チェジル(崔質)は実在した武臣【キムフンと共に反乱を起こした逆臣】

韓国ドラマ『高麗契丹戦争』で登場したチェ・ジル(崔質)は実在した人物です

ドラマでは、文臣優位の政治体制に不満を抱き、ついには上将軍のキム・フンとともに反乱を起こし、政権を乗っ取った反逆者として描かれました。

このチェ・ジルとキム・フンの反乱は実際にあった事件で、学界では「金訓キムフン崔質チェジルの乱」と呼ばれています。

この記事では、チェ・ジルの生涯、そして彼が起こした反乱について、高麗の歴史書である『高麗史』『高麗史節要』に基づいて詳しく解説します。

記事の最後では、ドラマ『高麗契丹戦争』で描かれるチェ・ジルと史実との違いも解説しております。

目次

崔質(チェ・ジル)の詳細

崔質の基本情報

姓名:崔質(チェ・ジル)
出生年:不明
死亡年:1015年(顕宗6年)
最終官職:上将軍

家族構成

不明

崔質(チェ・ジル)の生涯

生い立ち

崔質(チェ・ジル)の生い立ちについては、残念ながら、歴史書に記録がないため、知ることができません。

崔質が歴史書に初めて登場するのは、1010年(顕宗元年)のことです。

高麗の歴史書『高麗史節要』によれば、1010年に契丹が高麗に攻め入ったときに、中郎将チュンナンジャンの崔質らが通州城トンジュソンを固く守ったという記録があります。

中郎将
正5品の中級武官職。

このとき、崔質は中級武官職の中郎将を帯びていたので、1010年には、すでに朝廷に仕官していたことになります。

恐らく、これより前、穆宗(モクチョン、高麗7代王)の時代、あるいはその前の成宗(ソンジョン、高麗6代王)の時代に、崔質は武官として仕官したものと考えられます。

契丹が攻め込んでくる

1010年11月、契丹の皇帝聖宗せいそうが、40万の軍勢を率いて親征(皇帝自身が軍を率いて出陣する)を開始し、高麗に攻め込んできました。

契丹(遼)
中国北方のモンゴル高原で活動する遊牧民の契丹族が建てた国。916年、耶律阿保機やりつあぼきが、それまで分散していた契丹諸部族を統合して建国した。947年に国号を遼とする。

当時の高麗朝廷は、前年にクーデターを起こして顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)を擁立した権臣・康兆(カン・ジョ)の天下でした。

契丹の侵攻が確実となると、康兆は行営都統使ヘンヨントトンサ(総司令官)に任命され、自ら30万の軍勢を率いて、通州トンジュに駐屯しました。

このとき、崔質(チェ・ジル)も通州城を守備していました

契丹軍の侵攻路
画像:安周燮(2003)、p.120、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

契丹軍の侵攻から通州城を守る

1010年11月17日、契丹軍は興化鎮フンファジン攻撃したものの、高麗の将帥・楊規(ヤン・ギュ)らの激しい抵抗を受け、攻略に失敗します。

そこで、契丹軍は興化鎮の攻略を諦めることに。

1010年11月23日、契丹の皇帝聖宗は、無老代ムロデ20万の軍を残留させて背後の危険に備え、興化鎮を迂回して通州トンジュ方面に南進を始めました。

契丹軍、興化鎮を迂回して通州へ
画像:安周燮(2003)、p.125、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成

契丹軍が通州に迫ると、高麗軍の総司令官・康兆(カン・ジョ)は、通州近郊の三水砦サムスチェに陣を張り、契丹軍を迎え撃ちました。

ところが、康兆は緒戦を勝利に導いたものの、契丹軍の奇襲を受け、あっけなく生け捕りにされる始末。

三水砦の高麗軍は大混乱に陥った末、3万余名が命を落とすこととなりました。

一方、三水砦を突破した契丹軍は、次いで通州城に進軍。三水砦の戦闘で生け捕りにした盧戩(ノ・ジョン))馬寿(マ・ス)))を遣わし、通州城の高麗軍に降伏を勧めました。

これに対し、通州城を守っていた中郎将チュンナンジャン(正5品の武官職)の崔質(チェ・ジル)と洪淑ホン・スク)は、盧戩と馬寿を逮捕し、諸将とともに城を固守しました。

結果、崔質ら高麗軍は、契丹軍の攻勢から通州城を守り抜くことに成功します。

崔質は通州城を守り抜く大きな功績を上げたことになります。

通州城の戦闘
画像:安周燮(2003)、p.127をもとに筆者作成

通州城を陥落させることができなかった契丹軍は、結局、この城も迂回し、郭州クァクチュへ向けて南進していくこととなるのです。

これ以降の戦争の経過については、以下の記事で詳しく解説しています。気になる方はぜひご覧ください。

昇進して上将軍となる

1011年1月、契丹との戦争が講和によって終結。

崔質(チェ・ジル)は辺境を守った功績によって何度も昇進し、武官の最高級官職である上将軍サンジャングンにまで昇りました。

上将軍
武官の最高級官職。位階は正3品。

ところが、崔質はそれだけでは飽き足らず、自身が文官職を得られていないことに対して、常に不満を抱いていました。

当時の高麗では、武臣の中でも政務を処理する能力のある者には、文官職を兼任する道が用意されていました。

文官職を兼任すれば、たとえ武臣であっても、文臣と同じ立場で議論に参加したり、政務に関与したりすることが可能でした。

しかし、崔質は文官職に任命されませんでした。それゆえに、恨みを抱いたというわけですね。

文官職を得られなかったことから見て、崔質は政務を処理する能力にとぼしかったのかもしれません。

反乱を起こす

崔質(チェ・ジル)が朝廷への不満を募らせる中、その火に油が注がれる事態が起こります。

中枢院使チュンチュウォンサ張延祐(チャン・ヨヌ)と中枢院日直員チュンチュウォンイルチグォン皇甫兪義(ファンボ・ユイ)が、京軍(都の軍隊)の永業田(世襲を許された田)を削り、官吏の俸禄に充てようという意見を述べたのです。

中枢院チュンチュウォン
高麗前期における国王の秘書機関。宮中に宿営し、王命の出納すいとうを掌った。中枢院使中枢院日直員は、中枢院に属する官職の一種。

なぜ、彼らはこのような意見を述べたのでしょうか?

当時の高麗では、契丹による侵攻以来、軍備が拡大したことに伴って、官吏の俸禄が不足するようになりました。

そこで、張延祐と皇甫兪義はその打開策として、京軍の永業田を削減し、その分を官吏の俸禄に充てようとしたのです。

彼らとしても、苦肉の策だったのではないかと思われます。

もちろん、武官たちはこれを非常に不公平なことだと感じました。

特に、普段から朝廷に不満を抱いていた崔質の恨みは相当なものだったでしょう。

ここに至り、崔質は上将軍サンジャングン金訓(キム・フン)などとともに、この件でもって武官たちの怒りを煽り、兵士たちを誘い出し、ついに決起しました。

反乱ののろしが上げられたのです。1014年(顕宗5年)11月1日のことでした。

崔質と金訓らは兵士を率いて、太鼓を打ち鳴らしながら、宮殿に乱入。

張延祐と皇甫兪義を捕らえると、彼らを瀕死状態になるまでむちで打ち付けました。

いよいよ、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)のいる場所まで至ると、崔質は王と対面して、次のように訴えました。

「皇甫兪義らが我らの土地を占奪したことは、まさに私利を図るためであって、決して朝廷の利益のためではありません。(中略)諸将兵は騒然としていかりとうらみを抑えきれませんでした。どうか国をむしばむ者を除き、諸人の心を喜ばせてください」。

『高麗史節要』巻3、顕宗5年(1014)11月1日

崔質は顕宗に対して、張延祐と皇甫兪義を退けるように要請したのです。

これを受けて、顕宗は崔質らの意思に逆らうことを憂慮し、一旦は彼らの願いを聞き入れ、張延祐と皇甫兪義を流刑に処しました。

学界では、この一連の反乱を「金訓キムフン崔質チェジルの乱」と呼んでいます

政権を掌握する

崔質(チェ・ジル)ら反乱軍は、王に危害を与えることはありませんでしたが、権力を得るや否や、好き勝手に振る舞い始めました。

まず、崔質らは、武官のうち常参官(朝会への参加資格がある位階の高い官職)については、文官職を兼ねさせるように要請します。

それから、御史台オサデ(百官を監察する機関)を廃止し、金吾台クモデを設置すること、三司サムサ(財政を掌る機関)を廃止し、都正署トジョンソを設置することを要請しました。

金吾台や都正署は、武臣を優遇するために設けられた機関であったとみられます。

顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)はこれらの要請に対して、二つ返事で承認するほかありませんでした。

こうして、武臣が政権を掌握し、文官職を兼任するようになると、政治は支離滅裂となり、朝廷の綱紀は乱れに乱れたといいます。

どうやら、今回、反乱を起こした武臣たちの質は良くなかったようで、『高麗史』にも「悍夫兇竪(凶暴で邪悪)」だったと表現されています(列伝第7、王可道)。

そのような者たちが政権を掌握したのですから、政治の混乱は目に見えていました。

他方で、崔質ら武臣が政権を掌握していた頃、北方の契丹が軍を起こし、何度か国境を越えて高麗に侵入してきました。

1014年10月~1015年1月にかけて、契丹軍は通州トンジュを攻撃したり、興化鎮フンファジンを包囲したりしてきましたが、高麗軍はこれを退けることに成功します。

崔質らの反乱によって国内が混乱状態であったにもかかわらず、辺境を守る将士たちの善戦により、高麗は契丹軍を退けることができたのです。

顕宗の作戦に引っ掛かり、処刑される

武臣たちの横暴が続く中、顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)は密かに、彼らを排除する作戦を立てていました。

顕宗は、西京ソギョン(現在の北朝鮮・平壌ピョンヤン)で人望のあった李子琳(イ・ジャリム)という者を呼び寄せ、彼を西京留守判官ソギョンユスパンガンに任命します。

西京留守判官
西京留守(西京を治める長官)に属する官職の一種。位階6品以上の者が就任した。

顕宗は李子琳に命じて、すぐに西京へ行き、崔質ら逆臣たちを排除する準備をさせました。

顕宗は西京で逆臣を排除しようと考えていたのです。

1015年(顕宗6年)3月3日、顕宗は西京へ行幸。

崔質(チェ・ジル)ら武臣たちも王に付き従い、西京へ行きました。

そして、3月14日、顕宗は崔質・金訓(キム・フン)らを招き、西京の長楽宮チャンナックンで宴を催しました。

武臣たちに酔いが回ったそのとき。

顕宗は隙を突いて、兵士たちに彼らを奇襲させました。

もはや、武臣に為すすべなし。

崔質は、金訓ら武臣18人とともに処刑されました。

反乱を起こしてから、わずか4か月足らず。崔質ら武臣は顕宗の作戦に引っ掛かり、あっけなく討伐されたのでした。

ところで、このときに処刑された者の中には、崔亀(チェ・グ)という文臣も含まれていました。

崔亀は文臣でしたが、性格が荒く卑劣で、崔質らの味方に付いていたので、共に処刑されたといいます。

その後

顕宗(ヒョンジョン、高麗8代王)は逆臣たちを成敗したあと、崔質(チェ・ジル)らの要請によって立てた金吾台クモデ都正署トジョンソなどの機関を全て廃止しました。

それから、同じく崔質らの要請で流刑に処した張延祐(チャン・ヨヌ)と皇甫兪義(ファンボ・ユイ)を復職させました。

こうして、金訓・崔質の乱に幕が下ろされたのでした。

ドラマ『高麗契丹戦争』と史実の違い(ネタバレ注意)

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

反乱の黒幕・パク・ジンは実在した?

ドラマ『高麗契丹戦争』では、崔質(チェ・ジル)ら武臣の怒りを煽り、反乱を焚き付けたパク・ジンという人物がいました。

劇中では、このパク・ジンは忠州チュンジュの戸長であり、自分の息子が契丹との戦争で死去すると、顕宗(ヒョンジョン)に恨みを抱くようになりました。

その恨みを晴らすべく、パク・ジンは武臣たちの怒りに付け入り、ついに反乱の黒幕となって、崔質や金訓(キム・フン)の策士として謀略を巡らせました。

しかし、史実では、このパク・ジンという人物は実在しません。ドラマにおける架空の人物になります。

そのため、実際には、反乱に黒幕は存在しませんでした。崔質と金訓がそのまま反乱の首謀者だったわけです。

王妃は反乱に肩入れしたのか?

ドラマでは、顕宗(ヒョンジョン)の王妃・元貞王后(ウォンジョンワンフ)は、パク・ジンの罠にはまり、崔質(チェ・ジル)らの反乱に肩入れせざるを得なくなりました。

劇中では、元貞王后は、崔質らの反乱を助けた末、彼らに使い捨ての駒のごとく扱われ、一方では反乱に肩入れしたことで最愛の顕宗から信頼を失うという悲運に見舞われた女性でした。

しかし、史実では、元貞王后は崔質らの反乱に関与していません

そもそも、元貞王后についての記録自体がほとんど残されていないため、劇中での彼女の描写はほぼフィクションとみて問題ありません。

ドラマでは、金氏夫人(キム・ウンブの娘、のちの元城太后ウォンソンテフ)への嫉妬心により、ついには反乱の加担にまで至ってしまった元貞王后。

このようなストーリーを描くことで、ドラマを通しての彼女の心の動きやその不憫さを表現したかったものと推測されます。

チェ・ジルとキム・フンは対立していない

ドラマでは、当初は共に決起して権力を握った崔質(チェ・ジル)と金訓(キム・フン)でしたが、崔質が急進的だったのに対し、金訓は穏健的であったため、次第に両者は相容れなくなっていきました。

結局、崔質が金訓を退けて政権を牛耳るようになり、権力をほしいままにしました。

一方、このような崔質の目に余る行動を受けて、金訓は途中から顕宗(ヒョンジョン)の側に付くようになりました。

顕宗が西京ソギョンで宴を催したときにも、金訓は顕宗側に立って崔質と刀を交え、最後には崔質によって手に掛けられるシーンまで描写されました。

しかし、史実では、崔質と金訓は対立しませんでした

反乱を起こしてから、処刑されるそのときまで、彼ら二人は共に首謀者として政権を掌握したのでした。

なので、実際には、金訓は顕宗の側には付いていません。

崔質が金訓を手に掛けるシーンもフィクションで、実際には、金訓も、顕宗が放った兵士によって討伐されています。

参考文献

  • 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
  • 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
  • 矢木毅『高麗官僚制度研究』京都大学学術出版会、2008年
  • 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗5年(1015)11月1日、3日、8日、12月5日
  • 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗6年(1015)春正月、22日、23日、3月3日、14日、秋7月13日
  • 『高麗史』巻4、世家第4、顕宗7年(1016)2月9日
  • 『高麗史』巻76、志第30、百官1、司憲府
  • 高麗史』巻94、列伝第7、皇甫兪義
  • 高麗史』巻94、列伝第7、張延祐
  • 『高麗史』巻94、列伝第7、王可道
  • 『高麗史節要』巻3、顕宗5年(1014)11月1日、12月
  • 『高麗史節要』巻3、顕宗6年(1015)春正月、22日、23日、3月、夏4月、秋7月

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
この記事を書いた人
宮山朱理のアバター 宮山 朱理 修士(文学)
           

大学院で東洋史を専攻し、修士号(文学)を取得。このブログでは、大学院での学びを活かし、朝鮮半島の歴史や韓国時代劇の裏側にある歴史を解説しています。

目次