、再び臣下となるよう促しました。

しかし、体を傷つけられながらも、康兆は契丹皇帝の臣下となることを拒絶しました。

一方、康兆の部下である李鉉雲(イ・ヒョヌン)は即答し、すぐに契丹皇帝の臣下になることを誓いました。

これを聞いた康兆は激怒し、李鉉雲を蹴り飛ばして言いました。

「お前は高麗人であるのに、どうしてこのようなことを言うのか?」。

『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆

そしてついに、契丹は康兆を誅殺しました。

康兆を処刑し、三水砦サムスチェを突破した契丹軍は、これ以降、高麗の王都・開京ケギョンまで侵攻していくことになります。

このことについては、以下の高麗契丹戦争の記事で詳しく解説しております。

ドラマ『千秋太后』と史実の違い(ネタバレ注意)

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

康兆(カン・ジョ)は渤海人ではない

ドラマ『千秋太后』では、康兆(カン・ジョ)は渤海人の設定でした。

ですが、史実では、康兆は渤海人ではなく、高麗人でした。

具体的な出身地はよく分かっていませんが、康兆の「康」という姓は、黄海道地域の土着姓であるため、この地域の出身であった可能性が高いです。

ドラマでは、康兆を渤海人として描くことで、祖国・渤海を滅ぼした契丹に対する、彼の「憎しみ」を強調する意図があったのかもしれません。

千秋太后に恋はしていない

ドラマでは、康兆(カン・ジョ)は千秋太后(チョンチュテフ)に思いを寄せる武人として描かれていました。

しかし、実際には、康兆と千秋太后の間には、接点すらなかったと考えられます。

高麗の歴史書である『高麗史』や『高麗史節要』には、二人の接点を示す記録は全く残されていません。

ドラマでは、千秋太后の心を奪った狡猾な金致陽(キム・チヤン)に対し、千秋太后を誠実に愛しながらも恋の実らない康兆を描くことで、康兆の金致陽に対する「嫉妬心」「憎しみ」の感情を強調したのでしょう。

史実では政変を起こした

ドラマでは、康兆(カン・ジョ)はひとえに千秋太后(チョンチュテフ)に忠誠を尽くす人物でした。

しかし、史実では、千秋太后に忠誠を尽くすどころか、政変を起こして太后と穆宗(モクチョン、高麗7代王)を追放しています。

そのうえ、康兆は穆宗を弑逆し、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)を擁立しています。

ドラマでは、穆宗の殺害に康兆が関与していないことになっていたり、千秋太后も自らの意思で宮殿を出ていったことになっていたりと、史実とは異なった描写がされています。

ドラマは、史実における康兆の「反逆者」としての側面は取り入れずに、ただ太后と国のために忠誠を尽くす武人という設定にしたのでしょう。

ドラマ『高麗契丹戦争』と史実の違い(ネタバレ注意)

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

史実通りの康兆(カン・ジョ)が描かれている

『高麗契丹戦争』の康兆(カン・ジョ)は、ほぼ史実に沿った人物像になっています。

「反逆者」となりながらも、最後まで国に忠誠を尽くす姿は、史実通りの康兆像と言ってよいでしょう。

特に、契丹皇帝の臣下になることを拒否して処刑された姿は、そうした忠誠心を示すものと考えられます。

史実でも、契丹軍に捕まった康兆は、最後まで契丹皇帝の臣下となることを拒絶し、死を遂げました。

高麗の歴史書である『高麗史』の列伝では、康兆は「叛逆」という項目に列せられており、「反逆者」として扱われています。

確かに、政変を起こしたことは「反逆」かもしれませんが、その背景に国を思う忠節心があったことも事実です。

何よりも、処刑を前にして、自分の節操を貫いた姿がこのことを証明しています。

康兆を単なる「反逆者」として評価することは難しいでしょう。

そのほか、細かい部分では、金致陽(キム・チヤン)や庾行簡(ユ・ヘンガン)を排除し、王を廃立する政変を起こしたこと、契丹との戦争を総指揮したことなども、歴史書に記されている通りです。

参考文献

  • 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
  • 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
  • 金甫桄「고려 초 康兆의 政變과 中臺省의 등장(高麗 初 康兆の政変と中台省の登場)」『史学研究』109号、2013年
  • 『高麗史』巻3、世家第3、穆宗12年(1009)1月16日
  • 『高麗史』巻3、世家第3、穆宗12年(1009)2月3日
  • 『高麗史』巻3、世家第4、顕宗即位年(1009)2月4日
  • 『高麗史』巻3、世家第4、顕宗元年(1010)5月6日
  • 『高麗史』巻3、世家第4、顕宗元年(1010)10月1日
  • 『高麗史』巻3、世家第4、顕宗元年(1010)11月24日
  • 『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、献哀王太后皇甫氏
  • 『高麗史』巻93、列伝第6、蔡忠順
  • 『高麗史』巻123、列伝第36、嬖幸1、庾行簡
  • 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽
  • 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆
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この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

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