チェソム(崔暹)は実在した文臣(千秋太后の登場人物)

ドラマ『千秋太后』に登場するチェ・ソムは実在した人物です

ドラマでは、新羅系の筆頭として政界に影響力を及ぼす一方、敵対勢力である千秋太后らを排除するために、さまざまな悪事を働いていました。

実際には、どのような人物だったのでしょうか?

この記事では、チェ・ソム(崔暹)という人物について、高麗の歴史書である『高麗史』に基づいて解説していきます。

記事の後半では、ドラマ『千秋太后』で描写されるチェ・ソムと史実との違いを解説しています。

目次

崔暹(チェ・ソム)の詳細

崔暹の基本情報

姓名:崔暹(チェ・ソム)
出生年:不明
死亡年:不明
最終官職:常侍

家族構成

不明

崔暹(チェ・ソム)の生涯

科挙に合格する

実は、崔暹(チェ・ソム)について残された記録はとても少なく、彼の生涯は断片的にしか知ることができません。

ここでは、その少ない手がかりをもとに、崔暹の生涯を追っていくことにします。

崔暹が初めて歴史書に登場するのは、高麗4代王・光宗クァンジョン[在位:949-975]の時代。

それによれば、958年(光宗9年)、崔暹は科挙に首席で合格しました。

この科挙という試験は、中国の隋王朝(581~618年)で初めて導入された官吏登用試験で、高麗では光宗の時代に初めて実施されました。

その初めて実施された科挙を受験し、首席合格したのが、まさに崔暹でした。

つまり、崔暹は高麗初の科挙合格者となった人物なのです

科挙は超難関試験で、相当な学問的素養がなければ、まず合格することはできません。

そんな試験に首席で合格したのですから、崔暹の学識は計り知れないものだったでしょう。

ところで、崔暹についての記録が科挙合格から始まるということは、それ以前の記録は全くないということです。

残念ながら、彼の出身や家系、生い立ちなどは何も知ることができません。

金審言(キム・シモン)を弟子として迎える

科挙に合格し、朝廷に仕官した崔暹(チェ・ソム)はその後、昇進を重ねて常侍サンシ(正3品の文官職)の官職を得ました。

常侍という官職は、内史門下省ネサムナソン(高麗初期の最高政務機関)に所属する正3品の高官職でした。

こうして重職に就いた崔暹ですが、一方で同じ頃、金審言(キム・シモン)という人物を弟子として迎えました。

この金審言は、のちに朝廷に仕官して大昇進し、宰相に席を連ねるまでに至る人物です。

そのような人物を弟子として育てた崔暹は、やはり並々ならぬ学識を備えていたようです。

それから、崔暹は自分の娘を金審言に嫁がせました。これにより、二人は婿と義父の関係になりました。

科挙の試験官を務める

高麗6代王・成宗ソンジョン[在位:981-997]の時代、崔暹(チェ・ソム)は科挙の試験官を務めました。

かつて自らが受験した科挙の試験官になったのですね。

『高麗史』によれば、成宗の末年に当たる993年と996年に、崔暹が科挙の試験官を務め、合格者の選抜を行なっていたことが分かります。

ところが、これ以降、崔暹についての記録は歴史書に見えなくなってしまいます。

※高麗6代王・成宗(ソンジョン)については、以下の記事で詳しく解説しています。

崔暹のその後

なぜ、成宗ソンジョンの末年以降、崔暹(チェ・ソム)の記録は歴史書に見えなくなってしまったのか。

その理由はよく分かりません。

ただ、推測を広げれば、成宗を継いだ穆宗モクチョン(7代王)の時代は、近畿系(開京ケギョンに近い地域の出身者たち)が政治の主導権を握り、反対に崔暹のような南方出身者たちの活躍の場がなくなったからだと考えられます。

というのも、成宗が慶州キョンジュ系(慶州一帯の非豪族出身者たち)や羅州ナジュ系(羅州一帯の中小豪族たち)といった南方出身者たちを優遇したのに対し、穆宗代に権力を握った千秋太后チョンチュテフは近畿系を重用したからです。

これにより、成宗代に有力だった南方出身者たちは、穆宗代に至って勢力を失っていくことになりました(正確には成宗代の末年からその傾向がありました)。

崔暹の出身地は知ることができないのですが、弟子の金審言(キム・シモン)が朝鮮半島の西南に位置する静州霊光チョンジュヨングァン県の出身であったことから推し量ると、崔暹もその近くの出身であった可能性が高いです。

実は彼の弟子・金審言も、穆宗代には目立った活躍が見えず、その後の顕宗ヒョンジョン(8代王)代に至って、大いに昇進することになります。

事実、顕宗代は、千秋太后の失脚に伴って近畿系の勢力が衰退し、再び南方出身者たちが息を巻き返した時代でした。

つまり、崔暹や金審言は穆宗代に勢力を失ったことで、この時代の記録に残ることがなかったのだと思われます

ところで、南方出身者たちが勢力を回復した顕宗の時代、金審言の活躍が目立つ一方で、崔暹の記録が全く見られないのは、彼が顕宗代までに死去したか、政界から退いたからでしょう。

このように、はっきりとした理由は分からないのですが、ともあれ、崔暹の記録は成宗の末年に途絶えることとなりました。

※成宗~穆宗代の政治動向については、千秋太后の記事で詳しく解説しています。

ドラマ『千秋太后』と史実の違い(ネタバレ注意)

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

チェ・ソムは千秋太后を害そうとした?

ドラマ『千秋太后』では、チェ・ソムは千秋太后の一派と深く対立する新羅系の筆頭として登場し、太后一派を害したり、陥れようとしたりするなど、悪役の立ち位置でした。

実際、史実においても、崔暹(チェ・ソム)は千秋太后と対立する派閥に属していたと考えられ、両者の間には政治的対立が生じていた可能性があります。

このことは、千秋太后が権力を握ると、崔暹を始めとする南方出身者たちの登用が減ったことから裏付けられます。

千秋太后は自らの勢力基盤である近畿系(開京ケギョンに近い地域の出身者たち)を重用しました。

一方、慶州キョンジュ系(慶州一帯の非豪族出身者たち)や羅州ナジュ系(羅州一帯の中小豪族たち)などの南方出身者は、相対的に登用されなくなり、勢力を失うことになりました。

これは、千秋太后や近畿系の派閥が、慶州系・羅州系などの南方出身者からなる派閥と対立していたことを示しています。

しかし、千秋太后と対立する派閥に属したからと言って、実際、崔暹はドラマのように太后を害するようなことはしていません。

そもそも、崔暹の記録自体、ほとんど残っておらず、ましてや太后との接点を示す記事は一つもありません。

記録がないからこそ、脚色の余地があるとも言えますね

ドラマにおけるチェ・ソムは、かなり悪役に仕立てられており、実在する崔暹(チェ・ソム)とは別人物も同然です。

ところで、ドラマのチェ・ソムは新羅系の筆頭で慶州キョンジュ出身という設定でしたが、実際には、歴史書から崔暹の具体的な出自を知ることはできません。

そのため、これもドラマのフィクションと思われます。

参考文献

  • 『高麗史』巻2、世家第2、光宗9年(958)5月15日
  • 『高麗史』巻73、志第27、選挙1、科目1、選場、光宗9年(958)5月
  • 『高麗史』巻73、志第27、選挙1、科目1、選場、成宗12年(993)3月
  • 『高麗史』巻73、志第27、選挙1、科目1、選場、成宗15年(996)3月
  • 『高麗史』巻93、列伝第6、金審言
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この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

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